雨音が、さっきよりもはっきりと耳に届くようになっていた。窓ガラスを叩く水の粒は一つひとつが小さな衝撃を持ち、室内の静けさに深く染み込んでいく。
リビングの照明は低く、ソファの影が壁に長く伸びている。テーブルの上には、半分以上空いたワインボトルと焼酎の一升瓶。氷の溶ける音も、もうほとんど聞こえない。代わりに漂うのは、アルコールの匂いと、空気に混じる人肌の温度だった。瑛はソファの背に体を預け、少し乱れた前髪の下から湊を見つめていた。頬の赤みはさっきよりも濃く、目の奥に宿る光は酔いによるぼやけではなく、焦点を定めた鋭さを含んでいる。
湊はそれを感じ取りながらも、視線を正面のテーブルへと落とした。グラスの底に残った赤い液体が、ランプの明かりでわずかに揺れる。「湊」
名を呼ぶ声が低く、深い。酔いが混じったその響きは、普段よりもほんの少しだけ湿り気を帯びているように感じられた。
湊が顔を向ける間もなく、瑛の手が肩に触れる。指先は思ったよりも力強く、だが乱暴ではなかった。引き寄せられると、身体の間の空気がすっと消え、息づかいの距離が一気に近づく。「もっと俺に縋ったらええ」
その言葉は、冗談の軽さを一切含んでいなかった。
耳の奥に落ちた瞬間、心臓がひとつ大きく跳ねる。湊は思わず息を止め、視線を逸らした。目の前にある瑛の体温が、皮膚を通してじわじわと伝わってくる。それは温もりであると同時に、逃げ場を塞ぐ壁のようでもあった。喉がひどく乾く。けれど、何も言葉が出てこない。
これまで、頼ることは避けてきた。自分を支えるのは自分だけで、他人に寄りかかれば、その瞬間に崩れてしまうような気がしていたからだ。だが、瑛の目は今、その思い込みを力強く押し崩そうとしている。「…別に、そんな…」
声は小さく、震えていた。自分でもその弱さに気づき、湊はさらに顔を逸らす。視界に入るのは、窓の外で流れる雨の筋と、街灯のぼやけた光だけ。
だが、肩に置かれた瑛の手は離れない。その重みは、言葉以上に本気を物語っていた。「お前、ずっと一人で背負っとるやろ」
低く落とされた声が、
窓の外は、まだ夜の名残を残していた。群青色の空に、細い白がゆっくりと広がり始めている。カーテンの隙間から差し込む淡い光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。湊は目を覚まし、すぐそばにある温もりに意識を向けた。瑛の腕が自分の腰に回され、その手のひらが服の上からじんわりと熱を伝えている。規則正しい寝息が、首筋のあたりにかかり、そのたびに微かな吐息の温かさが肌を撫でた。しばらくそのまま、動かずにいた。外の冷え切った空気と、シーツの中の温もりとの対比が、やけに鮮明に感じられる。まるでこの狭い空間だけが、冬という季節から切り離されているようだった。視線を瑛に移す。薄明かりの中で浮かび上がる横顔は、眠りのせいかいつもより幼く、無防備に見える。睫毛の影が頬に落ち、唇はわずかに開いていた。その唇の形や、わずかな呼吸の揺れさえも、湊の胸をじんわりと満たしていく。こんなに近くで、こんなに長く、この人を見つめることができるのは、きっと今だけだ。昼間になれば、きっと瑛はいつもの穏やかな笑顔を取り戻し、会話や行動に追われていく。だからこの時間を、ひと呼吸も無駄にしたくなかった。そっと手を伸ばし、瑛の髪に指先を触れさせる。柔らかく温かな感触が、指の腹に絡みつく。撫でるたびに髪がさらりと流れ、わずかな寝癖が愛おしく思えた。胸の奥に浮かび上がってくるのは、昨夜の感触だった。抱き寄せられた腕の力、交わした視線、言葉を超えて確かめ合った鼓動。それらが鮮明に蘇り、湊は目を閉じる。唇の奥で、小さな笑みが零れた。初めてだった。