Share

4:洗濯室

last update Last Updated: 2025-12-02 18:39:13

 白河邸の地下にあるランドリールームは、湿った空気に満たされていた。換気扇が重苦しい音を立てて回っているが、熱気は逃げていかない。

 充満しているのは、洗剤の清潔な香りと、それをねじ伏せるような濃厚な香水の残り香。そして脱ぎ捨てられた衣類から漂う、わずかな体臭が混じり合った独特の空気だ。

 小夜子は業務用の大きなアイロン台の前に立ち、無心に手を動かしていた。

 時刻は午前6時。

 家族から家政婦のように、否、無料の家政婦そのものとして扱われている小夜子は、今日も無言で家事を行っていた。

 目の前には、昨夜のパーティーで義母や義姉の麗華が着用した、山のようなドレスやブラウスが積まれている。

 シルク、レース、ベルベット。どれもクリーニング店でも扱いを嫌がるような繊細な素材ばかりだ。

 小夜子はシルクのブラウスをアイロン台に広げると、その上に木綿の当て布をそっと被せた。

(温度は低温。……焦がさないように、慎重に)

 スチームは使わない。水分は絹を縮ませ、シミを作る原因になるからだ。

 大きなアイロンを持ち上げる腕は、鉛のように重い。それでも、小夜子の手つきは職人のように丁寧だった。

 温まったアイロンの底を、当て布の上から滑らせる。スス、という衣擦れの音と共に、くたびれていたシルクが息を吹き返して真珠のような光沢を取り戻していく。

 この作業だけは嫌いではなかった。醜いシワや汚れが消えてあるべき美しい姿に戻っていく。その過程にだけ、小夜子は救いを感じることができる。

(ふう。これで終わりね)

 最後の一枚、純白のブラウスをハンガーにかけたときだった。

 コツ、コツ、コツ。廊下から硬質なヒールの音が響いてきた。同時にドアの隙間から、強烈なバラの香りが侵入してくる。

 小夜子の背筋が、条件反射で強張った。ドアが開く。

「あら、まだやっていたの? 手際が悪いわね」

 現れたのは、白河家の夫人――義母だ。朝から完璧なメイクを施し、海外製の高級香水を全身にまとっている。その芳香は、狭い地下室に充満してなお余りあった。

 小夜子は深く頭を下げた。そうでもしなければ、香水の匂いに顔をしかめてしまいそうだったので。

「おはようございます、お義母様。ご依頼のブラウス、たった今仕上がりました」

 小夜子は、シワひとつなく仕上がった純白のブラウスを差し出した。

 義母はそれを指先でつまむようにして受け取ると、わざとらしく鼻を近づけた。スゥ、と息を吸い込む。

 次の瞬間、彼女の眉が吊り上がった。

「……何これ」

「はい。シミも黄ばみも、きれいに落ちております」

「違うわよ! 匂いよ、匂い!」

 義母の金切り声が、ランドリールームの湿った空気を切り裂いた。

「私の好きな香水の残り香が、完全に消えてるじゃない! どういうこと!?」

 小夜子は視線を落としたまま、淡々と答える。

「皮脂汚れと混ざって酸化しておりましたので、一度洗ってリセットいたしました。古い香りが残っていると、新しく香水をつけた際に香りが濁りますので」

 それは、香りを嗜む者としての当たり前で最低限のマナーだ。だが、この家において正しさは何の意味も持たない。

 小夜子がどれほど正しいことを言っても、どれほど身を粉にして働いても、義母と義姉は何一つ認めようとしないのだ。

 だから――。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   187

     アーク・リゾーツ社の社長室は、以前は冷たく無機質な場所だった。 けれども今は、季節の花が生けられて柔らかな日差しが差し込んでいる。「社長、例のリゾート開発件ですが」「ああ、現地の雇用を最優先に進めろ。利益よりも、まずは信頼関係の構築だ」 部下からの報告に、隼人は落ち着いた表情顔で指示を出した。 厳しさはあるが的確で、相手への思いやりも感じられる。 かつての氷の王と呼ばれた威圧感は消えて、今や誰もが尊敬するリーダーとしての風格が漂っている。 コンコン、とドアがノックされた。「失礼します」 小夜子が入ってきた。手には風呂敷に包まれたお弁当箱がある。「お疲れ様です、隼人さん。ランチの時間ですよ」「待っていたぞ」 隼人は仕事を切り上げて、ソファスペースへ移動した。 2人は並んで座り、弁当箱を開ける。 中身は彩り豊かな炊き込みご飯と、だし巻き卵、旬の野菜の和え物である。「本日のメニューは、昨晩の残りの筑前煮を細かく刻んでリメイクした炊き込みご飯です」 小夜子が少し得意げに解説した。 食材のリメイクは彼女の得意とするところだ。無駄を省いてしっかりと使い切ることに、喜びを感じている。「廃棄ロスをゼロにしつつ、鶏肉と根菜の旨味を凝縮させました。原価率は一杯あたり50円以下ですが、栄養価は満点です」「くくっ……。50円か」 ホテル王のランチとしては、ささやかすぎる金額だ。 隼人は箸を伸ばし、一口食べた。優しい出汁の味が口いっぱいに広がる。「……美味い。世界一のランチだ」「よかったです。あ、隼人さん。お醤油が少しシャツに飛びそうです」 小夜子がさっとハンカチを出して拭う。そんな何気ないやり取りの中に、穏やかで満ち足りた時間が流れていた。◇ その日の夜、タワーマンションの最上階。 夕食を終えて、2人はリビ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   186:聖域の日常

