Mag-log in黒崎隼人の到着まであと30分。
小夜子は本邸の裏手にある衣装部屋に立たされていた。義母が桐の長持(ながもち)から古びた布切れを引っ張り出して、小夜子に向かって放り投げた。「ほら。今日のあんたの衣装よ」
小夜子は、床に落ちそうになったそれを空中で受け止めた。
それは正規の制服ですらない、時代がかった代物。おそらく数世代前の使用人が着ていたと思われる、黒のワンピースと白いエプロンだった。生地は洗濯を繰り返して薄くなり、色はあせている。経年劣化で白い生地は薄いクリーム色に変化していた。 何ともみすぼらしい古着に、だが、小夜子は何も言わない。「いいこと、小夜子。今日の客人は、由緒ある白河家を金で買い叩こうとする成り上がりのハゲタカよ。そんな相手に、金で買ったばかりの新品を見せつけてどうするの」
義母は歪んだ笑みを浮かべ、勝ち誇った顔で講釈を垂れた。
「ああいう奴らは、金さえ出せば何でも手に入ると思っている。だからこそ、あえて『金では買えない時間』を見せつけてやるのよ。何代に
2人きりになった社長室で、隼人は小夜子の肩に手を置いた。「小夜子。怖いか?」 彼女は首を横に振る。絹糸のような黒髪がさらさらと揺れた。「いいえ。隼人さんが隣にいてくれれば、怖いことなどありません。それに私には守らなければいけない家族が、たくさんいるから」 小夜子は、夫の手の上に自分の手を重ねた。 その手は家事と仕事で少し荒れている。だが今の彼女にとって、それは誇り高い勲章のようなものだった。「御子柴さんに見せてあげましょう。私たちが築き上げた、この『聖域』の強さを」 小夜子は体の内側から、静かな力が湧き上がってくるのを感じた。 それは厳しい環境で花開いた者だけが持つ、しなやかで折れない強靭さだ。 小夜子の脳裏にふと、懐かしい人々の面影が浮かんだ。 愛人の立場で小夜子を産みながらも、娘に愛情を注いでくれた母。 白河家で唯一、小夜子を慈しんでくれた執事の藤堂。 今の小夜子がいるのは、彼らのおかげでもある。 彼らの思いに応えるためにも、こんなところで負けるわけにはいかない。(お母さん、藤堂さん。見ていて。私が授かった知識と教養、そしてこの場所で得た絆の全てを使って、私たちは勝利してみせるわ) 窓の外では夕闇が迫りつつあった。 けれどホテルのロビーには煌々と明かりが灯り、従業員たちがそれぞれの持ち場で誇りを持って立ち働いている。 その光はどんな巨大資本の影をも跳ね返すほどに、強く明るく輝いていた。 全面戦争の火蓋は、今こそ切られたのだ。「戦いましょう、隼人さん」「ああ。徹底的にな。二度と起き上がれないよう、グラン・ヘリックスと御子柴を叩きのめしてやろうじゃないか」 2人は頷き合う。 黒崎小夜子の総支配人としての、1人の女性としての最大の試練が始まろうとしていた。◇ 小夜子は社長室を出ると、ロビーへと降りる階段の途中で足を止めた。 フロアでは、実加が客
(私たちの聖域が……みんなの居場所が、壊される……) 小夜子は強く手を握りしめた。 隼人の方を向くと、彼はモニターを見つめたまま微動だにしなかった。 その表情は嵐の前の海のように静かで、深い。「黒崎社長、対抗策はどうしますか? ホワイトナイトを探しますか? 自社株買いでしょうか?」 翔吾が言う。 ホワイトナイトとは、買収防衛策の1つだ。 新たに友好的な買収者(ホワイトナイト)を見つけて協力し、買収もしくは合併する手法である。 ホワイトナイトにとっては想定外の買収になるので、資金繰りの問題が発生する。そう簡単には見つからないのが普通だ。 翔吾の言葉に隼人は首を横に振った。「……今のキャッシュフローでは、タイタン・キャピタルの物量作戦には太刀打ちできん。正面から買い増しを挑むのは下策だ」「じゃあ、指をくわえて見ていろと言うのですか!?」「そうは言っていない」 隼人は立ち上がると、窓の外に広がる東京の街並みを見下ろした。「御子柴は1つ大きな間違いを犯している。彼は『人間』を、ただのコストとしか見ていない。だがこのホテルを支えているのは、数字では測れない『信頼』という資産だ」 隼人が小夜子に向き直った。 その瞳には、絶望の影はない。「小夜子。これはビジネスという名の戦争だ。奴らは札束で人の心を買い叩こうとしている。だが、お前が育てたスタッフたちのプライドまで買えると思ったら大間違いだ。そうだろう?」 小夜子は隼人の言葉を聞いて、深く息を吸い込んだ。 肺の奥まで新しい空気が入り込み、混乱していた思考が少しずつ整っていく。(そうね。私は元々、捨てられた娘。何も持たずに白河家を出て、そこから一歩ずつ、自分の手で居場所を作ってきた。今更、お金で脅されたところでどうということもありません) 小夜子は一歩前に踏み出した。「隼人さん。私にできることを教えてください。総支配人として、
