LOGIN黒崎隼人の到着まであと30分。
小夜子は本邸の裏手にある衣装部屋に立たされていた。義母が桐の長持(ながもち)から古びた布切れを引っ張り出して、小夜子に向かって放り投げた。「ほら。今日のあんたの衣装よ」
小夜子は、床に落ちそうになったそれを空中で受け止めた。
それは正規の制服ですらない、時代がかった代物。おそらく数世代前の使用人が着ていたと思われる、黒のワンピースと白いエプロンだった。生地は洗濯を繰り返して薄くなり、色はあせている。経年劣化で白い生地は薄いクリーム色に変化していた。 何ともみすぼらしい古着に、だが、小夜子は何も言わない。「いいこと、小夜子。今日の客人は、由緒ある白河家を金で買い叩こうとする成り上がりのハゲタカよ。そんな相手に、金で買ったばかりの新品を見せつけてどうするの」
義母は歪んだ笑みを浮かべ、勝ち誇った顔で講釈を垂れた。
「ああいう奴らは、金さえ出せば何でも手に入ると思っている。だからこそ、あえて『金では買えない時間』を見せつけてやるのよ。何代に
「さあ、次は広いお部屋に行きますよ」 引率スタッフに呼ばれ、みんなでもう一度通路を歩き出す。 次に向かったのは、宴会場という場所だった。 両開きの大きなドアが開く。足を踏み入れると、靴の先がふわっと沈み込んだ。 どこまで歩いても足音が鳴らない、長い毛の絨毯だ。 運動場みたいに広い部屋には、真っ白な布がかかった丸いテーブルがいくつも並んでいる。天井には、豪華なシャンデリアがキラキラと輝いていた。「わーい! ひろーい!」 興奮した男の子たちが、ぱっと手を離して走り出そうとする。「こらこら、走らない! ここはこれから、大切なお祝いをする場所だからね」 引率スタッフが慌てて子供たちを抱き止めた。 会場の中では、黒い服を着た大人たちが忙しそうに動いている。 白い手袋をして金属のメジャーをシャーッと伸ばし、椅子とテーブルの隙間を測っていた。「コップの位置、あとちょっと右にして」「了解」 耳につけたイヤホンから、短い声が聞こえてくる。 スタッフの人たちは、しゃがみこんでテーブルの上のナイフやフォークがまっすぐ並んでいるかを確認している。 手際は極めて素早い。 ふわりとテーブルクロスが広がったかと思えば、あっという間にカラトリーのセットが終わっている。 カチャリ、カチャリと金属の音が鳴った。「あのお兄ちゃんたち、忍者みたい!」 男の子が目を丸くして指を差した。理玖もこくりと頷く。(本当に忍者だ。耳の機械でこそこそ話して、一瞬でテーブルの上のものを並べ替えちゃう。僕も保育園のおもちゃの片付けをあんな風にやれたら、先生にすごいって言われるかな)「カラトリー……フォークやナイフなどの食器は、ミリ単位でセットします。細かすぎると思うかもしれないけど、お客様を最高の状態でおもてなしするのに必要なんですよ」 忍者もとい宴会場スタッフが説明した。「しつもんです! どうしてそんなに忍者みたいに動けるんですか
ウェディングケーキの前では、年配のパティシエが、先が鋭く尖ったピンセットを指先で操っていた。 ピンセットの先端には、青や紫色の極小のエディブルフラワー(食用花)が挟まれている。 パティシエは息を詰めて、ケーキの側面に花びらを配置していた。(ケーキ屋さんって、もっと楽しそうにクリームをぐるぐる塗るのかと思ってた。やってることはお医者さんの手術みたいだ。あんな小さい花をチマチマ置くなんて、ぼくなら3分で飽きちゃうよ) パティシエの指先の熱が伝われば、繊細な花びらは傷んでしまう。 だから金属製のピンセットと細いスパチュラだけを使い、ケーキ本体に触れることなく立体的な装飾を加えていくのだ。 やがて花びらがクリームの土台にピタリと吸い付くように配置された。 パティシエはふうと息を吐いて肩の力を抜く。「おじちゃん、これ、いまからたべるの?」 見学していた男の子が尋ねた。 パティシエは振り返り、目尻を下げて笑う。「これは今日の結婚式で使うケーキだよ。新郎新婦がケーキ入刀をする、一番大切な場面で登場するんだ。おいしくって、一口食べると、魔法みたいに幸せになれるんだよ」 パティシエの言葉に、子供たちは「まほう!」と声を弾ませる。 