Masuk白河邸の地下にあるランドリールームは、湿った空気に満たされていた。換気扇が重苦しい音を立てて回っているが、熱気は逃げていかない。
充満しているのは、洗剤の清潔な香りと、それをねじ伏せるような濃厚な香水の残り香。そして脱ぎ捨てられた衣類から漂う、わずかな体臭が混じり合った独特の空気だ。小夜子は業務用の大きなアイロン台の前に立ち、無心に手を動かしていた。
時刻は午前6時。 家族から家政婦のように、否、無料の家政婦そのものとして扱われている小夜子は、今日も無言で家事を行っていた。目の前には、昨夜のパーティーで義母や義姉の麗華が着用した、山のようなドレスやブラウスが積まれている。
シルク、レース、ベルベット。どれもクリーニング店でも扱いを嫌がるような繊細な素材ばかりだ。 小夜子はシルクのブラウスをアイロン台に広げると、その上に木綿の当て布をそっと被せた。(温度は低温。……焦がさないように、慎重に)
スチームは使わない。水分は絹を縮ませ、シミを作る原因になるからだ。
大きなアイロンを持ち上げる腕は、鉛のように重い。それでも、小夜子の手つきは職人のように丁寧だった。温まったアイロンの底を、当て布の上から滑らせる。スス、という衣擦れの音と共に、くたびれていたシルクが息を吹き返して真珠のような光沢を取り戻していく。
この作業だけは嫌いではなかった。醜いシワや汚れが消えてあるべき美しい姿に戻っていく。その過程にだけ、小夜子は救いを感じることができる。(ふう。これで終わりね)
最後の一枚、純白のブラウスをハンガーにかけたときだった。
コツ、コツ、コツ。廊下から硬質なヒールの音が響いてきた。同時にドアの隙間から、強烈なバラの香りが侵入してくる。
小夜子の背筋が、条件反射で強張った。ドアが開く。「あら、まだやっていたの? 手際が悪いわね」
現れたのは、白河家の夫人――義母だ。朝から完璧なメイクを施し、海外製の高級香水を全身にまとっている。その芳香は、狭い地下室に充満してなお余りあった。
小夜子は深く頭を下げた。そうでもしなければ、香水の匂いに顔をしかめてしまいそうだったので。
「おはようございます、お義母様。ご依頼のブラウス、たった今仕上がりました」
小夜子は、シワひとつなく仕上がった純白のブラウスを差し出した。
義母はそれを指先でつまむようにして受け取ると、わざとらしく鼻を近づけた。スゥ、と息を吸い込む。 次の瞬間、彼女の眉が吊り上がった。「……何これ」
「はい。シミも黄ばみも、きれいに落ちております」
「違うわよ! 匂いよ、匂い!」
義母の金切り声が、ランドリールームの湿った空気を切り裂いた。
「私の好きな香水の残り香が、完全に消えてるじゃない! どういうこと!?」
小夜子は視線を落としたまま、淡々と答える。
「皮脂汚れと混ざって酸化しておりましたので、一度洗ってリセットいたしました。古い香りが残っていると、新しく香水をつけた際に香りが濁りますので」
それは、香りを嗜む者としての当たり前で最低限のマナーだ。だが、この家において正しさは何の意味も持たない。
小夜子がどれほど正しいことを言っても、どれほど身を粉にして働いても、義母と義姉は何一つ認めようとしないのだ。
だから――。
