Mag-log in数日後の午前11時、アーク・リゾーツ本社、最上階にある大会議室。
窓の外には東京の摩天楼が広がっているが、室内の空気はピンと張り詰めていた。 重厚なテーブルを挟んで、隼人と大河原老人が向き合って座っている。傍らには顧問弁護士たちが控え、テーブルの上には分厚い契約書が置かれていた。大河原老人は、契約書の最後のページに筆ペンで署名をした。そして実印を朱肉に押し付け、紙の上に運ぶ途中で手を止めた。
「……黒崎社長。特約条項は、忘れておらんだろうな」
老人の鋭い視線が飛ぶ。隼人は動じることなく頷いた。
「もちろんです。第15条をご確認ください。『敷地内庭園の保存、および新施設設計への妻・小夜子の監修権限を保証する』と明記してあります」
老人は老眼鏡の位置を直すと該当箇所を目で追い、満足げに鼻を鳴らした。
「よろしい」
タンッ。印鑑が契約書に押される。契約成立である。
その瞬間、室内に充満していた緊張の糸がふっと緩んだバックオフィスでは、黒崎翔吾が複数のモニターを並べ、複雑な数式と格闘している。「翔吾さん、少し休憩してはどうですか? 目が疲れていますよ」「……あ、総支配人。いや、これ、新しいスタッフ配置の最適化システムを組んでるんです。せせらぎ亭での経験を反映させたら、もっと効率が上がるはずだと思って」 19歳の翔吾は、かつての「冷徹なAI少年」の面影を残しつつも、その内面には温かな熱が宿り始めていた。「数字も大事だけど、人間には休息が必要ですよ。はい、目薬」「あ、ありがとうございます。……あ、そうだ。実加さんに伝えておいてください。今日のシフトが終わったら、理玖の離乳食の作り方を教えると」「あら、翔吾さんが教えるのですか?」「彼女、この前『栄養バランスとか面倒くさい』とか抜かしたんですよ。僕の論理的な献立案を無視するなんて万死に値する。だから徹底的に叩き込みます」 そっけない言い方だ。 けれどそこには実加と理玖への深い思いやりが透けて見えた。 小夜子は(ふふ、名コンビね)と思いながら、エレベーターに乗った。目指すは上階の社長室だ。 社長室の扉を開けると、そこには最愛の夫であり、最高のビジネスパートナーである黒崎隼人がいた。 彼は書類の山に囲まれつつも、小夜子の気配に気づくと顔を上げた。「小夜子、ちょうどいいところに。……その香りは、ミントか?」「ええ。少しお疲れのようだったから、リフレッシュできるハーブティーを淹れてきました。お茶請けは昨日焼いたガレット・ブルトンヌです。バターをたっぷり使ったので、脳の栄養補給にぴったりですよ」 小夜子が手際よくカップに茶を注ぐと、澄んだ液体から爽やかな湯気が立ち上る。 隼人はそれを一口飲み、深い息を吐き出した。「助かる。……お前の淹れる茶を飲むと、自分がただの『社長』ではなく、一人の『人間』に戻れる気がするよ」「まあ、大げさですね。私はあなたの妻であり、
太陽の光がホテル『サンクチュアリ』のガラス外壁に反射し、眩しいほどの輝きを放っている。 黒崎小夜子は、総支配人としてのモーニングルーティンをこなしていた。 手には黒い革表紙のメモ帳を持つ。ロビーの隅々まで目を光らせ、わずかな埃も見逃さない。「おはよう、佐藤さん。あそこの観葉植物、葉の先が少し乾いています。霧吹きをしてあげて」「あ、はい! すぐやります、総支配人」 名指しされたスタッフはすぐに霧吹きを持ってきて、乾いていた葉先に水を吹きかけた。 きびきびと動くスタッフたちの姿に、小夜子の口元が自然と緩んだ。(やっと、この場所がみんなの『家』として機能し始めましたね) 少し前まで、ここはスキャンダル攻撃によって重苦しい空気が支配していた。 しかし今は活気と自信に満ちている。 ライブ配信で真実が伝わったあの日から、世間の風向きは完全に変わった。 応援の声は予約数となって現れ、連日満室という嬉しい悲鳴が続いている。(さて、次は……) 小夜子はリネン室のバックヤードへと足を運んだ。 そこには、大量のシーツをカートに積み込む山内実加の姿があった。「実加さん、調子はいかがですか?」「師匠! 仕事は問題ないっす。そんで聞いてくださいよ。理玖が今朝初めて『マンマ』って言った気がするんです!」 実加は顔を輝かせ、大きな瞳をさらに見開いた。 18歳のシングルマザーである彼女は、この数ヶ月で見違えるほどプロの顔つきになった。 以前の荒々しさと刺々しさは消えた。 今は「理玖を立派に育てる」という目標が、彼女の芯を強くしている。「それは嬉しいですね。きっと実加さんの頑張りが伝わったのでしょう」「へへ。だからウチ、今日中にこのフロア全部、ピッカピカにしてやりますから。シーツのシワ一つ許さねえッス!」「頼もしいわ。でも、無理はしないでくださいね。先ほど保育所の『こぐまの森』へ様子を見に行ったら、理玖くんはお昼寝をしていました。天使のよう
