サーカスのある敷地に戻ると、空気の奥底がざわざわとしていた。本来のお客様入り口付近からサーカステントに向かって、人が溢れかえっている。何事かと首を傾げると、化粧を落としたすっぴんのアルレノ―――橙色が混じった茶髪に蛇のような緑色の瞳、全体的に軽薄そうな印象を受ける―――が、ジラソーレを見つけるなり飛びついてきた。
「すごいネ!すごいネ!」 ぐらりと軸を失って倒れかけた身体を、背後に立っていたダフネの手が支える。 「危ない―――ほら、アルレノどいて。ジラソーレが死んでしまう」 「ワァ!これは申し訳ない!だけどビック・ニュウスだヨ!―――ニュウ・フェイスってやつサ!」 後ろに下がったアルレノに安堵しながらも、ジラソーレは首を傾げた。理解できない単語だ。 「新しい団員が来たんだろう。ほら、お前が前にユーリさんと話してた、もう一人の男踊り子」 ジラソーレは納得したように相槌を打って、人垣を掻きわけて歩を進める。サーカステント内に足を踏み入れる―――すると、団員や準団員がジラソーレを突き刺すように視線を穿った。 びくり、と怯えて身体が震える。ダフネが落ち着かせるようにジラソーレの肩を抱いて、奥へ進むように促した。 「ああ、帰ったか―――ジラソーレ、待っていた」 舞台の上からメディチ侯爵の声が響く。視線をゆるりと上昇させると、身長の低い侯爵の隣に少年が立っていた。背丈はジラソーレと同じくらいだろうか、肩付近まで伸びた切りっぱなしの金髪が照明に照らされて、髪の一本でさえ美しく揺れている。赤みのかかった白い肌は、隣にいるメディチ侯爵の陶器のような温かみのない肌と相まって、ひどく健康的で綺麗に見えた。 団員らがみんなして騒々しくなる理由も理解した―――ひどく、美しいのだ。まるで絵画を彷彿とさせるような端正な顔立ちに、少し妖しげな緑眼。華奢ではあるが肉付きは悪くない―――男と一定数の女にはひどく持て囃されただろう。 「なんだ、早く舞台に上がってこい」 メディチ侯爵が不機嫌そうに声を上げたので、ジラソーレは慌てて板を踏む。少年はにこにこと天真爛漫な表情で目を細めて、ジラソーレを見つめていた。 「彼の名前はスリジエだ。スリジエ、彼オーライ、オーライ―――魔法で空高く浮き上がるテント群を眺めながら、ジラソーレは腕をさすった。底が抜けたような寒さが這う秋の昼空、次の目的地に向かうための移動準備にサーカス団は勤しんでいる。貴重品や失くしたくないものの馬車の積み込みは完了していて、あとは自テントに戻るのみであった。 ジラソーレの宝箱や鏡台もすべて馬車に運び込んでいる。あとはテントに戻るだけだが、何度経験してもジラソーレは慣れなかった。 「どうしたの?戻らないの?」 背後から抱き着くようにスリジエが、ジラソーレの肩に顎を乗せる。肌寒さに震えていた体には心地よい体温に、ほっと息を吐いた。ジラソーレは後ろに視線を流しながらも『こ わ い』と声を模る。 「ああ―――そうだよねぇ、テントって床がなくて、全部魔法石の力で浮いてるから怖いよねぇ。そんな高くは飛ばないけど」 不安で視線が揺れる。それを元気づけるようにスリジエは笑いかけた。 「大丈夫だよ、あの魔法石はちゃんと安全装置ついてるから!落ちても僕らが怪我することはないよ!」 とんとん、と彼はジラソーレの背中を両手で叩く。短い息を吐き出しながら、ジラソーレは改めて上空を眺めた。 ”魔法石”―――大魔法士かつフィオレニア王国屈指の大罪人と称されるアルクスが発見・開発した、魔力の篭った石。 遥か昔、魔力は人間のみが持ちうるものだと考えられていた。しかし―――真実は異なる。魔力は母なる海から地へ、そして空へと上昇し、雨や雪となって海に還るとアルクスは考えた。人間が魔力を持っているのは、その過程で、媒体として介されているに過ぎないのだと。地から人間へと伝播すると考えられているものだから、この国では高い建築物を滅多に拝むことができない。