LOGINその体を、横から伸びてきた手がしっかりと支えた。
「ご安心くださいませ」
小夜子だった。2階から瞬時に駆け下りて駆けつけ、絶妙なタイミングで夫人の腕をホールドしたのだ。
「アーク・リゾーツの威信にかけて、お坊様は必ず見つけ出します。どうぞVIPラウンジにてお待ちください。心を落ち着かせるカモミールとラベンダーの極上ハーブティーをご用意しておりますので」
小夜子の凛とした声と、自信に満ちた瞳。
夫人はその存在感に当てられて、素直にこくりと頷いた。 小夜子は手振りで他のスタッフに合図を送り、夫人をラウンジへ誘導させる。夫人の姿が見えなくなると、小夜子は翔吾に向き直った。
「翔吾さん。母親の恐怖心に、数字だけのデータは響きません。あなたはただちに防災センターの監視カメラ室へ行きなさい」
「……はい。申し訳ありません」
翔吾はうつむきかけた顔を上げて、足早にロビーを後にした。
彼の背中には、前回の「AI小夜子の提案に、実加の顔がパァッと明るくなった。「マジっスか!? やったー! チビが来るなら、もっと気合い入れて掃除しねえと!」 先ほどまでの寂しさは吹き飛び、実加の瞳に活力が戻る。 ずっと押し隠していたけれど、実加は小さな息子のことを心配していた。会いたくてたまらない気持ちを、仕事をやり遂げるために抑えていたのだ。 小夜子は小さく頷くと、帳場の方へと視線を向けた。「さて、私と実加さんのサポートはここまでです。ここから先は、彼に任せましょう」◇ 帳場の奥。翔吾の頭脳はフル回転で稼働していた。 タブレットの画面には、全客室の滞在状況と、食堂の利用時間が細かなグラフとなって表示されている。(若年層のグループ客は、17時30分から19時の間に夕食をとる傾向が極めて強い。ならば、その時間帯の露天風呂の利用率は、限りなくゼロに近づく) 翔吾の指先が画面を滑る。 計算式が組み上がり、1つの完璧なタイムスケジュールが導き出された。「番頭さん!」 翔吾が鋭く声をかけると、奥で帳簿をつけていた番頭が顔を出した。「なんだい、若旦那」「18時から18時40分までの間、露天風呂を『貸切風呂』に設定します。先ほどの赤ちゃん連れのご家族をご案内してください」 番頭が目を見開いた。「貸切かい? そりゃあいいが、今からお知らせを出すのは大変だぞ」「問題ありません。ロビーのデジタル掲示板と、客室の案内用タブレットの表示を一括で書き換えます。他の客の動線は、僕がフロントでコントロールします」 翔吾はキーボードを叩きながら、さらに指示を重ねた。「それから、露天風呂の湯温です。赤ちゃんの肌には、通常の設定温度では高すぎます。源泉のバルブを絞り、一時的に38度まで下げてください」「なるほど、そいつは気が利くね。すぐに行くよ!」 番頭が足早に大浴場へと向かう。 翔吾は次に、内線の受話器を取った。厨
同時に、小夜子が夫婦と赤ん坊を部屋に案内する。 赤ん坊はまだ大声で泣き続けていたが、周囲の客も賑やかだ。さほど誰も気にしていない。 数分後、実加が客室に運び込んだのは、大量の追加タオル、おむつ専用の密閉ゴミ箱。 そして、畳の上に敷くための柔らかいジョイントマットだった。「赤ちゃん連れだと、荷物が多くて大変ッスよね。タオルとお尻拭きはいくらでも追加するんで、遠慮なく言ってください!」 実加が手際よくマットを敷きながら言うと、母親の瞳からポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。「……ありがとうございます。ずっと、周りに気を遣ってばかりで……。