ログイン喉まで出かかった言葉を、小夜子は飲み込んだ。今、口答えをすれば、この場はさらに長引く。
あと1時間もしないうちに黒崎隼人が来てしまう。客人を迎える準備を遅らせるわけにはいかない。小夜子は額の痛みを無視し、畳に手をついて頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」
「フン。さっさと準備に戻れ」
父たちは桐箱を大事そうに抱え、客間へと消えていった。
一人残された廊下で、小夜子はようやく身を起こした。額に手をやれば、鈍い痛み。少し腫れている。
(良かった、血は出ていない。このくらいなら前髪で隠せば目立たない。大丈夫)
客間のほうからは、「これで成金男も腰を抜かすはずだ」「白河家の威光を見せつけてやるのよ」という、浮かれた声が聞こえてくる。
小夜子は冷めた瞳で、その方角を見つめた。(……あの方々は、分かっていない)
黒崎隼人という男の噂は、小夜子も耳にしている。合理的で、無駄を嫌い
一方、客室清掃のフロアでは。 実加が大量のタオルを積んだリネンカートを押して歩いていると、リネン室の前で固まっていた年配のパート従業員たちの声が嫌でも耳に飛び込んできた。「見た? あの記事。山内さんのこと」「ええ。やっぱり、元ヤンなんて雇うべきじゃないのよ。ホテルの品位が下がるわ」「手癖が悪いに決まってるわ。お客様の部屋で盗みでも働いたらどうするの」「それに、子供をほったらかしにしてるんでしょ? 私ならあんな働き方、絶対にしないわ」 言葉が刃となって実加の背中に次々と突き刺さる。 カートの持ち手を握る手に力がこもった。 以前の彼女なら、振り返って凄み、文句があるなら直接言えと怒鳴り散らしていただろう。 だが、今の彼女はサンクチュアリのホテルマンだ。 ここで怒りを露わにすれば、記事の内容を自ら証明することになってしまう。(耐えろ。ウチは変わったんだ。あんな記事に負けねえ) 実加は制服のスカートをきつく掴み、前だけを見て歩みを進めた。 しかし悪意は社内だけに留まらなかった。 ロビーの喧騒の中、1人の恰幅の良い中年の男性客が、チェックアウトのカウンター越しに声を荒げていた。「責任者を呼べ! あんな記事が出ているホテルに、大切な取引先を泊められるか!」 たまたま近くを通りかかった実加が、足早にカウンターへ向かう。「お客様、どうされましたでしょうか」「お前……記事に出てた女か! 元ヤンの清掃員なんて不潔極まりない! 今後の予約、全部キャンセルしてくれ!」 実加の肩がピクリと跳ねた。腹の底から、理不尽に対する熱いものが込み上げてくる。 実加は深く頭を下げた。「お客様、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」「不快どころじゃない! 従業員の教育もまともにできていない掃き溜めホテルじゃないか! 黒崎社長の顔に泥を塗るような真似をしおって!」 心無い言葉が次々と投げつけられる。喉の奥がカラカラに乾いていた。 そ
同僚が、ためらいがちに翔吾の方へ近づいてくる。 いつもは軽口を叩く男が、今日はひどく強張った顔をしていた。「……翔吾さん。これ、見ましたか」 同僚は自分のタブレット端末を、翔吾のテーブルの上にそっと置いた。 画面には、実加が見たものと同じ週刊誌のWeb記事が表示されている。『アーク・リゾーツ社社長の母・真澄さんはギャンブル依存とアルコール依存の末に多額の借金を抱え、現在は行方不明』『社長の弟・黒崎翔吾さんは、父親が独身時代に交際していた女性――黒崎真澄さん――との間に生まれた子ども。当時、彼女は別の男性とも交際しており、まさに奔放な関係の末に生まれた子である』『アーク・リゾーツ社社長の黒崎隼人氏とは、同母・異父兄弟になる。つまり隼人氏にも問題の母親の血が流れている』 黒の太字で強調された文字の羅列が、直接脳内に流れ込んでくる。 翔吾の指先から一気に熱が引いていく感覚が走った。 先ほどまで頭の中にあった完璧なスケジュールが、あっという間に消し飛んだ。「……こんなの、何かの間違いですよね?」 同僚の探るような声が、ひどく遠くに聞こえる。 自分が、兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚点を付けてしまった。(僕のせいで。僕が兄さんを頼ったから) その思いが翔吾の心を蝕んだ。 周囲の音が急速に遠のき、自分の浅く早い呼吸音だけがやけに大きく耳に響くようだった。 翔吾はとっさにテーブルの端を強く握り、何とかその場に立ち留まった。 同僚への返事は、できなかった。◇ 記事の影響は、瞬く間にサンクチュアリの現場を侵食し始めた。 ロビーのフロントカウンターで、翔吾はキーボードを叩きながら、耳元のインカムマイクに手を当てた。「東館の清掃チーム、11時の段階でリネン交換に5分の遅れが出ています。西館からヘルプを2名
