「まぁ、確かに河原はストレートだけどさ」
……いや、だから。
俺はそもそも、今までお前に恋愛の話をしたことはねぇだろ。 もちろん河原のことだって、一切口にしたことはない。逆なら嫌というほどあるのだ。木崎の恋愛観や、好みのタイプ、付き合っただの別れただの、浮気しただのされただの。愚痴も惚気も山のように聞かされてきた。そしてその対象が同性だってことも……俺には最初から隠す気がなかったかのようにさらりと話に出されたから知っている。
けれども、その際についでのように自分の話を持ち出すことさえ俺はしたことがないのだ。自分の性的指向が木崎と同じだってことも、もちろん匂わせたことすらない。
なのに、どうしてこうも当たり前のように同性の――あまつさえ〝
元々妙に勘が鋭いところがあるとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。……というか、少なくとも俺は、今までこんなふうに容易に気付かれたことはなかった。だからよけいに動揺してしまったんだと思う。
マジかよ……。
俺は密やかに息をつくと、なんとかスツールから足を下ろし、床に転がっていた煙草を拾い上げた。
「でも……だからって、落ちないとは限んないよ?」
そんな俺を尻目に、木崎は尚もあっさり言ってのける。
その手の中には、既に何杯目かわからないカクテルグラスが握られている。酔ってんな……。
それもあって、好き放題言ってるってわけか。
それとも酔ったふりして鎌をかけ、俺に諸々白状させようって腹か……。ああ、こんなことなら、まっすぐ帰りゃよかった。
久々だしと思って気軽にOKしたことを、今更ながら後悔する。
俺は小さく舌打ちし、拾った煙草を軽く払って、そのまま口端に添えた。「それはお前の経験談か?」
「うん、経験談」……幸せなやつだな。
俺はスツールに座り直しながら、心の中で呟いた。
イエスともノーとも言えず、かと言ってここまできて白を切り通せるとも思えなく「まぁ、ほら。とりあえずさ? 過去はどうあれ、今一番仲がいいのは暮科なんだし……」 過去はどうあれって……どの口がいうのか。「だからさ、きっと大丈夫だよ。なんとかなるって」 「……適当なことばっか言うんじゃねぇよ」 我ながら素気無く撥ね付けると、木崎は不意に立ち止まり、再び声を張った。「もう! なんでそんなふうにしか言えないの?! どうなるかなんてわかんないじゃん!! やってみたら意外といい結果になることだってあるんだよ?!」 「それも〝お前の〟経験則だろ。俺のじゃない」 構わず俺は、ようやく見えてきた木崎のマンションを前に、足を止める。 ここまで来れば、いい加減放置しても平気だろう。「だいたい、なんなんだよお前は。なんだって急にそんな……」 人の中に土足でずかずかと入り込むような真似を――。 俺のことなんて放っとけよ。 振り返りながら、そう吐き捨てるように言うと、「……急じゃないよ」 ぽつりと落としながら、木崎はわずかに俯いた。「ほんとはもっと早く言いたかったよ。でも、タイミングがなくて……」 今度はぽろりと涙の粒が頬にこぼれる。 え……。……いや、ほんとなんなんだ。 俺は小さく息をつくと、木崎の方へと一歩近づく。 これも酔っているからなのか? 次は泣き上戸なのか?「もうすぐ……クリスマスだし」 「クリスマス?」 しかもまた話が飛んだ。 思わず眉をひそめていると、木崎は顔を上げ、俺をまっすぐに見据えて言った。「クリスマスって言ったら、恋人と二人で楽しい思い出を作る日でしょ?! だからさ、二人をよく知る俺としては……やっぱりこの辺でうまく行ってくれたらいいんじゃないかなって……それだけ。それを言いたくて、今日は誘ったの!」 木崎はごしごしと目を擦り、かと思えば強がるように語気を強め、つんと上を向いた。 俺は呆れたように溜息を重ねて、それから目を伏せ、かすかに肩を揺