SNSのメッセージはなおも続いている。『社内保育所完備とか、アーク・リゾーツって従業員を全力で守る最高の会社じゃん』『炎上した社員をクビにするんじゃなくて、記者会見までして守ってさ。そりゃあ片方は社長の弟だけど、もう1人は他人でしょ?』『過去を乗り越えた兄弟のホテル、絶対泊まりに行く!』『来月の旅行、サンクチュアリに予約入れた! 応援してます!』 SNSのメッセージは、アーク・リゾーツ社へ味方するものばかりに変わっていた。 スキャンダルによってブランドを失墜させるという御子柴の目論見は、完全に崩れ去った。 それどころか、ピンチを逆手にとった彼らの行動は、世間の絶大な共感と支持を集める結果となってしまったのだ。 結果としてアーク・リゾーツ社の株価は急反発を見せている。 傍らの端末では、サンクチュアリへの新規予約が殺到している様子が見て取れる。 予約サイトはあっという間に満室になっていた。 御子柴は忌々しげにネクタイを緩めると、モニターの中の隼人を冷酷な目で見つめた。「綺麗事でいつまで持つか。現場の熱だの、人の情だの、そんな曖昧なもので会社が守れると思っているなら大間違いだ」 薄い唇が三日月の形に歪む。 彼にとって会社の経営とは、ただ利益という数字の追求以外にない。 そのやり方で御子柴はのし上がった。30代にして大手外資ホテルチェーンの支社長にまで成り上がった成果が、正しさを証明している。 だから彼は、アーク・リゾーツの主張を認めるわけにはいかないのだ。 認めてしまえば、自分を構成する経歴が足元から揺らぐ。 切り捨ててきた人々の悲鳴を踏みつけ、犠牲をものともしなかった道が間違っていたなど、到底認められない。 せせらぎ亭の嵐の夜に感じた温かさは、今となっては彼の汚点でしかない。 御子柴のやり方でアーク・リゾーツに打ち勝ち、あの会社を飲み込むことだけが存在意義の証明になる。「次は力でねじ伏せてやる。――TOBの準備を進めろ。奴らの城を、根こそぎ奪い
「アーク・リゾーツには、従業員のための素晴らしい社内保育所があります。保育士さんたちが愛情を持って理玖の面倒を見てくれているからこそ、アタシは夜遅くまで安心して働くことができるんです。育児放棄なんかじゃない! 理玖を立派に育てるためなら、トイレ掃除でもベッドメイキングでも、なんだって全力でやります。それがウチの母親としての責任です!」 実加の飾らない、心の底からの叫びだった。 その言葉はカメラのレンズを越えて、画面の向こう側にいる同じように働く母親や、理不尽な状況で苦しむ人々の心に強く響いた。 会場の空気が完全に反転したのを確かめて、隼人が立ち上がる。「アーク・リゾーツは、過去の出自や経歴で人を切り捨てるような会社ではありません」 隼人の声は、会場の隅々にまで響き渡る重みを持っていた。「過去の出自や経歴で人を見限るのではなく、今、現場で汗を流し、お客様のために全力を尽くす彼らこそがアーク・リゾーツの誇りです」「ええ、そのとおりです。アーク・リゾーツ社は責任感のある人を歓迎します。真面目に働くのであれば、過去は関係ありません。採用試験は随時行っておりますよ」 小夜子が微笑む。「我々の言いたいことは、以上です」 4人が立ち上がって一斉に頭を下げた。 フラッシュの嵐が再び巻き起こる。 けれど向けられているのはもはや好奇の目ではなく、明らかな称賛だった。「素晴らしい理念です。悪意のある世論に惑わされず、芯を貫いている」「感銘を受けました」 記者たちが拍手を始める。 鳴り響く拍手の中、4人は深く頭を下げ続けていた。◇ 同じ頃、グラン・ヘリックス日本支社の社長室。 ――ガツンッ! 白とグレーで統一された無機質な空間に、硬質な音が響いた。 御子柴玲二が、手元のクリスタルグラスを乱暴にテーブルに叩きつけたのだ。 氷が激しく揺れて、琥珀色の液体がテーブルに飛び散る。「……ふ
