Se connecter黒崎隼人の到着まであと30分。
小夜子は本邸の裏手にある衣装部屋に立たされていた。義母が桐の長持(ながもち)から古びた布切れを引っ張り出して、小夜子に向かって放り投げた。「ほら。今日のあんたの衣装よ」
小夜子は、床に落ちそうになったそれを空中で受け止めた。
それは正規の制服ですらない、時代がかった代物。おそらく数世代前の使用人が着ていたと思われる、黒のワンピースと白いエプロンだった。生地は洗濯を繰り返して薄くなり、色はあせている。経年劣化で白い生地は薄いクリーム色に変化していた。 何ともみすぼらしい古着に、だが、小夜子は何も言わない。「いいこと、小夜子。今日の客人は、由緒ある白河家を金で買い叩こうとする成り上がりのハゲタカよ。そんな相手に、金で買ったばかりの新品を見せつけてどうするの」
義母は歪んだ笑みを浮かべ、勝ち誇った顔で講釈を垂れた。
「ああいう奴らは、金さえ出せば何でも手に入ると思っている。だからこそ、あえて『金では買えない時間』を見せつけてやるのよ。何代に
一方、上層階の客室清掃フロアで。 山内実加は、パリッと糊の効いたシーツをベッドに広げていた。 ファサッ――という清潔感のある音が、室内に響いた。 マットレスの端にシーツを折り込み、シワ一つない状態に仕上げていく。 額には薄っすらと汗がにじんでいた。 清掃用のワゴンには、洗剤のボトルや大量のタオルが積まれている。「ねえ、やっぱりあの記事のこと、本当らしいわよ」 開け放たれたドアの外、廊下からヒソヒソ声が耳に入ってきた。 年配のパート従業員たちだ。「元ヤンなんでしょ? よく平気な顔して働けるわよね」「お客様の持ち物がなくなったりしたら、一番に疑われるのはあの子よ」「それに、子供を保育所に預けっぱなしって。本当に育児放棄じゃないの?」 言葉が実加の背中に次々と突き刺さる。 実加はシーツを掴む手に力を込めた。(上等だ。言いたい奴には言わせておけ) 腹の底で熱いものが煮えたぎる。 特攻服を着ていた頃なら、廊下に飛び出して胸ぐらを掴んでいた。 だが、今の自分はサンクチュアリの正社員を目指している。 何より、一つの命を預かる母親だ。 脳裏に、今朝の理玖の姿が浮かぶ。小さい手足を動かして、ハイハイで実加へ向かって来た。(あの笑顔を守るためなら、他人が何を言ったって平気だ) 実加は深く息を吸い込んだ。洗剤の匂いが胸を満たす。(今は、てめえの仕事をやり遂げることだけを考える。それ以外は全部後回しだ) そう考えて、無心で手を動かした。「よし、次だ」 独り言のように呟く。ベッドメイキングを終えるとバスルームの清掃へ向かった。◇ チェックインのピーク時間が近づくと、ロビーには徐々に客の姿が増え始めていた。 荷物を運ぶベルボーイの足音と、控えめなピアノのBGMが響いている。 洗練されたサンクチュアリの日常が戻り
ホテル・サンクチュアリの受付ロビー。大理石のカウンターに、ルームキーが放り出された。 カシャン、と硬質な音がする。丁寧とは程遠い音だ。 黒崎翔吾はすぐに口角の角度を調整し、完璧な営業スマイルを作った。「ご滞在は、いかがでしたでしょうか」「……不愉快極まりないわ。さっさと手続きを済ませてちょうだい」 初老の女性客は翔吾の顔を見ようともしない。 手には高級ブランドのバッグが握られているが、視線は明後日の方向を向いたままだった。「かしこまりました。この度はご利用ありがとうございました」 翔吾は手元の端末を操作し、流れるような動作で明細書を印刷する。(想定内だ。ネット上のノイズが現実の顧客行動に影響を与える確率は、すでに計算済みだ) 心の中で繰り返す。 自身の思考システムに新たな要素を組み込むように、何度も言い聞かせた。 