LOGIN小夜子は最後の結論部分をもう一度見直し、表紙の体裁を整えて保存ボタンを押した。
パソコンの画面には、論文の題名と『白河麗華』の名前が表示されている。「はい。たった今、完成しました」
「遅い! グズね」
麗華は小夜子の椅子を蹴るようにして退かせると、画面を覗き込んだ。
だが、彼女の目が追っているのは文章の中身ではない。文字数と、それっぽい体裁になっているかだけだ。「ふーん。まあ、分量は十分ね。フランス語の引用も多めに入ってる?」
「はい。注釈もつけておきました」
「余計なことしないでよ。教授に突っ込まれたら面倒じゃない」
(そこまで読んでくれる教授なら、一発で代筆だと見抜くでしょうけど)
小夜子は心の中で毒づくが、表情には出さない。無表情を貫くことは、この家で生き抜くための処世術だ。
麗華はUSBメモリをパソコンから引き抜くと、それを大事そうにポケットに入れた。「確認するまでもないわね。私が提出するんだから、最高評価で当たり前よ。もし『可』なんてついたら、あんたのせいだからね」
論文の中身――高度な語学力と経済理論の結晶――には一切の興味を示さない。彼女にとって重要なのは、それが「自分の手柄」になるという事実だけだ。
「承知いたしました」
小夜子が頭を下げると、麗華はふんと鼻を鳴らした。
「あーあ、ここに来ただけでお肌が乾燥しちゃった。汚らしい部屋。風邪うつさないでよ?」
そう言い捨てて、麗華は踵(きびす)を返す。ドアがバタンと閉まり、再び静寂と冷気が部屋を支配した。
嵐のような襲来が去って、小夜子は大きく息を吐いた。白い息が長く伸びて、消えていく。机の上には、飲みかけの白湯が入ったマグカップが残されている。凍ってさえいないものの、すっかり冷めきっていた。
小夜子はそのカップを両手で包み込んだ。陶器の冷たさが、手のひらに沁みる。
(また、奪われた)
睡眠時間を削り、知識を総動員して書いた論文。それは小夜子の名前ではなく、「白河麗華」の著作として世に出る。
小夜子の努力も、才能も、すべては姉の飾り物に過ぎない。胸の奥から、黒い泥のような虚しさがこみ上げてくる。喉が詰まり、視界がにじみそうになった時――。――お嬢様。奪われることを嘆いてはなりません。
脳裏に、あの温かい声が蘇った。
今は亡き白河家の老執事、藤堂だ。幼い小夜子に隠れて勉強を教えてくれた、唯一の理解者。博識で厳しくも優しい人だった。 シワだらけの手で小夜子の頭を撫でながら、彼は言ったものだ。――ドレスや宝石は、奪うことができます。家や土地も、奪われることがあるでしょう。ですが、頭の中にある知識と知性だけは、誰にも奪うことはできないのですから。
(そう……そうよね、藤堂さん)
小夜子は冷たい白湯を一口飲み下した。食道を通って胃に落ちる液体の冷たさが、かえって意識を覚醒させる。
麗華が持ち去ったのは、ただのデータだ。それを書くために得た知識、思考のプロセス、そして磨かれたフランス語のスキル。それらはすべて、小夜子の血肉となって残っている。誰にも奪えない、私だけの財産。いつかこの知識が、私をここではないどこかへ連れ出してくれるかもしれない。
「……さてと」
小夜子は椅子から立ち上がった。感傷に浸っている時間は終わりだ。
小夜子は家政婦として使われる身。朝は忙しい。
次は、山のような洗濯物とアイロンがけが待っている。小夜子は自分の頬をパンと叩き、気合を入れた。「さあ、労働の時間よ」
凍える指先をぎゅっと握りしめ、小夜子は冷え切った部屋を後にした。
仕事はまだまだ山積みだ。
次の作業を片付けるために、小夜子は歩いていく。その場所とは――。