こんなに優しくしてもらったの、久しぶりです」 泣き疲れた赤ん坊が、母親の胸の中でスヤスヤと眠り始めた。 実加はしゃがみ込み、赤ん坊の柔らかい頬を指先でそっと撫でた。 小さく温かい感触が、指先から伝わってくる。「あー、可愛いな……」 実加の口から、無意識のうちに呟きが漏れた。「むにゃ……」 赤ん坊が寝言のように小さく笑う。 その無邪気な寝顔を見つめていると、実加の心にある感情が押し寄せてきた。(チビ……元気にしてるかな) 実加は目を伏せた。 このせせらぎ亭に出張してきてから、もう何日も息子の理玖に会っていない。 アーク・リゾーツ社内の保育所は、24時間営業だ。 ホテル業務は日勤と夜勤があるので、従業員たちの子を預かる保育所は、自然とそうなった。 今は保育士が増員されて、余裕のある人員で運営されている。 理玖はその保育所「こぐまの森」で、毎日元気に過ごしている。 保育士が日々の様子を写真付きで送ってくれるから、何も心配はいらないと自分に言い聞かせてきた。 けれど目の前の赤ん坊の温もりに触れた瞬間、寂しさが堰を切ったようにあふれ出してしまった。「そ
大きな声の出どころは、隅のソファーに座る一組の家族連れだった。若い夫婦と、抱っこ紐の中にいる生後半年ほどの赤ん坊だ。その子が顔を真っ赤にして泣いている。 翔吾は瞬時に手元の端末で予約データを照会した。(あのお客様は……1ヶ月前に予約を入れている。SNSのバズ効果で集まった若者層ではない) 彼らは恐らく、落ち着ける静かな山奥の温泉宿を求めてやって来たのだ。 しかし蓋を開けてみれば、館内は若者たちであふれ返っている。 普段とは違う環境の熱気と騒がしさに、赤ん坊が敏感に反応して泣き出してしまったに違いない。◇「ご、ごめんなさい、すぐ泣き止ませますから……っ」 若い母親が、顔を真っ赤にして立ち上がった。 彼女は周囲の客に何度も頭を下げながら、必死に赤ん坊をあやしている。額にはじわりと汗が浮かび、瞬きを繰り返す瞳は今にも涙が溢れそうだった。 父親の方も、気まずそうに周囲へ会釈をしながら荷物を抱え直している。「あ、あの、すみません! 外の空気を吸わせてきます!」 母親が逃げるように玄関へ向かおうとした、その時。「待ってください、お客さん!」 実加が持っていた荷物を床に置いて、真っ先に夫婦の元へ駆け寄った。 彼女の胸の奥は、ぎゅっと締め付けられていた。 パニックになり、周囲の視線を気にして何度も頭を下げる母親の姿。 それは理玖を抱えて肩身の狭い思いをしていた、かつての自分自身の姿そのものだったからだ。(周りの目が突き刺さる感覚。誰かに怒られるんじゃないかっていう恐怖。……痛いほど分かる)「外なんて行かなくていいッスよ。せっかく温泉に来たんだから、ゆっくりしていってください」 実加は母親の前に立ち、ニカッと笑いかけた。 少し乱暴だが裏表のない笑顔だった。「でも、赤ちゃんが泣いてご迷惑を…&hell
ついに土曜日がやって来た。 午後、せせらぎ亭の帳場は、かつてないほどの熱気とにぎやかさに包まれていた。 玄関の引き戸が開くたびに、キャリーケースの車輪が転がる音と、若者たちの弾むような話し声がロビーに流れ込んでくる。「うわっ、本当にレトロ! エモい!」「写真撮ろうぜ。あの和紙の壁紙、めっちゃ雰囲気ある」「昭和レトロって感じ。でも汚くないし、居心地いい!」 スマートフォンを片手に、大学生のグループが館内を見渡している。 誰もが楽しげな様子だった。 彼らの視線の先には、従業員全員で急ピッチで張り替えた真っ白な障子と、味わい深い漆喰の壁がある。 