そのおかげで空中飛行しながら移動ができるのだけれど。 魔法石はその考え方をもとに、地から捻出した魔力を特別な鉱石に閉じ込めたものだ。ただ魔力を篭められているだけの石に|自動装置《オートマチック》機能を付属させるのに人類は苦労したようで、開発されたまだ五十年も経っていない。世の中の歴史学者はアルクスが大罪を犯して処刑されなければ、もっと魔法技術は進化していただろうと言ってしまうくらいに、伝説と現実は乖離していた。 「―――あとはお前たちだけだ、早くテントに戻れ」 「ねえ、ユーリさんもああ言ってるか
首を垂れながら、とぼ、とぼと帰路につく。後ろではあざといくらいに小さい歩幅で、スリジエがジラソーレの背中を追っていた。メインのテントをすり抜けて、他の演者の居住地テントをすり抜ける。そして一番奥まったところに設置された緑色のテント―――薄く伸ばした月光に照らされたテントは黒にも見える―――の重たい入り口幕を開けた。 ランタンの灯っていないテント内はひどく薄暗く、不気味だ。ジラソーレは帰宅直後のこの瞬間がとても苦手だった。真っ暗で息苦しい中、光を灯す道具を手探りで探さなければならない。 「ありゃ、暗いね」 軽快な口調でスリジエはテント内を見回して、ジラソーレの隣を通り過ぎた。そして鏡台の上のランタンを見つけるや否や手を翳す―――すると、ぼっ、と鈍い音をたてながらランタンの芯に火が点いた。 驚愕しながら彼の白いシャツを引っ張る。スリジエは首を傾げながら「何?」と疑問を零した。どう説明すればいいのか分からず、ジラソーレはとりあえずランタンを指さす。初めて会話をする相手なのに、大して広くもないテントの中で暮らさなければならない。心臓の奥が締め付けられるようにじくじくとして痛い。 スリジエは幾許か沈黙を捕らえて、ジラソーレの疑問に思い当たったのか「ああ」と相槌を零した。 「僕、実は魔法が使えるんだぁ。と言っても、あまりにも魔力が少なすぎて兵士候補から外れて今に至るんだけどさ」 ゆらりと金髪がオレンジ色に灯る室内で揺れる。彼の言動はあまりにも楽観的で、この国で生まれた人間じゃないような気さえしてくる。このフィオレニア王国の人間は幾度とない悪政のおかげというべきか、薄暗く粘着質な性格が多い。 怪訝そうなジラソーレの表情を読み取ったのか、スリジエは口元に弧を描いた。 「そんな邪険にしないで、嘘じゃないよ。僕はジラソーレさんと仲良くなりたいし、役に立ちたいんだ」 ぐい、と彼の顔が近づく。 「っ!」 狭いテント内、片づける暇さえ与えられなかった宝の山たちが、ジラソーレの足を掬った。息を漏らす猶予すら与えられず、ベッドに倒れ込む。 スリジエは驚愕したようにエメラルドの瞳を見開いて、そして慈愛の満ちた表情で眦を下げた。彼は足を投げ出した
いつの間にかジラソーレの隣に移動していたメディチ侯爵がそっと囁いた。 「彼は昨日会ったリンチェが経営する見世物小屋で”美人すぎる少年”として置かれていたのを、私が賭けで買い取った。ジラソーレが彼の誘いを断ってくれたおかげだ、ありがとう」 瞠目しながらメディチ侯爵を見つめると、彼はにやりとしたり顔をする。どうやらジラソーレは賭博の商品になりかけていたらしい。唇を尖らせながら、再び、スリジエに視線を戻した。 「…!」 「ふふ、やっと会えて嬉しい」 妖しく照明を吸い込んだ緑色の瞳が、這うようにジラソーレの肌を撫ぜる。スリジエはそのまま肌に吸い付くようにジラソーレを抱きしめて、そして―――唇に吸い付いた。 「っ!っ!」 その場が騒然と混沌に満ちる。ばたばたと手足を動かして、逃げようと試みるも力は強いらしくびくともしない。ジラソーレは羞恥心で頭がどうにかなってしまいそうになりながら、横目で好意を抱いている―――彼を見つめた。 愕然。 ダフネは一点を見つめて硬直していた。その視線の先を辿ると、ジラソーレにキスしている真っ最中のスリジエがいた。