そこへ、オーブンを担当していたパティシエが、銀色の小さなトレイを持って近づいてきた。 トレイの上には、四角く切り落とされたスポンジケーキの切れ端が山積みになっている。「見学に来てくれたお礼だよ。みんなで食べてね」 引率スタッフが受け取り、園児たちに配り始めた。 理玖も小さなスポンジの欠片を受け取る。まだほんのりと温かい。 口に入れると、卵の優しい甘さがふわっと広がって、すぐに溶けてなくなった。「あまくておいしい!」「もっとたべたい!」 園児たちは大喜びで跳ね回る。理玖も口の周りについたケーキの粉を舐め取った。「すっごくおいしい。ケーキのきれはし、もっとないの?」 理玖が身を乗り出して聞くと、パティシエたちは顔を見合わ
搬入口の騒々しさを背に、引率スタッフが先頭を歩く。 一行は従業員専用の通路を通ってホテルの奥へと進んだ。 理玖は自分の背丈よりも何倍も高いコンクリートの天井を見上げる。グレーに塗られた太い配管が縦横に這い回っていた。「次は、ケーキやお菓子を作っている場所へ行きますよ。みんな、はぐれないように手をつないでね」 引率スタッフが声を張り上げる。コンクリートの天井に声が反響した。「はーい!」「ケーキだって。たのしみ!」 引率スタッフの案内に、園児たちが元気よく返事をする。「美夕ちゃん、手つなご」「ええ」 理玖は隣を歩く美夕と手を繋いだ。 美夕と手を繋ぐのはいつものことなのに、見知らぬ場所のせいかドキドキする。 やがて行く先に大きな扉が見えてきた。 分厚いステンレスの扉が開く。途端、焼きたてのバターの香ばしさと、焦がしキャラメルの濃厚な甘い匂いが鼻をくすぐった。「うわぁ……」 理玖は声を漏らした。口の中に溜まった生唾をごくりと飲み込む。 室内には、銀色に磨き上げられた巨大な作業台がいくつも並んでいた。「こちらがパティスリー部門です。大きい作業台とケーキが見えますね! 作業台はひんやりしているんですよ。チョコレートや飴細工が手の熱で溶けないための工夫です」 引率スタッフが言う。 園児たちは順に手を伸ばして、ステンレスの作業台を触らせてもらった。「ほんとだ。つめたい!」 純白のコックコートと高いコック帽を身につけたパティシエたちが、それぞれの作業台で作業に没頭している。 手前の台では、若いパティシエが自分の胸ほどもある金属製のボウルに向かっていた。 巨大なホイッパーで、卵と砂糖の混ざったもったりとした黄色い生地を力強くかき混ぜている。 シャカシャカというリズミカルな音が室内に響いた。 奥のオーブンからは、熱気とともにスポンジケーキが焼き上がる匂いが漂ってきた。 分
ホテルの断面図のようなグラフィックに、各フロアのネットワークトラフィックや使用電力が色分けされて表示される。「こうして色分けして表示しておけば、状態がひと目で分かる。便利でしょう?」 青は通常、黄色はやや多めといった具合だった。 今はほとんどが青色の表示になっていた。「最近はセキュリティも重要になっている。外部からの不正なアクセスを防ぐために、常に監視の目を光らせているんだ」 子供たちはモニターの青白い光に照らされながら、翔吾の説明に聞き入っている。 美夕は翔吾のデスクに近づき、キーボードの配列を興味深そうに眺めた。「しょうごおじさん、ここでぜんぶわかるの?」「うん、分かるよ。分かるだけじゃない、トラブルの対応もできる。どこかの部屋でWi-Fiが繋がりにくくなったら、すぐにアラートが出る仕組みになっている。お客様からクレームが来る前に対処するのさ。それが快適な滞在に繋がるからね」 翔吾は少し得意げに答えた。 説明を続けているうちに、棒読み口調の固さは取れている。 理玖は父の顔を見つめた。 モニターの光が眼鏡のレンズに反射している。 指先一つで、この巨大なホテルの隅々までを把握し、制御しているのだという。 その姿は、まるで絵本に出てくる魔法使いのように見えた。(父ちゃん、毎日ここでホテルの全部を見てるんだ。パソコンの画面だけで、何が起きてるか全部分かっちゃうなんて、かっこいいな。家でジャージ姿でゴロゴロしてる時とは大違いだ) 理玖は胸の奥から、温かい誇らしさが込み上げてくるのを感じた。「魔法使いみたい。でも魔法じゃない」 ホテルという巨大な建物を動かしているのは、魔法ではなく、こうした裏方のプロフェッショナルたちの技術なのだ。理玖は5歳なりに理解し始めていた。 ふと、サーバー室の冷気で少し肌寒くなり、理玖は両手で自分の二の腕をさすった。 周囲を見れば、寒そうにしている子供たちが何人かいた。 そうと気づいた翔吾が言った。「ここは寒いからね。