老朽化による「ボロさ」は、見事に「ノスタルジックな趣き」へと変換されていた。「お風呂も楽しみだよねー。露天風呂は絶景なんでしょ?」「あー、あのSNSに出ていた写真ね! 後で行ってみよう」 若者たちは実に楽しそうにしている。 黒崎翔吾はフロントカウンターに立ち、タブレット端末を流れるように操作していた。「302号室のお客様、ご案内をお願いします。続いて205号室のグループ、夕食の時間を18時30分に設定。大浴場の混雑予測データを更新します」 翔吾の口からは、的確な指示が飛び出した。「はい! お客様、こちらへどうぞ」 それを受けた仲居たちが、小走りで客を部屋へと案内していく。 彼女たちの顔には疲労の色もあったが、それ以上に、久しぶりの満室という活気を喜んでいる。自然と笑みがこぼれていた。「お荷物、お運びしますぜ!」 山内実加が、大きなボストンバッグを両手に提げてロビーを駆け抜ける。 金髪のメッシュを揺らしながら、持ち前の体力で次々と客の荷物をさばいていく。 彼女のパワフルな姿は、すっかり旅館の景色の一部として馴染んでいた。(オペレーションは完璧だ。お客様の不満を示すデータは、今のところ一切検出されていない) 翔吾は眼鏡の位置を直し、小さく息を吐いた。 昨日の
「そうよ。私たちのおもてなしが、ロボットなんかに負けるわけないわ」 番頭も板前も、仲居たちも。 従業員たちの瞳に、再び強い光が戻ってきた。 御子柴の書類は誰にも顧みられず、もはやただの紙切れとしてテーブルに放置されている。「チッ……」 御子柴は忌々しげに舌打ちをした。「愚かな。数字の出せない感情論など、ビジネスにおいてはゴミに等しい。沈む船で仲間ごっこでも楽しむがいい」 御子柴が彼らに背を向け、車へ向かおうとした時。「御子柴様」 小夜子の澄んだ声が、彼の背中を打った。 御子柴が無言で足を止める。「明日、満室となったこの宿がどのような数字を叩き出すか、とくとご覧にいれましょう」 小夜子は一歩前に出て、堂々たる態度で宣言した。「私たちの『おもてなし』は、人の心を動かし、AIには決して弾き出せない価値を生み出します。それを証明してご覧に入れますわ」 その言葉には一切の迷いがない。最強の女将としての確固たる自信が満ちていた。 御子柴は振り返らないまま、冷たく言い放つ。「……せいぜい足掻くがいい。どうせ何をやっても無駄だがな」 黒服の運転手がドアを開けた。御子柴が車に乗り込む。 重苦しい音を立ててドアが閉まる。高級車は玉砂利を蹴散らしながら、来た時と同じように猛スピードで走り去っていった。 赤いテールランプが見えなくなるまで、誰も口を開かなかった。 やがてエンジン音が完全に聞こえなくなると、実加が大きく息を吐き出した。「あー、ムカつく野郎だったな! あの余裕ぶった顔、明日でギャフンと言わせてやる!」「ギャフン、は古いですね。同年代で言っている人を初めて見ました。……ですが、感情論で終わらせるつもりはありません」 翔吾はタブレットを拾い上げ、画面の汚れを丁寧に拭き取った。「明日のオペレーションを再度確認します。1秒の無駄も許しま
