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第270話

Author: 青山米子
しかし、研究室の仲間たちの声が誰にも届かなかったのと同じように、彼女の釈明もまた、喧騒の中に虚しく吸い込まれていった。

人が、死をもってまで「公正」を訴える時。

もはや、公明正大な真実が何であるかなど、些末な問題でしかなくなる。

重要なのは、彼が「死を選んだ」という、その一点のみだ。

本当に耐え難い冤罪を被り、生きる術さえ奪われるほど追い詰められていなければ、誰が自ら死など望むものか?

そうした先入観は、人々の目と耳を曇らせる。何を見ても、何を聞いても、それは全て偽りだと決めつけさせるのだ。たとえ動かぬ証拠を目の前に突きつけられたとしても、彼らはそれを信じようとはしない。己が「真実」だと信じ込んだものだけを、頑なに信じ続ける。

世界科学技術フォーラムは、全世界に向けて生中継されていた。

この衝撃的な事件は、瞬く間に国中の知るところとなった。

ほんの数分で、インターネットは一葉を糾弾する声で溢れかえった。

彼女は「学界を誑かす魔女」と罵られた。

他人の研究成果を奪い取り、臆面もなくこのような国際的な檜舞台に立つとは、どれほど恐ろしい女なのだ、と。国家の恥を世界に晒した、と。

彼女のような人間は、千回切り刻まれても飽き足らない、と。

ネット上では、一葉のような道徳的に堕落した人間を厳罰に処せ、という声が燎原の火のように燃え広がった。

さらに、彼女が二つの大企業の筆頭株主であることが何者かによって暴かれると、今度は彼女の会社の全製品に対する不買運動が始まった。

その結果、一葉が所有する二社の株価は、一夜にして暴落した。

大学側が、そして桐山教授や研究室の他のメンバーたちが、すぐさまインターネット上で声明を発表したにもかかわらず、事態は好転しなかった。

彼らは証拠を並べ立てた。

一葉には誰かのベッドに潜り込む必要など微塵もないこと。他人の成果を強奪した事実などないこと。桐山教授が卒業を盾に学生を脅したことなど、断じてありえないこと。あらゆる証拠を示して、彼女の無実を訴えた。

だが、ネットの住民たちは、誰一人として信じようとしなかった。

これは全て、資本の力による情報操作だ、と彼らは断じた。

研究室の他のメンバーは、一葉という資本家に買収されたのだ。

大学も買収された。

彼女を擁護するような発言をした政府機関の関係者さえ、買収された
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