INICIAR SESIÓN数日後の午前11時、アーク・リゾーツ本社、最上階にある大会議室。
窓の外には東京の摩天楼が広がっているが、室内の空気はピンと張り詰めていた。 重厚なテーブルを挟んで、隼人と大河原老人が向き合って座っている。傍らには顧問弁護士たちが控え、テーブルの上には分厚い契約書が置かれていた。大河原老人は、契約書の最後のページに筆ペンで署名をした。そして実印を朱肉に押し付け、紙の上に運ぶ途中で手を止めた。
「……黒崎社長。特約条項は、忘れておらんだろうな」
老人の鋭い視線が飛ぶ。隼人は動じることなく頷いた。
「もちろんです。第15条をご確認ください。『敷地内庭園の保存、および新施設設計への妻・小夜子の監修権限を保証する』と明記してあります」
老人は老眼鏡の位置を直すと該当箇所を目で追い、満足げに鼻を鳴らした。
「よろしい」
タンッ。印鑑が契約書に押される。契約成立である。
その瞬間、室内に充満していた緊張の糸がふっと緩んだフロントカウンターの奥で、翔吾の思考が異常を知らせる警報音を鳴らしていた。 ヒョウ柄の服が視界の端に映る。安っぽい香水の匂いがする。 記憶の底に蓋をしていた、思い出したくない記憶がフラッシュバックした。『アンタなんか、産むんじゃなかった』 幼い頃、自分を置いて出て行った母親の言葉だ。 そうして預けられた父親の家で、翔吾はずっと肩身の狭い思いをしながら暮らしてきた。 辛い記憶の原点が迫ってくるようで、翔吾は思わず息を詰めた。 自分の浅い呼吸音だけが、耳元でやけに大きく響ようだ。 真澄はカウンターの方へずかずかと歩み寄り、翔吾の顔を見つけると下劣な笑みを浮かべた。「あら、こんな所にいたのね。立派なスーツまで着せてもらって。育ててやった母親が苦しんでるってのに、自分だけいい思いするなんて薄情な息子よねぇ」 金を無心しに来たことは明白だった。 彼女の瞳には、息子への愛情などこれっぽっちもない。あるのは、金づるを見つけた歓喜だけだ。 この女はいつもそうなのだ。 翔吾はカウンターに手をつき、肺に酸素を送り込む。(僕は……アーク・リゾーツの社員だ。私情を挟むな。システムを正常に稼働させろ) まばたきを一つする。 次に目を開けた時、翔吾の顔からは一切の感情が消え去っていた。 ネクタイの結び目をきつく締め直し、真澄の前に進み出る。「お客様、他の方のご迷惑になります。恐れ入りますが、お引き取りください」 氷のように冷たい声だった。 息子としての情も、過去のトラウマに怯える姿もない。 ただ、ホテルの秩序を守る完璧なホテルマンだけが存在していた。◇ 同じ頃、バックヤードからロビーへ駆けつけた実加は、その光景に息を呑んだ。(そんな、あいつは……!) ジャージ姿の男、健太がいる。 彼の背中を視界に捉
一方、上層階の客室清掃フロアで。 山内実加は、パリッと糊の効いたシーツをベッドに広げていた。 ファサッ――という清潔感のある音が、室内に響いた。 マットレスの端にシーツを折り込み、シワ一つない状態に仕上げていく。 額には薄っすらと汗がにじんでいた。 清掃用のワゴンには、洗剤のボトルや大量のタオルが積まれている。「ねえ、やっぱりあの記事のこと、本当らしいわよ」 開け放たれたドアの外、廊下からヒソヒソ声が耳に入ってきた。 年配のパート従業員たちだ。「元ヤンなんでしょ? よく平気な顔して働けるわよね」「お客様の持ち物がなくなったりしたら、一番に疑われるのはあの子よ」「それに、子供を保育所に預けっぱなしって。本当に育児放棄じゃないの?」 言葉が実加の背中に次々と突き刺さる。 実加はシーツを掴む手に力を込めた。(上等だ。