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第9話

作者: 春さがそう
紗季の目の前に立っていたのは、隼人の叔母――

黒川玲子(くろかわ れいこ)だった。

隼人の友人・翔太が、表向きは「紗季さん」と呼びながら裏ではまともに相手にしないのとは違い、この人は最初から隠そうともしない敵意を持ち、あからさまに紗季を嫌っていた。

紗季が隼人の妻となったその日から、玲子が好意的な態度を見せたことなど一度もない。

陰では何度もこう言われてきた――「あんたは人の仲を壊す卑怯な女だ」「下劣な手で妊娠して、隼人に責任を取らせただけだ」と言われてきた。

当時の紗季はどれだけ説明しても受け入れてもらえず、悔しさと怒りでいっぱいだった。

それでも、玲子は隼人にとって今なお唯一生きている肉親。紗季は頭を下げざるを得なかった。

なぜそこまできつい物言いをするのか、理解できなかったあの頃。

だが今ならわかる――玲子の言葉は、事実だったのだ。

本当に隼人と戸籍上で夫婦だったのは美琴。

紗季は確かに、その婚姻に割り込んだ『外の人間』であり、それを隼人が七年間も隠していただけだった。

「私を見るなり、猫に追われた鼠みたいに逃げるなんて、どういうつもり?」

玲子は腕を組み、露骨に不機嫌な顔をした。

紗季は目を伏せ、争う気力もなく淡々と答えた。

「いいえ。ただ……気づかなかっただけです」

玲子は唇を歪めた。

「ふん、白々しいわね。顔色も悪いし、最近調子でも悪いの?」

思いがけず心配めいた言葉に紗季は驚いたが、次の瞬間、玲子は冷たく笑った。

「まあそうよね。隼人の『本当の妻』が戻ってきたんだから。立場がなくなって焦ってるんでしょう?」

紗季の呼吸が一瞬止まり、思わず玲子を見上げる。

玲子が知っていることは予想していたが、それでも訊かずにはいられなかった。

「知っていたのなら……どうして一度も私に話してくれなかったんですか?」

玲子は一瞬驚いた顔をし、すぐにあざ笑った。

「隼人が恐れたのよ。あんたが真実を知って別れるのが怖かった。結局、好きな女は戻らないし、子どもの母親まで失うわけにいかなかった。だから私にも黙ってろって。そうじゃなければ、とっくに教えてたわ。『あんたは他人の家庭を壊した女だ』ってね!」

その声はわざと大きく、周囲の人々が不思議な目を向けてきた。

紗季は拳を固く握り、感情を必死に抑えた。

「私は……人の仲を壊すような人間じゃありません!あの二人が結婚していたと知っていたら、絶対に隼人とは関わりません!」

「七年も他人の夫にすがりつき、黒川家の奥様の座に居座り続けておいて、今さら清廉ぶった言葉?偽善にもほどがあるわ。聞いてるだけで胸くそ悪い!」

玲子の口調はますます苛烈になっていく。

紗季は言い返す気になれず、その場を離れようと踵を返した。だが、腕を玲子に乱暴に掴まれてしまった。

玲子は紗季を力ずくで引き戻し、憎しみを込めて言い放った。

「わきまえてるなら、さっさと席を譲りなさい!隼人にまとわりつくな。子どものためじゃなければ、最初からあんたなんか選ばなかったのよ!」

紗季の顔色はさらに蒼白になった。

その言葉の一つ一つが、まるで鋭い釘のように胸に突き刺さる。

紗季は玲子の手を振りほどき、抑えた声でしかしはっきりと言った。

「安心してください。私は必ず離れます。完全に姿を消しますから」

玲子は鼻で笑った。

「口だけね。本当にできるなら、とっくにそうしてるはず。まあ見てなさい。近いうちに隼人の口から言うわよ。『出て行け』ってね!」

紗季は深く息を吸った。誰もが「紗季は隼人を手放せない」と思っている。必死に縋りついてでも残るだろうと。

けれど一番よくわかっているのは自分だ。自分はいつだって正々堂々とし、責任を引き受け、必要なら潔く手放す覚悟も持っていた。

もし妊娠した時、隼人がすでに他の女性と結婚していると知っていたなら。産んで一人で育てるか、中絶するか――いずれにしても、隼人に責任を取らせることなど絶対になかった。