社長室の内部はとても広かった。 床から天井まである壁一面の窓からは、東京の街並みが一望できる。 夕暮れ時のオレンジ色の光が部屋全体を染め上げて、空中に漂う微細な埃をキラキラと光らせていた。 遠くには、テールランプを光らせて行き交う車の列が見えた。「わあ……! すごいね、美夕ちゃん!」 理玖は思わず窓からの光景に釘付けになったが、美夕は別の場所を見ていた。 部屋の中央には、磨き上げられたマホガニーのデスクが鎮座している。 その奥には、黒革の大きなエグゼクティブチェアがあった。 美夕はデスクの裏に回り込み、椅子の肘掛けを掴んでよじ登った。 小さな体が分厚い革の座面に深く沈み込む。「ふむ」 美夕は満足そうに頷くと、デスクの上に置かれた書類をポンポンと叩いた。「こんごの、じんざいいくせいけいかくについてですが」 おっとりとした、しかし妙に堂に入った口調で架空の経営会議がスタートした。「りくくん。そこにすわりなさい」 理玖は来客用のソファに腰を下ろした。 本革のソファは柔らかく、体がすっぽりと包み込まれる。「えっと、人材育成?」「ええ。きゃくしつのせいそうすたっふの、すきるあっぷが、きゅうむです」 先ほど実加の仕事を見たばかりだからか、美夕の指摘は的を射ている。 理玖はよくわからないまま、真面目な顔で相槌を打った。「そうだな。母ちゃんの掃除はすごかったし」 2人の小さな経営陣は、夕暮れの社長室で真剣な議論を始めた。「みかさんほどのすきるのしゃいんは、あまりいません。ぜんたいのれべるあっぷが、ひつようなのです」「うん。客室、いっぱいあったもんね。いくら母ちゃんがすごくても、全部は無理そう」 ――その時だった。 厚いじゅうたんに吸収されながらも、かすかな足音が聞こえてきた。「…………!」
(美夕ちゃん、すごい。あんなに素早く隠れられるなんて、絶対に将来、小夜子おばちゃんより怖い大人になるぞ……) 理玖は、隣で平然としている3歳児のためらいのなさ、判断の早さに圧倒され、ただ感服するしかなかった。「つぎへいくわよ」 美夕は立ち上がり、リネン室のドアをそっと開けた。 廊下に実加たちの姿は既にない。 2人は再び低い姿勢で移動を開始した。 目指すは、ホテルの最上階だ。 だが、サンクチュアリは高層ホテル。階段で登るにはあまりにも階層がありすぎる。「しゃちょうしつにいきたいけど。かいだんでのぼるのは、たいへんすぎね」「エレベーターに乗る? 大人に見つかっちゃいそうだけど」 美夕と理玖が従業員用通路のエリアに戻ると、客室清掃用のサービスエレベーターの扉が開いていた。 中には補充用のタオルやアメニティが積まれた大きなカートが置かれている。 スタッフは別の部屋へ搬入作業に行っているらしく、エレベーター内は無人だ。「ちゃんすよ」 美夕が走り出す。 理玖も慌てて後を追い、エレベーターの中へ滑り込んだ。 2人は大きなカートの裏側に体を丸めて隠れる。「んしょ。てがとどかない」 エレベーターの高層階ボタンは、幼児の手の届かない高い位置にあった。 美夕はもちろん、理玖も背伸びしてみたが無理だった。「ぼくも届かないよ」「それなら……」 美夕は周囲を見渡し、壁際に置かれていたプラスチック製の予備カゴを見つけた。 カゴをひっくり返し、操作パネルの下に置く。 その上に乗ると、彼女は一番上のボタンを迷わず押した。「あっ、なるほど」 理玖が感心していると、ボタンが点灯しエレベーターの扉が閉まった。 上昇を知らせるモーター音が、箱の中に響いた。 胃が持ち上がるような浮遊感とともに、エレベーターは最上階を目指す。 移動中、誰
