翌日、暮科は俺と同じ遅番だった。
昨日は途中から塔子さんのことに気を取られてしまったけれど、それまでにぐるぐると考えていたことは、いまも胸の奥で燻っている。
だからちょっと構えてもいたんだけど、実際店で顔を合わせても、暮科の態度はいつもとなにも変わりなく見えた。一つ気になったのは、昨日、暮科が一度もホールに姿を見せなかったということだ。
俺と塔子さんは、遅番の出勤時刻以降もしばらくは店にいて、話によると暮科も普通通りに出勤していたらしいのに、にもかかわらず、少なくとも俺たちがいる間、暮科は一度も厨房から外には出てこなかった。 もちろん、店長から呼ばれていたり、他の仕事に手を取られていた可能性はある。実際暮科はそのためにホールを離れることも多々あった。……だけど、本当に昨日もそうだったんだろうか。
わざわざ確認はしていないけれど、なんとなくそれだけが理由じゃない気がする。まぁ、後で木崎にでも聞いてみようかな。
そんなことを考えながら、俺は更衣室のドアノブに手をかけた。一人で取っていた休憩も、間もなく終わる時間だ。
廊下に出ると、後ろ手にぱたんと扉を閉める。休憩室は二階にあるため、店に戻るには一直線の廊下を抜けて階下へと下りなければならない。ちなみに反対側の突き当たりにも下り階段があり、そちらは裏口から外へと続く形になっている。
……あ、そっか。次の休憩、暮科か。
不意に思い出し、顔を上げる。と、ちょうど店側の階段を上がってきたばかりの暮科の姿が目に入った。一瞬どきっとしたけれど、なんとか平静を装って歩き出す。
やがて暮科との距離が近くなり、擦れ違いざま、
「休憩、終わり……」
「お前――」「終わりました」と、定番の挨拶を続けようとしたところで、それを阻むように暮科が口を開いた。俺は思わず足を止めた。
「え?」
小さく瞬き、暮科の顔を見る。
暮科の視線がゆっくりと下向いて、「……エプロンは?」
「――あ」つられる
「……河原。顔、上げろよ」 暮科の手からぽたりと白濁した雫が落ちる。その光景を見るともなしに映す中、落とされた声に自分が俯いていたことを自覚する。 気がつくとガラスに縋るようにしながらも、今にもストンとへたり込んでしまいそうな身体を、暮科が背後から抱き締めるようにして支えていた。「河原」 再度名を呼ばれ、ゆっくり瞼を引き上げる。 頭を擡げれば顎に手をかけられ、そのままそっと横向かされた。「んっ――…」 仄かな煙草の香りが鼻先を掠める。かと思うと吐息ごと閉じ込めるように口付けられる。 俺は一瞬目を瞠ったものの、それ以上抗う気力もなく、「ん、んん……っ」 歯列を割られ、戸惑う舌を絡めとられると、ますます意識が朦朧として力が入らなくなっていく。 舌先が上顎を焦らすように何度も擦る。その一方で、下腹部へと触れていた手が後ろに移動する。顎を捕らえていた指が離れると、自然とキスは解けてしまったけれど、「あっ……!」 それを名残惜しいと思う間もなく、その手は胸の突起を摘み、他方が狭間を辿っていくのだ。俺の飛沫に濡れた指が、まるで躊躇うことなく谷合を奥へと滑って行く。「ふ、ぁっ……」 緩んだ唇からは甘く掠れた声が止めどなくこぼれ、そのつもりもなく身のうちに灯る熱が温度を上げる。呼応するように下腹部が再び芯を持ち、無意識に漏れる吐息が止められなくなる。 やがて探り当てられた窪みの表層を、指の腹がゆるゆると撫でてくる。摩擦の少ないその滑らかな動きに、一度火のついた身体は簡単に煽られ、俺は浸るようにまた視線を落とす。 けれども、その滲んだ視界の端で、思いがけず自身の有様を視認してしまい、「あ……っや、待……!」 あまりの羞恥に、逃げるように顔を背けてしまった。 それは自分で思うよりずっと張り詰めていて、先端から溢れる透明な雫はさながら涎でも垂らすかのように、床へと細い糸を滴らせ続けていた。 ……もう、恥ずかしすぎて死にそうだ。「暮、科っ……、
「――…っ」 甲斐の声は聞こえない。何も言わない。 もう、吐息すら迂闊には漏らせない。 そんな状況が喉奥を引き絞らせて、呼吸さえままならない状態が続く。 胸を弾いた指が、焦らすように何度も先端を掠めては離れる。時折ふっと力が抜ける瞬間に、少しずつ前たてを広げられ、引き出されたそれが外気に触れた。 十二月というこの季節に、空調もタイマーが入って間もないと言う室温では、さすがにまだ寒さが勝る。窓についた手の周囲は曇り、その指先とさらされた素肌から、肌寒さが一気に這い登ってくるようだった。 そのくせ、暮科に手を動かされると、とたんに身体は温度を上げる。胸の先を戯れに摘まれ、捻られながら、屹立を包む手のひらが軽く往復するだけで、不本意にも腰の奥が甘く疼く。 