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13:灰かぶりのメイド服

last update Date de publication: 2025-12-05 22:06:40

 黒崎隼人の到着まであと30分。

 小夜子は本邸の裏手にある衣装部屋に立たされていた。義母が桐の長持(ながもち)から古びた布切れを引っ張り出して、小夜子に向かって放り投げた。

「ほら。今日のあんたの衣装よ」

 小夜子は、床に落ちそうになったそれを空中で受け止めた。

 それは正規の制服ですらない、時代がかった代物。おそらく数世代前の使用人が着ていたと思われる、黒のワンピースと白いエプロンだった。生地は洗濯を繰り返して薄くなり、色はあせている。経年劣化で白い生地は薄いクリーム色に変化していた。

 何ともみすぼらしい古着に、だが、小夜子は何も言わない。

「いいこと、小夜子。今日の客人は、由緒ある白河家を金で買い叩こうとする成り上がりのハゲタカよ。そんな相手に、金で買ったばかりの新品を見せつけてどうするの」

 義母は歪んだ笑みを浮かべ、勝ち誇った顔で講釈を垂れた。

「ああいう奴らは、金さえ出せば何でも手に入ると思っている。だからこそ、あえて『金では買えない時間』を見せつけてやるのよ。何代に

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   353

     チーフらの視線は泳ぎ、小夜子と目を合わせることを避けていた。 よそよそしい態度から、彼らの本音が待遇改善案に大きく揺れていることがうかがえる。「お忙しいところ、集まっていただきありがとうございます」 小夜子はグレーのスーツの背筋を伸ばし、テーブルの上座から彼らに語りかけた。「昨晩のニュースや、ロッカールームに撒かれたビラの件で、皆様が動揺されているのは承知しております。本日は、現場を預かる皆様の率直な意見を伺いたくて、お時間をいただきました」「……それは」「…………」 部屋に重い沈黙が落ちる。しばらくの間、エアコンの稼働音だけが聞こえていた。 やがてフロントマネージャーが、ネクタイの結び目を無意識に触りながら口を開いた。「……総支配人。正直に申し上げます。現場のスタッフたちは、かなり疲弊しています。先日のネット炎上の際も、フロントには嫌がらせの電話が鳴り止みませんでした。クレーム対応の最前線に立たされるのは、いつも現場の人間なんです」 彼の言葉を皮切りに、せきを切ったように他のチーフたちも話し始めた。「レストラン部門も同じです。あんな騒ぎの後は、お客様の目線が気になって、スタッフたちの笑顔も強張っています」 レストラン部門のチーフが腕を組み、眉間に深い皺を寄せた。「その上、基本給2倍なんて話が出れば、そりゃあ心も揺らぎますよ。うちの若いスタッフの中には、来年子供が受験を控えている奴もいます。親の介護費用が嵩んで、毎月のシフトを増やしてくれと泣きついてくるパートさんもいるんです」「宴会部門も、キャンセル対応で連日残業続きでした。大手の傘下に入って、外資系のコンプライアンスで守ってもらえるなら、その方が安心なんじゃないかって、そういう声が出るのも当然です」 宴会部門のリーダーの口調には、経営陣に対する微かな非難の色が混じっていた。 彼らの言葉は、日々の生活と直結した切実なものだ。 小夜子は彼らの言

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   352

     見えない不安と闘うのは難しいものだ。 しかし相手の手口が具体的な数字として現れた以上、対処の方法はいくらでも考えられる。 小夜子の思考はすでに次のフェーズへと切り替わっていた。「見事なデータだ、翔吾。これで相手の虚言を完全に崩せる」 隼人がソファから身を乗り出して、タブレットの画面をスワイプした。「問題は、この事実をどうやって現場の従業員たちに伝えるか、ですね」 小夜子は顔を上げて、隼人と翔吾を交互に見た。「全体集会を開いて一斉に発表するのは、避けた方が良いと思います。今の疑心暗鬼に陥った空気の中で経営陣がマイクを握っても、『買収を焦った経営側の引き留め工作だ』と誤解されかねません」「僕も総支配人の意見に賛成です」 翔吾がうなずき、手元の資料をトントンと机で揃えた。「人間は自分が信じたい情報を優先する傾向があります。特に生活がかかっている今は、数字だけを見せても反発される可能性があります。実加さんでも一目でわかるような、シンプルなグラフと、実際に買収されたホテルの元従業員たちの生々しい口コミを交えたレポートをすぐに作成します」 実加の名を口にする時、翔吾はちょっとだけ笑ってみせた。 この緊張感漂うミーティングの中で、ほんのわずかの温かさが宿ったようだった。 小夜子は微笑み返す。「助かります、翔吾さん。……では、伝え方はこうしましょう。トップダウンの指示や発表ではなく、各部門のチーフやリーダーたちと少人数でのミーティングを開きます。直接彼らの不安や本音を聞きながら、会話の中でこの資料を提示するのです」 小夜子の提案に、隼人が短くうなずいた。「わかった。俺と小夜子で手分けして、各部門の責任者たちと話をしよう。翔吾、レポートの印刷を急いでくれ」「承知しました、社長」 翔吾は手早くタブレットを抱えて一礼すると、足早に社長室を後にした。◇ それからしばらく後の、午後1時。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   351:甘言の正体

