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241:山奥の宿

last update 公開日: 2026-04-08 06:41:04

 深い山道を、年季の入ったローカルバスがエンジンを唸らせながら登っていく。

 翔吾と実加の出張先、アーク・リゾーツ社が買収したばかりの山奥の旅館に向かうバスである。

 バスの乗客は翔吾と実加の他に、ほんの数人程度。実に閑散としていた。

 山道は狭く、つづら折りが続く。

 急カーブのたびに車体が大きく揺れる。その度に翔吾は眉間を押さえて小さく呻いた。

「……うっぷ」

「おいインテリ、顔色やべーぞ。エチケット袋いるか?」

 隣の席から、山内実加がニヤニヤしながら覗き込んでくる。

 実加は車酔いに強い体質のようで、揺れる山道でも余裕の表情だ。

「結構です……。話しかけないでください、吐き気が増します」

 翔吾は青白い顔で視線をタブレット端末に戻した。

 画面には、アーク・リゾーツが買収した旅館『せせらぎ亭』の経営データが表示されている。

 それを覗き込んで、実加が小首を傾げた。

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    「お客様。大変長らくお待たせいたしました」 翔吾の声は怒声が飛び交うロビーにあって、ごく冷静に響いた。 愛想笑いはない。彼の表情は、ごく平静で落ち着いている。「待たせた理由を説明しろ。部屋はどこだ」 男性が翔吾を睨みつける。 翔吾はタブレットのを素早く指で弾き、画面を男性の目の前に差し出した。「結論から申し上げます。現在、当ホテルにお客様をご案内できる空室は存在いたしません」「……はあ?」 男性の動きが止まった。 予想外の言葉に、怒りよりも困惑が勝ったようだ。 カップルの男や家族連れの父親も、怪訝な顔で翔吾に注目する。 翔吾は画面に表示されたデータを指差す。「当ホテルの予約管理システムと、お客様がご利用になられたオンライン予約サイトとの間で、深刻な同期エラーが発生いたしました。そのため、満室であるにもかかわらず架空の空室が販売され続けた結果です」「ふざけるな! やっぱりそっちのミスだろうが。別のホテルを手配しろ!」 男性が再び声を張り上げる。 しかし翔吾は落ち着いた態度のまま、タブレットの画面をスワイプした。「不可能です」「は? 不可能だと?」「こちらをご覧ください。半径10キロ圏内にある同クラス以上の宿泊施設、合計120件の現在の稼働率データです。すべて100パーセント。空室ゼロです」 画面には、広域マップ上に赤い文字で「満室」のアイコンがびっしりと並んでいる。「本日は市内で大規模なコンサートと国際学会が重複しており、周辺のホテルは数ヶ月前からすべて埋まっております。タクシーや電車の運行状況は平常ですが、今から他県へ移動していただいても、本日の宿泊先を見つけるのは極めて困難です」 事実とデータだけを並べる翔吾の説明に、絶望的な状況を感じたのだろう。男性の顔からスッと血の気が引いた。 カップルの女の方が、彼氏の腕にしがみつく。「じゃあ、俺たちはどうなるんだ。野宿しろとでも言うのか」

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     午後3時15分、サンクチュアリの一階メインロビーは、かつてない異常な熱を帯びていた。 高い天井から吊るされた巨大なクリスタルガラスのシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に光の粒を落としている。 ここは本来であれば、静寂と百合の芳香に満ちた優雅な空間である。 けれど今のロビーは、チェックインを待つ30組以上の客であふれ返っていた。 空調は最大出力で稼働している。 それでも密集した人々の体温と苛立ちが、空間の温度を押し上げているようだった。 汗の匂いと様々な香水が混ざり合い、ホテルの上品なシトラスの香りを完全に追いやってしまっている。「いつまで待たせるんだ! さっきから全然列が進んでいないじゃないか!」 先頭に立つ中年のスーツ姿の男性客が、フロントカウンターを手のひらで強く叩いた。 バン、という鈍い音が広いロビーに反響する。 フロントスタッフの若い女性が、顔から血の気を引かせて深く頭を下げた。「申し訳ございません。現在、ご予約の確認に手間取っておりまして……」「手間取っているとはどういうことだ。こっちは長旅で疲れているんだ。早く部屋の鍵を渡せ!」 男性は首元に巻いたシルクのネクタイを荒々しく緩めた。 彼の背後でも、キャリーケースの車輪を床に擦りつける音や、苛立った舌打ちの音が波紋のように広がっていく。 派手な服装をした若いカップルの男の方が、腕を組んで声を荒らげた。「おいおい、予約は数ヶ月前から完了してるんだぞ。システムのエラーだか何だか知らないが、そっちのミスだろうが。早く部屋に通してくれよ」 ぐずぐずと泣き出しそうな幼い子供の手を引く家族連れも、疲労困憊の表情でフロントを睨みつけている。「よしよし、疲れたね。早く部屋に入りたいのに……」 小夜子はフロントの奥、バックオフィスのドアの隙間からその惨状を観察していた。 システムエラーによる、30組の大規模オーバーブッキング。 満室の現状、客室は1つ