俺……俺も、なんで、こんな――……。 顔の横で、端末を持ったままの手が微かに震える。 自分が置かれている状況は、しっかり理解しているつもりだ。そしてこのままではいけないと、ちゃんと頭では分かっている。 それなのに、どうして俺の身体はこんなにも容易く反応してしまうんだろう。 密やかに逃がす呼気まで、気がつけば熱を帯びている。そんな裏腹な自分に、羞恥心ばかりが募る。「――了解」 「っ……、ぇ……?」 いつの間にか、どことない下方に落ちていた視線をぴくりと上げる。不意に告げた甲斐の声は、極めて冷静に耳に響いた。「じゃあ、また月曜にな」 どうしても自分から切れなかった通話を、終わらせたのは甲斐だった。「あ、うん。……また、な」 最後にそう言えたのがせめてもの救いだった。 ぼんやりと見詰める手の中で、携帯の画面が暗くなる。俺はゆっくりその手を身体の横に下ろし、ようやく許されたように息を吐いた。 やっと……やっと終わった。 無事にとは言い難いけれど、何とか大事に至ることなくやり過ごすことができた。 思えばぷつりと糸が切れたみたいに、全身から力が抜ける。持っていた携帯が足元のラグの上へと滑り落ち、窓につい
何、なんで……?! 肩越しになんとか視線を送るけれど、暮科の表情《かお》は長い前髪に隠れてよく見えない。 見えないまま、耳元から首筋に滑り落ちてきた唇が、ちくりとそこに微かな痛みを残す。またしても制服の襟でぎりぎり隠れるかどうかの位置だった。「ちょ、――…」 思考が追い付くより先に、反射的に肩が竦む。思わず「ちょっと待って」と言いかけ、慌ててそれを飲み込んだ。 だって俺の手の中にある携帯はいまだ通話中で、しかも相変わらず顔の近くにあるのだ。そのことが余計に鼓動を逸らせ、俺の背筋を冷たくする。 少し耳を澄ませるだけで甲斐の呼吸音まで聞こえそうなほどなのに、制しようとする俺の意図に反して、暮科は一切手を緩めようとしない。 なんで……? 俺にはどうしても理解できなかった。更衣室《店》でのあれから、まだ一時間も経っていないのに――。「もしもし、河原?」 「え、うん……?」 考えれば考えるほど、甲斐の声にも集中できなくなり、返す言葉も上の空になってしまう。「お前、寝てんじゃねぇだろうな」 「ね、寝てないよ……!」 はっとして言い返しても、その一方で俺に触れる片手は胸元へと這い上り、他方は脇腹、腰骨の辺りへと撫で下りていく。その手つきを嫌でも意識してしまい、携帯を持つ手には汗が滲み、堪えきれず呼吸が上擦った。「だから電話は嫌いなんだよ」 「ご、めん、えっと……とにかく、月曜、な」 「あぁ、また連絡するから」 「わ、わかっ……」 なんとか会話を続けても、それを邪魔するように首筋を舐められる。咄嗟に身をよじって足を動かすが、期待するほどの距離はできなかった。それどころか、気がつけばじりじりと窓際へと追い詰められている。「っ……!」 片手が服の裾から滑り込んでくる。焦らすように素肌へと触れる指先の動きに、一気に全身が総毛立った。 思わずびくりと身体が揺れる。その拍子によろめき、それを支えようと手をついた先はもう、バルコニーに面した窓ガラスだった。 出来ることな
暮科と一緒に店を出て、歩いて数分のコンビニに立ち寄り、そこからマンションのエレベーターに乗り込むまでの約三十分、その間、暮科は一切口を開かなかった。 だけど、もともと暮科は多弁な方じゃないし、並んで歩くその距離感もいつも通りで、嗅ぎ慣れた煙草の香りはほのかにするし――。 ……ってなってくると、さっきまでのあれは何だったんだろうと気の抜けるような心地にもなってくる。 そうかと言って、暮科が押したエレベーターのボタンは七階――俺の部屋がある階で、暮科の部屋は六階にある――のみで、思わず「後で暮科の部屋に行くけど……」と言ってみても、それに返ってきたのは「待つから」という端的な言葉だけだった。 やっぱりまだ機嫌は直ってないのだろうか。 待つと言われればそれ以上食い下がることもできず、俺はひとまず暮科を部屋に上げ、そのままリビングへと通すしかなかった。「電話……すぐ終わらせるから。ちょっと待ってて」 言いながら、ソファに座るよう促してみたけれど、それには首を横に振られてしまう。暮科は近くの壁に寄りかかり、ポケットから取り出した煙草を一本口端に添えた。 ……そのまま電話が終わるのを待つつもりなんだろうか。 いや……でも目の前でかけるのはやっぱり何か……。 終始無言の暮科を背に携帯を取り出し、呼び出した番号に視線を落とす。