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第413話

Author: 青山米子
胸に湧き上がるパニックを無理やり抑え込み、紫苑は振り返ると、恥じらうように微笑んでみせた。「烈さん、お目覚めになったのね」

その笑顔を見た瞬間、言吾の中で何かが沸騰した。殺意さえ覚える。

彼は手近にあった毛布をひっつかむと、紫苑の体に投げつけた。全身が怒りでわなわなと震えている。

たしかに言吾は、優花を信じすぎるあまり、一葉との結婚の始まりが全て彼女の策略だったと思い込み、一葉を憎んだ。その憎しみから彼女を無視し、心を傷つけ、冷たく突き放し、周囲の心ない言葉から守ろうともしなかった。

あの頃の自分は、本当に愚かで、浅はかだった。

それは認める。

だが、男女の関係において、ただの一度たりとも脇道に逸れたことはない。

優花によくしてやったのは事実だ。境界線が曖昧だったかもしれない。だがそれは、幼い頃から共に育ち、彼女が実の妹以上に近しい存在だったからだ。

幼い頃、優花の母親が忙しい時は、いつも自分が彼女を背負い、眠るまであやしていた。

その頃からの親密な関係と、優花を気遣うという長年の習慣、そして彼女の体の弱さが、大人になってからも男女の距離というものを意識させなかった。

後に、それが大きな間違いであったと気づきはしたが。

言吾自身、自分の至らなさを否定するつもりはない。

今さら何を言っても、言い訳にしか聞こえないこともわかっている。

それでも、これだけは言える。

彼は、感情的にも、肉体的にも、極度の潔癖症なのだ。

言吾の父は稀代の遊び人だった。愛人はそこら中にいて、母が父のために心を痛め、幾度となく自ら命を絶とうとするのを、彼は幼い頃から見てきた。

だからこそ、言吾は固く誓ったのだ。自分は絶対に父のような人間にはならない、と。

愛さないのならそれでいい。だが一度愛したなら、その一人を一生涯愛し抜く。

愛する人を裏切るような真似は、決してしないと。

だから、本当に、自分は愚かだった。

誤解と憎しみから、一葉にも同じ痛みを味わわせたいと願い、あれほど酷い仕打ちをした。

自分は万死に値する。

だが、どれほど自分が許されざる罪を犯していようと、妻を裏切ることなど考えたこともなかった。他の女と関係を持つなど、想像すらしたことがない。

彼の愛も、憎しみも、そのすべてが一葉に向けられていた。

彼が求めるのは、妻ただ一人。

どんなに憎
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