フラッシュの光が一段と激しくなる。 翔吾の言葉は淡々としていたが、それだけに真実味があった。「やがて父は別の女性と再婚――いえ、母と結婚していなかったので改めて結婚し、新しい子供が生まれました。僕は家の中で完全に異物でした。継母からは当然のように疎まれ、家の中のどこにも僕の居場所はなかった。子育ての手間と出費だけを押し付け、さらに金をせびる生みの親を憎み、孤独に耐える日々でした」 翔吾はそこで一度言葉を区切り、肺に新しい酸素を取り込む。 喉の奥にこみ上げる熱い塊を飲み下した。「父からの最後の温情として、大学の学費を援助してもらいました。学費だけです。実家は追い出されてしまったので、家賃を含めた生活費はすべて、アルバイトで賄っていました。しかし、それすらも母に使い込まれました。退学の危機に直面し、すべてに絶望しかけた僕に、兄である黒崎隼人が手を差し伸べてくれました。アーク・リゾーツという職場と、生きる道を与えてくれたのです」 会場は完全な静けさに包まれていた。 記者の誰もが、翔吾の生々しい告白に引き込まれている。「僕は今、このホテルで試用期間の社員として一からやり直しています。過去の恨みに囚われるのではなく、兄や義姉が与えてくれたチャンスに報いるために。アーク・リゾーツで働く今の充実感と、ホテルマンとしての誇りを胸に、お客様のために全力を尽くす覚悟です」 翔吾が深く頭を下げると、会場から感嘆のようなどよめきが漏れた。 次に、最前列に陣取っていた記者がマイクを握り立ち上がる。「山内実加さん。あなたには、子供を放置しているという育児放棄の疑いがかけられていますが、それについてはどうお考えですか!」 悪意を含んだ棘のある質問だった。 実加はマイクを引き寄せて、記者の顔を鋭い視線で睨みつけた。彼女の背筋はピンと伸び、少しの怯えも感じさせない。「育児放棄なんて、ふざけたこと言わないでください」 実加の凛とした声が、マイクを通して会場に響く。「ウチは元夫の暴力から逃げてきました。あの男はギャンブルで多額の借金を作って、理玖の、息子のミル
実加もまた、両手の拳をきつく握り込んだ。「ウチも逃げないよ。理玖のために、ここで堂々と胸を張る。悪いことなんて一つもしてないんだから」 小夜子は微笑んだ。「ええ、その意気です。大丈夫、あの暴力男やマスコミの悪意は、私たちが必ず防ぎます。あなたたちは堂々と真実を語ればいいのです」「……はいっ! 師匠!」 実加がパチンと自分の頬を叩き、気合を入れた。 まだ緊張は残っているが、それ以上の闘志がある。 翔吾はネクタイの結び目を直して、顔を上げる。彼の瞳に、迷いはもうなかった。「時間だ。行こう」 隼人の声に促され、四人は会見場へと続く重い扉を開けた。◇ 扉の向こう側は、目が眩むような光の氾濫だった。 パシャッ、パシャッ! 無数のカメラのフラッシュが、容赦なく4人の姿を切り取っていく。シャッター音が嵐のように会場に響き渡る。 長机に4人が並んで座ると、司会進行の合図を待たずに、記者たちの矢継ぎ早な質問が飛び交い始めた。「黒崎社長! 週刊誌の報道は事実ですか!」「ホテル内で暴力沙汰があったというのは本当ですか!」「動画の映像と、警察が出動した事実もありますが!」 隼人がマイクを引き寄せて、会場全体を見渡した。「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。一部報道について、当事者の口から真実をお話しいたします。どうか皆さん、静粛に」 他を圧倒するような威厳だった。 隼人の言葉と態度を受けて、会場のざわめきが波を引くように収まっていく。 隼人の目配せを受けて、まずは翔吾がマイクを握った。 マイクの冷たい金属の感触が、手のひらに伝わってくる。彼は大きく息を吸い込み、口を開いた。「週刊誌の報道にあった通り、僕は、父の妻の子ではありません。婚外子です」 会場にどよめきが走る。 ノートPCのキーボードを叩くタイ