『現在も、彼女は同ホテルで清掃員として働いている。赤ん坊の我が子を社内保育所に預けっぱなしにするなど、育児放棄の疑いも持たれている』 ――育児放棄。 その言葉にギリッと奥歯が鳴った。 過去の愚かさは否定しない。男を見る目がなかったことも、特攻服を着てイキがっていたことも事実だ。 だが理玖のことは別だった。 さっきまで腕の中にあった、確かな重みと無邪気な笑顔が蘇る。 自分の食事を切り詰めてでも、あの子のミルクやおむつを優先してきた。 実加がシングルマザーになったのは、理玖の父親にあたる男が暴力を振るったからだ。 実加に対してだけであれば我慢できたし、反撃もした。 だが小さな理玖に手を挙げたのを見た瞬間、彼女は息子を連れて家を飛び出した。 それなのに。(育児放棄だと? ウチが、あの子を愛してないって……?) 視界の端がじわりと歪んだ。 育児放棄はしていない。 けれど過去の愚かな行いは事実だ。 小夜子や翔吾が作り上げた、この誇り高い『サンクチュアリ』という居場所とアーク・リゾーツというブランド。 彼女の過去という拭い切れない汚れが、それにべったりと張り付いてしまった。 喉の奥に熱く固い塊がせり上がり、実加は息をするのも忘れてその場に立ち尽くした。◇ アーク・リゾーツ本社の社員用ラウンジは、太陽の光をふんだんに取り込んだ明るい空間だ。 黒崎翔吾はいつもの窓際の席で、淹れたてのブラックコーヒーの入った紙コップを手にしていた。 適度な酸味と深いコクが鼻から喉へと抜けていく。 この一杯を飲みながら、タブレット端末で本日のチェックインのピーク時間、VIPの導線、スタッフの配置状況を確認する。 脳内で完璧なスケジュールを組み上げる、彼にとって欠かすことのできない朝のルーティンだった。 しかし、今日のラウンジは何かがおかしかった。
近々、正社員登用試験も控えている。 この小さな命を守るためなら、デッキブラシを握り続けることも慣れない専門用語を覚えることも、少しも苦ではない。 全てが順調。あとは実加自身の努力にかかっていた。ならばやり遂げるだけだ。(母ちゃん、今日も気合い入れてくるからな。いい子で待ってろよ) 理玖の背中をポンポンと叩き、実加は立ち上がった。◇「それでは実加さん、僕はここで」「おう。今日の仕事もお互い頑張ろうな」 出勤した実加は、翔吾と別れて従業員専用エリアのロッカールームへ入った。 壁際に並ぶスチールロッカーからは、芳香剤のフローラルな香りと、誰かが置き忘れた湿ったタオルの匂いが混ざり合って漂っている。「さて、着替えねえと」 実加が自分のロッカーを開けて、制服のブラウスに手を伸ばした時だった。 ジジッ、ジジッ。 バッグの中のスマートフォンが、短い振動を繰り返した。 実加は眉をひそめる。こんな朝早くに連絡が来る相手など、限られている。 保育所からの緊急の呼び出しでないことを祈りながら、画面をタップした。 表示されたのは、メッセージアプリの通知だった。 地元の昔の不良仲間たちで作った、今はほとんど動いていないグループチャットだ。『おい実加、これお前じゃね?www』『やばw 全国デビューおめ!』『サンクチュアリって、あの超高級ホテルの? お前、あんなとこで清掃やってんの?w』 嘲笑を含んだ短いメッセージの連投が、目に入る。 その後にニュースサイトのURLが貼り付けられていた。(なんだこれ。久々でこの言い草かよ) 実加は首を傾げながら、そのリンクをタップする。 画面が切り替わり、目に飛び込んできたのは、毒々しい赤黒いフォントで彩られた週刊誌のWeb記事だった。『アーク・リゾーツの闇! 若きエリート役員は奔放な関係の末に生まれた愛人の子』
朝の澄んだ空気が、社員寮の廊下を通り抜けていく。 山内実加は、重みのあるマザーズバッグを肩にかけて、生後7ヶ月になった理玖を両腕に抱え込んで歩いていた。「ほら、理玖。今日もいい天気だぞ」 ふっくらとした頬を指先でつつくと、理玖はきゃっきゃと声を上げて笑う。 実加の髪を、小さな手で掴んできた。「こらこら、髪を掴むな、髪を。いてーだろうが」 実加は息子の小さい指を優しく開いてやった。 理玖は日々成長している。 そうと実感するのは、実加の喜びだった。「理玖くんは今日も元気ですね」 隣を歩く黒崎翔吾が言う。 彼も指を赤ん坊に伸ばすと、しっかりと捕まってしまった。「指を握る力も強くなったのでは?」「なった、なった。チビは毎日成長しているもんなー!」「あう、あうー!」 3人は笑い合う。「実加さん。そのバッグ、重いでしょう。僕が持ちますよ」「いいんだよ。清掃道具に比べりゃどうってことないし」 他愛のない会話は信頼の証だ。 しばらく歩いて、社内保育所『こぐまの森』のドアを開ける。