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     小夜子は脳内でホテル内の平面図を高速で展開した。 客室はゼロ。レストランの個室は宿泊には適さない。宴会場は広すぎる上にプライベート空間の確保が不可能だ。 どこか。どこかに、屋根と壁があり、プライバシーが守られ、空調が効く空間はないか。 小夜子の視線が、バックヤードの奥へ続く廊下に向いた。 その先には、夜勤スタッフや早朝出勤のスタッフが使用する従業員用の仮眠室がある。 防音設備は完璧だ。 広さもビジネスホテルのシングルルーム程度はある。シャワーブースも備え付けられている。 しかし、そこはあくまで「従業員用」の裏の空間である。 装飾のない殺風景な壁と、実用性だけを求めた質素なパイプベッドが置かれているだけだ。 サンクチュアリが誇る非日常の空間とは程遠い。(やるしかない。お客様を放り出すよりはマシです。あの空間を、私の手で客室に引き上げる) 小夜子は深く息を吸い込んだ。「翔吾さん。あなたはすぐにフロントに出てください。不満を抱え始めたお客様の前に立ちなさい。愛想笑いは必要ありません。あなたの得意なデータと論理で、現状を説明するのです。全額返金と代替案の提示を約束して時間を稼いでください。その間に私が手を打ちましょう」「分かりました。僕が盾になります」 翔吾は自作のマクロを仕込んだタブレットを小脇に抱え、立ち上がった。 絶望的な状況だが、小夜子が手を打つと言った。その信頼が彼を支えている。「私はこれから、従業員用の仮眠室を27室の客室へ変えます。法務に連絡して、『宿泊費全額免除およびバックヤード宿泊に関する同意書』のひな型を作ってください。5分でお願いしますね。印刷してフロントに回すのよ」「仮眠室を、ですか? 正気ですか」 翔吾がわずかに目を見張った。「正気ですとも。ただの仮眠室で終わらせるつもりはありません。……ここはサンクチュアリ。どんな空間であれ、私が最高のおもてなしの場所に変えてみせます」 小夜子は微笑みを浮かべたまま、インカムのスイッ

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    「検討の時間は与えられません。お客様は今まさに当ホテルのエントランスに到着されようとしています。もし5分以内に全額補填の確約が得られない場合、我々はロビーでお待ちのお客様全員に対し、『御社のシステム障害により部屋がご用意できない』と事実のみを説明します。ログデータも開示します。SNSでどのように拡散されるか、想像に難くないでしょう。御社のブランド価値と、代替費用。どちらを天秤にかけるか、今すぐ決断してください」 圧倒的なスピードと隙のない交渉術だった。 小夜子は隼人の横顔を見つめながら、その手腕に息を吐いた。 数秒の沈黙の後、電話口の役員が屈服する声が聞こえた。「確約をいただきました。後ほど録音データとともに念書をお送りします」 隼人は通話を切ると、小夜子に向き直った。「金の問題は解決した。客に支払う迷惑料も、代替手配の費用も、すべて向こう持ちだ。好きに使え」「ありがとうございます。ですが社長」 小夜子は手元のバインダーを強く握りこんだ。紙の束の感触が手のひらに伝わる。「お金があっても、お客様に提供する『部屋』がありません。周辺ホテルも満室です。今から仮設のベッドを空き地に建てるわけにもいきません」「分かっている。だが、そこをどうにかするのが、君たち現場の仕事だろう」 隼人の言葉は冷たいようでいて、同時に小夜子への強い信頼が含まれていた。「翔吾さん」 小夜子は隣のデスクに声をかけた。「予備としてブロックしてあるVIP用のスイートルームは、何部屋ありますか?」「ロイヤルスイートが1部屋、エグゼクティブスイートが2部屋です。清掃とセットアップは完了しています」「その3室を解放します。到着順で、特に遠方からお越しのお客様から優先してアップグレードを打診して。超過予約30組のうち、3組はこれでカバーできます」 小夜子もまた、即断で判断を下した。迷っている時間はもうない。「了解しました。しかし、残り27組はどうしますか」 翔吾がタブレットの画面を指で弾きながら問う。