この人と、これからも生きていきたいと心から思えたのは。以前は、瑛との時間をいつか終わるものだとどこかで構えていた。それが今は違う。この先の季節も、朝も夜も、瑛と共に過ごす姿が自然に浮かんでくる。窓の外はさらに白みを増し、遠くで鳥の声が一声だけ響いた。冬の朝特有の澄んだ空気が、閉じた窓を通しても感じられる。それでもシーツの中は変わらず暖かく、二人だけの熱が混ざり合っている。ふいに、瑛の腕が無意識のうちに強く引き寄せた。驚きで小さく息を呑むと、そのまま瑛の胸にすっぽりと収まり、背中に大きな手のひらが添えられる。寝ぼけた仕草なのか、守るよ
窓の外は深い闇に沈み、遠くでかすかに風の音がするだけだった。部屋の中は、暖房の低い唸りと、二人分の呼吸がゆっくりと重なり合う音だけが満ちている。湊はシーツの中、瑛の胸に耳を押し当てたまま、目を閉じていた。頬に触れる肌は心地よく熱を帯び、その奥で一定のリズムを刻む鼓動が、まるで波のように規則正しく押し寄せてくる。その音に包まれていると、現実の輪郭がゆるやかに溶け、全てが穏やかにほどけていく感覚があった。呼吸をひとつ深く吸い込むと、瑛の匂いが胸の奥まで広がる。少しだけ汗と、シャンプーの甘い香り、そしてこの人だけが持つ温かな匂い。それが混ざり合い、まるで自分の中に刻まれていくようだった。湊はその香りを逃すまいと、さらに額を近づける。瑛は何も言わず、ただ湊の髪に指を通し、ゆっくりと撫でていた。指先の動きは一定で、まるで眠りに誘うような優しさがあった。湊はその感触に目を細め、胸の奥の緊張がすべてほどけていくのを感じた。少し前まで、自分の中にあった不安や迷いは確かに存在していた。けれど、今こうして瑛の胸に抱かれていると、それらは遠い過去の影のように思える。この腕の中にいれば、どこにも行かなくていいし、何も隠さなくていい。瑛の手が髪から頬へと滑り、軽く包み込むように触れる。湊はそのぬくもりに頬を預けると、すぐ耳元で低く囁く声が落ちてきた。「もう離さん」その言葉は、力強く、それでいて静かだった。約束というよりも、宣言のような響きがあった。湊は一瞬、胸の奥が熱くなるのを感じ、思わず息を飲む。返事をしようとしても、喉の奥が詰まって言葉が出てこない。ただ小さく頷くだけで精一杯だった。頷きを感じ取ったのか、瑛はさらに湊を抱き寄せ、背中に回した腕に力を込めた。骨と骨が触れ合うほど近い距離で、互いの呼吸が完全に重なる。湊はその強さに、守られている安心感と、確かに望まれているという確信を同時に抱いた。シーツの中は二人の体温で満ち、外の冷たい冬の空気とは別世界のように感じられる。足先にまで伝わる熱が、次第に心の奥まで染み込んでくるようだった。時間の流れが緩やかになり、時計の針の音さえ遠く感じる。瑛の胸の鼓動と自分の鼓動が、まるで一つに
瑛に手を引かれ、湊はゆっくりとベッドに横たわった。背中に触れるシーツは冬の夜気をわずかに含んで冷たく、その感触がかえって意識を研ぎ澄ませる。すぐに瑛の体温が覆いかぶさり、その冷えを奪っていく。視線が絡まる。瑛の瞳は、暗がりの中でもはっきりと湊を捉えていた。そこには迷いがなく、同時に深く沈んだ温かさがあった。湊はその視線から逃げられず、胸の奥で脈打つ鼓動がますます早くなるのを感じた。瑛の手が、湊の頬から首筋へ、そして鎖骨をなぞる。指先は驚くほど優しく、それでいて確かな熱を帯びている。撫でられるたびに皮膚がそこだけ敏感になり、身体の奥から熱が湧き上がるようだった。「…湊」低く囁く声に、湊の喉がひくりと動く。名を呼ばれるだけで、恥ずかしさと同時に抗えない安堵が押し寄せる。瑛の手は胸元に留まり、鼓動の速さをそのまま感じ取っているようだった。吐息が交わる距離で、瑛の唇がそっと触れる。