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last update publish date: 2025-12-02 18:41:10

 義母は紙の一枚を手に取って、唇の端を歪めた。

「……ここ。墨が薄いわね」

「かすれという技法でございます、お義母様」

「言い訳はいらないわ。汚らしい」

 ビリッ。乾いた音が響き、書き上げたばかりの封筒が二つに引き裂かれた。

 義母は紙片を小夜子の膝元に放り投げる。

「やり直し。言っておくけれど、書き損じの分は、あんたの明日の食事から引いておくからね。紙代も馬鹿にならないんだから」

 小夜子は、膝に落ちた紙片を拾い上げた。そこには、完璧なバランスで書かれた文字があった。何一つ非の打ち所はない。

 義母はただ小夜子が積み上げた努力を崩すことで、支配欲を満たしたいだけなのだ。

(……ええ、分かっております)

 反論はしない。言葉を返せば、さらに10枚、20枚と破られるだけだ。小夜子は感情を殺し、ただ深く頭を下げた。

「申し訳ありません。すぐに書き直します」

「フン、殊勝なこと。朝までに終わらせなさいよ。終わらなかったら、離れに戻ることは許さないから」

 義母はスリッパの音を響かせて出て行った。再び、冷え切った静寂が戻ってくる。

 小夜子は新しい封筒を手に取った。

 感情を波立たせてはいけない。心が乱れれば、文字が乱れる。文字が乱れれば、また破られる。

 呼吸を整え、筆先に意識を集中させた。気を紛らわせるために、小夜子は書いている宛名の「意味」を脳内で反芻(はんすう)し始めた。

(御子柴会長。この方は昨年の叙勲パーティーで、隣席になった建設大臣と席次を巡って揉めていたわね)

 筆を滑らせながら、記憶の引き出しを開ける。

(御子柴家と大臣の家系は、三代前からの犬猿の仲。今回のパーティーでも、席次は極力離すべきだわ。東の間と西の間くらいに)

 小夜子の視線が次の封筒へ向かう。

『華道家元佐々木様』

(佐々木様は、先月お母様を亡くされたばかり。本来ならお祝い事の招待状ではなく、寒中見舞いをお出しするべきなのに……)

 白河夫人は、喪中のリスト確認さえ怠っている。もしこの招待状が届けば、白河家は「無礼な家」として笑いものになるだろう。

(でも私には止める権限がない)

 小夜子は淡々と、しかし正確に、政財界の複雑な人間関係を脳内でパズルのように組み上げていく。

 誰と誰が派閥を同じくし、誰と誰が愛人関係にあり、誰が最近羽振りが良く、誰が没落しかけているか。

 一千枚のリストは、単なる宛名ではない。それは、この国の「力の縮図」そのものだった。小夜子はそれを全て飲み込み、データベースとして脳に刻み込んでいく。

 これこそが、かつて藤堂が言った「誰にも奪えない財産」。小夜子だけが身につけた知識だ。

 いつか、この知識が自分を助ける日が来るかもしれない。根拠のない予感だけを頼りに、小夜子は筆を走らせ続けた。

 最後の一枚を書き終えた頃には、日付が変わっていた。

 小夜子は筆を置く。冷え切って固まった指が、うまく開かない。彼女は麻痺した手をさすりながら、窓の外を見上げた。

 曇ったガラスの向こうに、冷たい月が白く滲んでいる。

「……終わった」

 口をついて出た言葉は、白い霧となって消えた。

 達成感などない。あるのは明日もまたこの家で呼吸をしなければならないという、鉛のような徒労感だけ。

 けれど小夜子の横には、一千枚の封筒が整然と積み上げられていた。その山だけがこの家の中で唯一、完璧な秩序を保ってそこに在った。

 それは1つの仕事の終わり。

 完璧に整えられた美しい仕事の成果は、すぐにやってくる次の仕事に飲み込まれて消えていくだろう。

「小夜子! まだ終わらないの? グズね!!」

 廊下の向こうから義母の怒鳴り声がする。

「今日の家事を終えたら、お客様をお出迎えする準備に取り掛かりなさい! 絶対に失敗できない大事なお客様よ!」

「……はい、お義母様」

 小夜子は徹夜でふらつく足を抑え、立ち上がった。

 次の仕事も山積みだ。

(今度はどんなお客様かしら)

 小夜子はぼんやりと考えながら、冷え切った廊下を歩いていった。

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