周囲には冷ややかな視線が満ちている。 あからさまに翔吾の担当を避ける素振りも少なくない。 昨日の朝から、ロビーの空気は一変していた。 週刊誌が書き立てたスキャンダルの中心にいるのは、翔吾だ。 兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚れを付けてしまった。(せっかく隼人兄さんに認めてもらえたのに。居場所を見つけて、これからという時に。僕のせいで……) 胸の奥に、鉛のように重い罪悪感が沈んでいる。 だが、隼人と小夜子は『業務継続』という決断を下した。 ここで翔吾が感情に呑まれ、ホテルマンとしての振る舞いを崩すことは、2人の判断を裏切ることになる。 だから彼は、歯を食いしばってカウンターに立っている。 本当は逃げ出したくてたまらなかった。 自分が冷たい目で見られるだけならいい。だがそのせいで兄と小夜子に迷惑がかかるのが心苦しい。 今すぐにここを立ち去って、これ以上の醜態を晒さないようにしたい。 けれど
部屋の中がしんと静まり返る。 小夜子の目は、少しも揺らいでいなかった。「翔吾さんも実加さんも、過去を乗り越え、せせらぎ亭の現場で苦労の末に実績を残しました。彼らは私たちの誇りある社員です。根拠のない誹謗中傷で彼らを隔離すれば、それは御子柴の思惑通りに、私たちの理念が敗北したことを意味します」 小夜子の眼差しが、デスクの奥の隼人を正面から射抜く。 隼人はゆっくりと腕を解き、小さく息を吐いた。鋭い眼光で役員たちを見回す。「小夜子総支配人の言う通りだ。翔吾と実加の業務は、このまま継続させる。我々が守るべきはネット上の無責任な世論ではなく、現場で汗を流す社員の尊厳だからな」「し、しかし社長……!」「俺自身も問題のある母を持ち、機能不全の家庭で育った。だが今では、こうしてアーク・リゾーツ社の社長を務めている。何か文句があるか?」 隼人の眼光に役員たちは押し黙った。「クレーム対応はフロントと広報でマニュアル化し、粛々と処理しろ。以上だ」 隼人の有無を言わせぬ決断に、役員たちは反論の言葉を失って従うしかなかった。◇ グラン・ヘリックス日本支社の社長室は、白とグレーだけで統一された、人間の体温を一切感じさせない無機質な空間だ。 部屋の主自らがデザインを手掛けた、完璧だけれど冷たさに満ちた部屋だった。 御子柴玲二は最高級の革張りチェアに深く腰掛けて、デスクの上の大型モニターを眺めていた。 映し出されているのは、急落を続けるアーク・リゾーツの株価チャートだ。「……素晴らしい暴落だ」 御子柴の薄い唇が、三日月の形に歪む。 手元のグラスに入った氷を揺らすと、カランと冷たい音が響いた。 SNSでの大炎上と、メディアの過熱報道。 すべてが彼の計算通り。いや、大衆の持つ下世話な好奇心と悪意は、予想以上の成果を上げている。「社長。記事の反響は絶大です。サンクチュアリのキャン
(僕が兄さんの足を引っ張っている) 罪悪感が、冷たい水のように肺を満たしていく。 せせらぎ亭で得た充実感も、新しいシステムへの手応えも、すべてが色褪せて見えた。 息をするのが苦しい。翔吾はキーボードから手を離し、固く目を閉じた。◇ アーク・リゾーツ本社の最上階、社長室。 空気は完全に凍りついていた。 黒崎隼人は、重厚な造りの執務机の奥で、腕を組んだまま険しい表情を崩さない。 周囲を取り囲む役員たちは、手元の資料やタブレット端末を握りしめて、口々に叫んだ。 彼らの声には焦燥感がにじんでいる。「社長! 現在、SNSの公式アカウントには誹謗中傷が殺到し、炎上状態です。株価も午前の段階で大幅に下落しており、このままではブランドイメージが崩壊します!」