***「そう言えば、河原のさぁ、ピアノの発表会の話があるじゃん?」 「発表会?」 しばらく黙って歩いていた木崎が、思い出したかのように口を開く。俺は横目に視線を向けて、反芻するように訊き返した。 歩く速度が遅いせいか、到着までには少し時間がかかりそうだ。 途中まで支えるように掴んでいた腕は、今はもう放している。まだ時折ふらつくことはあるものの、本人が「大丈夫」と言い張るし、俺から見ても多少は酔いが覚めてきたようにも見えたからだ。「うん。あの、演奏前にステージ上で倒れたっていうあれね」 「あぁ……」 なるほど、木崎も知っているのか。 上がり症の治療の一環として、河原が出されたピアノの発表会。そのステージ上で失神し、挙句の果てには……という、あの話を。 まぁ、河原は木崎とも仲がいいから、話していたとしても不思議はない。 ……思うのに、どこかもやもやとした気持ちになってしまう。 その上――。「その時にさ、河原の手をずっと優しく握っててくれたっていう、幼なじみがいたじゃん? その人にそうされると、不思議と落ち着いたーっていう」 「……幼なじみ?」「んー、まぁ、暮科が今更幼なじみにはなれないけどさ。なんていうか、それって恋人とは違うけど、言ってみればかなり特別なわけじゃん? だから……だからまずは、そういう存在を暮科も目指してみればどうかなって、思うんだよね」「…………へえ」 わずかな間ののち、俺は気のない相槌を打った。 木崎はずっと前方を眺めていたが、その声を聞いて俺の方を見る。「――え、嘘。知らなかった? この話……」 俺は返事をしなかった。 それを肯定と察した木崎は、少し慌てる。「え、あ、待って。どこ知らなかった? 発表会? ……って、それは知ってたんだよね? ってことは、幼なじみ? 幼なじみのとこ?!」 「……」 「あー嘘! やっ……でもこの話、河原が酔っ払った時に言ってた
*** 11月ともなれば、もう夜風は十分冷たい。 俺はわずかに身を竦めながら、歩道の真ん中まで歩き、そこでようやく彼から手を放す。すると掴まれていた腕をさすりながら、木崎は喚くように声を上げた。「なんなの! そんなに怒ることないでしょ!」 木崎の少々ハイトーンな声は、そうでなくともよく響く。おかげで――時間柄ということもあるのだろうが――彼が少し声高にしゃべるだけで、通行人の視線を嫌でも集めてしまう。 しかも、俺はただそこにいるだけで、特に何を言い返しているわけでもないのに、彼の言いようはまるで痴話げんかでもしているようで……このままではあらぬ誤解を生みそうな気がして溜息が出る。「どうしても帰りたいなら、一人で帰ればいいじゃん。俺は別にそれでも良かったよ!」 そりゃ、できるもんならそうしたいっつーの。 思いながら、俺はふらつく彼の腕を掴んで支えなおした。 言われたように、仮に放置して帰ったところで特に問題はないだろう。 見た目はともかく、木崎だっていい年齢をした大人で、男で、性格から言っても、人を襲うことはあっても襲われることはないだろうし。 ここからは家もそんなに遠くない。 木崎は自転車通勤だったが、今日は飲むからと店に置いたままにして、徒歩で帰ると言っていたくらいだ。 ……自転車を、押して帰るでもなく、置いて帰る? 今にして思えば、その時から思い切り飲むつもりだったのかもしれない。「ほら、しっかり立てよ」 とは言え、口はともかく足元はまだまだ覚束ない。 さっきから見ていれば、時折ふらりとバランスを崩しては、近くの街路樹やガードレールにしがみついている。 その姿は、さながら動物園辺りで見られるような光景に似て、ある意味面白くはあるのだが……。「ちゃんと歩け。帰るぞ」 そんな見世物も長くは続かず、次にはその場にへたり込みそうになってしまう彼の身体を、俺はため息混じりに支え直す。 ……仕方ない。
「……お前、どう見ても飲みすぎだろ。もうその辺でやめとけよ」 見かねてそう促してみても、木崎は「うんうん」と笑って頷くだけで、お構いなしに次のカクテルを注文する。俺の言葉なんて聞こえていないらしい。「だーいじょうぶだよ。俺誰にも言ってないし、これからも言わないし」 「…………」 「だってほら! こう見えても隠しごと得意じゃん? 俺!」 「知らねぇよ……」 たしなめるだけでは何も変わらない木崎に、俺は深いため息をつく。そのくせ、いつから、どこまで知られているのかも気になって、思い切って席を立つこともできない。 ……まぁ、今まで全く気付いている素振りを見せなかったことからも、隠しごとが得意なのは確かなのかもしれないが……。「しっかし、暮科もさぁ、可愛いとこあるよねぇ」 「……もう帰る」 「え、待って待って! なんでそうなるの?! まだ話の途中でしょ!」 「……ってぇな」 不満げに声を上げると同時に、痛みが走るほど強く肩を掴まれる。鬱陶しげに一瞥すると、ちょうどそこに追加のグラスが運ばれてきた。「それで終わりにしろよ」 釘を刺すように言って、俺は短くなった煙草を灰皿に押し付ける。そうして諦めたようにスツールから下りると、「ちょっ……まさかほんとに帰る気なの?」 木崎が飲みかけていたカクテルを噴き出しそうになりながら、俺の腕にしがみついてきた。 ったく、こいつは……。「ほんとにってお前……そろそろ遅番も上がりの時間だぞ」 信じられないと首を振る木崎に、俺は改めてカウンター内に飾られている時計を指差した。 けれども彼はそれを見るでもなく、「もうちょっとだけ!」と言って絡めた腕に力を込めるばかり……。 時刻は23時30分を回ったところだった。遅番の上がりは24時。そろそろ河原も終業の準備を始める時間だ。 ちなみにアリアは24時間営業ではなく、基本は年中無休だが、年始も数日閉めていたりする。「うん、だから今からなら河原も来られるかなぁ