愛する人に愛されなくてもいい。けれど、他人の夫と子をもうけることだけは絶対にできなかった。

紗季は玲子を真っ直ぐに見据えた。

「ええ。あなたの望むとおり、私は去ります」

その瞳に宿る強い光に、玲子は一瞬言葉を失う。

だがすぐに口の端を吊り上げ、冷笑した。

「今朝ね、隼人から電話があったの。『有名なウェディングドレスのデザイナーを紹介してほしい』って言ったの。これが何を意味するか、わかる?」

紗季の心臓が重く沈んだ。

「つまり隼人は、お前を捨てるだけじゃない。美琴を盛大に迎え入れ、華やかな結婚式を挙げるつもりなのよ。居座れば居座るほど、最後に恥をかくのはあんた自身だ!」

玲子の目には、あからさまな愉悦が浮かんでいた。

紗季は唇を強く噛みしめ、血の味を感じた。

思い返せば、自分の結婚式は妊娠をきっかけに「責任を取る」という形で、慌ただしく市内のホテルで披露宴を開いただけ。

ドレスも間に合わず、既製品で代用した。

紗季にはずっと「ウェディングドレスを着る夢」があった。そのため小さな後悔として胸の奥に残り続けている。

それを隼人に口にしたことは一度もなかった。だが今、隼人は一方で自分を宥めながら、もう一方で美琴との豪奢な結婚式を準備している。しかも有名デザイナーに特注で。

その違いを思えば、隼人の心の中でどちらが重んじられているかは一目瞭然だった。

いや――自分は、そもそも隼人の心の中に存在すらしていないのかもしれない。

そう思うと、紗季は自分でも可笑しくなり、口を開きかけた。だがその瞬間、背後から聞き覚えのある低く響く声がした。

「叔母さん……どうして紗季と一緒に?」

隼人が早足で駆け寄り、真っ先に紗季の顔色を確かめた。

十分ほど前、商業施設の支配人から「紗季様がお見えです」と連絡を受けた。

隼人はすぐに仕事を放り出して駆けつけたのだ。昨夜のことが原因で紗季が怒り、何も話さなくなるのを恐れたからだ。

そこに玲子までいると知り、さらに緊張が走った。

二人が顔を合わせれば、必ず揉めるのだから。

隼人は紗季を背後にかばい、二人の間に立ちはだかった。

「叔母さん、紗季に何を言ってたんだ?まさか酷いことを言ったんじゃないだろうね」

玲子の視線が揺れ、かすかに動揺の色が浮かぶ。

紗季に先に口を割られるのを恐れ、玲子が慌てて言い募った。

「な、何も言ってないわよ!私をどう思ってるのよ?偶然会ったから、ちょっと話しただけよ!」

「本当か?」隼人の瞳には疑念が浮かび、紗季へと視線を向ける。

だが紗季はうつむいたまま、一言も返さない。

彼と話す気などなかった。

昨夜、ホテルに来た隼人は結局、机の上の手紙を見ずに帰ったのだろう。

今の紗季に必要なのは、隼人がその手紙を読むこと――それだけだった。

大人の世界では、みっともない心情をわざわざ言葉にする必要はない。

紗季が立ち去ろうとすると、隼人は追いすがった。

「待ってくれ。昨夜、何も言わずに出て行っただろ。俺たちはちゃんと話すべきだ」

「話すことなんてないわ」

冷ややかに紗季は答えた。

隼人が再び行く手を塞ごうとしたそのとき、ポケットの中のスマホが鳴った。

隼人は取り出して画面を見下ろす。

紗季も思わず目をやり――そこに大きく表示された名前を見た。

「ウェディングドレスデザイナー・青木千尋(あおき・ちひろ)」
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コメント (1)
goodnovel comment avatar
gotsuyama
紗季の勘違い(早合点)なのかー。クソガキには腹立つけど、ちゃんと話し合えたらいいのに。
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