分厚いガラス扉の向こうに、黒いサーバーラックがいくつも並んでいる。 部屋全体が強力な冷房で冷やされており、電子機器特有の乾いた匂いが鼻を突く。「わあ……」 先ほどの施設管理部門とまた違う雰囲気に、子供たちが歓声を上げる。 何台ものサーバーの冷却ファンが回転する、フォーという低い唸り音が空間を満たしていた。 色とりどりのLANケーブルは束ねられ、見事な美しさでラックの裏側に這わせられている。 ガラス扉の手前のオペレーションルームには、複数の大型モニターが壁沿いに設置されている。 デスクに向かっているのは、理玖の父である翔吾だった。(あっ、父ちゃんがいる) 翔吾は銀縁眼鏡を指で押し上げ、モニターの情報を確認しながら、キーボードを軽快に叩いている。 カチャカチャカチャという、打鍵音が途切れなく響いていた。「ここはシステム管理室です。翔吾さん、解説をお願いします」 引率スタッフの言葉を受けて、翔吾がキャスター付きの椅子を回転させる。子供たちに向き直った。「システム管理室は、ホテルのあらゆる情報を管理する場所だよ。みんなが見ているあの画面には、客室のエアコンの温度、レストランの予約状況、スタッフの配置データなどが全部集まってくるんだ」 いつもは誰に対しても丁寧な口調で喋る翔吾だが、今日は子供相手だからと気を遣っているようだ。 ちょっと棒読みで、理玖は思わず笑いそうになるのをこらえた。(父ちゃん、家で説明を練習してたもんな。でも棒読みだよ!) ふと実加を見ると、はっきりと笑いを噛み殺している。母子は視線を交わしてぐっと腹に力を込めた。 彼らの様子に気づいたのだろう。 翔吾の頬が赤くなった。 それでも表面上は冷静なふりをして、モニターを指さした。 モニターには、数字とグラフが規則正しく並び、リアルタイムで更新されている。「ホテルという大きな建物の中で、情報が迷子にならないように、ここで地図を見ているんだよ。例えば、お客
スタッフがバルブの調整を終え、額に浮いた汗を首に巻いたタオルで拭った。「巨大なボイラーでお湯を作り、ポンプでホテルの最上階まで汲み上げます。もしここで機械が止まってしまったら、ホテル全体が真っ暗になり、お湯も出なくなってしまいます。お客様の目には触れない場所ですが、彼らがいないとホテルは1日も機能しません」「すごいね」「ね!」 子供たちは巨大な機械の並ぶ光景に目を輝かせている。 理玖は壁に沿って走る青色の太い配管に近づいた。 指先でそっと表面に触れてみる。 結露した冷たい水滴が指を濡らし、金属の鋭い冷たさが肌に伝わってきた。 ごくわずか、ごうごうと水が流れる音も聞こえてくる。「あ、こら。危ないから触らないでね」 作業着のスタッフが慌てて声をかけてきた。理玖は「ごめんなさい」と言って壁から離れた。(ここは秘密基地みたいだ。ホテルの裏側に、こんなすごい機械がいっぱい隠れてるなんて知らなかった。この太いパイプの中を、客室に行く水が通ってるんだな) 理玖は配管の先が、天井のコンクリートを抜けて上の階へ繋がっているのを見上げた。 どこまでも続くパイプの列に、建物の巨大さを改めて思い知らされる。「配管の点検では、水漏れがないか、圧力メーターの数値が正常かを確認します。ちょっとした異音から故障の兆候を見抜く耳の良さも求められます」 スタッフが円形のメーターを指差しながら補足した。 赤い針が、緑色の安全な範囲の真ん中にピタリと収まっている。 理玖はメーターの数字をじっと見つめて、その針が微かに揺れるのを観察した。 理玖の目では細かい内容は分からないが、スタッフたちには分かるのだろう。 針の動きを見て、何事か言葉を交わすとまた作業を始めていた。(かっこいい。プロの仕事だ) 理玖はすっかり感心してしまった。「ありがとうございました!」「パイプ、すごかったです!」 子供たちは彼らに挨拶をして、地下の施設管理部門を出た。