「インテリ……嘘だろ……」 翔吾の指先の名刺を見て、実加の声がかすれる。彼女の目に、失望の色が広がりそうになった。 翔吾は名刺を目の高さまで持ち上げた。 夕日の赤い光が、名刺の白い紙面を染めている。 翔吾の脳裏に浮かんだのは、完璧な計算式でも最新のAIでもなかった。 実加が汗流しながらデッキブラシを振るう姿。 番頭が年季の入ったコテで壁を綺麗に塗り上げていく手つき。 仲居たちが嬉しそうに廊下を磨く背中。 板前が自分の包丁を誇らしげに見つめる横顔。 そして小夜子が客に向けて見せる、あの柔らかで絶対の安心感を与える微笑み。(彼らの行動は、決して無駄なままごとじゃない) 翔吾は深く息を吸い込んだ。 肺の奥まで、里山の澄んだ空気が満ちていく。 自然の土や樹木の香りが、御子柴の人工香水の匂いを洗い流してくれるようだった。(論理や効率だけでは導き出せない答えが、ここにはあるんだ) 翔吾は両手で名刺を掴んだ。 そして。 ビリッ。 静かな空間に、紙の裂ける音がはっきりと響いた。「なっ……」 御子柴の目が、わずかに見開かれた。 翔吾は名刺を真っ二つに破り裂き、そのまま躊躇なく地面へと落とした。 2つの紙片がひらひらと落ちて、土の上に転がる。「あなたの計算式には、最大の変数が欠落しています」 翔吾は真っ向から、御子柴の氷のような眼光を睨み返した。「……変数だと?」「ええ。それは『人間の熱』です」 翔吾の言葉は、はっきりと力強く、その場にいる全員の耳に届いた。「あなたが無駄だと切り捨てる感情や情熱が、どれほどのエネルギーを生み出し、不可能を可能にするか。僕は今日、この目で確かめました」 翔吾は実加を見た。彼女は驚きで目を丸くしたまま、翔吾を見つめ返
バンッ! 乾いた音が、アーク・リゾーツ社長室の空気に響いた。黒崎隼人がタブレット端末をデスクに叩きつけたのだ。「あり得ん」 彼は眉間に深いしわを刻み、低い声で唸った。「幽霊だと? 21世紀のこの時代に、そんな非科学的な理由で稼働率が30パーセントも落ちるなど……断じてあり得ん!」 隼人のタブレットには、傘下のビジネスホテル『アーク・イン品川』のクチコミ画面が映っている。 彼は怒りを隠そうともせず、タブレットを睨みつけた。『アーク・イン品川』は先日リニューアルオープンし
証拠は揃った。 ペーパーカンパニーへの架空発注。横領。私的流用。被害総額は億単位に上るだろう。隼人は受話器に手を伸ばした。「警察に通報する。業務上横領で逮捕させてやる」「お待ちください」 小夜子が、その手を上から押さえた。ひやりとするほど冷たい手だった。「警察沙汰にすれば、ホテルの信用に関わります。スキャンダルになれば株価も下がりますわ。それでは旦那様の損になります」「……では、見逃せと言うのか?」「いいえ。もっと合理的で、残酷な方法がございます」 小夜子は薄く微
「待て、小夜子。お祓いなどする必要はない。そんな非科学的なことよりも、これを見ろ」 隼人は勝ち誇ったように、携帯型の空気質測定器を小夜子の目の前に突きつけた。液晶画面には緑色のランプが点灯し、全ての数値は安全圏を示している。「見ろ。総揮発性有機化合物もホルムアルデヒドも、基準値を大幅に下回っている。PM2.5に至ってはゼロに近い。測定できるあらゆる数値が、ここを安全だと示している」 彼は測定器を振ってみせた。「お前の言う『敵』など、どこにもいない。まして幽靈など存在するはずがない。鼻が過敏になっているだけじゃないのか?」
(痛い……!) 臭い、ではない。痛いのだ。目に見えない無数の針が、鼻腔の奥を突き刺してくる感覚。 生ゴミの腐敗臭でも排水溝のドブ臭さでもない。もっと人工的で無機質な刺激。小夜子は目を細めて、部屋の中を見渡した。 シングルベッド、デスク、壁掛けのテレビ。真新しい調度品が整然と並んでいる。 窓からは午後の日差しが差し込み、明るく清潔に見える。「どうだ」 隼人が部屋の中央で両手を広げた。「何も感じないぞ。空気清浄機のモニターを見ろ。PM2.5もハウスダストも、数値