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8:気難しい客

last update Date de publication: 2025-12-03 19:56:52
 深夜の白河本邸。

 広大な客間は、冷え切った静寂に包まれていた。

 シャンデリアの明かりを最小限に落とした薄闇の中、小夜子は一人で銀食器を磨いていた。

 手元にあるのは年代物のカラトリーだ。かつては専門の係が管理していた品だが、今は違う。経営難に喘ぐ白河家から、使用人たちは一人、また一人と去っていった。

 今や掃除も洗濯も、明日の重要な客人を迎える準備も、すべては「経費削減」という名目のもと、小夜子の細い腕にのしかかっている。

 柔らかい布で銀の表面を拭う。曇りが取れて、冷ややかな月光のような輝きが戻ってくる。

 その銀の鏡面に、疲れ切った自分の顔が映り込んだ。

(……明日のお客様も、気難しい方だという噂ね)

 客の名は黒崎隼人。新興ホテルグループの社長である。

 不動産売買を元手にホテル業界に参入した彼は、強引な買収の手口から「ハゲタカ」と呼ばれ恐れられていた。

 黒崎隼人がどのような用事で白河家を訪れるのか、小夜子は知らない。

 ただ完璧な状態で出迎えるよう言いつけられただけだ。

 彼を迎えるこの客間を見渡したとき、小夜子の脳裏に、ふと3年前の記憶が蘇った。

 あの時
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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   322:過去からの来客

     ホテル・サンクチュアリの受付ロビー。大理石のカウンターに、ルームキーが放り出された。 カシャン、と硬質な音がする。丁寧とは程遠い音だ。 黒崎翔吾はすぐに口角の角度を調整し、完璧な営業スマイルを作った。「ご滞在は、いかがでしたでしょうか」「……不愉快極まりないわ。さっさと手続きを済ませてちょうだい」 初老の女性客は翔吾の顔を見ようともしない。 手には高級ブランドのバッグが握られているが、視線は明後日の方向を向いたままだった。「かしこまりました。この度はご利用ありがとうございました」 翔吾は手元の端末を操作し、流れるような動作で明細書を印刷する。(想定内だ。ネット上のノイズが現実の顧客行動に影響を与える確率は、すでに計算済みだ) 心の中で繰り返す。 自身の思考システムに新たな要素を組み込むように、何度も言い聞かせた。 周囲には冷ややかな視線が満ちている。 あからさまに翔吾の担当を避ける素振りも少なくない。 昨日の朝から、ロビーの空気は一変していた。 週刊誌が書き立てたスキャンダルの中心にいるのは、翔吾だ。 兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚れを付けてしまった。(せっかく隼人兄さんに認めてもらえたのに。居場所を見つけて、これからという時に。僕のせいで……) 胸の奥に、鉛のように重い罪悪感が沈んでいる。 だが、隼人と小夜子は『業務継続』という決断を下した。 ここで翔吾が感情に呑まれ、ホテルマンとしての振る舞いを崩すことは、2人の判断を裏切ることになる。 だから彼は、歯を食いしばってカウンターに立っている。 本当は逃げ出したくてたまらなかった。 自分が冷たい目で見られるだけならいい。だがそのせいで兄と小夜子に迷惑がかかるのが心苦しい。 今すぐにここを立ち去って、これ以上の醜態を晒さないようにしたい。 けれど

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   321

     部屋の中がしんと静まり返る。 小夜子の目は、少しも揺らいでいなかった。「翔吾さんも実加さんも、過去を乗り越え、せせらぎ亭の現場で苦労の末に実績を残しました。彼らは私たちの誇りある社員です。根拠のない誹謗中傷で彼らを隔離すれば、それは御子柴の思惑通りに、私たちの理念が敗北したことを意味します」 小夜子の眼差しが、デスクの奥の隼人を正面から射抜く。 隼人はゆっくりと腕を解き、小さく息を吐いた。鋭い眼光で役員たちを見回す。「小夜子総支配人の言う通りだ。翔吾と実加の業務は、このまま継続させる。我々が守るべきはネット上の無責任な世論ではなく、現場で汗を流す社員の尊厳だからな」「し、しかし社長……!」「俺自身も問題のある母を持ち、機能不全の家庭で育った。だが今では、こうしてアーク・リゾーツ社の社長を務めている。何か文句があるか?」 隼人の眼光に役員たちは押し黙った。「クレーム対応はフロントと広報でマニュアル化し、粛々と処理しろ。以上だ」 隼人の有無を言わせぬ決断に、役員たちは反論の言葉を失って従うしかなかった。◇ グラン・ヘリックス日本支社の社長室は、白とグレーだけで統一された、人間の体温を一切感じさせない無機質な空間だ。 部屋の主自らがデザインを手掛けた、完璧だけれど冷たさに満ちた部屋だった。 御子柴玲二は最高級の革張りチェアに深く腰掛けて、デスクの上の大型モニターを眺めていた。 映し出されているのは、急落を続けるアーク・リゾーツの株価チャートだ。「……素晴らしい暴落だ」 御子柴の薄い唇が、三日月の形に歪む。 手元のグラスに入った氷を揺らすと、カランと冷たい音が響いた。 SNSでの大炎上と、メディアの過熱報道。 すべてが彼の計算通り。いや、大衆の持つ下世話な好奇心と悪意は、予想以上の成果を上げている。「社長。記事の反響は絶大です。サンクチュアリのキャン