最初は短く確かめるような口づけだったが、すぐに深まり、互いの呼吸が混ざり合っていく。舌先が触れ合い、柔らかい感触とわずかな甘みが口内に広がる。湊は無意識に目を閉じ、全ての感覚をその瞬間に委ねた。唇が離れると、瑛の手が再び腰へと移動する。指がゆっくりと肌を辿り、骨の際をなぞる。その優しい軌跡が、次に訪れるであろう深い結びつきへの予感を濃くしていく。湊は小さく息を吸い込み、胸の奥で広がる緊張と期待を押し殺した。衣擦れの音が微かに響く。瑛の指が湊の衣服の最後の障壁を外していく。布が肌から離れ、部屋の空気がふわりと触れた瞬間、背筋にぞくりとした感覚が走った。それをすぐに瑛の体温が覆い隠し、湊はほっと息をつく。裸の肌同士が触れ合うと、その温もりは一層強くなる。胸の鼓動と鼓動が重なり、二人の間に流れる熱がひとつになるのがわかる。湊は肩越しに瑛の呼吸を感じ、その熱が自分の頬や首筋を撫でていく感覚に身を委ねた。「…大丈夫か」低く落ちる声に、湊は小さく頷く。恥ずかしさに頬が熱くなるが、それ以上に、今この瞬間を拒む理由がどこにもない。瑛の手が腰を支え、ゆっくりと身体が重なっていく。最初の感触は、戸惑いとわずかな
湊の背中に回された瑛の手が、服の上からゆっくりと温もりを探る。指の腹が布越しに肌をなぞるたび、そこからじんわりと熱が染み込み、身体の奥へと広がっていった。湊は息を整えようとするが、心臓が早鐘を打つ音が耳の奥まで響き、どうしても呼吸が浅くなる。瑛の掌は、迷いのない動きで肩から背筋へ、そして腰へと辿る。その動きに合わせて、布と皮膚の間に微かな摩擦音が生まれる。湊は背筋を震わせ、思わず指先を瑛のシャツの裾にかけた。だがそこで手を止める。触れたい衝動と、まだ踏み込むことへの戸惑いが胸の中でせめぎ合っていた。「…湊」低く落ち着いた声が、耳のすぐ傍で響く。名前を呼ばれるだけで、胸の奥の緊張が少しずつ解けていく。瑛の吐息が耳朶にかかり、その熱がくすぐったくて、同時に安心感をもたらした。「大丈夫」短い囁きに込められた確信が、湊の最後のためらいを溶かす。目を閉じ、肩から力を抜くと、瑛の手の動きがさらに深まった。背中をなぞる手が、腰骨のあたりで一度止まり、そこから前へと回り込む。シャツ越しに感じる掌の熱は、もう布一枚では遮りきれないほど強くなっていた。湊は自分の呼吸がどんどん早くなるのを自覚する。瑛の手が胸のあたりで留まると、そこから伝わる熱と重みで鼓動の速さが際立つ。自分の心音が瑛に伝わってしまうのではないかという恥ずかしさと、それでも知ってほしいという矛盾した願いが入り混じる。やがて瑛の指先が、シャツの裾を持ち上げるように動いた。布が少しずつ肌から離れ、冷たい空気が入り込む。その温度差に湊は小さく身を竦めたが、すぐに瑛の掌がそこを覆い、再び温もりが戻ってくる。「…あったかい」思わず湊の口からこぼれた言葉に、瑛が小さく笑う。その笑い声は優しく、しかし奥に潜む熱を隠そうとしない。手はゆっくりと腹部を撫で上げ、胸元へと移動する。指先が肌の上を滑るたび、湊は無意識に背を反らせていた。刺激が強すぎるわけではないのに、身体の奥からせり上がってくる熱が全身を支配し始める。瑛はもう片方の手で湊の頬を包み、そのまま唇を重ねた。先ほどよりも深く、舌先が触れ合うまで時間はかからなかった。口内に広が
