Masuk数日後の午前11時、アーク・リゾーツ本社、最上階にある大会議室。
窓の外には東京の摩天楼が広がっているが、室内の空気はピンと張り詰めていた。 重厚なテーブルを挟んで、隼人と大河原老人が向き合って座っている。傍らには顧問弁護士たちが控え、テーブルの上には分厚い契約書が置かれていた。大河原老人は、契約書の最後のページに筆ペンで署名をした。そして実印を朱肉に押し付け、紙の上に運ぶ途中で手を止めた。
「……黒崎社長。特約条項は、忘れておらんだろうな」
老人の鋭い視線が飛ぶ。隼人は動じることなく頷いた。
「もちろんです。第15条をご確認ください。『敷地内庭園の保存、および新施設設計への妻・小夜子の監修権限を保証する』と明記してあります」
老人は老眼鏡の位置を直すと該当箇所を目で追い、満足げに鼻を鳴らした。
「よろしい」
タンッ。印鑑が契約書に押される。契約成立である。
その瞬間、室内に充満していた緊張の糸がふっと緩んだ初夏の風が、社長室のブラインドをわずかに揺らしている。 小夜子はネイビーのノーカラージャケットの袖口を軽く直した。 中に着たオフホワイトのシフォンブラウスが、肌に柔らかく触れる。同色のタイトスカートに包まれた膝の上で、彼女は両手を重ね合わせた。 社長室には、隼人、翔吾、小夜子の3人が揃っていた。 翔吾はタブレットの他、分厚い資料のファイルを抱えている。 ミーティングテーブルの上に、翔吾が何十枚もの書類を並べていく。真新しいインクの匂いが鼻をかすめた。「現在、我々アーク・リゾーツとグラン・ヘリックスは、次回の株主総会に向けた委任状争奪戦の真っ只中にあります」 翔吾がタブレットを操作し、大型モニターに円グラフを映し出した。 円グラフは株主の割合を示している。 彼の銀縁眼鏡の奥の瞳は、数値を正確に読み取っていた。 小夜子が言う。「より多くの株主の支持を得る戦い……いわゆるプロキシファイトですね。勝敗の鍵を握るのは、株式全体の4割を保有している投資ファンドの動向です」「投資ファンドか……」 小夜子の言葉を受けて、隼人が革張りのソファに背中を預けた。ソファが小さく軋む音を立てる。「あいつらは利益第一だ。グラン・ヘリックスが提示する短期的な株主還元の数字に傾いている。説得は一筋縄ではいかないぞ」 株主とは会社が利益を上げることで、自分たちにその利益が還元されることを望むものだ。 また、投資分野の人間は基本的に「今」しか見ない。 今現在利益が上がるかどうかだけを重んじて、長期的な成長や価値について軽視する傾向がある。 グラン・ヘリックスの一時的な株主還元比率の向上は、投資家である株主たちにとって魅力的に映るはずである。「はい。ですが、残り6割の株主の動向も決して無視できません。特に、数パーセントから数十分の1パーセントを保有する個人株主たちの票です。……こちらをどうぞ」 翔吾はそう言うと、テーブ
「そうだよな。実加ちゃんの言う通りだ」 ベテランの清掃員が、大きくうなずいた。「俺たち、ちょっと浮かれすぎてたかもしれない。よく考えたら、見ず知らずの連中がいきなり倍の給料払うなんて、裏があるに決まってる」「あんな連中に、このホテルを乗っ取られるのはごめんだね」「そうよ。このホテルは社長と総支配人と、それからあたしたちが作ったホテルなんだから」「みんなで頑張って、今の経営陣を支えようぜ。こんな詐欺みたいな話に負けてたまるか」 スタッフたちの表情から不安の影が消えて、晴れやかなものに変わった。 さらに、消えた不安の代わりに強い結束の光が宿り始めていた。 疑心暗鬼の霧が晴れて、1つのチームとしての活力が戻ってくるのが、声のトーンから手に取るようにわかる。「ウチらが今できるのは、今まで通り仕事をきちんとこなすことだけ。お客様に真心込めたサービスを提供しようぜ!」 実加が言うと、周囲から次々と賛成の声が上がった。 通路の陰でその様子を聞いていた小夜子は、安堵の息を長く吐き出した。(信じてくれてありがとう。ええ、あなたたちの居場所は、私が絶対に守り抜きます) 小夜子は踵を返し、社長室へと歩き出した。パンプスが床を叩く音が、先ほどよりもずっと力強く軽やかに響く。 内部の足場は固まった。 