     社長室に満ちてるのは淹れたてのコーヒーの香りではなく、プリントアウトされたばかりのインクの乾いた匂いだった。 室内のエアコンは規則的な送風音を立てている。窓の外には陽光に照らされた東京の街並みが広がっているが、部屋の中の空気は緊張感に包まれていた。 小夜子はグレーのスーツの膝に手を置き、デスクの向こう側に立つ翔吾の言葉に耳を傾けていた。 彼女の隣では、隼人が腕を組んだままタブレットの画面を見つめている。「黒崎社長、総支配人。グラン・ヘリックスが過去3年間に買収した六つのホテルチェーンについて、詳細な追跡調査のデータがまとまりました」 翔吾は手元の資料を1枚めくり、指先で紙の端を弾いた。パラリという乾いた音が鳴る。「結論から申し上げますと、御子柴氏がメディアで語った『基本給2倍』という甘い言葉は、買収を成立させるための半年間限定の撒き餌に過ぎません」 翔吾の眼鏡が、頭上のダウンライトを反射して光る。 彼は手元のタブレットを操作し、大型モニターにグラフを映し出した。「買収後、最初の半年間は確かに基本給が引き上げられます。しかし7ヶ月目に入ると『AIシステム導入による業務効率化』を理由に、大規模な人員整理が始まります。過去の事例では、買収時の従業員の約8割が1年以内にリストラ、あるいは過酷な配置転換による自主退職へと追い込まれていました」 モニターの棒グラフが、1年目以降に急激に右肩下がりになっている。「残った2割のスタッフはどうなるのですか?」 小夜子が尋ねると、翔吾は手元の資料を小夜子の前に差し出した。「外資系基準の完全な成果主義に移行します。客室稼働率や単価アップのノルマが各個人に課せられ、未達の場合は容赦なく減給されます。結果として残った2割のスタッフの大半も、買収前を下回る待遇で働かされているのが実態です。充実した福利厚生も、適用されるのはごく一部の幹部候補のみでした」 小夜子は提示された資料の文字列を目で追った。そこには数字という客観的な事実が並んでいる。 御子柴は、従業員の生活や人生を向上させる気など毛頭ない。 ホ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   350

     ――と。 コンコン、と控えめなノックの音が鳴ってドアが開いた。「黒崎社長、総支配人。失礼します」 翔吾が、手元のタブレットに視線を落としたまま部屋に入ってきた。「翔吾さん。現場の状況は把握していますか?」 小夜子が尋ねると、翔吾はタブレットから顔を上げ、こくりと頷いた。「ええ。ロッカールームのビラも、SNSの個別DMも確認済みです。実加さんも、鼻息を荒くして怒っていましたよ。全く、手回しが早くて嫌になりますね」 翔吾はデスクの上にタブレットを置いた。 画面には、おびただしい数のデータやグラフが表示されている。「ですが、ただ手をこまねいているわけではありません。あの甘い条件の裏付けを取るために、グラン・ヘリックスが過去3年間に手がけた買収事例を徹底的に調べています」「裏付け、とは? 何か見つかったのか?」 隼人が身を乗り出す。「基本給2倍、充実した福利厚生。彼らが本当にその約束を守っているのか、という実態調査です」 翔吾の目が、メガネの奥で鋭く光った。「投資ファンドが、無条件で人件費を倍にするような慈善事業を行うはずがありません。必ず数字のカラクリがあるはずです。例えば半年後にAI導入を理由にした大規模なリストラが待っているとか、成果報酬型への移行で実質的な賃下げが行われるとか。過去の事例をいくつか見ましたが、既に怪しいデータがいくつか散見されます」「なるほど。甘い毒の正体を、データで暴き出すということですね」 小夜子の言葉に、翔吾は「ええ」と頷いた。「感情的な説得では、お金の誘惑に勝てません。客観的なデータと事実をもって、彼らの約束が虚構であることを証明し、全従業員に突きつけます。そうすれば、疑心暗鬼に陥っているスタッフたちの目も覚めるはずです」「頼む、翔吾。一刻も早く、そのデータをまとめてくれ」 隼人の声に力が戻る。「承知しました。全力で取り組みます、黒崎社長」 翔吾が足早に部屋を出ていくと、社長室には再び静寂が戻った。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   349