「トラブルの代替案として急造したプランが、顧客の潜在的なニーズを掘り起こした。非日常を求める客は、ただの豪華な部屋だけではなく、秘密基地のような遊び心に満ちた空間を求めているという証拠だ」 隼人は立ち上がり、壁に貼られた次期フロア改装のスケジュール表を指差した。「今回のアンケート結果を、ただの事故処理のデータで終わらせるつもりはない。次期改装を行う東棟のワンフロアをテストマーケティングの場とする。コンセプトは『シークレット・グランピング』だ」「シークレット・グランピング、ですか」 小夜子が問い返す。隼人は力強く頷いた。「そうだ。あえて窓のない内側の部屋や、変則的な間取りの部屋を利用する。照明を落とし、テントのような天蓋を張り、アウトドアの体験を室内で提供する。今回の隠れ家プランでお前たちがやったことを、正式な商品としてパッケージ化しろ」 翔吾が自前のタブレットを取り出し、高速で計算を始めた。「既存の配管や窓なしの構造をそのまま活かせるとなれば、改装の工期は通常の2割減。初期投資のコストも大幅にカットできます。収益率としては非常に優秀なプロジェクトになります」「その通りだ。設計の初期段階から、お前たち2人をプロジェクトチームに入れる。小夜子、あの空間演出をさらにブラッシュアップできるな?」 隼人の問いかけに、小夜子は迷うことなく頷いた。「もちろんです。実加さん率いる清掃チームとオペレーションの動線を詰めて、採算性と清掃効率を両立させた上で、最高の秘密基地を作り上げてみせます」(どんなに無骨で殺風景な空間でも、おもてなしの技術があれば価値を生み出せる。それがサンクチュアリの誇りよ) 小夜子は隼人を見返した。 隼人の口角がわずかに上がり、満足げな笑みが浮かぶ。「頼んだぞ。システムのエラーがもたらした災難を、新たな利益の源泉に変えてみせろ」 社長室を出た小夜子と翔吾は、大理石の廊下を並んで歩いた。 窓の外には、夏の太陽が照りつける庭園が広がっている。 翔吾が歩きながらタブレットの画面を操作し、新しいプロジェクトのフォルダを作成していた。「これから忙しくなりますね、総支配人」 わずかに頬を紅潮させる翔吾に、小夜子はヒールの音を響かせながら微笑んだ。「ええ。でも、悪くない忙しさですよ。私たちのおもてなしが、新しいホテルの形を作るのだか
(不満を驚きに反転させる空間の力。あの殺風景な仮眠室を、立派な商品に引き上げることができたわ) 小夜子は張り詰めていた肩の力を抜き、深く息を吐き出した。シダーウッドの香りが鼻腔をくすぐる。 客たちは誰もが新しい部屋に目を輝かせている。 こうして、サンクチュアリの史上最悪のオーバーブッキングの夜は、スタッフたちの総力戦によって乗り切られたのである。 ◇ ◇ それから数日後。 アーク・リゾーツ社の社長室の窓からは夏の強い日差しが差し込んでいる。 けれど室内は空調によって完璧な温度に保たれていた。 社長のデスクの奥で、隼人はタブレット端末の画面をスクロールさせていた。 ノックの音が鳴り、小夜子と翔吾が入室する。「失礼いたします。お呼びでしょうか、社長」 小夜子が言うと隼人は画面から顔を上げて、手元のタブレットをデスクの中央へ滑らせた。「先日のオーバーブッキングの一件、事後処理は完了した。宿泊サイト側のシステム担当役員との書面でのやり取りも終え、損害賠償金と代替手配にかかった費用の全額が、今朝こちらの口座に振り込まれた」「迅速なご対応、ありがとうございます」 小夜子が一礼する。翔吾も軽く頭を下げた。「俺は事実とログデータを突きつけて回収しただけだ」 隼人は淡々と答えると、革張りの椅子に深く背中を預けた。「それよりも、お前たちに見せたいデータがある。タブレットを見てみろ」 翔吾がタブレットを手に取り、小夜子もその画面を覗き込む。 表示されていたのは、あの夜「隠れ家プラン」に宿泊した27組の客たちから回収したアンケートの集計結果だった。 翔吾の視線が、数字とグラフの上を高速で滑っていく。「総合満足度のスコアが、通常のスイートルーム宿泊客の平均値を上回っています」 翔吾が思わず声を上げる。 小夜子もテキストで書かれた自由記述欄のコメントを追った。『スタッフの迅速な対応に
