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13:灰かぶりのメイド服

last update Date de publication: 2025-12-05 22:06:40

 黒崎隼人の到着まであと30分。

 小夜子は本邸の裏手にある衣装部屋に立たされていた。義母が桐の長持(ながもち)から古びた布切れを引っ張り出して、小夜子に向かって放り投げた。

「ほら。今日のあんたの衣装よ」

 小夜子は、床に落ちそうになったそれを空中で受け止めた。

 それは正規の制服ですらない、時代がかった代物。おそらく数世代前の使用人が着ていたと思われる、黒のワンピースと白いエプロンだった。生地は洗濯を繰り返して薄くなり、色はあせている。経年劣化で白い生地は薄いクリーム色に変化していた。

 何ともみすぼらしい古着に、だが、小夜子は何も言わない。

「いいこと、小夜子。今日の客人は、由緒ある白河家を金で買い叩こうとする成り上がりのハゲタカよ。そんな相手に、金で買ったばかりの新品を見せつけてどうするの」

 義母は歪んだ笑みを浮かべ、勝ち誇った顔で講釈を垂れた。

「ああいう奴らは、金さえ出せば何でも手に入ると思っている。だからこそ、あえて『金では買えない時間』を見せつけてやるのよ。何代に

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   456

     小夜子は脳内でホテル内の平面図を高速で展開した。 客室はゼロ。レストランの個室は宿泊には適さない。宴会場は広すぎる上にプライベート空間の確保が不可能だ。 どこか。どこかに、屋根と壁があり、プライバシーが守られ、空調が効く空間はないか。 小夜子の視線が、バックヤードの奥へ続く廊下に向いた。 その先には、夜勤スタッフや早朝出勤のスタッフが使用する従業員用の仮眠室がある。 防音設備は完璧だ。 広さもビジネスホテルのシングルルーム程度はある。シャワーブースも備え付けられている。 しかし、そこはあくまで「従業員用」の裏の空間である。 装飾のない殺風景な壁と、実用性だけを求めた質素なパイプベッドが置かれているだけだ。 サンクチュアリが誇る非日常の空間とは程遠い。(やるしかない。お客様を放り出すよりはマシです。あの空間を、私の手で客室に引き上げる) 小夜子は深く息を吸い込んだ。「翔吾さん。あなたはすぐにフロントに出てください。不満を抱え始めたお客様の前に立ちなさい。愛想笑いは必要ありません。あなたの得意なデータと論理で、現状を説明するのです。全額返金と代替案の提示を約束して時間を稼いでください。その間に私が手を打ちましょう」「分かりました。僕が盾になります」 翔吾は自作のマクロを仕込んだタブレットを小脇に抱え、立ち上がった。 絶望的な状況だが、小夜子が手を打つと言った。その信頼が彼を支えている。「私はこれから、従業員用の仮眠室を27室の客室へ変えます。法務に連絡して、『宿泊費全額免除およびバックヤード宿泊に関する同意書』のひな型を作ってください。5分でお願いしますね。印刷してフロントに回すのよ」「仮眠室を、ですか? 正気ですか」 翔吾がわずかに目を見張った。「正気ですとも。ただの仮眠室で終わらせるつもりはありません。……ここはサンクチュアリ。どんな空間であれ、私が最高のおもてなしの場所に変えてみせます」 小夜子は微笑みを浮かべたまま、インカムのスイッ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   455

    「検討の時間は与えられません。お客様は今まさに当ホテルのエントランスに到着されようとしています。もし5分以内に全額補填の確約が得られない場合、我々はロビーでお待ちのお客様全員に対し、『御社のシステム障害により部屋がご用意できない』と事実のみを説明します。ログデータも開示します。SNSでどのように拡散されるか、想像に難くないでしょう。御社のブランド価値と、代替費用。どちらを天秤にかけるか、今すぐ決断してください」 圧倒的なスピードと隙のない交渉術だった。 小夜子は隼人の横顔を見つめながら、その手腕に息を吐いた。 数秒の沈黙の後、電話口の役員が屈服する声が聞こえた。「確約をいただきました。後ほど録音データとともに念書をお送りします」 隼人は通話を切ると、小夜子に向き直った。「金の問題は解決した。客に支払う迷惑料も、代替手配の費用も、すべて向こう持ちだ。好きに使え」「ありがとうございます。ですが社長」 小夜子は手元のバインダーを強く握りこんだ。紙の束の感触が手のひらに伝わる。「お金があっても、お客様に提供する『部屋』がありません。周辺ホテルも満室です。今から仮設のベッドを空き地に建てるわけにもいきません」「分かっている。だが、そこをどうにかするのが、君たち現場の仕事だろう」 隼人の言葉は冷たいようでいて、同時に小夜子への強い信頼が含まれていた。「翔吾さん」 小夜子は隣のデスクに声をかけた。「予備としてブロックしてあるVIP用のスイートルームは、何部屋ありますか?」「ロイヤルスイートが1部屋、エグゼクティブスイートが2部屋です。清掃とセットアップは完了しています」「その3室を解放します。到着順で、特に遠方からお越しのお客様から優先してアップグレードを打診して。超過予約30組のうち、3組はこれでカバーできます」 小夜子もまた、即断で判断を下した。迷っている時間はもうない。「了解しました。しかし、残り27組はどうしますか」 翔吾がタブレットの画面を指で弾きながら問う。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   454