    「うまい話には絶対裏があるに決まってるじゃないですか。だいたい、ウチのことなんて直接見たこともないくせに、何がスキルを高く評価、ですか。バカにしてるのかって話ですよ」「実加さん……」「ウチは絶対、あんなの信じません。ウチがここで働けてるのは、総支配人やみんなが、ウチや理玖のことをちゃんと見て、助けてくれたからです。お金なんかでウチの気持ちは動きませんからね!」 実加の迷いのない言葉に、小夜子は救われたような気持ちになった。 思わず微笑む。「ありがとうございます。実加さんがそう言ってくださると、本当に心強い」「へへっ。ウチはウチの仕事をするだけなんで。じゃ、水回りの掃除やってきます!」 実加は洗剤のボトルを手に、勢いよく客室の中へ戻っていった。 実加の後ろ姿を見送りながら、小夜子は小さく息を吐いた。 実加のようにきっぱりと拒絶できる者は、ごく少数だ。大半の従業員は、生活の不安と見えない恐怖にあおられて、アークリゾーツ社から心が離れかけている。(このままではいけない。何かしらの手を打たなければ) 現場の重い空気を肌で感じた小夜子は、急ぎ足で社長室へと引き返した。◇ 社長室に戻ると、隼人が窓際に立ち、腕を組んで外を見下ろしていた。 小夜子は執務デスクの横に立って、先ほど現場で見てきた状況を報告した。「SNSのダイレクトメッセージで、個別に特別オファーを出してきているようです。スタッフたちは完全に疑心暗鬼に陥り、互いの顔色をうかがって作業の連携も取れていません」「そうか。そこまでやるとはな……」 隼人は振り返り、重い足取りでソファに向かった。「スキャンダル騒動でこちらの体力を奪い、疲弊したところに甘い条件を提示して内部から崩壊させる。完全に計算し尽くされた手口だ」「スタッフたちを責めることはできません。家族の生活がかかっている方も多いのです。それに、いつまた炎上騒ぎに

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   348

     チーフの苛立った声に、若手スタッフが肩をすくめた。 小夜子が近づくと、彼らはサッと視線を逸らして気まずそうに作業に戻っていった。(空気がひどく張り詰めている。お互いの顔色を窺って、誰も本音を言えない状態) 小夜子は靴音を殺して廊下を進んだ。 開け放たれた客室の入り口から、数人の女性スタッフがヒソヒソと話す声が漏れ聞こえてくる。「ねえ、私の個人のSNSアカウントに、DMが来たの」「えっ、私も。グラン・ヘリックスの人事担当って名乗る人からでしょ?」「そう。うちのホテルのサービスレベルを高く評価してるから、新体制になったら部門のリーダー候補として特別待遇で迎えたいって。これ、本物なのかな」「私にもヘッドハンターから来たわよ。これ、1人ひとりのアカウントを特定して送ってきてるのよね。ちょっと怖くない?」「でも、そこまで熱意をもってスカウトしてくれるなら、ちょっと心が動く……」「うーん、確かに……」 小夜子はわずかに目を細めた。 物理的なビラ撒きだけではない。スタッフがプライベートで利用しているSNSアカウントにまで、個別に接触を図ってきているのだ。 メディアを使った大々的な宣伝で集団の意識を揺さぶり、ビラで内部に疑心暗鬼を生ませる。 さらにSNSのダイレクトメッセージで個人個人を追い詰める。(なんて執拗で、悪辣(あくらつ)な手口でしょうか。みんな、追い詰められてしまうわ)「ちょっと、そこのあんたたち! 手を動かしながら喋りなよ!」 フロアの奥から、張りのある元気な声が響いた。 山内実加だ。 彼女はゴミ袋をまとめた大きなカートを押しながら、小夜子の前までやってきた。「あ、師匠、じゃなくて総支配人! お疲れ様ッス!」「お疲れ様です、実加さん。理玖くんは保育園ですか?」「はい、今朝も元気に離乳食食べてから行きましたよ。それより、総支配人、ちょっとこれ見てください」 実

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