言いたい奴には言わせておけ) 腹の底で熱いものが煮えたぎる。 特攻服を着ていた頃なら、廊下に飛び出して胸ぐらを掴んでいた。 だが、今の自分はサンクチュアリの正社員を目指している。 何より、一つの命を預かる母親だ。 脳裏に、今朝の理玖の姿が浮かぶ。小さい手足を動かして、ハイハイで実加へ向かって来た。(あの笑顔を守るためなら、他人が何を言ったって平気だ) 実加は深く息を吸い込んだ。洗剤の匂いが胸を満たす。(今は、てめえの仕事をやり遂げることだけを考える。それ以外は全部後回しだ) そう考えて、無心で手を動かした。「よし、次だ」 独り言のように呟く。ベッドメイキングを終えるとバスルームの清掃へ向かった。◇ チェックインのピーク時間が近づくと、ロビーには徐々に客の姿が増え始めていた。 荷物を運ぶベルボーイの足音と、控えめなピアノのBGMが響いている。 洗練されたサンクチュアリの日常が戻り
ホテル・サンクチュアリの受付ロビー。大理石のカウンターに、ルームキーが放り出された。 カシャン、と硬質な音がする。丁寧とは程遠い音だ。 黒崎翔吾はすぐに口角の角度を調整し、完璧な営業スマイルを作った。「ご滞在は、いかがでしたでしょうか」「……不愉快極まりないわ。さっさと手続きを済ませてちょうだい」 初老の女性客は翔吾の顔を見ようともしない。 手には高級ブランドのバッグが握られているが、視線は明後日の方向を向いたままだった。「かしこまりました。この度はご利用ありがとうございました」 翔吾は手元の端末を操作し、流れるような動作で明細書を印刷する。(想定内だ。ネット上のノイズが現実の顧客行動に影響を与える確率は、すでに計算済みだ) 心の中で繰り返す。 自身の思考システムに新たな要素を組み込むように、何度も言い聞かせた。 周囲には冷ややかな視線が満ちている。 あからさまに翔吾の担当を避ける素振りも少なくない。 昨日の朝から、ロビーの空気は一変していた。 週刊誌が書き立てたスキャンダルの中心にいるのは、翔吾だ。 兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚れを付けてしまった。(せっかく隼人兄さんに認めてもらえたのに。居場所を見つけて、これからという時に。僕のせいで……) 胸の奥に、鉛のように重い罪悪感が沈んでいる。 だが、隼人と小夜子は『業務継続』という決断を下した。 ここで翔吾が感情に呑まれ、ホテルマンとしての振る舞いを崩すことは、2人の判断を裏切ることになる。 だから彼は、歯を食いしばってカウンターに立っている。 本当は逃げ出したくてたまらなかった。 自分が冷たい目で見られるだけならいい。だがそのせいで兄と小夜子に迷惑がかかるのが心苦しい。 今すぐにここを立ち去って、これ以上の醜態を晒さないようにしたい。 けれど
部屋の中がしんと静まり返る。 小夜子の目は、少しも揺らいでいなかった。「翔吾さんも実加さんも、過去を乗り越え、せせらぎ亭の現場で苦労の末に実績を残しました。彼らは私たちの誇りある社員です。根拠のない誹謗中傷で彼らを隔離すれば、それは御子柴の思惑通りに、私たちの理念が敗北したことを意味します」 小夜子の眼差しが、デスクの奥の隼人を正面から射抜く。 隼人はゆっくりと腕を解き、小さく息を吐いた。鋭い眼光で役員たちを見回す。「小夜子総支配人の言う通りだ。翔吾と実加の業務は、このまま継続させる。我々が守るべきはネット上の無責任な世論ではなく、現場で汗を流す社員の尊厳だからな」「し、しかし社長……!」「俺自身も問題のある母を持ち、機能不全の家庭で育った。だが今では、こうしてアーク・リゾーツ社の社長を務めている。