心臓が、ばくばくして、痛い。 「止めなさい」 「いたっ」 メディチ侯爵がスリジエの金髪頭を杖で小突く。やっと離された口からたくさんの空気を吸い込んで、肺をいっぱいに満たした。口元で溢れた唾液を拭いながらジラソーレは、そっと視線をダフネに向ける。 彼は考え込むように顎に手を当てて、視線を下げて―――そしてまた上げて、スリジエを注視した。明らかに見惚れている。ほのかに赤く染まる、ダフネの頬。 そんな愕然とした思考回路に満ちたジラソーレを咎めるように、下から杖が生えて、スリジエと同じように頭を小突かれた。何事かとおどおどと視線を彷徨わせると、メディチ侯爵が混乱を落ち着かせるように言葉を連ねる。 「落ち着け―――ジラソーレは今日からスリジエと同じテントで暮らしてもらう。次の公演の地、ビチエに移動するまでに仲良くなるように」 「っ!っ!?」 「やったー!ジラソーレさん、仲良くしようね!」 混沌がテント内に充満した。驚愕したジラソーレを捕らえるように、スリジエは力強く抱き着く。動物を可愛がるように頬をすりすりとされながら、腰を這う指先が妙にくすぐったい。 助けを求めるようにダフネに視線をやるも、
サーカスのある敷地に戻ると、空気の奥底がざわざわとしていた。本来のお客様入り口付近からサーカステントに向かって、人が溢れかえっている。何事かと首を傾げると、化粧を落としたすっぴんのアルレノ―――橙色が混じった茶髪に蛇のような緑色の瞳、全体的に軽薄そうな印象を受ける―――が、ジラソーレを見つけるなり飛びついてきた。 「すごいネ!すごいネ!」 ぐらりと軸を失って倒れかけた身体を、背後に立っていたダフネの手が支える。 「危ない―――ほら、アルレノどいて。ジラソーレが死んでしまう」 「ワァ!これは申し訳ない!だけどビック・ニュウスだヨ!―――ニュウ・フェイスってやつサ!」 後ろに下がったアルレノに安堵しながらも、ジラソーレは首を傾げた。理解できない単語だ。 「新しい団員が来たんだろう。ほら、お前が前にユーリさんと話してた、もう一人の男踊り子」 ジラソーレは納得したように相槌を打って、人垣を掻きわけて歩を進める。サーカステント内に足を踏み入れる―――すると、団員や準団員がジラソーレを突き刺すように視線を穿った。 びくり、と怯えて身体が震える。ダフネが落ち着かせるようにジラソーレの肩を抱いて、奥へ進むように促した。 「ああ、帰ったか―――ジラソーレ、待っていた」 舞台の上からメディチ侯爵の声が響く。視線をゆるりと上昇させると、身長の低い侯爵の隣に少年が立っていた。背丈はジラソーレと同じくらいだろうか、肩付近まで伸びた切りっぱなしの金髪が照明に照らされて、髪の一本でさえ美しく揺れている。赤みのかかった白い肌は、隣にいるメディチ侯爵の陶器のような温かみのない肌と相まって、ひどく健康的で綺麗に見えた。 団員らがみんなして騒々しくなる理由も理解した―――ひどく、美しいのだ。まるで絵画を彷彿とさせるような端正な顔立ちに、少し妖しげな緑眼。華奢ではあるが肉付きは悪くない―――男と一定数の女にはひどく持て囃されただろう。 「なんだ、早く舞台に上がってこい」 メディチ侯爵が不機嫌そうに声を上げたので、ジラソーレは慌てて板を踏む。少年はにこにこと天真爛漫な表情で目を細めて、ジラソーレを見つめていた。 「彼の名前はスリジエだ。スリジエ、彼