「これは……仕掛けられているな」 隼人の声が低く、厳しく響いた。 このような勢いで株価が上がるのは、あまりにも不自然だ。通常の取引ではありえない。 隼人はすぐに買い占めの可能性に気づいた。「ただの買い占めじゃない。浮動株が根こそぎ攫われてる。犯人は――」 その言葉を遮るように、壁の大型モニターが自動的にニュース速報に切り替わった。『速報です。グラン・ヘリックス日本支社が、ホテル大手アーク・リゾーツに対し、敵対的TOB(株式公開買付け)を開始すると発表しました。買付け価格は市場価格の50パーセント増し。グラン・ヘリックスは、背後に控える北米最大の投資ファンド「タイタン・キャピタル」からの全面的な資金援助を受けており――』 画面には、高価なスーツに身を包んだ御子柴玲二の姿が映し出されていた。 御子柴はカメラに向かって、薄ら笑いを浮かべながら宣言した。『アーク・リゾーツの経営陣は、前時代的な「おもてなし」という幻想に執着し、株主の利益を損なっている。我々グラン・ヘリックスは、最新のAI技術と徹底した合理化により、この組織を真の収益モデルへと変革させる。感情という名のバグを排除し、完璧なシステムを構築する。そうして向上した収益は、株主へと還元する。それが株主への誠意だ』 小夜子は思わず身を乗り出した。ローテーブルに添えた手から血の気が引いている。「そんな……。御子柴さん、まだ諦めていなかったのですね」「総支配人、それだけではありません。この買付価格を見てください。市場価格の50パーセント増しなど、普通ではありえません。個人株主や機関投資家がこぞって売りに出し始めています。このままだと一週間もしないうちに、過半数を握られる可能性すらあります!」 翔吾の声には、これまでにない焦りが混じっていた。 彼の論理とデータは、アーク・リゾーツの不利をはっきりと描き出してしまっている。 部屋の中に、重い沈黙が流れた。 御子柴の狙いは明らかだ。 せせらぎ亭での完全敗北と、スキ
バックオフィスでは、黒崎翔吾が複数のモニターを並べ、複雑な数式と格闘している。「翔吾さん、少し休憩してはどうですか? 目が疲れていますよ」「……あ、総支配人。いや、これ、新しいスタッフ配置の最適化システムを組んでるんです。せせらぎ亭での経験を反映させたら、もっと効率が上がるはずだと思って」 19歳の翔吾は、かつての「冷徹なAI少年」の面影を残しつつも、その内面には温かな熱が宿り始めていた。「数字も大事だけど、人間には休息が必要ですよ。はい、目薬」「あ、ありがとうございます。……あ、そうだ。実加さんに伝えておいてください。今日のシフトが終わったら、理玖の離乳食の作り方を教えると」「あら、翔吾さんが教えるのですか?」「彼女、この前『栄養バランスとか面倒くさい』とか抜かしたんですよ。僕の論理的な献立案を無視するなんて万死に値する。だから徹底的に叩き込みます」 そっけない言い方だ。 けれどそこには実加と理玖への深い思いやりが透けて見えた。 小夜子は(ふふ、名コンビね)と思いながら、エレベーターに乗った。目指すは上階の社長室だ。 社長室の扉を開けると、そこには最愛の夫であり、最高のビジネスパートナーである黒崎隼人がいた。 彼は書類の山に囲まれつつも、小夜子の気配に気づくと顔を上げた。「小夜子、ちょうどいいところに。……その香りは、ミントか?」「ええ。少しお疲れのようだったから、リフレッシュできるハーブティーを淹れてきました。お茶請けは昨日焼いたガレット・ブルトンヌです。バターをたっぷり使ったので、脳の栄養補給にぴったりですよ」 小夜子が手際よくカップに茶を注ぐと、澄んだ液体から爽やかな湯気が立ち上る。 隼人はそれを一口飲み、深い息を吐き出した。「助かる。……お前の淹れる茶を飲むと、自分がただの『社長』ではなく、一人の『人間』に戻れる気がするよ」「まあ、大げさですね。私はあなたの妻であり、
