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第9話

Auteur: 名無千夜
八周年の記念日当日、誠は特別にロマンチックなクルーズデートを計画していた。

朝、優奈が目を覚ましたとき、誠はそっと額にキスを落とした。

「八周年おめでとう、優奈ちゃん」

ベッドの周りにはバラの花びらが敷き詰められ、たくさんの風船が飾られていた。

優奈が起き上がると、誠は優しい眼差しで見つめながら言った。「支度したらクルーズに行こう。きっと気に入ってもらえると思うよ。

夜には盛大な花火もあるし、君が好きな俺の釣った海の魚もある。今日、釣ってくるよ」

けれど優奈は、今夜の飛行機で国外へ発つ予定だった。今夜を過ぎれば、二人の関係はもう終わりだった。

ふたりが別荘から出たそのとき、誠のスマホが鳴った。

彼が何を見たのか、優奈にはわからない。ただ、喉仏がごくりと動き、欲望を抑えきれないような様子が見てとれた。

すぐに誠はスマホをしまい、優奈に申し訳なさそうに言った。「ごめん、急に会社でトラブルがあって……先にクルーズへ行っててくれる?すぐ追いかけるから」

「うん」優奈は軽くうなずいた。表情には、感情はまったく表れていなかった。

誠は安心したように微笑んだ。「いい子だね、すぐ戻るから!」

優奈はうなずいた。胸の奥に、言いようのない想いが渦巻いていた。これが、彼に会う最後の瞬間になるのかもしれないと。

車に乗り込もうとする誠を、優奈がふいに呼び止めた。

彼は車のドアの前で振り返った。「どうしたの、優奈ちゃん?」

「……ううん、なんでもない。じゃあね」

本当はちゃんとお別れを言いたかった。でもその機会さえ、もう与えられなかった。

「じゃあね」

――それが、彼にかけた最後の言葉だった。

誠は何かを感じ取ったように一瞬眉を寄せたが、結局そのまま車に乗り、去っていった。

黒いマイバッハが遠ざかっていくのを見届けた優奈は、視線を落とした。

「誠、もう二度と会わない。今日から、せいぜい好きに生きて」

そう小さくつぶやき、別荘へ戻った。

書斎に入ると、予想通り雪乃からのメッセージがスマホに届いていた。

「八周年おめでとう。まさか今日みたいな大事な日に、誠が私の傍にいるなんてね。あなたごときが私と張り合えると思ってるの?」

優奈は一言だけ返信した。「そんなにゴミが好きなら、くれてやる。これからはゴミを宝物みたいに抱いてなさい」

そして画面をスクショして、雪乃を完全にブロックし削除した。

それらのスクショをすべてギフトボックスに入れ、書斎の机の中央に丁寧に置いた。

残りの数時間は、親しい病院の同僚たちにお別れを伝えに行く予定だった。

家を出る前、優奈は家政婦たちに言っといた。「誠君への記念日のプレゼント、書斎に置いてあるから伝えておいて」

そして、5年間過ごしたこの家を後にした。玄関で立ち止まり、顔を上げて、かつての「ふたりの家」を見つめた。

ここには、ふたりのすべての思い出が詰まっている。まだこの家がコンクリート打ちっぱなしだった頃、誠と一緒にここを訪れた日のことを、優奈ははっきりと覚えていた。

ふたりで笑い合って、気づけば泣いていて、誠は優奈を強く抱きしめて言った。「やっと、俺たちの家ができたんだな」

あの頃の甘さも、苦さも、痛みも、全部、優奈だけが知っている。

深く息を吸い込み、彼女は一度も振り返ることなく歩き出した。

午後は同僚たちとちょっとした集まりを開いたが、誠からの連絡は一切なかった。

きっとまだ雪乃のベッドの中なのだろう。

空港へ向かう途中、優奈はスマホからSIMカードを取り出して、窓の外に放り投げた。

――これで終わり。

八年間の想いを、自分の手で捨てた。

一方その頃、誠は優奈に電話が繋がらないことに気づき、慌て始めていた。

すぐにクルーズのスタッフに連絡を取ると、こう返ってきた。「え?江口さんなら、今日は一度もこちらにいらしていませんが……?」

「……なんだって……?」優奈がクルーズに行ってない?どうして?

たしかに、出かける前に自分で行ってくれと頼んだはずなのに……

まさか怒っていたのか? それとも……

誠の胸に不安が募った。電話をかけ続けながら、運転手に家へ急ぐよう命じた。

家に駆け込んでも、やはり優奈の姿はなかった。

家政婦から、優奈は昼頃に出かけたと知らされ、「記念日のプレゼントは書斎にあると伝えて欲しい」と言い残していたと聞かされた。

二階の書斎へ急ぎ、机の上のギフトボックスを見つけた誠。

ホッと息をつき、微笑みさえ浮かべた。やっぱり、サプライズのつもりだったんだ。

中には何が入ってるんだろう?そう思いながら、彼はそっと箱のふたを開けた……

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