「おはようございます、山内さん。翔吾さんも」「おはようッス。今日もよろしくお願いします」「おはようございます」 顔なじみの保育士に挨拶を交わし、色鮮やかなジョイントマットの上に理玖を降ろした。 靴箱に荷物を押し込み、振り返る。 実加の視界の先で、理玖がこちらへ向かってきていた。 小さい手足を懸命に動かし、ハイハイで進んでくる。ほんの数週間前までは、うつ伏せでもがくだけだったのに、今ではけっこうな勢いの移動速度だ。「おっ、速い速い。お前、いつの間にそんなに動けるようになったんだよ」 実加は床に膝をつき、飛び込んできた小さな体を受け止めた。 ミルクとベビーパウダーの甘い匂いがする。じんわりと温かい体温が、ブラウス越しに伝わってくる。「山内さん、理玖くん本当に活
口では理屈を並べながらも、翔吾の脳裏にはあの肉厚な椎茸の香りが鮮明に蘇っていた。(確かに、あの野性味あふれる味は、この完璧な厨房では出せない。……認めたくはありませんがね)「へっ、相変わらず理屈っぽい野郎だ。でもさ」 実加はカレーを飲み込むと、スプーンを置いて正面から翔吾を見た。 その大きな瞳には、強い光が宿っている。「ウチ、決めたんだ。次の正社員登用試験、絶対に一発で受かってやる」 翔吾は箸の手を止めた。「小夜子師匠みたいにさ、目に見えないお客様の気持ちまで拾い上げられる、最高のホテルマンになるんだ。理玖に母ちゃんの仕事はかっこいいんだぞって、胸張って言いたいからさ」 力強い宣言だった。 彼女の手のひらには、デッキブラシを握り続けたことでできたマメの跡が残っている。 それは逃げずに戦い抜いた誇り高い証だ。「……あなたなら、合格圏内でしょう。現場での行動力は、既にマニュアル以上の付加価値を生み出していますから」 翔吾は視線を少しだけ下げ、味噌汁のお椀に手を伸ばした。「僕も、今の給与プランなら1年以内に借金を完済できます。そうすれば大学に復学できる。でも、ただ学生に戻るだけじゃありません」 翔吾は顔を上げて、実加の目を見返した。「この現場で学んだ『数値化できないおもてなし』を、僕なりの論理として体系化します。兄さんや小夜子さんの背中を追うだけじゃなく、新しいアーク・リゾーツの基盤を僕の計算式で作ってみせる」「おっ、言うねえ! インテリの逆襲ってやつか!」 実加が身を乗り出して笑う。「逆襲ではありません。システムのアップデートです。僕が黒崎社長と小夜子総支配人に逆襲するわけないでしょう」「あっはは! そりゃそうだ! 師匠に逆襲するとか、命がいくつあっても足りねえわ」 翔吾が答えると、実加は大きな声で笑った。 翔吾もふっと口元を緩めた。(山内実加。あなたが隣で無茶苦茶な行動を
「勝ち負けなど……私は、旦那様のお仕事のお邪魔にならないよう、掃除と在庫整理をしただけです」 今度は隼人が呆気にとられる番だった。「在庫整理だと? ……あれがか?」「はい。厨房は汚れていましたし、食材は余っておりましたので。家政婦として当然の処置をしたまでです」 小夜子は本気でそう思っている。彼女にとって今回の出来事は、少し規模の大きな「冷蔵庫の残り物整理」と変わらないのだ。 隼人はぽかんとして、そして低く笑い出した。「ククッ…
数日後の午前11時、アーク・リゾーツ本社、最上階にある大会議室。 窓の外には東京の摩天楼が広がっているが、室内の空気はピンと張り詰めていた。 重厚なテーブルを挟んで、隼人と大河原老人が向き合って座っている。傍らには顧問弁護士たちが控え、テーブルの上には分厚い契約書が置かれていた。 大河原老人は、契約書の最後のページに筆ペンで署名をした。そして実印を朱肉に押し付け、紙の上に運ぶ途中で手を止めた。「……黒崎社長。特約条項は、忘れておらんだろうな」 老人の鋭い視線が飛ぶ。隼人は動じることなく頷
「私の筆には、空腹と痛みの記憶が染み込んでいます。……だからこそ、絶対に間違えませんし、誰よりも美しい文字が書けるのです」 小夜子は静かに言った。生き残るために身につけた、悲しくも鋭い武器だった。 墨が、とろりと黒く光った。準備が整ったのだ。 小夜子は筆を取り、たっぷりと墨を含ませる。だが紙に向かう前に、隼人を見上げた。「旦那様。一つ、約束してください」「なんだ」「お庭の椿を、残すと」 隼人は顔をしかめた。「はあ? まだそんなことを言って
小山田の言葉には、心からの敬意がにじんでいた。 小夜子は困ったように微笑む。「そんな、大層なことではありません。私はただ……もったいないお化けが怖かっただけですから」「お化け、ですか?」「はい。実家では食べ物を粗末にすると、本当に怖いお化け……いえ、厳しい罰がありましたので」 小夜子の言葉に、小山田は涙ぐんだ顔でくしゃりと笑った。 厳しい罰というのを軽い冗談だと思ったようだ。「……かないませんな。これ