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     逃げ道が塞がれていく。他ホテルへの振り替え、いわゆる「ウォーク」という手段が使えない。「チェックインを一時停止させます。まだ事情を知らないお客様をフロントに通すわけにはいかない」 小夜子がインカムに手を伸ばし、全スタッフへ指示を飛ばそうとした瞬間だった。 バックオフィスの重たい防音ドアが開いた。「事態の報告は受けている」 低い声とともに現れたのは、アーク・リゾーツ社社長の隼人だった。 上質なネイビーのスーツを身に纏い、その足取りには迷いがない。 手首で冷たい光を放つ金属製の腕時計が、今の時刻が午後3時ちょうどであることを示していた。チェックイン開始の時刻だ。「社長。チャネルマネージャーの同期エラーにより、30組の超過予約が発生しました。周辺ホテルへの振り替えは不可能です」 小夜子が簡潔に事実だけを告げると、隼人はわずかに顎を引いた。「システム側の不具合か」「はい」 翔吾がタブレット端末を差し出した。「外部システム連携のアクセスログです。こちらからの送信履歴と、先方での受信拒否エラーの記録はすべて確保しています。当ホテル側の設定ミスではありません」「上出来だ」 隼人はタブレットを受け取ると、そのまま自身のスマートフォンを取り出した。 迷うことなく、画面を数回タップして耳に当てる。「アーク・リゾーツの黒崎隼人だ。御社の担当役員に繋げ。今すぐだ。会議中? 関係ない、当ホテルの信用に関わる重大なインシデントが発生していると伝えろ」 冷静に事実だけを並べる声がオフィスに響く。 電話口の相手が慌てふためいている気配が、スピーカーの音漏れからでも察せられた。 数秒の保留音の後、相手が代わったようだ。「お世話になっております。単刀直入に申し上げます。御社のシステムの不具合により、当サンクチュアリにおいて30組の架空予約が成立しました」 隼人の声には一切の感情が混じっていない。ただ、事実を刃物のように突きつけていく。「当方のチ

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    「はい。複数のオンライン宿泊予約サイト、いわゆるOTAから新規の予約データが次々とPMSに落ちてきています。今日の宿泊分です」 小夜子の眉が自然と寄った。「今日の予約? それはあり得ませんね。今日は全室満室のはずでしょう。2日前には全販売チャネルでストップ通知を出したはずですが」「ええ、我々のシステムからは間違いなくストップ通知を出しています」 翔吾は自分のノートパソコンを手元に引き寄せて、画面をいくつかのウィンドウで分割した。 黒い背景に白い文字が滝のように流れる画面を展開する。「うちの予約システムと、外部の宿泊予約サイトを繋ぐ管理ソフトの記録を確認しました。こちらからは『満室だから販売を停止してくれ』という信号を正常に出しています。ですが、特定の予約サイト側のシステムがそれを弾いているんです。データの受け渡し部分でエラーが起きていて、向こうの画面上では当ホテルにまだ空室が大量にあることになっています」「エラーで販売が継続されているということ?」 小夜子はディスプレイに視線を落とした。 翔吾が開いた管理者画面には、信じがたい数字が並んでいる。 通知音とともに、目の前で「新規予約」のポップアップが次々と追加されていく。「現在確認できるだけで、超過予約は30組。人数にして60名強です。そして、今この瞬間も増え続けています」「30組……なんてこと」 小夜子の指先からすっと血の気が引いていくのが分かった。 30組のオーバーブッキング。ホテル運営において、これほどの致命傷はない。 すでに部屋の余裕はないのだ。 物理的な空間が存在しないのに、客は予約完了のメールを握りしめてもうすぐこのエントランスにやってくる。(いいえ、システムを恨んでも部屋は降ってこないわ。物理的な空間がないなら、今あるもので作るしかない) 小夜子は瞬時に思考を切り替えた。パニックを起こしている暇はない。「翔吾さん、すぐにその外部の担当者に連絡を入れて、販売を強制的に遮断してもらえますか。手動で

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