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   320

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  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   319

     一方、客室清掃のフロアでは。  実加が大量のタオルを積んだリネンカートを押して歩いていると、リネン室の前で固まっていた年配のパート従業員たちの声が嫌でも耳に飛び込んできた。「見た? あの記事。山内さんのこと」「ええ。やっぱり、元ヤンなんて雇うべきじゃないのよ。ホテルの品位が下がるわ」「手癖が悪いに決まってるわ。お客様の部屋で盗みでも働いたらどうするの」「それに、子供をほったらかしにしてるんでしょ? 私ならあんな働き方、絶対にしないわ」 言葉が刃となって実加の背中に次々と突き刺さる。 カートの持ち手を握る手に力がこもった。  以前の彼女なら、振り返って凄み、文句があるなら直接言えと怒鳴り散らしていただろう。 だが、今の彼女はサンクチュアリのホテルマンだ。  ここで怒りを露わにすれば、記事の内容を自ら証明することになってしまう。(耐えろ。ウチは変わったんだ。あんな記事に負けねえ) 実加は制服のスカートをきつく掴み、前だけを見て歩みを進めた。 しかし悪意は社内だけに留まらなかった。  ロビーの喧騒の中、1人の恰幅の良い中年の男性客が、チェックアウトのカウンター越しに声を荒げていた。「責任者を呼べ! あんな記事が出ているホテルに、大切な取引先を泊められるか!」 たまたま近くを通りかかった実加が、足早にカウンターへ向かう。「お客様、どうされましたでしょうか」「お前……記事に出てた女か! 元ヤンの清掃員なんて不潔極まりない! 今後の予約、全部キャンセルしてくれ!」 実加の肩がピクリと跳ねた。腹の底から、理不尽に対する熱いものが込み上げてくる。  実加は深く頭を下げた。「お客様、ご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません」「不快どころじゃない! 従業員の教育もまともにできていない掃き溜めホテルじゃないか! 黒崎社長の顔に泥を塗るような真似をしおって!」 心無い言葉が次々と投げつけられる。喉の奥がカラカラに乾いていた。  そ

  • 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く   318

     同僚が、ためらいがちに翔吾の方へ近づいてくる。 いつもは軽口を叩く男が、今日はひどく強張った顔をしていた。「……翔吾さん。これ、見ましたか」 同僚は自分のタブレット端末を、翔吾のテーブルの上にそっと置いた。 画面には、実加が見たものと同じ週刊誌のWeb記事が表示されている。『アーク・リゾーツ社社長の母・真澄さんはギャンブル依存とアルコール依存の末に多額の借金を抱え、現在は行方不明』『社長の弟・黒崎翔吾さんは、父親が独身時代に交際していた女性――黒崎真澄さん――との間に生まれた子ども。当時、彼女は別の男性とも交際しており、まさに奔放な関係の末に生まれた子である』『アーク・リゾーツ社社長の黒崎隼人氏とは、同母・異父兄弟になる。つまり隼人氏にも問題の母親の血が流れている』 黒の太字で強調された文字の羅列が、直接脳内に流れ込んでくる。 翔吾の指先から一気に熱が引いていく感覚が走った。 先ほどまで頭の中にあった完璧なスケジュールが、あっという間に消し飛んだ。「……こんなの、何かの間違いですよね?」 同僚の探るような声が、ひどく遠くに聞こえる。 自分が、兄である隼人の完璧な経歴に、アーク・リゾーツというブランドに、消えない汚点を付けてしまった。(僕のせいで。僕が兄さんを頼ったから) その思いが翔吾の心を蝕んだ。 周囲の音が急速に遠のき、自分の浅く早い呼吸音だけがやけに大きく耳に響くようだった。 翔吾はとっさにテーブルの端を強く握り、何とかその場に立ち留まった。 同僚への返事は、できなかった。◇ 記事の影響は、瞬く間にサンクチュアリの現場を侵食し始めた。 ロビーのフロントカウンターで、翔吾はキーボードを叩きながら、耳元のインカムマイクに手を当てた。「東館の清掃チーム、11時の段階でリネン交換に5分の遅れが出ています。西館からヘルプを2名

