LOGIN高級な懐石料理の技法ばかりを追い求め、数字や体裁ばかりを気にしているうちに、小山田はその原点をいつしか忘れてしまっていた。その味が今、敵だと思っていた女の握ったおにぎりから、あふれ出していた。
「……くそッ」
小山田はその場に膝をついた。ボロボロと大粒の涙が白衣の上に落ちていく。
「……なんでだよ」
口の中の米を飲み込みながら、彼は子供のように涙をこぼし続けた。
「なんで、あんたから……先代の味がするんだよ……」
頑固なプライドが、温かいお米の味によって内側から崩れていく。意地を張っていた心が、立ち上る湯気と共に溶けていく。
小夜子は静かに告げた。「私が作ったのではありません」
彼女は小山田の背中に向かって、深く頭を下げた。
「あなた様が守ってこられたお出汁と、お米が素晴らしかったからです。私はそれを、ただ結んだに過ぎませ
「生き返る!」「ああ、芯から温まるよ」 彼の部下たちも、むさぼるように雑炊をかき込んでいる。 翔吾も自分の分の茶碗を手に取った。 一口食べると、出汁の深い旨味が五臓六腑に染み渡る。 極限状態だからこそ食事の温かさは価値を持つ。 どんなに高度な計算式を積み上げても導き出せない、温かな満足感だった。◇ 夜更けになった。 雑炊で人心地ついた御子柴たちは、配られた毛布にくるまって少しずつ落ち着きを取り戻していた。 御子柴はランタンの灯りを見つめたまま、ふと口を開いた。「……なぜ私を助ける」 その声はかつての威圧感を失い、どこか虚ろだった。 小夜子が手を止めて、彼の方を向く。「君の義弟の言う通り、物置に追いやって切り捨てればよかったはずだ。そうすれば君たちはより効率良く嵐がすぎるのを待てる。……ビジネスとしては、それが正解だ」 御子柴の問いに、翔吾も耳を傾けた。 自分の信じていた「論理」を、敵に突きつけられた気分だった。 小夜子はくすりと微笑む。穏やかだが迷いのない瞳で答えた。「目の前の1人を救えない人間に、大勢のお客様を幸せにすることはできません」「……何?」「私たちはホテルマンです。命を預かり、寛ぎを提供するのが仕事です。たとえ相手が誰であろうと、窮地にある命に最善を尽くす。それが、私たちの掲げる最高の『効率』――いえ、『プライド』です」 小夜子の言葉には一切の妥協がなく、信念が感じられる。「ホテルはお客様の家。家にいる家族を、どうして見捨てることができましょうか。少しでも安全に、安心して過ごせるように力を尽くす。それ以外にありません」 御子柴は絶句した。 彼は何かを言い返そうと口を開きかけたが、結局何も言わず、空になった雑炊の器をじっと見つめ続けた。(&hell
ロビーの中央では、小夜子が御子柴と向き合っていた。 御子柴は浴衣に着替えたものの、寒さのせいか、それとも極度の緊張のせいか、膝の上に置かれた指先が青白く硬直していた。「失礼します」 小夜子が救急箱を広げて、消毒液を浸したガーゼを取り出した。 彼女は御子柴の額にある傷を、一切の迷いなく拭い始める。「……チッ」 御子柴の口から、微かな声が漏れた。 彼は痛みに耐えるように奥歯を噛み締めている。小夜子の手つきは驚くほど優しく、そして淀みがない。 翔吾は少し離れた場所から、その様子を観察していた。 あんなに冷酷で、最新のAIや圧倒的な資本で武装していた男が、今はただの一人の無力な人間に見える。 小夜子の指先が触れるたび、御子柴の肩が小さく跳ねる。(どんなに偉そうなことを言っても、結局は血の通った人間なんだな。寒ければ凍えるし、怪我をすれば痛がる。……当たり前のことなのに、なぜか不思議な気分だ) 翔吾は自らの内にあった敵意が、妙な形に波打つのを感じていた。 そこへ奥から香ばしい出汁の匂いが漂ってきた。「はいよ! 出来立てだ。熱いうちに食いな!」 板前が、カセットコンロで熱せられた大きな土鍋を運んできた。 蓋を開けた瞬間、真っ白な湯気が立ち上って大地の香りがロビー全体を満たした。 それは先日集めた『里山の宝物』の残りを使った雑炊だった。 細かく刻まれた原木椎茸と甘みの強い大根、彩りの良いカブの葉。それらが、透き通った出汁の中で宝石のように輝いている。 ぐつぐつと湯気の立つ鍋は、いかにも美味しそうだ。「……何だ、これは。せせらぎ亭は物資不足ではないのか?」 御子柴が、警戒するように土鍋を見つめた。(物資不足を知っている。やっぱりこの前の業者の差し止めも、御子柴の仕業か) 翔吾は苦い思いを抱きながらも、表情にでないように注意した。「雑炊ですよ。この山で