何か文句があるか?」 隼人の眼光に役員たちは押し黙った。「クレーム対応はフロントと広報でマニュアル化し、粛々と処理しろ。以上だ」 隼人の有無を言わせぬ決断に、役員たちは反論の言葉を失って従うしかなかった。◇ グラン・ヘリックス日本支社の社長室は、白とグレーだけで統一された、人間の体温を一切感じさせない無機質な空間だ。 部屋の主自らがデザインを手掛けた、完璧だけれど冷たさに満ちた部屋だった。 御子柴玲二は最高級の革張りチェアに深く腰掛けて、デスクの上の大型モニターを眺めていた。 映し出されているのは、急落を続けるアーク・リゾーツの株価チャートだ。「……素晴らしい暴落だ」 御子柴の薄い唇が、三日月の形に歪む。 手元のグラスに入った氷を揺らすと、カランと冷たい音が響いた。 SNSでの大炎上と、メディアの過熱報道。 すべてが彼の計算通り。いや、大衆の持つ下世話な好奇心と悪意は、予想以上の成果を上げている。「社長。記事の反響は絶大です。サンクチュアリのキャン
(僕が兄さんの足を引っ張っている) 罪悪感が、冷たい水のように肺を満たしていく。 せせらぎ亭で得た充実感も、新しいシステムへの手応えも、すべてが色褪せて見えた。 息をするのが苦しい。翔吾はキーボードから手を離し、固く目を閉じた。◇ アーク・リゾーツ本社の最上階、社長室。 空気は完全に凍りついていた。 黒崎隼人は、重厚な造りの執務机の奥で、腕を組んだまま険しい表情を崩さない。 周囲を取り囲む役員たちは、手元の資料やタブレット端末を握りしめて、口々に叫んだ。 彼らの声には焦燥感がにじんでいる。「社長! 現在、SNSの公式アカウントには誹謗中傷が殺到し、炎上状態です。株価も午前の段階で大幅に下落しており、このままではブランドイメージが崩壊します!」「直ちに黒崎翔吾氏と山内実加氏を現場から外すべきです。メディアに対しても、2人の処分を明確にする釈明会見を開く必要があります」 悲痛な訴えが交差する。 役員たちが2人の排斥を訴える中、よく通る凛とした声が場を制した。「お待ちください」 声の主は、アーク・リゾーツの総支配人である小夜子だった。 洗練されたネイビーのパンツスーツに身を包み、足元には黒のピンヒール。 隙のない完璧な装いの彼女が、役員たちの前に進み出る。「この記事の出所は、グラン・ヘリックスの御子柴玲二で間違いないでしょう。彼のやり口は常に卑劣です。これは単なるスキャンダルではありません。アーク・リゾーツが掲げる『人材登用の理念』への、直接的かつ悪意ある攻撃です」 小夜子の言葉に、年配の役員が眉をひそめた。「しかし、世間はそうは受け取りません! 現に顧客は離れているんだ!」「皆様。かつて、私の過去が週刊誌に暴露された時のことを思い出してください」 小夜子の言葉に、役員たちがハッと息を呑む。 愛人の子として生まれ、本家で虐げられ、まるでモノのように隼人の元へ契約結婚の道具として
一方、客室清掃のフロアでは。 実加が大量のタオルを積んだリネンカートを押して歩いていると、リネン室の前で固まっていた年配のパート従業員たちの声が嫌でも耳に飛び込んできた。「見た? あの記事。山内さんのこと」「ええ。やっぱり、元ヤンなんて雇うべきじゃないのよ。ホテルの品位が下がるわ」「手癖が悪いに決まってるわ。お客様の部屋で盗みでも働いたらどうするの」「それに、子供をほったらかしにしてるんでしょ? 私ならあんな働き方、絶対にしないわ」 言葉が刃となって実加の背中に次々と突き刺さる。 カートの持ち手を握る手に力がこもった。 以前の彼女なら、振り返って凄み、文句があるなら直接言えと怒鳴り散らしていただろう。 