壁にあるはずの味気ないプラスチックの照明スイッチは、アンティーク調のざらりとしたファブリックボードですっぽりと覆い隠されている。 ベッドには、深いネイビーブルーのブランケットが天井からドレープ状に吊るされて、小さなテントのような空間を作り出していた。 シワ1つない純白のエジプト綿のシーツが、ランタンの光を柔らかく反射している。「すっげえ、本当に秘密基地みたいだ」 後ろから覗き込んだ若いカップルの男が、思わず声を上げた。 小夜子は室内のサイドテーブルに手を差し向ける。 そこには、真鍮のハンドルがついたアンティーク調の木製手挽きコーヒーミルと、コルク栓のガラス小瓶に入れられた最高級の焙煎豆がある。さらには電気ケトルがセットされていた。「お部屋でおくつろぎの際は、こちらのミルで豆を挽き、ご自身のペースでコーヒーの香りをお楽しみください」「わざわざ自分で豆を挽くのか。手間がかかるが、悪くないな」 スーツの男性がコーヒーミルの滑らかな木肌に指を這わせる。 彼の顔から怒りの色は完全に消え去り、新しいおもちゃを与えられた子供のような好奇心が浮かんでいた。 小夜子はさらに、ベッドの足元に置かれた革張りの小さなトランクケースを示す。「そしてそちらのトランクには、当ホテルからのささやかなお詫びの品を隠しております。よろしければ、開けてみてください」 男性がしゃがみ込み、トランクの真鍮製の留め具を外す。 パチンと乾いた音が鳴り、重たい革の蓋が開いた。「おぉ……」 トランクの中には深い琥珀色をしたミニボトルの洋酒と、葉巻に見立てた細長いチョコレートが並んでいる。 男性の口元が自然とほころんだ。「まるで宝箱だな。大人の男を喜ばせるツボを心得ている」 彼はトランクの中身を見つめて、満足げに頷いた。 他の4組の客たちも次々と割り当てられた個室のドアを押し開けていく。「うわっ、本当にテントみたいだ!」「見て、コーヒーのいい匂いがするわ」 ランタンの
フロントからバックヤードへ続く扉の前に、小夜子と翔吾、そして第一陣となる5組の客が集まっていた。 先ほどまでフロントカウンターを叩いて怒鳴っていたスーツの中年男性も、派手な服装の若いカップルも、これから何が起きるのかと訝しげな顔をしている。 小夜子は背筋を伸ばし、完璧な角度でお辞儀をした。「皆様、本日は当ホテルの不手際により、多大なるご迷惑をおかけいたしました。お詫びを兼ねまして、これより、本日限定で皆様を特別な場所へご案内いたします」 小夜子がマスターキーをかざすと、カチャリという金属音とともに重たい扉が開いた。 現れたのは、大理石のロビーとは対極にある無骨な空間だ。 コンクリートむき出しの床に、頭上を通る無数の配管。微かにアルコール消毒液の匂いが漂う従業員専用の裏通路である。 客たちが戸惑いの表情を見せる。スーツの男性が眉間にシワを寄せた。「おい、ここは裏方だろう。俺たちをどこへ連れて行くつもりだ」「ご安心ください」 翔吾がタブレットを小脇に抱え、迷いのない足取りで一歩前へ出た。「こちらは普段、スタッフしか使用することのない搬入用の通路です。本日は皆様に、ホテルの裏側を巡るバックステージ・ツアーとして、このシークレット・ルートを歩いていただきます」「へえ? バックステージ・ツアーねぇ」 翔吾の淀みない説明に、客たちの警戒心がわずかに緩んだ。 「スタッフしか知らない」という特別感が、彼らの好奇心を刺激したようだ。 若いカップルの女性が、コンクリートの壁を珍しそうに見回している。 小夜子を先頭に、一行は地下へと続く階段を降りた。 ひんやりとした空気が肌を撫でる。 やがて、従業員用の仮眠室エリアに到着した。 そこは、実加率いる清掃チームが猛烈なスピードで作り上げた「隠れ家」の入り口だ。 廊下はいつもの白々しい蛍光灯の光ではない。 等間隔に配置されたバッテリー式のLEDランタンが、暖色系のオレンジ色の光を足元に落としていた。 冷たいコンク