「直ちに黒崎翔吾氏と山内実加氏を現場から外すべきです。メディアに対しても、2人の処分を明確にする釈明会見を開く必要があります」 悲痛な訴えが交差する。 役員たちが2人の排斥を訴える中、よく通る凛とした声が場を制した。「お待ちください」 声の主は、アーク・リゾーツの総支配人である小夜子だった。 洗練されたネイビーのパンツスーツに身を包み、足元には黒のピンヒール。 隙のない完璧な装いの彼女が、役員たちの前に進み出る。「この記事の出所は、グラン・ヘリックスの御子柴玲二で間違いないでしょう。彼のやり口は常に卑劣です。これは単なるスキャンダルではありません。アーク・リゾーツが掲げる『人材登用の理念』への、直接的かつ悪意ある攻撃です」 小夜子の言葉に、年配の役員が眉をひそめた。「しかし、世間はそうは受け取りません! 現に顧客は離れているんだ!」「皆様。かつて、私の過去が週刊誌に暴露された時のことを思い出してください」 小夜子の言葉に、役員たちがハッと息を呑む。 愛人の子として生まれ、本家で虐げられ、まるでモノのように隼人の元へ契約結婚の道具として
一方、客室清掃のフロアでは。 実加が大量のタオルを積んだリネンカートを押して歩いていると、リネン室の前で固まっていた年配のパート従業員たちの声が嫌でも耳に飛び込んできた。「見た? あの記事。山内さんのこと」「ええ。やっぱり、元ヤンなんて雇うべきじゃないのよ。ホテルの品位が下がるわ」「手癖が悪いに決まってるわ。お客様の部屋で盗みでも働いたらどうするの」「それに、子供をほったらかしにしてるんでしょ? 私ならあんな働き方、絶対にしないわ」 言葉が刃となって実加の背中に次々と突き刺さる。 カートの持ち手を握る手に力がこもった。 以前の彼女なら、振り返って凄み、文句があるなら直接言えと怒鳴り散らしていただろう。 だが、今の彼女はサンクチュアリのホテルマンだ。 ここで怒りを露わにすれば、記事の内容を自ら証明することになってしまう。(耐えろ。ウチは変わったんだ。あんな記事に負けねえ) 実加は制服のスカートをきつく掴み、前だけを見て歩みを進めた。 しかし悪意は社内だけに留まらなかった。 ロビーの喧騒の中、1人の恰幅の良い中年の男性客が、チェックアウトのカウンター越しに声を荒げていた。「責任者を呼べ! あんな記事が出ているホテルに、大切な取引先を泊められるか!」 たまたま近くを通りかかった実加が、足早にカウンターへ向かう。「お客様、どうされましたでしょうか」「お前……記事に出てた女か! 元ヤンの清掃員なんて不潔極まりない! 今後の予約、全部キャンセルしてくれ!」 実加の肩がピクリと跳ねた。腹の底から、理不尽に対する熱いものが込み上げてくる。 実加は深く頭を下げた。「お客様、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」「不快どころじゃない! 従業員の教育もまともにできていない掃き溜めホテルじゃないか! 黒崎社長の顔に泥を塗るような真似をしおって!」 心無い言葉が次々と投げつけられる。喉の奥がカラカラに乾いていた。 そ
同僚が、ためらいがちに翔吾の方へ近づいてくる。 いつもは軽口を叩く男が、今日はひどく強張った顔をしていた。「……翔吾さん。これ、見ましたか」 同僚は自分のタブレット端末を、翔吾のテーブルの上にそっと置いた。 画面には、実加が見たものと同じ週刊誌のWeb記事が表示されている。『アーク・リゾーツ社社長の母・真澄さんはギャンブル依存とアルコール依存の末に多額の借金を抱え、現在は行方不明』『社長の弟・黒崎翔吾さんは、父親が独身時代に交際していた女性――黒崎真澄さん――との間に生まれた子ども。