だが、今の彼女はサンクチュアリのホテルマンだ。 ここで怒りを露わにすれば、記事の内容を自ら証明することになってしまう。(耐えろ。ウチは変わったんだ。あんな記事に負けねえ) 実加は制服のスカートをきつく掴み、前だけを見て歩みを進めた。 しかし悪意は社内だけに留まらなかった。 ロビーの喧騒の中、1人の恰幅の良い中年の男性客が、チェックアウトのカウンター越しに声を荒げていた。「責任者を呼べ! あんな記事が出ているホテルに、大切な取引先を泊められるか!」 たまたま近くを通りかかった実加が、足早にカウンターへ向かう。「お客様、どうされましたでしょうか」「お前……記事に出てた女か! 元ヤンの清掃員なんて不潔極まりない! 今後の予約、全部キャンセルしてくれ!」 実加の肩がピクリと跳ねた。腹の底から、理不尽に対する熱いものが込み上げてくる。 実加は深く頭を下げた。「お客様、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」「不快どころじゃない! 従業員の教育もまともにできていない掃き溜めホテルじゃないか! 黒崎社長の顔に泥を塗るような真似をしおって!」 心無い言葉が次々と投げつけられる。喉の奥がカラカラに乾いていた。 そ
黒塗りの車が、砂利を踏みしめて停車した。 午後2時30分、老舗旅館『月影(つきかげ)』の玄関を小夜子は車の窓から見上げた。 築百年を超えるという木造建築は、確かに歴史の重みを感じさせる。だが今の小夜子の目には、それが「重厚さ」というより「重苦しさ」として映った。どこか薄暗く空気がよどんでいる。「降りるぞ」 隼人が短く告げてドアを開けた。さきほどまでの車酔いの青白い顔はどこへやら、その横顔はすでに冷徹な「再生屋」のものに戻っている。 小夜子も後に続いて車を降りた。 玄関前には、支配人を先頭に仲居や板前
「胃薬をお探しでしたら、棚の2段目にございます。……ですが、もしよろしければ」 小夜子はダイニングテーブルの椅子を引いた。「薬を飲む前に、少しお腹を温めてはいかがですか? 空きっ腹に薬は、胃を荒らしますので」 押し付けがましさのない、淡々とした提案だった。 隼人は拒絶しようとした。他人が作った食事など、信用ならない。 幼少期、冷え切った弁当やコンビニの味しか知らなかった彼にとって、家庭的な温かさなどというものは、煩わしい幻想でしかなかった。 けれど胃の痛みとひどい空腹が、理
(ここは人が暮らす場所ではないわ。まるで氷の城ね) そんな小夜子の迷いなど意に介さず、隼人はさっさとリビングへと進んでいく。 彼は上着を脱ぎ捨て、ソファの背もたれに無造作に掛けた。 広大なリビングの中央に鎮座する、黒い革張りのソファ。 隼人はそこに深く腰掛けて、ガラステーブルの上の瓶とグラスを手に取った。中にはウィスキーだろう、琥珀色の液体が満ちている。 カラン、と氷がグラスに当たる硬質な音が、広い空間に反響する。酒が注がれる音だけが、この部屋の沈黙を埋めていた。 隼人はグラスを傾け、氷越しに小夜子を見据えた
(……静かだ) 金目当ての女なら、「すごい英語ですね」と媚びてくるだろう。普通の令嬢なら、厳しい声に怯えたり、「私のことは放っておくの?」と不満を訴えたりする場面だ。 だが、この女は何も求めてこない。彼の事情に踏み込まず、かといって無視してふてくされるわけでもない。 ただ、完璧な「静寂」として、そこに存在している。 その無関心さが、今の張り詰めた神経には、不快であるどころか、妙に心地よかった。隼人はふっと肩の力を抜き、再びタブレットに視線を戻した。 やがて車が減速した。 窓の外







