朝食を終え、日中は稽古に充てられる。そこで準団員のメンバーは実際の舞台で稽古をしている。逆にレギュラーメンバーであるジラソーレやダフネ、サクラを含む団員は街で広報活動をしたり、気が向けば準団員に混じって稽古をしたりと自由に行動することが許されている。
他のメンバーは自由だが、ジラソーレは稽古一択だ。 円形の舞台を囲うよう階段状に客席が設置されており、舞台奥に演者の出入り口があった。その真向かいには客の出入り口があり、舞台出入り口を挟むように高い鉄骨塔が建てられている。 一通り、本日取り行う演目の復習を終えたところでジラソーレは白いブラウスで汗を拭った。 「ジラソーレ」 低く、威圧感のある声が名前を呼ぶ。視線を向けると、シルクハットにスーツ、杖といういつもの三点セットを身に纏ったメディチ侯爵が演者の出入り口付近に立っていた。首を傾げると、呆れた表情で口元を歪めながら手招きする。 とた、とたとメディチ侯爵のもとに駆け寄ると、彼はまた呆れたようにジラソーレの視線より幾許か低いこめかみを抑えた。 「稽古中は構わないが、私のもとに来る時は靴を履け―――よい、今回は大目に見る」 彼の言葉によって素足であったことに気付いたジラソーレは、靴を探しに身体を翻そうとするがメディチ侯爵がその行動を制する。恥ずかしくてジラソーレが頬を掻くと、彼は呆れたように肩で息を吐いた。 「身体の調子は悪くないか?」 両手で大きく丸を作る。昔から身体は丈夫な方だ。 「そうか―――明日の休みにお前の相棒を探しに行こうと思う。来るか?」 メディチ侯爵は、とん、とんと杖で床を小突く。 相棒―――つまり、男踊り子の相棒である。ジラソーレ以外の踊り子は全員女性であり、肩身が狭い思いをしてきた。今ではある程度打ち解けたと言えど、ダフネ以外の団員とは上手に会話ができないでいる。その配慮か、数ヶ月ほど前にメディチ侯爵より男踊り子を増やそうという提案を受けた。ジラソーレとしては同性の踊り子が増えたところで変化があるとは思えないが、せっかくということで了承したのだ。 行く、と返事をしようとして―――ジラソーレは口をつぐんだ。 「都合が悪いのか?」 その様子にいち早く気づいたメディチ侯爵が緩慢で上品な動作で首を傾げる。 『ダ フ ネ』 彼に伝わるように身を屈めながら口を動かすと、納得したように彼は「ああ」と頷いた。 「分かった。明日は私が勝手に見るとする。ただし文句は言わせないぞ―――もし気が合わないとしても上手くやるんだ」 ジラソーレが相槌を打つと、満足したようにメディチ侯爵は背中を見せて舞台のさらに奥へと消える。 なんだか胸の奥でざわざわとした不快な予感が湧き上がった。こういう勘は外れたことがない。ジラソーレはそれを誤魔化すように何度か栗色の頭を掻くと、稽古をするために舞台へと戻っていった。嫌な予感が当たらなければいいという願いを込めて。朝食を終え、日中は稽古に充てられる。そこで準団員のメンバーは実際の舞台で稽古をしている。逆にレギュラーメンバーであるジラソーレやダフネ、サクラを含む団員は街で広報活動をしたり、気が向けば準団員に混じって稽古をしたりと自由に行動することが許されている。 他のメンバーは自由だが、ジラソーレは稽古一択だ。 円形の舞台を囲うよう階段状に客席が設置されており、舞台奥に演者の出入り口があった。その真向かいには客の出入り口があり、舞台出入り口を挟むように高い鉄骨塔が建てられている。 一通り、本日取り行う演目の復習を終えたところでジラソーレは白いブラウスで汗を拭った。 「ジラソーレ」 低く、威圧感のある声が名前を呼ぶ。