LOGIN白河邸の文字通りの崩壊から、数日が過ぎた。
アーク・リゾーツの社長室では、壁掛けのモニターが朝のニュースを映し出していた。
『――白河グループ前代表・白河清次郎容疑者らの逮捕を受け、世間からは被害者である黒崎小夜子氏への同情と称賛の声が高まっています。過酷な環境に屈せず、献身的に夫を支え続けた現代のシンデレラとして……』
画面には、隼人に抱きかかえられて屋敷を出る小夜子の写真が映っている。
緑たちが目論んだ「不義の子」というネガティブ・キャンペーンは、完全に裏目に出た。
世論は、理不尽な差別と虐待に耐えて、自らの才覚と誠実さで幸せを掴み取った小夜子を熱狂的に支持したのだ。さらに、妻を救うために重機で乗り込んだ隼人の行動も、「究極の愛」「男気がある」と好意的に受け止められた。
法律上は自分の所有建物を壊しただけで、けが人も出ていない。何ら問題ないとされた。アーク・リゾーツの株価は連日のストップ高を記録している。
「くだ
小夜子はパイプベッドの柱にブランケットの端を結びつけ、天井に向かってドレープ状に布を張り巡らせた。 無骨なベッドが、布の帳に覆われたテントのような空間に変貌する。「どうかしら。こうやって布で視線をさえぎれば、部屋の狭さも秘密基地のようなワクワク感に変わると思いませんか?」 実加は数秒間その空間を見つめ、豪快に笑った。「さすがっすね、師匠! 超一流の家政婦の腕前ってやつだ。これなら、ただの仮眠室が隠れ家に化ける」「まだありますよ。サイドテーブルに、アンティーク調の木製手挽きコーヒーミルと、小瓶に入れた最高級の焙煎豆、それから電気ケトルをセットしましょう。あえて自分の手で豆を挽くアナログな作業を、大人の遊びとして提供します」「なるほど、体験型のサービスってやつですね」 スタッフたちが頷いている。「さらに、革張りの小さなトランクケースを置いて。中にはミニボトルの洋酒と、葉巻に見立てたチョコレートを詰めてください。宝箱を開けるギミックです」「宝箱! そりゃあ童心に返るねえ。客の不満を驚きに変えるわけか」 実加はすっかり乗り気になっていた。 若いスタッフたちも、小夜子のアイディアに目を輝かせている。「時間がありません。チェックインの列をさばき切る前に、27室すべてをこの状態に仕上げるのよ」「任せてください。ウチの清掃チームの底力、見せてやるよ!」 実加がパンッと手を叩く。「さあみんな、聞いたとおりだ! 超特急で部屋を磨き上げるよ! 隠れ家プランのセットアップ開始!」「はい、チーフ!」 5人のスタッフが弾かれたように台車に群がり、シーツの束を抱えて各部屋へと散っていく。 実加自身もシーツを抱え、部屋の作り変えを始めた。 バサッ、とシーツが広がる音が地下の廊下に連続して響き始めた。 小夜子は次々と仮眠室のドアを開け、ランタンの配置場所を指示していく。(翔吾さんが時間を稼いでいる間に、完璧な裏舞台を作り上げるわ。システムが壊れても、私たちのおもてなしの技術
「お待たせしました、総支配人。指示通り、スイート用のリネン一式を持ってきましたよ」 実加は息を弾ませながら、台車を止めた。 彼女の顔には汗が滲み、プロとしての緊張感がみなぎっている。 小夜子は廊下に並ぶ30室の仮眠室のドアを指差した。「ありがとう。今からこの仮眠室のうち27室を、客室としてセットアップします」「客室?」 実加の隣にいた若い男性スタッフが、素頓狂な声を上げた。「総支配人、ここは従業員用の仮眠室ですよ。壁紙も剥がれかけているし、ベッドもパイプ製です。お客様を通す場所じゃありません」「現状ではそのとおりですね」 小夜子は彼らを見回し、明確な声で告げた。「エラーによるオーバーブッキングが起きました。部屋が足りないの。でも、お客様を路上に放り出すわけにはいきません」「だからって、ここを? クレームの嵐になりますよ!」 若いスタッフが食い下がる。 実加は彼を片手で制し、小夜子の目を見た。「総支配人が本気だってことは、顔を見れば分かるさ。でも、ただシーツを変えただけで誤魔化せる空間じゃない。どうするつもりだい?」「徹底的な空間演出を行います」 小夜子は最初の仮眠室のドアを開け放った。「それから、この部屋の蛍光灯のスイッチは、備品のファブリックボードを被せて隠します。