     白河家が消滅し、小夜子と隼人が本当の夫婦になってから1年の月日が流れた。 ホテル『サンクチュアリ』は、世界的な格付け機関で最高評価の五ツ星を獲得している。今や世界中のVIPが予約待ちをする伝説のホテルとなっていた。 その最上階、ロイヤルスイートでは、緊迫した空気が流れていた。 中東の某王族が、誤って年代物の赤ワインを最高級ペルシャじゅうたんにこぼしてしまったのだ。「おお、なんてことだ……! この絨毯は一点物だろう? 弁償するにしても代わりがないぞ」 VIP客が青ざめる。スタッフたちが焦りで立ち尽くす中、凛とした声が響いた。「失礼いたします。少し道を開けていただけますか」 現れたのは、仕立ての良いクリーム色のスーツに身を包んだ小柄な女性――黒崎小夜子だった。 彼女は優雅な手つきで懐からポーチを取り出すと、そこから見慣れないボトルと白い布を取り出した。「こ、これは……?」「炭酸水と、特製の重曹スプレーです。汚れはまだ酸化しておりませんので、これなら……」 小夜子は迷いのない手つきで、トントンとリズミカルにシミを叩き出した。 決して擦らず、汚れを浮かせるようにして布に移し替えていく。魔法のような手際だった。 わずか3分後。赤黒いシミは跡形もなく消え去り、じゅうたんは元の輝きを取り戻していた。「素晴らしい!魔法のようだ!」 VIP客が感嘆の声を上げた。「君のような優秀なメイドがいるとは、このホテルは恐ろしいな。ぜひ我が国の宮殿にヘッドハンティングしたい」「お褒めにあずかり光栄です。ですが……」 横に控えていた支配人が、誇らしげに口を挟んだ。「申し訳ございません、殿下。彼女はメイドではありません。……当ホテルのオーナー夫人であり、総支配人の黒崎小夜子でございます」「なに!? オーナー夫人!?」 驚く客に、小夜子は淑や

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   195

     隼人は部屋の隅にある金庫を開けて、2つの書類を取り出した。 1つは、『3億円の金銭消費貸借契約書』。もう1つは、『秘密保持および婚姻に関する契約書』。 2人の関係の始まりであり、全てだった紙切れだ。「こっちに来い」 隼人は小夜子を手招きし、暖炉の前へと連れて行った。揺らめく炎が2人の顔を赤く照らす。「旦那様? それは……」「よく見ろ」 隼人は、ためらいなく2つの書類を炎の中に放り込んだ。「あっ!?」 小夜子が悲鳴を上げる。 紙は瞬く間に火に包まれて、黒く縮れていく。3億円という数字が、分厚い契約条項が、灰となって崩れ落ちていく。「だ、旦那様! 何をなさるんですか! それは大切な……!」 慌てて拾おうとする小夜子の腕を、隼人が掴んで止めた。「これで終わりだ」 隼人は燃え尽きていく灰を見つめながら言った。「借金はチャラだ。契約も消滅した。……お前は自由だ、小夜子」「自由……?」「ああ。もう、金や義務で俺の隣にいる必要はない。出て行きたければ、いつでも出て行ける。誰もお前を止めない」 小夜子は呆然と隼人を見上げた。 自由。 かつて彼女が何より欲していたものだったはずだ。 けれど今、彼女の心を満たしたのは喜びではなく、足元が崩れるような不安だった。「そんな……。では、私はもう用済みということですか? 家政婦としても、契約妻としても……」「違う」 隼人はその場に片膝をついた。視線の高さを小夜子に合わせる。 彼の手には、以前のような形式的なプラチナリングではなく、小夜子の瞳の色によく似た、温みのある宝石がついた指輪が握られていた。「俺は家政婦が欲しいんじゃない。契約で縛った妻もいらない」 