従業員たちの心は、もう二度とグラン・ヘリックスの甘い罠には揺らがないだろう。 社長室のドアを開けると、隼人が窓際から振り返った。 彼の表情も、どこかスッキリとしている。 どうやら、彼が担当した部門のチーフたちへの説得も上手くいったようだ。「小夜子、そっちの様子はどうだった?」「完璧です、隼人さん。翔吾さんのレポートと、実加さんの言葉のおかげで、スタッフたちの迷いは完全に吹っ切れました。もう、内部が崩れる心配はありません」 小夜子は隼人の隣に並び立ち、窓の外を見下ろした。「ああ。これでようやく、後顧の憂いなく反撃に転じることができる」 隼人の目に
「えっ、基本給が倍になるのって、最初の半年だけなんですか!?」 20代の若いベルボーイが、配られた資料を見つめながら素頓狂な声を上げた。「ああ。半年後にはリストラが待ってる。ここに書いてある通り、過去のホテルじゃ8割の人間がクビを切られてるんだ」 フロントマネージャーが厳しい顔つきで答える。「うそでしょ……。私、車のローンが一気に返せると思って、昨日からディーラーのサイトばっかり見てたのに」 パートの女性スタッフが、がっくりと肩を落とした。「AIシステムって何ですか? 俺たちの仕事、機械に奪われるってことですか?」「客室の清掃管理やシフト作成をシステム化して、人員を極限まで削るらしい。残った人間にはとんでもないノルマが課せられる。未達なら即減給だ」 フロントマネージャーの説明に、休憩室は騒然となった。「そんなの詐欺じゃないですか!」「前の会社にいた時、外資に買収されて同じような目に遭った先輩を知ってます。成果主義って聞こえはいいけど、結局は人件費を削るための口実なんですよね」 30代の男性スタッフが、忌々しげに舌打ちをした。「ボーナス保証なんて言葉も、全部嘘だったんですね。危うく信じるところだった」 スタッフたちの間で、次々と不満と怒りの声が上がり始める。 昨日までの買収に対する期待やフワフワとした幻想は、現実の冷酷なデータによって完全に打ち砕かれていた。 ざわめきの中、ひときわ大きな声が休憩室に響き渡った。「だから、ウチは最初から信じないって言ったじゃないですか!」 山内実加だ。 彼女はパイプ椅子から勢いよく立ち上がり、腰に両手を当てて周囲のスタッフたちを見回した。「あんなの、どこの誰とも知らないスーツ着たおっさんが、勝手に言ってるだけッスよ。ウチらの顔も、名前も、どんな風に仕事してるかも知らないくせに、給料倍にしますなんて、そんなうまい話あるわけないじゃないですか」 実加の言葉はぞんざいで飾り気がなかったが、不思議な説得力を持
「AI導入による業務効率化で、8割の従業員をリストラ……? なんだよこれ。残ったスタッフも、厳しいノルマで減給続きじゃないか」 フロントマネージャーの目が、レポートのグラフに釘付けになっている。「この3ページ目の口コミを見てください。買収された『ホテル・シーサイド』の元従業員の声です」 小夜子が促すと、宴会部門のリーダーがその部分を声に出して読み上げた。「『給料が上がるという言葉を信じて同意したが、半年後に突然退職勧奨を受けた。拒否すると、今まで経験のない深夜の清掃部門に回され、体調を崩して辞めざるを得なかった。残った同僚も1人で3人分の仕事を押し付けられている』……ひどすぎる」「これが、彼らの言う『正当な報い』の正体です」 小夜子は真っ直ぐにチーフたちを見つめた。「彼らは、皆様の生活を守る気などありません。今提示されている好条件はホテルを内部から切り崩すための、ただの甘い毒です。飲み込めば、半年後には取り返しのつかないことになります」「そんな……」 チーフたちの顔から、先ほどのよそよそしさは消え失せていた。 代わりに浮かんでいたのは、騙されかけていたことへの怒りと、安易な条件に飛びつこうとした自分たちへの後悔だ。「俺たち、すっかりあの動画の言葉に乗せられてました……」 フロントマネージャーが手で顔を覆った。「危ないところでした。もしこのまま彼らのペースに乗せられていたら、現場のスタッフたちを全員路頭に迷わせるところだった」 レストラン部門のチーフがレポートを強く握りしめる。紙の端がくしゃりと折れ曲がった。「総支配人、この資料、現場のスタッフに見せてもいいですか? 全員に真実を知らせる必要があります」 宴会部門のリーダーの言葉に、小夜子は深くうなずいた。「ええ、お願いします。トップからの頭ごなしの説明ではなく、日頃から苦労を共にしている皆様の言葉で伝えていただくのが、一番確実ですから」