裏面に粘着ラバーを貼れば、壁を傷つけずに固定できるわ。蛍光灯は絶対に使わせない」(せっかくの秘密基地気分が、味気ない蛍光灯の白い光で台無しになったら目も当てられない。つまらない現実は、手触りの良い布きれ一枚で覆い隠す) 小夜子は布張りのボードの縁を指先でなぞりながら指示を出した。 ざらりとしたアンティーク調の布地が、指の腹に心地よい。「照明はバックヤードの備品庫にある、バッテリー式の調光機能付きLEDランタンを使いましょう。暖色系の明かりに設定して、各部屋に3つずつ配置してちょうだい」「なるほど。スイッチをお洒落な絵で隠しつつ、薄暗くして壁のアラも誤魔化すんで
小夜子は部屋の中に入り、パイプベッドの縁に腰を下ろした。 ギシッ、と古いスプリングが軋む音を立てる。(マットレスが薄すぎる。もともと仮眠用ですものね。お客様にご案内できる代物じゃないわね) 小夜子は指先でグレーの毛布の繊維を撫でた。ごわごわとした硬い感触だ。 蛍光灯の光を見上げる。 ちらちらと瞬く青白い光は、この空間がいかに最低限で、ホスピタリティとは無縁の場所であるかを浮き彫りにしている。 ここを30組の客室として提供する。 普通に考えれば、暴動が起きかねない待遇だ。(壁とベッドがあるだけマシ。とてもそうは思えませんね。お金を払って日常を忘れに来たお客様に、裏側の現実をそのまま見せるわけにはいかないわ) 小夜子は立ち上がり、部屋の隅から隅までを歩き回りながら思考を巡らせた。 広さはどうにもならない。窓がないのも変えられない。 ならば、その閉鎖感を逆手に取るしかない。(小さくて隠された場所……。大人の秘密基地) 彼女の脳裏に1つの考えが閃いた。(そうよ。子供の頃に押し入れの中で毛布を被って遊んだような、あのワクワク感。非日常の極致を演出できれば、この無機質な空間は隠れ家に変わるはず) アイディアの輪郭が固まると同時に、小夜子はインカムのスイッチを入れた。「法務部へ。急ぎの仕事です。5分以内に『宿泊費全額免除およびバックヤード宿泊に関する同意書』の正式なひな型を作成してください。フロントの翔吾さんのタブレットにデータで送ること」『了解しました。直ちに作成します』 短い返事を聞き届け、小夜子は別のチャンネルに切り替える。「実加さん。聞こえますか?」『はい、総支配人。どうしました? フロントがえらい騒ぎになっているみたいですが』 インカム越しでも、実加の張り詰めた声が伝わってくる。「今すぐ清掃チームを5人集めて、地下の仮眠室エリアに来てください」『地下? 仮眠室ですか? 何かの間違いじゃなくて?
「はい。通常の客室とは異なる用途の空間となりますが、プライバシーが守られ、ベッドと空調を完備した安全な場所です。もちろん、迷惑料として次回以降お使いいただけるスイートルーム無料宿泊券もお渡しいたします。ご納得いただける場合、こちらの同意書に電子サインをお願いいたします」 翔吾は、タブレットに簡易同意書フォーマットを表示させた。 法務部が急ピッチで作成したものだ。 これは簡易版だが、すぐに完成版が送られてくる予定だった。「サインをいただけない場合、全額返金のみの対応となり、お客様ご自身で今夜の寝床を探していただくことになります。いかがなさいますか?」 理路整然とした説明と、逃げ道のない二択。 感情をぶつける隙を全く与えない翔吾の対応に、男性は数秒の間沈黙した。「……サインすれば、タダで泊まれて、次回のチケットももらえるんだな」「その通りです」 男性はため息をつき、タブレットに指でサインを書き込んだ。(見事な火消しね。相手の感情に寄り添う共感のプロセスを完全に飛ばして、データと損得勘定だけでクールダウンさせたわ。愛想の良さはないけれど、あの鋼のメンタルとデジタルツールの使いこなしは流石ね) 小夜子は内心で翔吾の手腕を高く評価した。 翔吾はもともと、感情面の表現が下手だ。その代わりに理論とシステムを使いこなす。 サンクチュアリで働き始めて既に数年、彼は自分の強みと弱みをしっかりと理解している。 だからこそ愛想笑いはせず、かといって無愛想にはならず、理屈で客を納得させてみせた。 翔吾は次の客、怒っていたカップルの前にタブレットを差し出している。「お客様。状況をご説明いたします」 彼の事実提示は不安に駆られる客たちに対して、安心感を与え始めていた。 翔吾が最前線の防波堤となり、時間を稼いだ。◇◇ 小夜子はフロントエリアから踵を返し、ホテルの深部へと歩き出した。 彼女が向かうのは、バックヤードの地下であ