視線を向けると、シルクハットにスーツ、杖といういつもの三点セットを身に纏ったメディチ侯爵が演者の出入り口付近に立っていた。首を傾げると、呆れた表情で口元を歪めながら手招きする。 とた、とたとメディチ侯爵のもとに駆け寄ると、彼はまた呆れたようにジラソーレの視線より幾許か低いこめかみを抑えた。 「稽古中は構わないが、私のもとに来る時は靴を履け―――よい、今回は大目に見る」 彼の言葉によって素足であったことに気付いたジラソーレは、靴を探しに身体を翻そうとするがメディチ侯爵がその行動を制する。恥ずかしくてジラソーレが頬を掻くと、彼は呆れたように肩で息を吐いた。 「身体の調子は悪くないか?」 両手で大きく丸を作る。昔から身体は丈夫な方だ。 「そうか―――明日の休みにお前の相棒を探しに行こうと思う。来るか?」 メディチ侯爵は、とん、とんと杖で床を小突く。 相棒―――つまり、男踊り子の相棒である。ジラソーレ以外の踊り子は全員女性であり、肩身が狭い思いをしてきた。今ではある程度打ち解けたと言えど、ダフネ以外の団員とは上手に会話ができないでいる。その配慮か、数ヶ月ほど前にメディチ侯爵より男踊り子を増やそうという提案を受けた。ジラソーレとしては同性の踊り子が増えたところで変化があるとは思えないが、せっかくということで了承したのだ。 行く、と返事をしようとして―――ジラソーレは口をつぐんだ。 「都合が悪いのか?」 その様子にいち早く気づいたメディチ侯爵が緩慢で上品な動作で首を傾げる。 『ダ フ ネ』 彼に伝わるように身を屈めな
「ちょっと!アンタたちはいつまで準備してるの?!もう朝ごはんの準備できてるわよ!」 唐突に訪れた女の声とテントが開かれた布の音。咄嗟にジラソーレは眼前のダフネの手を振り払って、距離を取る―――取ろうとした。 「っ」 狭いテント内で後ずさってしまったため、背後にあるベッドの側面に膝裏が当たってしまい体勢を崩してしまう。ぼすん、鈍い音を立ててベッドにジラソーレは倒れ込んだ。 「あら、相変わらずおっちょこちょいね」 テントに侵入した女性―――空中大道芸師・サクラは腰まで伸びた青みがかった黒髪を揺らしながら、ベッドに倒れたジラソーレへと近づく。 「大丈夫?」 彼女の問いかけに、ジラソーレは頷いた。 後ろ手をつきながら倒れ込んだ上半身を起こすと、傷だらけの指先が伸びてジラソーレの栗色を撫でる。ジラソーレの蜂蜜色の視線を伸ばされた手を辿り、ダフネを見上げた。 「サクラが大声を上げるからびっくりしたんだよ」 「あら、そう?それは申し訳ないわ、ごめんなさいね。ジラソーレも他人の準備ばかり手伝ってないで自分の支度をしなさいな」 こくり、と首肯する。サクラの強気で勝ち気な言葉の勢いには押されるしかない。そのジラソーレの心情を察してか、ダフネは苦笑を浮かべながら「サクラは先にご飯食べてな」と零した。 「はいはい、わかりました―――ったく、相変わらずお互いにべったりなんだから」 舞台用ではない普段用の薄いメイクを施された美しい顔が少し歪むも、彼女は相槌を打ってジラソーレのテントから出ていく。再度、鈍い布の音が響いた。 本当はダフネと食事がしたかったのだろう―――彼女の行動を思い返すたび、ジラソーレはやきもきとした気持ちになる。 空中演目を担当しているサクラは容姿端麗かつ家柄が良いということもあり、度々舞台に上がっては助手を務める。人気なのはダフネとの演目で、魔法でダフネがトラになり、その上に彼女が乗っては客席を巡回するというものだ。 自ら動物に変身できる魔法を使える人間は珍しいらしく、その魔法を見たい客が半分、美しい彼女に札束を捻じ込みたい客が半分のようだ。 「ほら、ジラソーレも準備しな」 勲章だらけの手がジラソーレの頭を優しく撫でる。まるで弟を見ているかのような優しい温度の優越感と、決して恋愛対象としては見られていない期待外れの