実加は鬼のような形相で続ける。「そんなの、アタシの辞書にはねえんだよ! 喧嘩の時だって、弱ってる奴に追い打ちはかけねえぞ!」 実加の叫び声は、腹の底から絞り出されたような力強さがあった。 彼女の大きな瞳には、翔吾に対する純粋な憤りが見て取れる。「てめえ、人の命がかかってる時まで計算かよ! そんなに数字が大事か!?」「……計算しなければ、全員が共倒れになる。それがあなたの望みですか?」「共倒れになんてさせねえよ! ウチが自分の分を削ってでも、こいつらに食わせてやる! だから、今すぐ中に入れろ!」「感情論でリソースは増えません」 翔吾が反論しようとした時、一際大きな雷鳴が轟いた。 全員が思わず黙り込むほどの大きな音だった。 地響きとともに、せせらぎ亭の建物がみしみしと音を立てる。「翔吾さん」 小夜子が、静かな足取りで2人の間に入った。 彼女は騒ぎ立てることもなく、ただ御子柴の部下の1人に視線を向けた。 その男は飛来物が当たったのか、怪我をしたようで左足を引きずっている。顔面を蒼白にさせていた。「彼らの状態を見てください。あの物置では、この冷え込みに耐えられません。最悪、命に関わります」「……ですが、総支配人」「窮地にある方を救うのは、ホテルマンのプライド以前に、人としての義務です」 小夜子は一歩前に出て、力強く言った。「サンクチュアリの総支配人として、そしてせせらぎ亭の女将として、私は彼らの受け入れを決定します。皆様、どうぞ奥へ。すぐに乾いたタオルを用意させます」「助かった……」 御子柴の部下の1人が弱々しく言った。(小夜子さんがそう言うなら、僕に拒否権はない。……だが、資源の枯渇はどうするんだ? 嵐が長引けば共倒れになるだけなのに) 翔吾は不満げに口をつぐんだ。 実加は「最初からそう言
開け放たれた玄関から、冷たい雨のがロビーへ容赦なく吹き込んでくる。 ランタンの炎が激しく揺らめいて、壁に映る人影を映し出していた。 御子柴玲二は泥と雨にまみれ、肩で息をしている。 先日までの自信と傲慢さは、どしゃぶりの雨で洗い流されてしまったかのようだ。 黒崎翔吾は彼らを見下ろしたまま動かなかった。 脳内では、目まぐるしく計算が繰り返されている。(備蓄の米、根菜。カセットコンロのガスボンベ。これらは、僕たちが数日間生き延びるためのリソースだ。追加で4名を受け入れれば、生存可能期間は一気に40パーセント減少する) 翔吾の瞳の奥で数字が弾き出される。 相手はこの宿を潰しにきた宿敵だ。情をかける理由など、論理のどこを探しても見つからない。「……館内へ招き入れることはできません」 翔吾の声は、風の音に負けないほど低く冷たかった。「は?」 御子柴の隣にいた部下が、驚きの声を上げる。「現在、当館は孤立しており、資源は限られています。部外者を受け入れる余裕はありません。経営的にも、生存戦略としても、極めて非合理的な選択です」 翔吾は眼鏡を中指で押し上げ、続けた。「ですが、さすがに人命救助を放り出すわけにはいきません。裏の物置なら雨風はしのげます。あとは毛布くらいは貸し出しましょう。嵐が過ぎるまで、そこで耐えてください」(これが僕に出せる最大限の妥協案だ。これ以上は、せせらぎ亭の安全を脅かす) 御子柴が薄い唇を噛み締めた。 濡れた前髪から滴る雨水が、彼の険しい顔を伝う。「……フン。泥舟の分際で偉そうな口を叩く。情けを乞うつもりはない。だが私の命に何かあれば、君たちの雇用主……黒崎隼人への政治的ダメージは計り知れないぞ。災害の現場で助けを求めた人間を見殺しにした、と」「死にはしませんよ。物置であれば雨風も飛来物も防げる。今の僕には、目の前の資源管理の方が優先順位が高い」 2人の間に一
「ヒッ……!」 仲居の1人が悲鳴を飲み込む。「だ、誰だ!? こんな嵐の夜に!」 板前が懐中電灯を手に立ち上がった。 雨と風の轟音に混じって、外からくぐもった声が聞こえてくる。「開けろ……! 頼む、開けてくれ!」 翔吾と実加は顔を見合わせた。 2人は同時に立ち上がり、玄関へと走った。 分厚い木製の引き戸に手をかけ、力を込めて横へスライドさせる。 戸が開いた瞬間、凄まじい風圧と雨粒がロビーに吹き込んできた。 ランタンの炎が激しく揺らぐ。「うわっ!」 実加が顔を庇う。 外の暗闇の中から、数人の男たちが転がり込むようにしてなだれ込んできた。 男たちは皆、高級なスーツや作業着を泥水で真っ黒に汚していた。髪からは雨水が滝のように滴り落ちている。 バランスを崩し、濡れた床にずるずると座り込む者。 壁に肩を預けて荒い呼吸を繰り返す者。 飛来物が当たったのか、額から血を流している者もいる。「おい、大丈夫か!」 番頭が駆け寄り、男の1人に肩を貸す。 翔吾は、男たちの中心にいる人物から目を離せなかった。 2人の部下に両脇を支えられながら、荒い息を吐いている男。 つい先日この宿を「泥舟」と嘲笑い、圧倒的な資本を見せつけて去っていった男。 グラン・ヘリックス日本支社長、御子柴玲二だった。 御子柴の濃紺のオーダースーツは泥まみれになり、無惨に破れている。 髪は雨で顔に張り付き、かつての隙のない姿は見る影もない。 しかし瞳の奥にある鋭い眼光だけは、決して失われていなかった。「……御子柴」 翔吾の口から、低い声が漏れた。 御子柴が顔を上げる。 暗いロビーで、2人の視線が激しくぶつかり合った。「……こんなボロ宿に、世話になるとはな」 御