理玖は口をパクパクさせた。 家でエプロンをつけて夕飯を作る母の姿とは全く違う。 翔吾と口喧嘩をして笑っている姿とは天と地の差だ。 プロフェッショナルとしての緊張感が、彼女の全身から発散されていた。「佐藤さん、こっち来て」 実加がベッドから離れ、バスルームの方へ声をかけた。 若い清掃スタッフが小走りでやって来る。「ここの鏡の水滴の拭き残し、お客様はすぐ気付くからね。手首のスナップをきかせて、一定の方向に向かって拭き上げるんだ」「はい!」 実加はマイクロファイバーの布巾を手に取り、手本を見せた。 素早くも効率的な動作で、汚れがしっかり落ちている。 部下の佐藤が驚きの声を上げた。「わっ、すごいです。こんなに早くきれいにできるなんて……。さすがチーフです」「おだてても何も出ないぞ。このやり方はウチの師匠直伝なんだ。師匠はもっとすごいからな」 実加の表情は自信に満ちており、頼もしいチーフの顔つきだった。(ぼくの母ちゃん、めちゃくちゃかっこいいじゃないか) 理玖は胸の奥が熱くなるのを感じた。 先日の「しさつ」では、父・翔吾の働きぶりは見たけれど、実加は歩いているのを見かけただけだった。 こうして実際に仕事をし、部下に指導をしているところを見るのは初めてだ。「すげえ……母ちゃ……」 感嘆の言葉が、思わず口からこぼれそうになる。 その瞬間。 両側から小さな手が伸びてきて、理玖の口を塞いだ。 美夕だ。 実加が指示を終えて、廊下側の清掃用具を確認するために振り返る気配がした。 カツ、カツ。 パンプスの硬い足音が、客室の入り口へ向かって響き始める。 実加がドアの枠から顔を出そうとした。 美夕は理玖の服の裾を強く引っ張り、すぐ背後にある半開きのドアへと飛び込んだ。 そこは各フロアに設置されている
ドアの隙間から廊下に出ると、従業員用の通路が伸びている。 グレーの床がどこまでも続いていた。 エアコン空調の稼働音が、低い耳鳴りのように空間を満たしていた。「かいだんをのぼるわよ」 美夕は迷いなく、従業員用の非常階段の扉を開けた。 扉は重たかったので、2人で力を合わせて開けた。 5歳の理玖にとって、大人用の階段は一段一段が高い。 よっこいしょ、と声に出さないように足を持ち上げて、金属製の手すりの下の方を掴んで登る。 コンクリートの段差から、ひんやりとした空気が靴下越しに伝わってくる。(ぼくの足、もう疲れてきちゃったのに。美夕ちゃんはどうしてあんなに平気な顔をしてるんだ?) 彼女は3歳児の小さい足で、リズミカルに階段を攻略していく。 何階分登ったことだろう。 理玖は息を切らしながら登りきり、目的の階に到着した。 その先の重い鉄扉を押し開ける。 そこは、客室フロアだった。 従業員用通路の無機質な空気とは打って変わり、高級感のある空間が広がっている。 足元には、ふかふかとした毛足の長いじゅうたんが敷き詰められていた。 色は落ち着いたネイビーブルーで、細かい金色の糸が幾何学模様を描いている。 天井のダウンライトは光量が抑えられ、壁の木目調のパネルを柔らかく照らしていた。 空気清浄機の作動音が、かすかな風の音となって耳に届く。 理玖は絨毯の感触を足の裏で確かめた。 一歩踏み出すごとに、ふんわりと体重が優しく包み込まれる。 足音は全く立たない。「しせいをひくくね」 美夕が低い姿勢のまま、アヒルのような歩き方で進む。 理玖もそれに倣った。まるで小さなアヒルの兄妹だ。 各部屋のドアには、金色の金属プレートでルームナンバーが記されている。 冷たい金属の光沢が、ホテルの格式を物語っていた。 2人が角を曲がると、廊下の先で開け放たれた客室のドアがあった。 中から掃除機の低いモーター音