「相変わらずすごい寝ぐせだな―――ああ、ごめんごめん」 彼の頭を撫でていた指先が、ジラソーレの跳ねている髪をなぞる。不満げな表情を作って唇を尖らせると、ダフネは揶揄ったようにからからと笑った。 ジラソーレは鏡台の下にある丸椅子を取り出すと、ダフネに座るように座面を叩く。彼は軽く頷くと、促されるまま席に着いた。眼前にある鏡の端に立てかけて置かれた、クリップでまとめられた紙の束を取り出してダフネに渡す。 「今日は涼しいからできるだけ首を隠しておきたい。これにしてくれ」 ぱらり、ぱらりと幾度か紙を捲った後、ジラソーレに視線を投げかけながら傷だらけの指先がとある絵を差した。頷きながらおずおずと視線を向けると、顔周りの毛を編み込みにしたものだった。 ダフネは口元に笑みを浮かべて、元の位置に紙の束―――もとい、カタログもどきを戻す。 約十五年前。大変芸術好きの国王が、芸術家やサーカス団などの全国巡礼を特別に許可した。それまでは北部、中部、南部の境には関門が設置されており、特別な許可証を毎回発行しなければならず国営業務を圧迫していた。しかしこの法律が出来たことにより認定さえ受けてしまえば何度も行き来することが可能となり、より芸術が盛んになることで国としてさらなる価値を作り出そうとしていた。 その結果、ありとあらゆる貴族がサーカス団を作り出したり、お抱えの芸術家に言伝を依頼したりと治安が一層悪くなったことは説明するまでもない。 全国巡礼公演によって国中の様々な髪形を知る機会が得られたジラソーレは、カタログとして紙に記録して使用している。簡単な文字しか書けず言葉も発せないため、髪を整える作業は絵で意思疎通を図るしかない。 基本的に演者はそれぞれお互いの髪を整えあったり、器用であればジラソーレのように自分で髪をセットする。しかし眼前の男はあまりにも不器用が過ぎてしまい、現在ではジラソーレが専属の整髪師である。 慣れた手つきでジラソーレは鏡台に置かれた瓶を取り、中身のオイルを手に垂らして、背中まで伸びたダフネの髪を撫でつける。ふわりと蜂蜜の芳香が漂った。 「今日が終わったら明日は休みだな」 頷く。 「明日は市場にでも行くか?この街―――マノは服飾が有名だと聞くから、何か珍しいものが売っているかもしれない」 顔を輝かせながら編み込んでいた指を
「っ」 ジラソーレは閉ざされていた瞼を勢いよく開いた。どく、どくと心臓が激しく高鳴り、血液を全身に循環させている。 随分と懐かしい夢を見たものだと、体を起こしながらべたついた首筋に触れた。メディチ侯爵に買われたのは約六年前のことである。齢十四歳だったジラソーレも二十歳となり、今では身長も伸びてメディチ侯爵を優に越してしまった。 ベッドから足を下ろして、ジラソーレは周囲を見回す。部屋として利用している移動式テントは濃い緑色をしており、目に優しく飛び込んでくる。正方形の形をした室内には乱雑に物が散乱しており、宝箱の形を催した衣装箱には宝石と衣装が押しつぶされていた。テントの片隅に寄せられたベッドの向かい側には、踊り子であった女性から譲り受けたお下がりの鏡台が鎮座している。 メディチ侯爵から奴隷として買われたジラソーレは、サーカス団『フィエスタ』へと入団させられた。特に芸もなく、器量の良い方でもないジラソーレに、踊り子仲間はとても苦労していたようだった。