強風が建物を揺らすたびに、実加の肩が強張った。「大丈夫ですか、実加さん」 翔吾が隣に座り、声をかけた。「……平気だ。ちょっと風の音がうるせえだけだ」 実加は強がって見せたが、その声はかすれている。呼吸のリズムが不自然に乱れていた。 いつも威勢のいいヤンキー娘の面影はない。 暗闇と逃げ場のない密室という状況が、彼女の精神をじわじわと削り取っている。「チビ……怖がってねえかな……」 実加の口から、消え入りそうな声が漏れた。 翔吾は眼鏡を押し上げ、毅然とした口調で答える。「シッターさんの家は、最新の免震構造と自家発電システムを備えたマンションだとデータにあります。理玖君の安全は、確率論から言っても100パーセント保障されています」「……確率論とか、そういうのいいから」「事実を述べているだけです。あなたも、無駄な心配で体力を消耗するのは非効率ですよ。……この地域よりも、東京の方が台風の被害予想が軽い。停電も起きていないようです。何も心配はありません」 憎まれ口を叩くような翔吾の物言いに、実加は少しだけ顔を上げて小さく息を吐いた。「相変わらずだな、お前。……でも、なんかちょっと落ち着いたわ。サンキュ」 少しだけ空気が和らぐ。 その時だった。 ――バキィィィィィッ!! 風の音を圧倒するように、とてつもない轟音が響き渡った。 巨大な金属がねじ曲がり叩きつけられるような、破壊の音。 古い木造のせせらぎ亭が発する軋みとは、全く異なる異音だ。「な、なんだ今の音!?」 実加が弾かれたように顔を上げる。 従業員たちが一斉にざわめいた。「すごい音だった」「まさか土砂崩れ?」「でも、金属が曲がるような音だったけど」 翔吾
(ここをあの部屋にするわけにはいかない。俺は『家』を作らないといけないんだ) 家を作るなど、少し前までの彼は考えてもみなかったことだった。 冷徹な成り上がりのホテル王として買収と統合を進め、効率的な経営をする。それこそが彼の本領だった。 しかしいつからだろう。彼の中にとうの昔に失ったはずの、温かさが灯ったのは。 Mに言われるまでもなかった。彼が作りたかったのは箱ではなく家なのだと、気づいてしまった。 けれども隼人は『家』を知らない。追い求めるもののぼんやりとした輪郭だけがあって、実態は未だに掴めないまま。
昨夜の老婦人が、一通の封筒を手に隼人の前に立った。昨日までの「居心地の悪そうな老人」の気配は消えて、一国の主のような堂々とした威厳があった。「黒崎社長。貴方が昨夜用意したマダム・ローズへの接待、あれは60分間までは完璧でした」「……え?」 隼人の動きが止まる。老婦人は冷徹な笑みを浮かべた。「ですが残りの30分、貴方の目は1人の『金を持たないゲスト』をゴミのように扱った。スタッフの背中は嘘をつけないわ。……私が、Mです」 ロビーの空気が凍りついた。隼人は
小夜子の声がダイニングに響いた。 隼人が小夜子の腕を掴み、テーブルの下で制止する。「やめろ、小夜子。給仕長が後で対応する。俺たちは今、席を立てない」「後では遅いのです、旦那様。あの素材は、今すぐ処置しなければ一生のシミになります。お客様の服にシミを残すなど、家政婦の名折れ」(小夜子の謎のこだわりが出た!) 隼人は舌打ちしたい気分になりながらも、説得を続ける。「服一着の代金など、後でいくらでも払えば済む話だ。マダムのメインディッシュが運ばれてくる。お前はここにいろ」「お断りします」
「原因が分かれば対処は可能だ。壁紙をはがすか? それともカーペットを全面張り替えか?」 彼は頭の中で電卓を叩き始めた。全室リフォームとなれば、数千万円の追加投資が必要になる。だが背に腹は代えられない。 顧客に健康被害が出たとなれば、数千万円以上の取り返しのつかない損害になるからだ。「支配人、業者に見積もりを取れ。最短で工事を……」「いいえ、旦那様」 小夜子は涼やかな声で、夫の言葉をさえぎった。「張り替える必要はありません。数千万円をドブに捨てるようなものですわ」







