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魂の交わり

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-07-21 16:34:58

夜の帳が貸別荘の窓辺に静かに降りてきた。波の音が遠く近く、ゆるやかなリズムで響いている。外は春の夜気がまだ少し冷たく、だが室内は須磨のぬくもりと塩屋の呼吸で満たされていた。二人でシーツを整え、ベッドの端に腰かける。窓の外に見える月がぼんやりと海面を照らしている。

塩屋は、そっと須磨の頬に手を添えた。指先は細くしなやかで、そのまま髪を撫でる。もう、どこにも緊張はなかった。ただ目の奥に、消えない寂しさとやさしさが浮かんでいる。須磨はその手を自分の手で包み、額をそっと塩屋の肩に寄せた。静かに目を閉じ、呼吸を合わせる。まるで互いの心臓の音を感じ取るように。

やがて塩屋が囁く。

「全部、なくなったけど……あなたがいる」

その声には涙の響きが混じる。須磨はそっとその涙を親指でぬぐう。

「やっと、人生が始まった気がする」

と低く囁いた。塩屋は小さくうなずき、頬を赤らめながら微笑む。

シーツの上で、静かに手と手を重ねる。須磨の指先が塩屋の鎖骨から肩、胸のほうへとゆっくりなぞる。そのたびに塩屋の身体が、わずかに震え、浅く息を吸い込む。須磨は優しく塩屋の髪を梳き、その額にゆっくりと口づけを落とした。小さな吐息が塩屋の唇から漏れる。

ふたりは、何も急がなかった。今夜だけは、世界から隠れる必要も、誰かに背を向ける必要もない。確かめ合うように、抱きしめる。塩屋の腕が須磨の背中にまわり、指先が肌の上をたどる。互いの温度を余すところなく感じようと、すべての仕草がゆっくりと重なっていく。

「須磨さん」

と名前を呼ぶ声がかすれる。須磨はその声ごと受け止めるように、塩屋の身体をしっかりと抱き寄せた。唇が触れ合い、吐息が混ざる。塩屋の瞳に浮かぶ涙がきらりと光り、その涙が流れるたび、須磨はそっと唇で受け止める。

「大丈夫」

と須磨がささやく。

「もう、どこにも行かない」

「離さないで」

と塩屋が震える声で返す。須磨の腕が、さらに強く塩屋を包む。塩屋の背中が弓なりに反り、喉から浅い喘ぎ声が漏れる。須磨のうめきが、その耳元で低く響く。触れあう肌の温度、髪を撫でる指先、鼓

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    夜の帳が貸別荘の窓辺に静かに降りてきた。波の音が遠く近く、ゆるやかなリズムで響いている。外は春の夜気がまだ少し冷たく、だが室内は須磨のぬくもりと塩屋の呼吸で満たされていた。二人でシーツを整え、ベッドの端に腰かける。窓の外に見える月がぼんやりと海面を照らしている。塩屋は、そっと須磨の頬に手を添えた。指先は細くしなやかで、そのまま髪を撫でる。もう、どこにも緊張はなかった。ただ目の奥に、消えない寂しさとやさしさが浮かんでいる。須磨はその手を自分の手で包み、額をそっと塩屋の肩に寄せた。静かに目を閉じ、呼吸を合わせる。まるで互いの心臓の音を感じ取るように。やがて塩屋が囁く。「全部、なくなったけど……あなたがいる」その声には涙の響きが混じる。須磨はそっとその涙を親指でぬぐう。「やっと、人生が始まった気がする」と低く囁いた。塩屋は小さくうなずき、頬を赤らめながら微笑む。シーツの上で、静かに手と手を重ねる。須磨の指先が塩屋の鎖骨から肩、胸のほうへとゆっくりなぞる。そのたびに塩屋の身体が、わずかに震え、浅く息を吸い込む。須磨は優しく塩屋の髪を梳き、その額にゆっくりと口づけを落とした。小さな吐息が塩屋の唇から漏れる。ふたりは、何も急がなかった。今夜だけは、世界から隠れる必要も、誰かに背を向ける必要もない。確かめ合うように、抱きしめる。塩屋の腕が須磨の背中にまわり、指先が肌の上をたどる。互いの温度を余すところなく感じようと、すべての仕草がゆっくりと重なっていく。「須磨さん」と名前を呼ぶ声がかすれる。須磨はその声ごと受け止めるように、塩屋の身体をしっかりと抱き寄せた。唇が触れ合い、吐息が混ざる。塩屋の瞳に浮かぶ涙がきらりと光り、その涙が流れるたび、須磨はそっと唇で受け止める。「大丈夫」と須磨がささやく。「もう、どこにも行かない」「離さないで」と塩屋が震える声で返す。須磨の腕が、さらに強く塩屋を包む。塩屋の背中が弓なりに反り、喉から浅い喘ぎ声が漏れる。須磨のうめきが、その耳元で低く響く。触れあう肌の温度、髪を撫でる指先、鼓

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