瑛の手が、ゆっくりと湊の頬に触れた。指先が肌に乗る瞬間、湊の背筋に淡い電流が走る。手のひらの温もりは、想像していたよりもずっと柔らかくて、それでいて逃がさない確かな力を持っていた。湊は息を詰めたまま、その手から伝わる体温を感じ取る。頬を包まれるだけなのに、胸の奥の張り詰めた糸が少しずつ緩み始めていく。瑛の瞳がすぐ近くにあって、その奥には迷いよりも強い何かが灯っていた。「…湊」名を呼ばれた声は低く、かすかに掠れている。その響きが耳から入り、心臓に直撃したように感じる。唇がわずかに動く気配と、間近に漂う呼気の温かさが、これから訪れる瞬間を予感させた。瑛の顔が、さらに近づく。視界の中で彼以外の全てがぼやけていく。湊は目を閉じるべきか、開いたままでいるべきかを迷ったが、その判断を下す前に唇が触れ合った。ほんの一瞬の、ためらいを含んだキスだった。けれど、それだけで湊の胸の奥にあった不安はほとんど溶けていった。触れた部分から温もりが広がり、同時に「自分は本当に望まれている」という確信が静かに芽生えていく。瑛が一度唇を離し、息を整える。その吐息が湊の頬にかかり、くすぐったい感覚が残る。湊は目を開け、瑛と視線を交わした。そこには迷いがなく、ただ真っ直ぐな熱だけがあった。次の瞬間、再び唇が重なる。今度は先ほどよりも深く、ためらいはない。唇の形が少しずつ変わり、互いの呼吸が混ざり合っていく。湊は肩から力を抜き、その流れに身を委ねた。キスの合間に聞こえる微かな水音が、やけに鮮明に耳に届く。暖房の低い唸りと、二人の浅く早い呼吸音だけが部屋を満たしていた。瑛の指先が頬から顎へと滑り、首筋に沿ってそっと触れる。その動きに湊の喉が微かに震え、呼吸が乱れる。触れられた場所から、さらに熱が染み込むように広がっていく。湊は片手を瑛の胸元に置いた。下にある心臓の鼓動が、指先越しに伝わってくる。それは自分のものと同じくらい早く、不規則で、抑えが効かないようだった。二人の間にあった距離は、もうほとんど残っていない。肩と肩が触れ合い、体温が重なっていく。ランプの柔らかな光が二人の輪郭を淡く照らし、その影が
瑛の視線が、真っ直ぐ湊を捉えていた。柔らかなランプの光が、彼の瞳の奥に揺れる熱を照らし出す。ソファの背にもたれたまま、二人の間に流れる空気は、言葉を失った沈黙で満たされていた。外では風が木の枝を揺らしているらしく、窓の向こうでかすかな葉擦れの音がする。その音すら遠く感じるほど、この部屋の空気は濃く、近い。湊は指先で膝の上の布地をつまみながら、胸の奥で脈打つ鼓動を必死に抑えようとしていた。視線を逸らそうとするたび、また引き戻される。瑛の目が、離させてくれない。暖房の送風口から流れるぬるい空気が、頬を撫でていく。耳の奥で、二人分の呼吸音が微かに重なっていた。息を吸うたびに胸がきゅっと詰まり、吐くたびに言葉にならない熱が零れ落ちそうになる。沈黙を切り裂いたのは、低く響く瑛の声だった。「…もう契約やない」その一言に、湊は瞬きを忘れる。息を呑み、瑛の唇が次の言葉を紡ぐのを待った。「俺も…湊が欲しい」熱を帯びた低音が、鼓膜を震わせ、胸の奥まで届く。その瞬間、何かがぱんと弾けるように、湊の中で長く押し込めていた感情が溢れ出した。言葉の意味が脳に届く前に、身体が反応してしまう。胸が熱く、喉の奥が焼けるように渇く。目の前の瑛は、少し息を荒くしていた。肩がわずかに上下し、唇の端に迷いと決意が同居しているように見える。その距離は、ほんの腕一本分。けれど、湊にはそれが限りなく近く、逃げ場のないほどの圧に感じられた。「…瑛」名前を呼んだ声が、思ったよりもかすれていた。瑛の眉がわずかに動き、その視線がさらに深く突き刺さる。湊は、心臓が暴れているのを隠せないまま、背もたれから体を起こした。ソファのクッションが沈み、二人の間の距離が、さらに短くなる。互いの吐息が、空気を揺らすほどの近さ。瑛の手が、ゆっくりと湊の膝の上に置かれた。その手のひらは熱く、指先がわずかに震えているのがわかった。触れられた場所から、熱が一気に全身に広がっていく。湊はその温もりを逃さないように、そっと自分の手を重ねた。一瞬、瑛の瞳が揺れ、そして微かに笑みを浮かべる