     逃げ道が塞がれていく。他ホテルへの振り替え、いわゆる「ウォーク」という手段が使えない。「チェックインを一時停止させます。まだ事情を知らないお客様をフロントに通すわけにはいかない」 小夜子がインカムに手を伸ばし、全スタッフへ指示を飛ばそうとした瞬間だった。 バックオフィスの重たい防音ドアが開いた。「事態の報告は受けている」 低い声とともに現れたのは、アーク・リゾーツ社社長の隼人だった。 上質なネイビーのスーツを身に纏い、その足取りには迷いがない。 手首で冷たい光を放つ金属製の腕時計が、今の時刻が午後3時ちょうどであることを示していた。チェックイン開始の時刻だ。「社長。チャネルマネージャーの同期エラーにより、30組の超過予約が発生しました。周辺ホテルへの振り替えは不可能です」 小夜子が簡潔に事実だけを告げると、隼人はわずかに顎を引いた。「システム側の不具合か」「はい」 翔吾がタブレット端末を差し出した。「外部システム連携のアクセスログです。こちらからの送信履歴と、先方での受信拒否エラーの記録はすべて確保しています。当ホテル側の設定ミスではありません」「上出来だ」 隼人はタブレットを受け取ると、そのまま自身のスマートフォンを取り出した。 迷うことなく、画面を数回タップして耳に当てる。「アーク・リゾーツの黒崎隼人だ。御社の担当役員に繋げ。今すぐだ。会議中? 関係ない、当ホテルの信用に関わる重大なインシデントが発生していると伝えろ」 冷静に事実だけを並べる声がオフィスに響く。 電話口の相手が慌てふためいている気配が、スピーカーの音漏れからでも察せられた。 数秒の保留音の後、相手が代わったようだ。「お世話になっております。単刀直入に申し上げます。御社のシステムの不具合により、当サンクチュアリにおいて30組の架空予約が成立しました」 隼人の声には一切の感情が混じっていない。ただ、事実を刃物のように突きつけていく。「当方のチ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   453

    「はい。複数のオンライン宿泊予約サイト、いわゆるOTAから新規の予約データが次々とPMSに落ちてきています。今日の宿泊分です」 小夜子の眉が自然と寄った。「今日の予約? それはあり得ませんね。今日は全室満室のはずでしょう。2日前には全販売チャネルでストップ通知を出したはずですが」「ええ、我々のシステムからは間違いなくストップ通知を出しています」 翔吾は自分のノートパソコンを手元に引き寄せて、画面をいくつかのウィンドウで分割した。 黒い背景に白い文字が滝のように流れる画面を展開する。「うちの予約システムと、外部の宿泊予約サイトを繋ぐ管理ソフトの記録を確認しました。こちらからは『満室だから販売を停止してくれ』という信号を正常に出しています。ですが、特定の予約サイト側のシステムがそれを弾いているんです。データの受け渡し部分でエラーが起きていて、向こうの画面上では当ホテルにまだ空室が大量にあることになっています」「エラーで販売が継続されているということ?」 小夜子はディスプレイに視線を落とした。 翔吾が開いた管理者画面には、信じがたい数字が並んでいる。 通知音とともに、目の前で「新規予約」のポップアップが次々と追加されていく。「現在確認できるだけで、超過予約は30組。人数にして60名強です。そして、今この瞬間も増え続けています」「30組……なんてこと」 小夜子の指先からすっと血の気が引いていくのが分かった。 30組のオーバーブッキング。ホテル運営において、これほどの致命傷はない。 すでに部屋の余裕はないのだ。 物理的な空間が存在しないのに、客は予約完了のメールを握りしめてもうすぐこのエントランスにやってくる。(いいえ、システムを恨んでも部屋は降ってこないわ。物理的な空間がないなら、今あるもので作るしかない) 小夜子は瞬時に思考を切り替えた。パニックを起こしている暇はない。「翔吾さん、すぐにその外部の担当者に連絡を入れて、販売を強制的に遮断してもらえますか。手動で