小夜子はパイプベッドの柱にブランケットの端を結びつけ、天井に向かってドレープ状に布を張り巡らせた。 無骨なベッドが、布の帳に覆われたテントのような空間に変貌する。「どうかしら。こうやって布で視線をさえぎれば、部屋の狭さも秘密基地のようなワクワク感に変わると思いませんか?」 実加は数秒間その空間を見つめ、豪快に笑った。「さすがっすね、師匠! 超一流の家政婦の腕前ってやつだ。これなら、ただの仮眠室が隠れ家に化ける」「まだありますよ。サイドテーブルに、アンティーク調の木製手挽きコーヒーミルと、小瓶に入れた最高級の焙煎豆、それから電気ケトルをセットしましょう。あえて自分の手で豆を挽くアナログな作業を、大人の遊びとして提供します」「なるほど、体験型のサービスってやつですね」 スタッフたちが頷いている。「さらに、革張りの小さなトランクケースを置いて。中にはミニボトルの洋酒と、葉巻に見立てたチョコレートを詰めてください。宝箱を開けるギミックです」「宝箱! そりゃあ童心に返るねえ。客の不満を驚きに変えるわけか」 実加はすっかり乗り気になっていた。 若いスタッフたちも、小夜子のアイディアに目を輝かせている。「時間がありません。チェックインの列をさばき切る前に、27室すべてをこの状態に仕上げるのよ」「任せてください。ウチの清掃チームの底力、見せてやるよ!」 実加がパンッと手を叩く。「さあみんな、聞いたとおりだ! 超特急で部屋を磨き上げるよ! 隠れ家プランのセットアップ開始!」「はい、チーフ!」 5人のスタッフが弾かれたように台車に群がり、シーツの束を抱えて各部屋へと散っていく。 実加自身もシーツを抱え、部屋の作り変えを始めた。 バサッ、とシーツが広がる音が地下の廊下に連続して響き始めた。 小夜子は次々と仮眠室のドアを開け、ランタンの配置場所を指示していく。(翔吾さんが時間を稼いでいる間に、完璧な裏舞台を作り上げるわ。システムが壊れても、私たちのおもてなしの技術
「お待たせしました、総支配人。指示通り、スイート用のリネン一式を持ってきましたよ」 実加は息を弾ませながら、台車を止めた。 彼女の顔には汗が滲み、プロとしての緊張感がみなぎっている。 小夜子は廊下に並ぶ30室の仮眠室のドアを指差した。「ありがとう。今からこの仮眠室のうち27室を、客室としてセットアップします」「客室?」 実加の隣にいた若い男性スタッフが、素頓狂な声を上げた。「総支配人、ここは従業員用の仮眠室ですよ。壁紙も剥がれかけているし、ベッドもパイプ製です。お客様を通す場所じゃありません」「現状ではそのとおりですね」 小夜子は彼らを見回し、明確な声で告げた。「エラーによるオーバーブッキングが起きました。部屋が足りないの。でも、お客様を路上に放り出すわけにはいきません」「だからって、ここを? クレームの嵐になりますよ!」 若いスタッフが食い下がる。 実加は彼を片手で制し、小夜子の目を見た。「総支配人が本気だってことは、顔を見れば分かるさ。でも、ただシーツを変えただけで誤魔化せる空間じゃない。どうするつもりだい?」「徹底的な空間演出を行います」 小夜子は最初の仮眠室のドアを開け放った。「それから、この部屋の蛍光灯のスイッチは、備品のファブリックボードを被せて隠します。裏面に粘着ラバーを貼れば、壁を傷つけずに固定できるわ。蛍光灯は絶対に使わせない」(せっかくの秘密基地気分が、味気ない蛍光灯の白い光で台無しになったら目も当てられない。つまらない現実は、手触りの良い布きれ一枚で覆い隠す) 小夜子は布張りのボードの縁を指先でなぞりながら指示を出した。 ざらりとしたアンティーク調の布地が、指の腹に心地よい。「照明はバックヤードの備品庫にある、バッテリー式の調光機能付きLEDランタンを使いましょう。暖色系の明かりに設定して、各部屋に3つずつ配置してちょうだい」「なるほど。スイッチをお洒落な絵で隠しつつ、薄暗くして壁のアラも誤魔化すんで