チーフらの視線は泳ぎ、小夜子と目を合わせることを避けていた。 よそよそしい態度から、彼らの本音が待遇改善案に大きく揺れていることがうかがえる。「お忙しいところ、集まっていただきありがとうございます」 小夜子はグレーのスーツの背筋を伸ばし、テーブルの上座から彼らに語りかけた。「昨晩のニュースや、ロッカールームに撒かれたビラの件で、皆様が動揺されているのは承知しております。本日は、現場を預かる皆様の率直な意見を伺いたくて、お時間をいただきました」「……それは」「…………」 部屋に重い沈黙が落ちる。しばらくの間、エアコンの稼働音だけが聞こえていた。 やがてフロントマネージャーが、ネクタイの結び目を無意識に触りながら口を開いた。「……総支配人。正直に申し上げます。現場のスタッフたちは、かなり疲弊しています。先日のネット炎上の際も、フロントには嫌がらせの電話が鳴り止みませんでした。クレーム対応の最前線に立たされるのは、いつも現場の人間なんです」 彼の言葉を皮切りに、せきを切ったように他のチーフたちも話し始めた。「レストラン部門も同じです。あんな騒ぎの後は、お客様の目線が気になって、スタッフたちの笑顔も強張っています」 レストラン部門のチーフが腕を組み、眉間に深い皺を寄せた。「その上、基本給2倍なんて話が出れば、そりゃあ心も揺らぎますよ。うちの若いスタッフの中には、来年子供が受験を控えている奴もいます。親の介護費用が嵩んで、毎月のシフトを増やしてくれと泣きついてくるパートさんもいるんです」「宴会部門も、キャンセル対応で連日残業続きでした。大手の傘下に入って、外資系のコンプライアンスで守ってもらえるなら、その方が安心なんじゃないかって、そういう声が出るのも当然です」 宴会部門のリーダーの口調には、経営陣に対する微かな非難の色が混じっていた。 彼らの言葉は、日々の生活と直結した切実なものだ。 小夜子は彼らの言
見えない不安と闘うのは難しいものだ。 しかし相手の手口が具体的な数字として現れた以上、対処の方法はいくらでも考えられる。 小夜子の思考はすでに次のフェーズへと切り替わっていた。「見事なデータだ、翔吾。これで相手の虚言を完全に崩せる」 隼人がソファから身を乗り出して、タブレットの画面をスワイプした。「問題は、この事実をどうやって現場の従業員たちに伝えるか、ですね」 小夜子は顔を上げて、隼人と翔吾を交互に見た。「全体集会を開いて一斉に発表するのは、避けた方が良いと思います。今の疑心暗鬼に陥った空気の中で経営陣がマイクを握っても、『買収を焦った経営側の引き留め工作だ』と誤解されかねません」「僕も総支配人の意見に賛成です」 翔吾がうなずき、手元の資料をトントンと机で揃えた。「人間は自分が信じたい情報を優先する傾向があります。特に生活がかかっている今は、数字だけを見せても反発される可能性があります。実加さんでも一目でわかるような、シンプルなグラフと、実際に買収されたホテルの元従業員たちの生々しい口コミを交えたレポートをすぐに作成します」 実加の名を口にする時、翔吾はちょっとだけ笑ってみせた。 この緊張感漂うミーティングの中で、ほんのわずかの温かさが宿ったようだった。 小夜子は微笑み返す。「助かります、翔吾さん。……では、伝え方はこうしましょう。トップダウンの指示や発表ではなく、各部門のチーフやリーダーたちと少人数でのミーティングを開きます。直接彼らの不安や本音を聞きながら、会話の中でこの資料を提示するのです」 小夜子の提案に、隼人が短くうなずいた。「わかった。俺と小夜子で手分けして、各部門の責任者たちと話をしよう。翔吾、レポートの印刷を急いでくれ」「承知しました、社長」 翔吾は手早くタブレットを抱えて一礼すると、足早に社長室を後にした。◇ それからしばらく後の、午後1時。