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    『現在も、彼女は同ホテルで清掃員として働いている。赤ん坊の我が子を社内保育所に預けっぱなしにするなど、育児放棄の疑いも持たれている』 ――育児放棄。 その言葉にギリッと奥歯が鳴った。 過去の愚かさは否定しない。男を見る目がなかったことも、特攻服を着てイキがっていたことも事実だ。 だが理玖のことは別だった。 さっきまで腕の中にあった、確かな重みと無邪気な笑顔が蘇る。 自分の食事を切り詰めてでも、あの子のミルクやおむつを優先してきた。 実加がシングルマザーになったのは、理玖の父親にあたる男が暴力を振るったからだ。 実加に対してだけであれば我慢できたし、反撃もした。 だが小さな理玖に手を挙げたのを見た瞬間、彼女は息子を連れて家を飛び出した。 それなのに。(育児放棄だと? ウチが、あの子を愛してないって……?) 視界の端がじわりと歪んだ。 育児放棄はしていない。 けれど過去の愚かな行いは事実だ。 小夜子や翔吾が作り上げた、この誇り高い『サンクチュアリ』という居場所とアーク・リゾーツというブランド。 彼女の過去という拭い切れない汚れが、それにべったりと張り付いてしまった。 喉の奥に熱く固い塊がせり上がり、実加は息をするのも忘れてその場に立ち尽くした。◇ アーク・リゾーツ本社の社員用ラウンジは、太陽の光をふんだんに取り込んだ明るい空間だ。 黒崎翔吾はいつもの窓際の席で、淹れたてのブラックコーヒーの入った紙コップを手にしていた。 適度な酸味と深いコクが鼻から喉へと抜けていく。 この一杯を飲みながら、タブレット端末で本日のチェックインのピーク時間、VIPの導線、スタッフの配置状況を確認する。 脳内で完璧なスケジュールを組み上げる、彼にとって欠かすことのできない朝のルーティンだった。 しかし、今日のラウンジは何かがおかしかった。

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    「初対面の方に、そのようなご指摘をいただく筋合いはございません。業務の一環ですので」 小夜子は半歩下がって、事務的な笑顔で壁を作った。 だが男は引かなかった。むしろ、その拒絶が面白かったらしい。「業務、か。堅苦しいねえ」 男はクスクスと笑い、名刺を差し出した。『株式会社ネクスト・フロンティア代表取締役社長 高塔蓮』。 新進気鋭のITベンチャーの社長だ。最近、メディアでよく見かける顔だった。小夜子も経済誌で見た覚えがある。「あの黒崎社長の奥様だよね? 噂は聞いているよ。没落した旧家から引き上

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     小夜子は音を立てないように寝室へ戻り、毛布を持ってきた。そっと近づいて、寝顔を覗き込む。(この方は、ずっと一人で戦ってきたのだわ) 小夜子は思った。彼の強引な求愛も、強い独占欲も。 その前の、誰も寄せ付けない冷たく厳しい態度も。 裏を返せば、それは失うことへの恐怖と冷たい孤独の裏返しなのかもしれない。(旦那様は、ずっと孤独だったとおっしゃっていた) 隼人が話してくれた過去を思い出す。 幼い頃に母親に見捨てられ、冷え切ったアパートで震えていたこと。 生き延びるのに必

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-31
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     電話を切った秘書は、慌てて社長室に飛び込んだ。 ちょうど隼人が社長室を出ようとしたところで、ぶつかりそうになる。 2人は屋上に向かいながら会話をした。「しゃ、社長……。奥様が自ら重労働をしていると報告がありました。すぐに清掃スタッフを向かわせます!」「いや、いい。邪魔をするな」 隼人は誇らしげに口角を上げた。 エレベーターはちょうど屋上に到着し、ガラス張りのドアの向こうに小夜子の姿が見える。「見ろ、あの無駄のない動きを。あいつは今、汚れを殲滅することに無上

    last updateDernière mise à jour : 2026-03-30
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     その重さに押しつぶされそうになった時、隼人の手が伸びてきた。 彼は小夜子の唇の端についた砂糖を親指で拭い、自分の口に含んだ。「バチなど当たるか」 隼人は自分のコーヒーを小夜子に差し出した。「お前が遊べなかった10年分、これから俺が全部埋めてやる」 彼は城を指差した。「次は隣のパークに行くぞ。あそこには世界一の清掃船があるらしいからな。お前の好きな洗剤の話も、いくらでも聞いてやる」 不器用な慰めに、小夜子は目を見開いた。 洗剤の話を聞いてくれる。この世界で、そんなことを

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