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   194:真実の誓い

     白河邸の文字通りの崩壊から、数日が過ぎた。 アーク・リゾーツの社長室では、壁掛けのモニターが朝のニュースを映し出していた。『――白河グループ前代表・白河清次郎容疑者らの逮捕を受け、世間からは被害者である黒崎小夜子氏への同情と称賛の声が高まっています。過酷な環境に屈せず、献身的に夫を支え続けた現代のシンデレラとして……』 画面には、隼人に抱きかかえられて屋敷を出る小夜子の写真が映っている。 緑たちが目論んだ「不義の子」というネガティブ・キャンペーンは、完全に裏目に出た。 世論は、理不尽な差別と虐待に耐えて、自らの才覚と誠実さで幸せを掴み取った小夜子を熱狂的に支持したのだ。 さらに、妻を救うために重機で乗り込んだ隼人の行動も、「究極の愛」「男気がある」と好意的に受け止められた。 法律上は自分の所有建物を壊しただけで、けが人も出ていない。何ら問題ないとされた。 アーク・リゾーツの株価は連日のストップ高を記録している。「くだらん騒ぎだ」 隼人はリモコンでモニターを消した。 だが、その口元は微かに緩んでいる。 世間の評判などどうでもいいが、小夜子を傷つける雑音が消えて、彼女が英雄として祝福されている状況は悪くない。「さて……仕上げといこうか」 隼人は席を立ち、帰宅の準備を始めた。 今日こそ、最後の壁を取り払わなければならない。◇ その夜。タワーマンションのリビングでは、静かな中にパチパチという暖炉の音と、タッ、タッ、という電卓を叩く音が響いていた。 小夜子はダイニングテーブルで、真剣な顔をして家計簿と向き合っていた。「……白河家の負債総額が50億円。旦那様が債権を買い取られたので、私の借金は当初の3億円に加えて、合計53億円に増額されたと解釈すべきですね」 ため息をついて、メモ用紙に数字を書き込んだ。「これを私の現在の時給で返済すると仮定した場合&he

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   193

     破壊された壁の向こうから、数人の制服警官とスーツ姿の国税局査察官たちが一斉に踏み込んできた。「そこまでだ!」 警官たちが取り囲んだのは、隼人ではない。緑と清次郎だった。「白河緑、清次郎。脱税および横領、労働基準法違反、ならびに恐喝未遂の容疑で逮捕状が出ている」「……は?」 緑の思考が停止する。査察官の一人が隼人に一礼し、小夜子の方を見た。「奥様。そちらが証拠データですね」 彼は小夜子が差し出したメモリーカードを見た。「概要は黒崎社長から聞いています。詳細の確認はこれからきちんと行います。どうぞご安心を」「旦那様、どうして……?」 小夜子が戸惑うと、隼人はニヤリと笑ってみせた。「白河家の不正は俺も調べていた。外から調べただけでも怪しい点が多すぎる上に、小夜子への虐待は事実だからな。ましてや内部にいたお前なら、不正を見過ごすはずはないと思った」 隼人は、小夜子が命がけで守り抜いたメモリーカードを掲げて見せた。「妻が10年かけて集めた記録だ。お前たちが私腹を肥やすために隠した裏帳簿、未成年の娘に対する違法な労働実態……すべての悪事がここに詰まっている」「そ、そんな……まさか、あの泥棒猫が……!」 緑が小夜子を血走った目で睨みつける。掴みかかろうとするが、すぐに警官に取り押さえられた。 ガチャリ。手錠の冷たい音が響く。「嘘よ! 離して! 私は白河家の女将よ! 誰か、誰か助けてぇぇ!」「わ、わしは知らん! 妻が、緑が勝手にやったんだ! わしは関係ない!」 清次郎が見苦しく言い訳を叫ぶが、彼の手にも手錠がかけられた。 麗華も「お母様、どうしよう!」と泣き叫びながら連行されていく。 かつて栄華を誇った伝統ある白河家は、物理的にも、社会的にも、完膚なきまでに崩壊した。二度と再起する日は来ないだろう。

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   192

    「そ、そんな……」 緑の顔から血の気が引いた。 この男は法的な手続きと圧倒的な財力で、文字通りこの家を「物理的に」乗っ取ったのだ。 隼人はそれ以上、彼女たちを見なかった。  彼はまっすぐに小夜子へと歩み寄った。 小夜子は部屋の隅でほこりまみれになっている。  さすがの彼女も重機の登場は予想外だったようで、呆然と立ち尽くしていた。 頬には煤がついて、手はあかぎれだらけになっている。「……旦那様」 小夜子の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。「どうして来たのですか。……私は貴方の聖域を汚してしまう。貴方にふさわしくない汚れた血の……」「黙れ」 隼人は小夜子を強く抱きしめた。  高価なスーツが汚れるのも構わず、彼女の全てを包み込むように。力強く、けれど壊れ物を扱うように優しく。「血筋など関係ない。お前がどこの誰から生まれようと、そんなことはどうでもいい」 隼人は小夜子の耳元で、噛み締めるようにささやいた。「お前は、俺が選んだ唯一無二の妻だ。……俺の聖域(サンクチュアリ)には、お前が必要なんだ。お前がいない世界など、俺には耐えられない」「で、でも、私は旦那様の聖域を守りたくて……!」 小夜子は涙をこらえようとするけれど、どうしても止まらない。「くどいぞ。俺にはお前が必要だと言っているんだ」「うっ……うあぁ……! 隼人さんっ……!」 小夜子は隼人の胸に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくった。  ずっと張り詰めていた糸が切れて、抑え込んでいた感情が決壊したのだ。(別れたくなかった。一緒にいたかった。もう諦めていたのに、こうして迎えに来てくれた……!) 小夜子は隼人の背中にしがみつき、その温もりが本物であることを確かめる。  心に温かな灯火が灯ったようだった。 その美しい光景を汚すように、緑が半狂乱で叫んだ。「ふざけないでよ!」 緑は髪を振り乱し、地団駄

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status