「まぁ、確かに河原はストレートだけどさ」 ……いや、だから。 俺はそもそも、今までお前に恋愛の話をしたことはねぇだろ。 もちろん河原のことだって、一切口にしたことはない。 逆なら嫌というほどあるのだ。木崎の恋愛観や、好みのタイプ、付き合っただの別れただの、浮気しただのされただの。愚痴も惚気も山のように聞かされてきた。そしてその対象が同性だってことも……俺には最初から隠す気がなかったかのようにさらりと話に出されたから知っている。 けれども、その際についでのように自分の話を持ち出すことさえ俺はしたことがないのだ。自分の性的指向が木崎と同じだってことも、もちろん匂わせたことすらない。 なのに、どうしてこうも当たり前のように同性の――あまつさえ〝河原〟の名前が出てくるのか。 元々妙に勘が鋭いところがあるとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。……というか、少なくとも俺は、今までこんなふうに容易に気付かれたことはなかった。だからよけいに動揺してしまったんだと思う。 マジかよ……。 俺は密やかに息をつくと、なんとかスツールから足を下ろし、床に転がっていた煙草を拾い上げた。「でも……だからって、落ちないとは限んないよ?」 そんな俺を尻目に、木崎は尚もあっさり言ってのける。 その手の中には、既に何杯目かわからないカクテルグラスが握られている。 酔ってんな……。 それもあって、好き放題言ってるってわけか。 それとも酔ったふりして鎌をかけ、俺に諸々白状させようって腹か……。 ああ、こんなことなら、まっすぐ帰りゃよかった。 久々だしと思って気軽にOKしたことを、今更ながら後悔する。 俺は小さく舌打ちし、拾った煙草を軽く払って、そのまま口端に添えた。「それはお前の経験談か?」 「うん、経験談」 ……幸せなやつだな。 俺はスツールに座り直しながら、心の中で呟いた。 イエスともノーとも言えず、かと言ってここまできて白を切り通せるとも思えなく
あれから二年半ほどが過ぎ、河原はすっかり本来の自分を職場でも出せるようになっていた。 相変わらず新人の教育やホールの手伝いはできないが、それ以外での評価は確実に上がってきているし、他のスタッフとの関係も、下手をしたら俺より良好なくらいで、本当によくここまで成長したと思う。 ……それに比べて俺は……。 自分の気持ちをはっきりと自覚してから、すでに二年も経っているというのに、結局それをどうこうしようと思ったことは一度もなかった。 もっと彼と一緒にいたい。もっと彼の声が聞きたい。 できればもっとずっと近くで――。 なんて、思うだけなら思うのだ。 傍にいればいるほど、彼を知れば知るほど、その思いはより強くなる。 一緒に飲んで彼が寝潰れてしまった時など、ついその頬に、唇に触れたくてたまらなくなることもあるのに、俺はその全てに蓋をし続けている。 昔からそうだった。俺は好きになった相手の、親友にはなれても恋人にはなれない。どれだけ親しくなったところで、そこから先に踏み込むことはできないのだ。 ……理由はただ怖いから。そうして失ったときのことを考えると、現状のままでいいと思ってしまうからだ。 例外だったのは、高校の時に初めて付き合った一つ上の先輩だけ。あの時だって、向こうから言ってきてくれなかったら、何の進展もなかっただろう。 その後の……大学の頃の相手とも身体の関係はあったけれど、やっぱり恋愛には至らなかったし……。 ……というか、その前に河原はストレートで、それはまず間違いない。 となれば、尚更踏み出せるはずもなかった。 *** 「いるよねぇ、ノンケばっか好きになる人って」 そんな心の中を読んだみたいに、突然そう言いだしたのは木崎だった。 その瞬間、俺はくわえていた煙草をぽろりと落としてしまう。火を点ける前だったそれはカウンターテーブルの端にぶつかり、そのまま床へと転がって、俺の座るスツールの下でゆっくり止まった。「……」 けれども、