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   452:オーバーブッキングの悪夢

     夏の陽光が、サンクチュアリのロビーへと差し込んでいた。 空調から吹き出す適度に冷やされた風が、微かなシトラスの香りを運んでくる。 大理石の床を歩く小夜子のヒールの音が、規則正しいリズムを刻んでいた。 週末の金曜日、午後2時45分。午後3時のチェックインラッシュが始まる15分前である。 小夜子は総支配人として、フロント周辺のスタッフの配置や身だしなみ、ロビーのソファのクッションの角度に至るまで、五感を研ぎ澄ませて最終確認を行っていた。(全て問題なし。今日も順調ね) 本日の客室稼働率はほぼ100パーセント。全200室がすべて埋まっている。 最近の観光ブームと近隣での学会開催があるとはいえ、ホテル業においてこれほど喜ばしい数字はない。 予約管理の担当者たちとセールス部門が連携し、綿密な価格調整を行って積み上げてきた成果だ。「フロント、準備は問題ありませんね」 小夜子が声をかけると、フロントデスクに立つスタッフたちが姿勢を正して頷いた。 彼らの制服にはシワ一つなく、胸元のネームプレートが磨かれたように光っている。 問題はない。完璧な週末の午後が始まる。 小夜子はそう確信して、フロントの奥にあるバックオフィスへと足を踏み入れた。 バックオフィスは、ロビーの優雅な空間とは打って変わって実務的な空気に満ちている。 複合機が稼働する微かな排熱の匂いと、誰かが淹れたブラックコーヒーの焦げたような匂いが混ざり合っていた。 小夜子が自身のデスクに向かおうとした時、予約管理部門のデスクから切羽詰まった声が上がった。「翔吾さん、ちょっと画面を見てもらえませんか。さっきから新規予約の通知が止まらないんです」 声を上げたのは、入社3年目の予約担当スタッフだった。 彼の声には明らかな焦燥が混じっている。 小夜子は足を止め、そのデスクへと向き直った。「どうしたの?」 小夜子が近づくと、隣のデスクでノートパソコンに向かっていた翔吾が、キャスター付きの椅子を滑らせて予約担当の画面をのぞ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   451

     理玖が感心していると、総料理長がフライパンに少量の洋酒を注ぎ込んだ。 ジュワッ! 赤い炎がフライパンから立ち上がり、換気扇に向かって巨大な火柱を作る。フランベの炎だ。「うわぁっ!」 突然の炎に園児たちは声を上げて後ずさりする。 それでも恐怖より好奇心が勝るのか、目を輝かせて料理長の手元を食い入るように見つめていた。「さあ、みんなでおやつにしよう」 総料理長がフライパンを傾けると、黄金色のオムレツが皿の上に滑り落ちた。 小さく切り分けられたオムレツが、小皿に乗せられて園児たちに配られる。理玖はフォークで卵をすくい、口に運んだ。 表面は薄いクレープのようにふんわりと焼き上がり、中はクリームのようにとろとろだ。 特製ケチャップも絶品。ほんのりした酸味とトマトの甘味のバランスが絶妙だった。 濃厚なバターの風味と、ほんのりとした塩気が舌の上に広がり、噛む間もなく溶けていく。「おいしい! おかわり!」「たまご、とろとろだよ!」 園児たちは口の周りにソースをつけながら叫ぶ。 プロの洗練された味に満面の笑みを浮かべながら皿を空にしていった。◇ 見学ツアーの終着点は、一階のメインロビーだ。 広大な吹き抜けの空間は、ホテルの顔として一切の妥協なく作り込まれている。 高い天井から吊るされた巨大なクリスタルガラスのシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に無数の光の粒を落としていた。 フロアの中央には、大人が両腕を広げても抱えきれないほどの巨大な花瓶が置かれ、純白の百合が溢れんばかりに生けられている。 空間全体を満たす百合の芳香が、歩き回って少し疲れた理玖たちの心を優しく撫でた。 フロントカウンターの奥では、パリッとした制服を着たスタッフがパソコンのキーボードを打ち込み、ベルホップが真鍮製のカートに客の荷物を積んで滑らかに移動していく。 園児たちが一列に並ぶ前で、小夜子が優しい声で語りかけた。

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