保育園児たちのお昼寝の時間がやってきた。 ホテル『サンクチュアリ』の裏手に併設された社内保育園「こぐまの森」には、ゆったりとしたテンポのオルゴールのメロディが流れている。 パステルイエローの壁紙には、丸みを帯びた森の動物たちのイラストが規則正しい間隔で並んでいた。 室内は常に一定の温度と湿度が保たれており、肌に触れる空気が心地よい。 子供たちは小さなタオルケットにくるまって、一定のリズムで寝息を立て始めている。 5歳の理玖は目を閉じ、うとうとと眠りに落ちようとしていた。 ふと。 横腹を、つんつんと突かれる感触があった。 薄目を開ける。 隣のマットにいるはずの美夕が、ぱっちりと目を開けてこちらを見下ろしていた。「りくくん、おきて」 ささやき声が耳元まで届く。 理玖はノソノソと上半身を起こした。「どうしたの、美夕ちゃん。おしっこ?」「ちがうわ。きょうは、きゃくしつのしさつよ」 美夕の小さな口から、またしても難しい単語が飛び出した。(しさつ。この前も聞いた言葉だ。嫌な予感しかしないぞ)「客室って、お客さんが泊まるお部屋だろ? 行っちゃだめだって、母ちゃんが言ってた」 理玖は兄貴分としての威厳を保とうと、声のトーンを落として諭した。「ほてるのさーびすのきほんは、きゃくしつにあるの。じょうそうぶがげんばをしらなくて、どうするの」 3歳児の言葉とは思えない論理武装だった。 彼女の母親である小夜子の口調を、完全にコピーしている。「で、でも。ぼくたちは子供だもん。じょうそうぶ? じゃないよ」「じょうそうぶよ」 美夕は言い切った。 社長と総支配人の娘である彼女であれば、上層部と言えなくもないだろう。 しかし理玖は社長の弟の養子だ。微妙すぎる。(ていうか、じょうそうぶって何?) 5歳の理玖は反論の言葉を見つけられなかった。 部屋の隅の事務机では、保育士が
理玖はガラスに額を押し付けたまま、父親の働く姿を見つめた。 先ほど廊下でカートを押していた実加の姿も脳裏に蘇る。 家でエプロンをつけて料理をする母。 膝の上で絵本を読んでくれる父。 その2人が今は全く違う顔をして、この巨大なホテルを動かす歯車の1つとして完璧に機能している。(母ちゃんと父ちゃん、なんだかすごく遠くにいる人みたいだ) 理玖の胸に誇らしさと同時に、少しだけの寂しさが混じった不思議な感情が湧き上がった。 大人の世界はかっこいい。でも、まだ自分には手の届かない遠い場所だ。「しさつ、かんりょうね」 美夕が満足そうに呟いた。 彼女の瞳には、両親たちの作り上げたこのホテルへの強い信頼と誇らしさが宿っている。「帰ろう、美夕ちゃん。おやつの時間になっちゃう」 理玖が促すと、美夕は素直に頷いた。「そうね。つぎのじゅんかいは、またこんどにしましょう」「まだやるつもりなの?」 2人の小さな探検隊は、来た時と同じように姿勢を低くして、再び秘密のルートを引き返し始めた。 ロビーの喧騒が、少しずつ遠ざかっていく。 シャンデリアの光が、2人の小さな背中を優しく照らしていた。 彼らの靴下が床を擦るわずかな音は、ホテルを満たす活気の中に完全に溶け込んでいった。 保育園に戻った2人が、保育士に叱られるのはそれから10分後のことである。「2人とも、どこへ行っていたの! 心配したのよ。勝手に外に出たら危ないでしょう!」「ごめんなさい」 美夕はしおらしく謝りながらも、「しさつ」に行ったのはとうとう隠し通した。 保育士は外を少しうろついた程度だと思ったらしい。 一通り叱った後は許してくれて、おやつの時間になった。 おやつのボーロを頬張りながら、理玖は先ほど見た両親の姿を頭の中で何度も反芻していた。 いつか自分も、あんな風にかっこよく働けるようになるのだろうか。 プラスチックのコップに入った麦茶を飲み







