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第3話

Author: わかば
成実は、遥の鋭い言葉に胸を突かれ、思わず語気を強めた。

「あの人たちは、お前にとって親も同然なんだぞ。墓参りくらいしてやれないのか?大人のくせにタクシーも呼べないのか?」

かつての成実なら、ぶっきらぼうでもここまで突き放すことはなかった。不機嫌なときでも、まず遥の身を案じる姿勢だけは崩さなかったのに。

遥はそれ以上なにも言わず、黙ってドアを開けて車を降りた。「バタン」と閉められた音には、彼女の怒りがはっきりと滲んでいた。

成実は一瞬たりとも躊躇せず、ハンドルを切って車をUターンさせ、そのまま走り去った。排気ガスが遥の顔に容赦なく吹きかかった。

その直後、遥のスマホが震えた。

明菜からだった。画面には、いかにも得意げなメッセージが表示されている。

【楽勝だったわ】

たった六文字。それだけで遥の胃がきしむ。こみ上げる吐き気に思わず口元を押さえた。

チャット履歴を遡れば、昼夜を問わず送りつけられた嫌がらせと自慢話の数々。明菜の執念深さは、もはや狂気にも近い。

遥はそのすべてに、一度も返信したことがなかった。

当時は悔しさと憤りで、昼も夜も泣き通し、文字を打つ余裕すらなかったのだ。

けれど今は違う。しがらみから解き放たれ、遥は冷静に指を動かした。

【結婚おめでとう、先に言っとくわ】

皮肉ではない。遥はよく知っていた。あと一ヶ月もすれば離婚が成立し、成実は明菜を妻として迎えるだろう。

だからこれは、本心からの「祝福」だった。

もちろん、その先に待つ修羅場や、愛情が枯れ果てる未来も心から願っている。

すぐに、明菜から怒りの返信が飛んできた。

【恥知らずのクソ女、お前さえいなければとっくに結婚してたわ】

【あの人が、お前なんか好きだと思ってんの?勘違いも大概にしなさい】

【知らないんでしょ?健ちゃん、毎日言ってるのよ。「あのババアを殺して明菜さんをお母さんにしたい」って】

最後の一文は、遥にとっても初耳だった。

スマホを握る手が震える。遥は、じっとその画面を見つめた。

どうして子どもが、そんな言葉を……

しかし、その痛みもすぐに風とともに消えていった。どれほど悪意をぶつけられようと、もうすぐその子は赤の他人になるのだから。

遥は通知をオフにし、スマホを閉じた。

そして歩き続けた。一時間後、ようやく墓地の入口に辿り着いた。

ここの管理人とは顔なじみだ。正月に訪れる者など滅多におらず、すぐに覚えられてしまったのだ。

記帳をする遥の背中を見ながら、管理人が声をかけてくる。

「今日はお一人で?」

「ええ」

詳しい説明はせず、遥は花を手に墓までの道を歩き出した。

写真に写る狩野夫婦の面影は、まだ若かった。あんな事故が起こるとは、誰も想像していなかった。

当時、遥は成実との見合いを終えたばかり。なぜか成実は、無言の反発のように明菜を連れてきていた。

運転していたのは成実の父。助手席では母が、雰囲気を盛り上げようと、ひたすら話し続けていた。

遥は窓際に、明菜はその隣の真ん中の席に座っていた。

あの日、車内が会話で賑わう中、義父は交差点から飛び出してきたトラックに気づかなかった。

衝突音は凄まじく、遥ができたのは、トラック側にいた成実をとっさに抱き寄せることだけだった。

だが、その腕は鉄板に削られ、薬指と小指を失った。

そして、意識を失った。

目覚めたとき、成実は泣き腫らした目で遥を睨みつけ、「結婚しよう」と歯の隙間から絞り出した。

明菜は、なぜかその日を境に姿を消した。

あれ以来、成実は両親の死を遥のせいにし続けた。

けれど、時の流れは残酷にも優しく、二人の距離は知らぬ間に近づき、気づけば二年のハネムーンを過ごしていた。

そして――

遥は思考を断ち切り、墓前に花を手向け、嗄れた声で語りかけた。

「お義父さん、お義母さん……最後に、こう呼ばせてください。

私は、もう成実のそばにいることに疲れ果てました。彼には、最愛の人が戻ってきました。きっと、これからは幸せになるでしょう。どうか、安心してください。

今日は来られませんでしたが、私からは、毎年必ずお参りします」

言葉が尽き、遥はその場に座り込んだ。何を話せばいいのか、もう分からなかった。

そのとき、ひとひらの風が吹き、花びらがふわりと舞って、そっと頬に触れた。

狩野夫婦も、私を悼んでくれているのだろうか。

遥は昼過ぎまでそこにいて、管理人と簡単な昼食を取り、帰路についた。

ところが途中、空が急に暗くなり、「ザーッ」と容赦ない雨が降り出した。

配車アプリを開いてタクシーを呼ぼうとしたが、待ち人数は数百人。あたりには人影もなく、雨宿りできる木さえない。

遥はずぶ濡れになりながら歩き続け、四時間後、ようやく都心に着いた。

ガラスに映った自分の姿は、見るも無惨だった。

濡れた髪は頭皮に張りつき、表情は虚ろ。まるでどぶから這い出てきたような風体。

視線を逸らそうとしたそのとき、ふと、ガラスの向こうに目が留まった。

なんという皮肉。

成実が、健翔と明菜と向かい合い、楽しげに談笑している。まるで本物の家族のように。

そしてガラスの外では、遥が浮浪者のように立ち尽くしていた。

気づいた。朝、成実が去ってから、一度も連絡がなかったことに。

遥はびしょ濡れのスマホを取り出した。それでも、固くなった指で震えるように電話をかけた。

……繋がった。

店内でスマホを見た成実は、明らかに不快そうに顔をしかめ、そのまま通話を切った。

遥は切られた画面をしばらく見つめ、ホーム画面に戻り、やがて暗転するのを見届けた。

どんなにボタンを押しても、もう二度と光らなかった。

成実の心のように。どれだけ温めても、もう温もることはない。

遥はしばらくその場に立ち尽くし、やがてゆっくりとSIMカードを抜き取り、ゴミ箱に投げ入れた。

そして静かに、家路についた。

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