「お客様。大変長らくお待たせいたしました」 翔吾の声は怒声が飛び交うロビーにあって、ごく冷静に響いた。 愛想笑いはない。彼の表情は、ごく平静で落ち着いている。「待たせた理由を説明しろ。部屋はどこだ」 男性が翔吾を睨みつける。 翔吾はタブレットのを素早く指で弾き、画面を男性の目の前に差し出した。「結論から申し上げます。現在、当ホテルにお客様をご案内できる空室は存在いたしません」「……はあ?」 男性の動きが止まった。 予想外の言葉に、怒りよりも困惑が勝ったようだ。 カップルの男や家族連れの父親も、怪訝な顔で翔吾に注目する。 翔吾は画面に表示されたデータを指差す。「当ホテルの予約管理システムと、お客様がご利用になられたオンライン予約サイトとの間で、深刻な同期エラーが発生いたしました。そのため、満室であるにもかかわらず架空の空室が販売され続けた結果です」「ふざけるな! やっぱりそっちのミスだろうが。別のホテルを手配しろ!」 男性が再び声を張り上げる。 しかし翔吾は落ち着いた態度のまま、タブレットの画面をスワイプした。「不可能です」「は? 不可能だと?」「こちらをご覧ください。半径10キロ圏内にある同クラス以上の宿泊施設、合計120件の現在の稼働率データです。すべて100パーセント。空室ゼロです」 画面には、広域マップ上に赤い文字で「満室」のアイコンがびっしりと並んでいる。「本日は市内で大規模なコンサートと国際学会が重複しており、周辺のホテルは数ヶ月前からすべて埋まっております。タクシーや電車の運行状況は平常ですが、今から他県へ移動していただいても、本日の宿泊先を見つけるのは極めて困難です」 事実とデータだけを並べる翔吾の説明に、絶望的な状況を感じたのだろう。男性の顔からスッと血の気が引いた。 カップルの女の方が、彼氏の腕にしがみつく。「じゃあ、俺たちはどうなるんだ。野宿しろとでも言うのか」
午後3時15分、サンクチュアリの一階メインロビーは、かつてない異常な熱を帯びていた。 高い天井から吊るされた巨大なクリスタルガラスのシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に光の粒を落としている。 ここは本来であれば、静寂と百合の芳香に満ちた優雅な空間である。 けれど今のロビーは、チェックインを待つ30組以上の客であふれ返っていた。 空調は最大出力で稼働している。 それでも密集した人々の体温と苛立ちが、空間の温度を押し上げているようだった。 汗の匂いと様々な香水が混ざり合い、ホテルの上品なシトラスの香りを完全に追いやってしまっている。「いつまで待たせるんだ! さっきから全然列が進んでいないじゃないか!」 先頭に立つ中年のスーツ姿の男性客が、フロントカウンターを手のひらで強く叩いた。 バン、という鈍い音が広いロビーに反響する。 フロントスタッフの若い女性が、顔から血の気を引かせて深く頭を下げた。「申し訳ございません。現在、ご予約の確認に手間取っておりまして……」「手間取っているとはどういうことだ。こっちは長旅で疲れているんだ。早く部屋の鍵を渡せ!」 男性は首元に巻いたシルクのネクタイを荒々しく緩めた。 彼の背後でも、キャリーケースの車輪を床に擦りつける音や、苛立った舌打ちの音が波紋のように広がっていく。 派手な服装をした若いカップルの男の方が、腕を組んで声を荒らげた。「おいおい、予約は数ヶ月前から完了してるんだぞ。システムのエラーだか何だか知らないが、そっちのミスだろうが。早く部屋に通してくれよ」 ぐずぐずと泣き出しそうな幼い子供の手を引く家族連れも、疲労困憊の表情でフロントを睨みつけている。「よしよし、疲れたね。早く部屋に入りたいのに……」 小夜子はフロントの奥、バックオフィスのドアの隙間からその惨状を観察していた。 システムエラーによる、30組の大規模オーバーブッキング。 満室の現状、客室は1つ