当時、彼女は別の男性とも交際しており、まさに奔放な関係の末に生まれた子である』『アーク・リゾーツ社社長の黒崎隼人氏とは、同母・異父兄弟になる。つまり隼人氏にも問題の母親の血が流れている』 黒の太字で強調された文字の羅列が、直接脳内に流れ込んでくる。 翔吾の指先から一気に熱が引いていく感覚が走った。 先ほどまで頭の中にあった完璧なスケジュールが、あっという間に消し飛んだ。「……こんなの、何かの間違いですよね?」 同僚の探るような声が、ひどく遠くに聞こえる。 自分が、兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚点を付けてしまった。(僕のせいで。僕が兄さんを頼ったから) その思いが翔吾の心を蝕んだ。 周囲の音が急速に遠のき、自分の浅く早い呼吸音だけがやけに大きく耳に響くようだった。 翔吾はとっさにテーブルの端を強く握り、何とかその場に立ち留まった。 同僚への返事は、できなかった。◇ 記事の影響は、瞬く間にサンクチュアリの現場を侵食し始めた。 ロビーのフロントカウンターで、翔吾はキーボードを叩きながら、耳元のインカムマイクに手を当てた。「東館の清掃チーム、11時の段階でリネン交換に5分の遅れが出ています。西館からヘルプを2名
「どこだ、どこにしまった! 誰か知らんのか!」 父が叫ぶが、誰も答えない。かつては美術品の管理台帳をつける専門の使用人がいた。だが、彼を解雇したのは他ならぬ父自身だ。 義母も麗華も、屋敷に何があるかさえ把握していない。彼女たちにとって、美術品は換金できるかどうかの道具でしかないからだ。 焦燥に駆られた父の視線が、床に膝をつく小夜子を捉えた。「おい、役立たず! お前だろ、お前が隠したんだろう!」 父が大股で近づき、小夜子を見下ろす。理不尽な言いがかりは、いつものことだ。小夜子は雑巾をバケツの縁に置き、顔を上げた。(双龍図……) 脳内の検索にかける。所要時間は0.5秒。 膨大な
その重さに押しつぶされそうになった時、隼人の手が伸びてきた。 彼は小夜子の唇の端についた砂糖を親指で拭い、自分の口に含んだ。「バチなど当たるか」 隼人は自分のコーヒーを小夜子に差し出した。「お前が遊べなかった10年分、これから俺が全部埋めてやる」 彼は城を指差した。「次は隣のパークに行くぞ。あそこには世界一の清掃船があるらしいからな。お前の好きな洗剤の話も、いくらでも聞いてやる」 不器用な慰めに、小夜子は目を見開いた。 洗剤の話を聞いてくれる。この世界で、そんなことを
「初対面の方に、そのようなご指摘をいただく筋合いはございません。業務の一環ですので」 小夜子は半歩下がって、事務的な笑顔で壁を作った。 だが男は引かなかった。むしろ、その拒絶が面白かったらしい。「業務、か。堅苦しいねえ」 男はクスクスと笑い、名刺を差し出した。『株式会社ネクスト・フロンティア代表取締役社長 高塔蓮』。 新進気鋭のITベンチャーの社長だ。最近、メディアでよく見かける顔だった。小夜子も経済誌で見た覚えがある。「あの黒崎社長の奥様だよね? 噂は聞いているよ。没落した旧家から引き上
小夜子は音を立てないように寝室へ戻り、毛布を持ってきた。そっと近づいて、寝顔を覗き込む。(この方は、ずっと一人で戦ってきたのだわ) 小夜子は思った。彼の強引な求愛も、強い独占欲も。 その前の、誰も寄せ付けない冷たく厳しい態度も。 裏を返せば、それは失うことへの恐怖と冷たい孤独の裏返しなのかもしれない。(旦那様は、ずっと孤独だったとおっしゃっていた) 隼人が話してくれた過去を思い出す。 幼い頃に母親に見捨てられ、冷え切ったアパートで震えていたこと。 生き延びるのに必