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第2話

Auteur: わかば
翌朝早く、遥は身支度を整え、押し入れの奥から見つけ出した黒い正装に袖を通した。

鏡に映る自分の顔はやつれていたが、それがかえって今日の目的にふさわしく思えた。お墓参りに行くには、これくらいでちょうどいい。

リビングに足を踏み入れた途端、健翔がわざとらしく「ちっ」と舌打ちをして、食べかけの茶碗を机に叩きつけた。汁がはねて、遥の服に染みを作った。

「うわ、汚っ」

悪意を隠そうともしない笑い声が飛んできた。

かつては素直だった子どもが、ここまで無作法になってしまった。その変貌に、遥はやりきれない悲しさを覚えた。

あの頃、健翔のためにと最高の家庭教師を探して、大雨の中を奔走し、三日三晩も寝込んだことがあった。それでも、健翔にはまっとうな人生を歩んでほしかった。

そう信じて、心血を注いできた。

けれど結局、そんな努力も、明菜の安っぽい芝居の前には無力だったのだ。

遥は得意げに立ち去ろうとする健翔の腕をぐっと掴んだ。声は低く、冷たかった。

「謝りなさい」

その表情に、健翔は一瞬たじろいだ。こんな冷たい顔を、母親が見せたことはなかった。

次の瞬間、我を忘れたように怒鳴り返した。

「謝るもんか!昔なら、お前みたいなクソババア、火あぶりにされてたんだぞ!」

――パンッ!

乾いた音が室内に響いた。遥の平手打ちが、力強く健翔の頬を打ち抜いていた。

頬を押さえ、目を見開いた健翔が、信じられないというように遥を見つめた。

「……殴ったのか、俺を?」

そこへ成実が駆け寄り、健翔を庇うように前に立ち、怒声を浴びせた。

「なんで健ちゃんを殴ったんだ!」

遥は無言で手を引き、軽く振ってから言った。

「私は彼の母親よ。しつけて何が悪いの?」

成実はすぐさま言い返した。

「お前にしつけられる筋合いなんてない!」

ふん。遥は内心で鼻で笑い、感情を見せぬまま淡々と口を開いた。

「心配しなくていいわ。もうすぐ私も、関わらなくなるから」

その言葉に、成実は一瞬きょとんとした。今日の遥は、普段の彼女とはまるで別人だった。

「どういう意味だよ?」と思わず問いかけたが、遥は何も答えず、ただ一言。

「……出発しましょう」

車内、遥は後部座席で終始無言だった。空気はひどく冷え切っていて、まるで他人同士のよう。

成実は何度もバックミラーで彼女の様子を窺い、「これは本気で怒ってるな」と確信した。

以前なら、昨夜のように自分がリビングで音を立てただけで、すぐに遥は飛び出してきた。たとえ喧嘩しても、翌朝には必ず自分から歩み寄ってきた。

けれど今回は違う。残り物の朝食を食べている自分たちの姿にも気づかず、あろうことか健翔を平手で打った。

成実は思い出していた。昨夜、ドアの向こうでひとり佇んでいた彼女の背中を――

考えた末に、助手席の収納ボックスから小さな箱を取り出し、信号待ちの間に後部座席へ放り投げた。

遥は目を閉じて休んでいたが、不意に何かがぶつかり、思わず声を上げた。

「……あんた、頭おかしいんじゃないの?」

結婚してから六年。成実のこういう無神経な態度には、もううんざりだった。

相手の顔がみるみるうちに険しくなる。

「これは記念日のプレゼントだぞ。頭がおかしい、だと?昨日は墓参りに行こうってメッセージを送ってきて、今日はその態度か。謝れってことなんだろ?だったら今、謝った。それ以上、何が欲しいんだよ?」

信号が青に変わり、成実は吐き捨てるように言って、運転を再開した。

遥はバックミラー越しに、彼の不機嫌な顔を見つめた。

謝れなんて、一言も言ってない。なのに、どうしていつも、彼は自分の思い込みをぶつけてきて、それを理由に逆上するのか。

遥は目を伏せ、黙って箱を開いた。中には、ダイヤの指輪がひとつ。

確かに輝いていたが、どこかで見覚えのあるものだった。

……TRの、廃盤モデル。

発売後に何らかの理由で販売中止となったもので、路上に落ちていても拾う人はいないような代物。

一方、昨日の動画で明菜がつけていたのは、TRが世界に一つだけ作った新作。永遠の愛を象徴する、特別なデザインだった。

過去五年間、成実の不機嫌や気まぐれは、仕事の忙しさやストレスのせいではなかった。

プレゼントをくれなかったのも、「ロマンチストじゃないから」ではなかった。

ただ、愛されていなかったから。

それだけのことだった。

パタン。

遥は無言で指輪の箱を閉じ、それをぽんと後部座席に投げ返した。

廃盤品なんて、いらない。

墓地まであと五キロというところで、成実のスマホが鳴った。

彼は画面を見ることもなく、迷いもせずに路肩へと車を停めた。その様子からして、この着信音には慣れているのだろう。

遥の前でも気にする様子もなく、電話を取った。

「……今?でも今日は――」

相手が何を言ったのかはわからなかったが、彼の険しかった顔がふっと緩み、声も優しくなった。

「わかった。すぐに行く」

……へえ、こんな顔もできるのね。

遥は腕を組みながら、次に成実が何を言うのかを黙って待った。

案の定、電話を切るなり、振り返ってこう言った。

「急用で会社に行かなきゃならない。墓参りは……ひとりで行ってくれ」

遥の目は節穴ではない。スマホの画面に「明菜」と表示されていたことくらい、はっきり見えた。

女のために、実の両親の墓参りを放棄するなんて……本当に、ロマンチストだこと。

遥の目に、あからさまな嘲笑が浮かんだ。

「こんな何もない場所に私を置き去りにして、あの墓まで歩いて行けって?成実。あの墓碑の下には、あなたの実の両親が眠ってるのよ。新年の初日に、育ての親の墓参りより大事な仕事って、一体なに?」

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