けれども、指先はなかなか発信ボタンを押せず、背後からの空気に気圧されるように、冷たい汗が背筋を伝う。「あ、そうだ。甲斐ってのはさ、大学の時の同級生で、前の会社の同僚でもあって……」 俺は思い出したように顔を上げた。暮科を振り返り、説明を続ける。携帯に甲斐の番号を表示させ、そのくせそこから何もできないのをごまかすように言葉を探す。「いまでもたまに飲みに行ったりしてるんだけど、そういう、付き合いの長い友達って、俺にしては結構めずらしくて――」 なのに、そこでまた着信音が鳴る。さっき更衣室で流れたのと同じ穏やかなクラシック音楽は、その相手が誰であるかを簡単に推測させる。 俺は思わず身を強張らせ、それから諦めたように携帯の画面に目を遣った。
「暮、科……っ、聞け、って……!」 どうにか離した唇から、銀糸細く伸びて途切れる。けれども暮科はまるでなんでもないみたいにただその濡れた口元を舐めてきて、「くれ、しなっ……、待……っぁ、あ!」 あまつさえ下腹部へと押し当てていた下肢を不意打ちのように揺さぶってくるのだ。 そうなると俺の方が再び翻弄されて、あられもない声を上げてしまいそうになる。「やめ、んぁ……っ」 首筋に舌が這う感覚に背筋が戦慄く。一方で胸元に添えられていた手が、知らず主張し始めていた突起を布越しにひっかくと、殺し損ねた声が高く響いた。「あぁっ、ん……!」 暮科が触れるたび、意識が甘く霞んでいく。比例して腰の奥へと熱が集まり、必然と高まっていく欲求が止められなくなる。 がくんと膝が折れそうになれば自ら暮科の下肢へと自身を押し付ける形になり、よけいに鮮烈な性感が全身を駆け抜ける。咄嗟に堪えようと息を詰めるも、後の祭りだった。「ぃ…っあ、んん……!」 俺は暮科の服を強く掴みながら、その肩口に額を押し付けた。びくんと腰が引き攣り、まもなく服の中で熱が弾ける。「ふ……、ぁ、……」 ……最悪だ。 呆然と開いた目の際から、滲んでいた涙が伝い落ちていく。「待てって、言ったのに……」 たとえどんな形でも、それが暮科ならと受け入れたくなるのがいけないんだろうか。 考えてもすぐに答えは出ない。出ないけれど、それでもさすがにもうこれ以上はと、改めて首を横に振る。するとさっきまであんなにもびくともしなかった暮科の身体が、拍子抜けするくらい簡単に離れた。 支えを失った俺の身体が、ずるずるとその場に崩れ落ちる。 俺は暮科の足下に座り込んだまま、顔を上げずに呟いた。「なんで、こんなこと……」 「――別に」 「別にって……。ていうか、ここをどこだと思って……」 「更衣室だろ。店の」 言われて、ゆっくり暮科を見上げた。 ……なんだか会話になっていない。 そん
なんでいま、こんな……っ。 吐息が掠めるほどに顔を寄せられ、そのまま目尻、頬へと口付けられる。 下肢が触れ合い、腰が重なる。それはもはや身体ごと押し付けられるような格好で、俺はいっそう混乱した。 握りしめた携帯はいまだ通話中で、俺を呼ぶ甲斐の声が何度も聞こえてくる。 そしてそれは暮科にも聞こえているはずなのに、「……っ」 暮科は再び耳元に顔を埋め、耳殻に舌を這わせてきた。緩急をつけて耳朶を食み、わざとかと思うほどの水音を立てて舌先を差し入れられると、「んん……っ」 俺の意識も一瞬霞み、口を覆っていた手も僅かに緩んでしまう。 はっとしてまた口を塞ぎ、ふるふると首を横に振る。そうしながら必死に待って、と目で訴えても暮科はもうなにもやめてはくれず、それどころか首筋から胸元へと焦らすように撫で下ろす手にますます追い詰められる。 危うくあられもない声を上げそうになる。次第に身体からも力が抜けて、いまにも崩れ落ちそうになるのを支えていたのは暮科だった。それが本人の意図かは分からないが、結果として密着した暮科の身体が辛うじて俺の体勢を保たせていた。 ……だめだ、しっかりしろ。 俺は努めて思考を立て直し、ロッカーに縋りながらもなんとか足に力を入れた。それから手の中の携帯を耳に押し当てる。「ごめん、えっと、次の休みなんだけど……」 こんな状況で、いつまでも通話を続けられるはずもない。とにかく先に電話を終えてしまおうと思った俺は、急くように口を開いた。「……っ!」 なのに、それもまた途中で途切れてしまう。 ゆっくりと首筋まで下りてきた唇が、不意にその皮膚にちくりとした痛みを刻んだからだ。 一度でなく、何度も同じ場所に――制服の襟に、ちょうど隠れるか隠れないかの場所に、重ねられる鬱血痕。いつだったかそれはいわゆる所有印だと木崎が飲みの席で話していたことを思い出す。……所有印?「くれ、し……っ」 なんで……? 呼気だけで名を呼び、困惑するままに向けた眼差しは、けれども暮科