時にはメディチ侯爵に直談判した人間もいたようだが、どうにかしろと傍若無人に跳ね返されたらしい。 紆余曲折あったが、今では世にも珍しい男踊り子ということで、レギュラーメンバーとしての地位を確立している。貴族と結婚した、本来の鏡台の持ち主も、最後には優しくジラソーレの頭を撫でてくれていた。 ジラソーレは短靴を履いて立ち上がると、静かに鏡台へと近づく。鏡を覆い隠していた布を捲ると、栗色の髪が自由自在に跳ねている少年―――ジラソーレ自身が映り込んだ。 ゆら、ゆらと美味しそうな蜂蜜色の瞳が揺れている。北出身には珍しい浅黒い肌が、テントの隙間から差し込む光を鈍く反射していた。 「っ、っ」 口を開いて腹に力を入れるが、声は出ない。口を間抜けに開いたジラソーレ自身が鏡に映り込むだけである―――隙間から覗く舌には刻印があり、二体の蛇がお互いに尾を噛み合って円を作り出していた。中央には奇妙な文様が刻まれている。 いつ刻まれたか記憶がない―――いつの間にか刻まれていたそれがひどく不吉で仕方ない。 「お、起きてたか」 テントの入り口が開いた固い布の音と共に、低い掠れた声が響いた。ジラソーレは緩慢な動きで視線を向ける。 背後の太陽の光をたくさん取り込んだ黒髪が肩まで緩やかなウェーブを描いて伸びており
約二十五年前、世界唯一の魔法国家であるフィオレニア王国は避妊と堕胎を禁じた。 魔法士の減少による兵力の低迷が主な理由として、国民に説明された。母数を増やすことにより、突発的な魔力を持ったものを含めて国力にしてしまおうと考えたのだと。しかし時が経つにつれて、国王の本当の狙いを国に住む民が皆知る羽目になった。 急激な人口の増加に伴う、孤児の増加―――貧困の差が激しいこの国では子供を育てきれず、孤児院に預けるものが後を絶たなかった。魔力さえ持っていれば国から補助金が出るがそんな幸運はほとんどなく、次第に国営の孤児院どころか、貴族が慈善活動として経営している孤児院すら逼迫してしまい溢れる事態へとなった。 そして―――孤児は奴隷という商品として、国の主な産業として発展していくこととなる。*** 燦々と太陽が高く昇っている。北部出身であるイリスにはひどく熱気が篭って辛く、今にも倒れてしまいそうだ。 フィオレニア王国は花が多く咲き誇り、神の寵愛を受けた島国として知られている。遥か昔、円形の島国だったそうだ。幾度となく繰り返された魔法士同士の戦争によって東と西の領土は陥落してしまった。現在は縦長の国土を持ち、北部、中部、南部として領域が分かれていた。 北部は貴族や芸術家も多く、フィオレニアの名の通り豊かな自然に囲まれており、一年中過ごしやすい気候だ。しかしイリスが足を踏み入れた南部は貧しい人も多く、様々な熱気が篭っている。 イリスは奴隷船に乗るため、港の奴隷市場へと足を踏み入れた。 襤褸を纏ったイリスは他の奴隷と共に列に並ばされ、逃亡を図らないよう首と足を前の奴隷、後ろの奴隷へと枷を繋がれている。身体を動かす度に、しゃらん、しゃらんと鎖の音が響いた。 靴なども履かせてもらえず、足の裏に石が刺さって痛い。徹底的な逃亡対策は、この二十五年間で積み重ねられたものだ。この港の奴隷市場が最期のチャンスであった。 奴隷船に乗ってしまえば、糞尿が塗れた劣悪な環境で他の国へと輸出される。海の氾濫や環境に耐えられず亡くなる者が多いと聞く。「さあ、さあ!見てらっしゃい!お気に入りの奴隷がおりましたらお声かけくださいな!」 奴隷商人の明朗な声が複数響いた。国の商品として奴隷を売るよりも貴族や芸術家などの金持ちに奴隷を売った方が利益になるのだと、生き別れた弟が言っていた。その