その後、市場にはない店舗型の店に足を踏み入れては、値段と相談しながら心を奪われたものを購入した。からんころんと店を出ると、空にオレンジ色と薄青色の濃淡が出来上がっており、夕暮れを告げている。 店前には川が流れていて、柔らかく光を放っていた街路灯が水面に映り込んでいた。川を挟んだ向こう側の街の灯りも爛々と反射しており、非常に美しい。ジラソーレは花を綻ばせたかのように顔を明るくして、川の境界である鉄柵に飛びついた。 「おい、危ないぞ―――ったく」 背後からダフネの注意の声が飛ぶ。しかしジラソーレの表情を見るや否や、口元に弧を描いて腰に手を当てた。 どこからともなく緩やかな音楽が空気を漂うように流れてくる―――きっとどこかの家が蓄音機の針を置いたのだろう。雰囲気良く、優美に流れるきらきらとした音楽。ゆったりとしたピアノの音が心の隙間に滑り込むように奏でられる。 ジラソーレは気分が良くなって、背後に立っていたダフネの手を取った。手首に引っかかった服の入った紙袋が、ぶらんぶらんと揺れている。 「うおっ」 驚愕した彼は様子を伺うようにジラソーレを見つめる。驚愕と困惑に満ちた彼の瞳が心地よくて、ジラソーレはますます気分がよくなった。もう片方のダフネの手を取って、緩くステップを踏んだ。左足を宙に伸ばして一拍、伸ばした左足を地面につけて一拍、右足の甲を地面に軽くつけて一拍。逆の足でまた繰り返す三拍子―――どこかで見たステップを見よう見まねでやっているものだから不格好だけれど、心の奥から楽しいが溢れてくる。 ダフネは呆気にとられながらもジラソーレが危なくないように、小刻みに足を動かした。身体を動かす度に視線の端で橙色の線が走る。肌寒い季節の中、男二人が楽しそうに舞踏している姿をこの街の住民たちは微笑ましそうに見守っていた。どうやらこういう光景はこの街では日常茶飯事らしい。 ゆったりとした曲が、ついに終焉を迎える。緩くステップを踏んだだけなのに、心臓はばくばくとうるさく鼓動を奏でていた。すっかりと空のオレンジ色が消え失せて、深い青色に浸食されている。 なんだか急に恥ずかしくなって、ジラソーレは紅潮した両頬を隠すように手のひらを当てた。
穏やかな日差しが、パラソルの下で食事を嗜んでいるジラソーレとダフネのもとにも届いた。柔らかくて甘ったるいパンを、苦みの混じった甘いカプチーノで流し込む。このマノの地で、最近流行りだした朝食らしくバールは人で賑わっていた。肉体労働を主とする南部とは違い、やはり穏やかで花が咲き誇る芸術の北部では少量の食事で足りるそうだ。 甘いものの重ね付けに多少辟易しながらも、おまけだと店主に渡されたチェリーをジラソーレは口に含む。 「―――お前は相変わらずチェリーが好きだな」 ジラソーレの爛々と輝いた表情に、眼前に向かい合う形で座っていたダフネが慈愛の満ちた視線を投げた。今日の髪型はシンプルに一つ結びだ。彼の前にもきちんとカプチーノのパンが鎮座している。ジラソーレは嚥下をしながら、こくりと頷いた。 「北出身だから、こういう雰囲気は懐かしいのか?」 ジラソーレは首を横に傾げて、考える。 家族はどちらかと言えば、地元の有力者からは嫌煙されるような存在で、必要がなければ屋敷の外に出ることもなかった。年月が経つにつれて、むしろその不気味さが嫌煙される原因にもなったのではと思うようになった。ただずっと屋敷に幽閉されているわけでもなかったため、答えづらい質問だ。懐郷に浸るほどの馴染みはなかったが、知らないわけでもない。 『ふ つ う』 うんうん、と考えてひねり出した答えに、ダフネは「なんだそれ」と呆れたように笑った。 「食べ終わったら出るか」 カプチーノの入ったカップの縁を撫ぜながら、ダフネは優しく言い放つ。ジラソーレは舌先で赤いチェリーを掬うように食べて、噛み砕きながら彼の言葉に頷いた。 バールを発つと、近くの広場にある市場へと足を踏み入れる。貴婦人らは布や服、装飾品を手に取りながら、近くにいる旦那らしき人物らに強請っていた。時たま男娼らしき人物らも、同じくパトロンに高価なものを要求しているようだ。 この国は男娼が多い―――理由は言うまでもないだろう。妊娠しないからだ。貴族や名門一家のほとんどには男娼がいる。彼らは必ず妻を娶って子孫を残すため、国王も多めに見ているらしい。中には庶民を相手に商売をする男娼もいるようだが、治安の悪いこの国ではあまり褒められ