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第376話

Author: 青山米子
かつての自分は、恋愛を何よりも優先していた。言吾を愛すること、彼に尽くすことが人生のすべてだった。

彼の言動ひとつで天にも昇り、地の底にも落ちた。彼こそが、自分の世界のすべてだったのだ。

だが、今は違う。今の彼女にとって最も大切なのは、自らの学問であり、研究なのだ。

もう二度と、誰かのために、心から愛するこの道を諦めるつもりはなかった。

自分の連れの男がウィス教授に頭を下げ、必死に機嫌を取っている。その一方で、ウィス教授はあの一葉という女に親しげに接し、その才能を高く評価している……

その光景を目の当たりにして、優花の胸は憎悪の炎で焼け付くようだった。

なんて不公平なのだろう!

自分がどれだけあがいても手に入らないものを、あの女はこうもたやすく手に入れる!

これ以上危険な橋を渡るべきではない。そう理性が告げているのに、黒い衝動が抑えきれない。いっそ、あの女の息の根を完全に止めてやりたい――!

優花が殺意すら滲ませるほどの憎悪を一葉に向けているのを、紫苑は静かに観察していた。

そして、そっと目を伏せる。

自分は、本当に愚かだった。

駒はいくらでもあったというのに、わざわざ自ら手を下してしまった。

一度踏み外した道を元に戻すのは、至難の業だ。

その時、言吾もまた、優花へと視線を送っていた。

この女のせいで、一葉が門前払いを食らい、この学会への参加すら危うくなったのだと思うと……

彼の瞳から、すっと温度が消えた。

言吾からの視線を感じ、優花はそちらに顔を向けた。そして、その氷のように冷たい眼差しに射抜かれ、心臓がどきりと跳ね上がる。

突如、この学会に参加したこと自体を、彼女は激しく後悔し始めていた。

一葉に一泡吹かせてやろう。そんな軽い気持ちで乗り込んできたのに、どうだ。

一矢報いるどころか、とんだ藪蛇になりかねない。

早くこの場を立ち去らなければ。適当な口実を見つけて、すぐにでも――

そう思った矢先だった。

「さあ、こちらへ」と、スミスが彼女の腕をぐっと引き寄せ、放そうとしない。それどころか、次々と居合わせた有力者たちに彼女を紹介し始めた。

春雨優花という女は、驚くほど現実的で、切り替えの早い人間だった。

かつては言吾との結婚を夢見ていたが、その望みがないと知るや、ぴたりと執着を捨てた。

次に出会った桐生慎也には、言吾
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