太陽の光がホテル『サンクチュアリ』のガラス外壁に反射し、眩しいほどの輝きを放っている。 黒崎小夜子は、総支配人としてのモーニングルーティンをこなしていた。 手には黒い革表紙のメモ帳を持つ。ロビーの隅々まで目を光らせ、わずかな埃も見逃さない。「おはよう、佐藤さん。あそこの観葉植物、葉の先が少し乾いています。霧吹きをしてあげて」「あ、はい! すぐやります、総支配人」 名指しされたスタッフはすぐに霧吹きを持ってきて、乾いていた葉先に水を吹きかけた。 きびきびと動くスタッフたちの姿に、小夜子の口元が自然と緩んだ。(やっと、この場所がみんなの『家』として機能し始めましたね) 少し前まで、ここはスキャンダル攻撃によって重苦しい空気が支配していた。 しかし今は活気と自信に満ちている。 ライブ配信で真実が伝わったあの日から、世間の風向きは完全に変わった。 応援の声は予約数となって現れ、連日満室という嬉しい悲鳴が続いている。(さて、次は……) 小夜子はリネン室のバックヤードへと足を運んだ。 そこには、大量のシーツをカートに積み込む山内実加の姿があった。「実加さん、調子はいかがですか?」「師匠! 仕事は問題ないっす。そんで聞いてくださいよ。理玖が今朝初めて『マンマ』って言った気がするんです!」 実加は顔を輝かせ、大きな瞳をさらに見開いた。 18歳のシングルマザーである彼女は、この数ヶ月で見違えるほどプロの顔つきになった。 以前の荒々しさと刺々しさは消えた。 今は「理玖を立派に育てる」という目標が、彼女の芯を強くしている。「それは嬉しいですね。きっと実加さんの頑張りが伝わったのでしょう」「へへ。だからウチ、今日中にこのフロア全部、ピッカピカにしてやりますから。シーツのシワ一つ許さねえッス!」「頼もしいわ。でも、無理はしないでくださいね。先ほど保育所の『こぐまの森』へ様子を見に行ったら、理玖くんはお昼寝をしていました。天使のよう
SNSのメッセージはなおも続いている。『社内保育所完備とか、アーク・リゾーツって従業員を全力で守る最高の会社じゃん』『炎上した社員をクビにするんじゃなくて、記者会見までして守ってさ。そりゃあ片方は社長の弟だけど、もう1人は他人でしょ?』『過去を乗り越えた兄弟のホテル、絶対泊まりに行く!』『来月の旅行、サンクチュアリに予約入れた! 応援してます!』 SNSのメッセージは、アーク・リゾーツ社へ味方するものばかりに変わっていた。 スキャンダルによってブランドを失墜させるという御子柴の目論見は、完全に崩れ去った。 それどころか、ピンチを逆手にとった彼らの行動は、世間の絶大な共感と支持を集める結果となってしまったのだ。 結果としてアーク・リゾーツ社の株価は急反発を見せている。 傍らの端末では、サンクチュアリへの新規予約が殺到している様子が見て取れる。 予約サイトはあっという間に満室になっていた。 御子柴は忌々しげにネクタイを緩めると、モニターの中の隼人を冷酷な目で見つめた。「綺麗事でいつまで持つか。現場の熱だの、人の情だの、そんな曖昧なもので会社が守れると思っているなら大間違いだ」 薄い唇が三日月の形に歪む。 彼にとって会社の経営とは、ただ利益という数字の追求以外にない。 そのやり方で御子柴はのし上がった。30代にして大手外資ホテルチェーンの支社長にまで成り上がった成果が、正しさを証明している。 だから彼は、アーク・リゾーツの主張を認めるわけにはいかないのだ。 認めてしまえば、自分を構成する経歴が足元から揺らぐ。 切り捨ててきた人々の悲鳴を踏みつけ、犠牲をものともしなかった道が間違っていたなど、到底認められない。 せせらぎ亭の嵐の夜に感じた温かさは、今となっては彼の汚点でしかない。 御子柴のやり方でアーク・リゾーツに打ち勝ち、あの会社を飲み込むことだけが存在意義の証明になる。「次は力でねじ伏せてやる。――TOBの準備を進めろ。奴らの城を、根こそぎ奪い







