LOGIN崎村家の別荘、夜の九時。二階の主寝室にはまだ仄かな明かりが灯っていた。 藤崎美紀(ふじさき みき)はドレッサーの前に座りながら、スマホで一文を打ち込んだ。 「お母さん、あと一ヶ月で結婚契約が切れます。その時に偽装死亡サービスの予約を入れます」 送信ボタンを押すと、すぐに返信が返ってきた。 「美紀、この十年間、本当にご苦労さま。智昭のことをよく世話してくれたし、うちの崎村家に初孫まで産んでくれて……」 「正直、私はもうとっくにあなたのことを本当の嫁だと思ってるの。契約なんて、もうやめにしない?」 そのメッセージを見た瞬間、美紀は無意識にスマホを握る手に力を込めた。 そして慌てて指を動かし、こう打ち込んだ。 「いいえ、お母さん。契約通りでお願いします」
View More半年以上の月日が過ぎた。その間、美紀は毎日、花梨のベッドのそばに座り、想いを語り続けた。毎朝、彼女の顔を丁寧に拭き、細やかに、慎重に看病し続けた。智昭と優斗は、ありとあらゆる稚拙な口実を作って美紀の元を訪れた。特に智昭は、美紀の許しを請うために、寒さ厳しい十二月の大雪の中、一日一晩ひざまずき続け、凍死しかけた。それでも美紀は冷たい目で見つめるだけだった。優斗は毎日、色とりどりの花を手に美紀の前に現れ、自分でケーキを作ることまで覚えた。美紀の家の前は、花とケーキでいっぱいになった。通りすがりの近所の人々は、羨ましげにその光景を眺めていた。そんなとき、美紀はいつもそのケーキや花を分け与え、自分では一切手をつけず、心にも何の波も立たなかった。優斗が初めて、自分が作ったケーキが他人に配られているのを知ったとき、その場にへたり込み、わんわん泣き出した。何度も目をこすりながら、午後いっぱい泣き続け、最後には気を失った。それでも美紀は、ただ智昭に電話をかけただけだった。それから半年後――花梨の容態が完全に回復し、力強く目を開けた。そしてかすれた声で「お姉ちゃん」と呼んだ。美紀は花梨の手を必死に握りしめ、感極まって涙を流しながら、こう呟いた。「花梨、いい子……お姉ちゃんはここにいるよ、ずっとそばにいるよ……」美紀は花梨を家に連れて帰り、二人は強く抱きしめ合った。その瞬間、彼女は自分の半生の苦しみがすべて消えていくのを感じた。智昭は果物かごを手に、玄関に立っていた。美紀は涙を拭い、彼の方へ歩み寄った。今回は、彼を急いで追い返すことはなかった。二人は目を合わせたが、互いに言葉はなかった。智昭は美紀を見上げ、うつむいて恥ずかしそうに言った。「彩子が数日前、階段から落ちて……子どもを失った。彼女の兄が彼女を家に閉じ込めた。もう君の生活を邪魔することはないよ」そして、彼は強い眼差しで美紀を見つめながら、祈るように言った。「美紀、もうすべて終わったんだ。もう一度だけ、チャンスをくれないか?二度と同じことはしないって誓う……」美紀は、これまでとは違って、穏やかな表情で首を横に振り、淡く微笑んで言った。「私たちはもう離婚したのよ。お互い、綺麗に終わらせよう。思い出は一番美しいところで止めておいたほうがいい。この十年
美紀は数日間、穏やかな日々を過ごしていた。そんなある朝、優斗と智昭が突然、彼女の家の玄関に現れた。インターホンの音を無視していた美紀だったが、ふとベランダから下を覗くと、父子が手を振っている姿が目に入った。仕方なく階段を駆け下り、目の前の二人を冷たい目で見つめて言い放った。「いったい何のつもり?」智昭は目を細め、美紀を見つめながら甘えるように言った。「美紀、家族みんなで花火を見に行こうよ。去年、優斗くんと一緒に、毎年一緒に花火を見に行こうって約束したの、覚えてるでしょ?」優斗は美紀の手を引っ張りながら、体を揺らして甘えた声で言った。「ママ!ママ!一回だけでいいから一緒に行ってよ。本当にママに会いたかったんだ」優斗の心の声が、美紀の脳内に響いていた。【パパが言ってた……花火を見に行ったら、ママが昔のことを思い出して、もう冷たくしなくなるって……】美紀は思わず笑ってしまった。今になっても、まだ自分が情にほだされると思っているなんて。父子は息を合わせて、懇願するように美紀に訴え続けた。「美紀、お願いだよ。今回だけでもいいから。一緒に花火を見て、家族で穏やかに過ごそう?」「ママ、ママ、優斗くんと一緒に花火見に行くって、去年約束したじゃん……!」二人の声に頭が痛くなるほど、美紀はうんざりしていた。冷たい目で二人を見据え、全く心を動かされることなく言い放つ。「もう諦めなさい。あの頃、あなたたちは私を少しも受け入れようとしなかった。私は絶対に許さない」そのとき、美紀の目に、角に隠れていた彩子の姿が映った。彼女はすぐさま踵を返し、階段を駆け上がって警報ボタンを押した。玄関に戻った頃には、彩子は警察に取り押さえられていて、手錠をかけられたまま、美紀を睨みつけていた。彩子は振り返って、美紀に罵声を浴びせた。「このクソ女!絶対に不幸になれ!」美紀は警察を玄関まで見送り、スマートフォンを取り出して俊彦にメッセージを送った。「港町交番、彩子を迎えに行ってあげて。あなたの恩に報いるために、私は嘆願書にサインするつもり。これからは、あなたの妹をちゃんと見張って。もう誰かを傷つけたり、自分を傷つけたりするようなことはやめさせて。私たちは、これで終わりよ……」
その後の半月間、智昭と優斗は毎日決まった時間に美紀の家の前に立ち続けた。どれだけ追い払われても、二人は一歩も引かなかった。優斗は毎日趣向を変えて、大人の真似をしながら色んな小さなプレゼントを買って美紀に渡そうとしたが、美紀はそれらを容赦なくゴミ箱に放り込んだ。智昭はというと、毎日三食を欠かさず届け、父子は美紀が玄関に置いたゴミ袋すらも取り合うようにして捨てに行った……彩子はそんな二人の単調な往復生活を目の当たりにし、智昭の心が美紀に向かっているのを見て、胸が妬みで張り裂けそうになった。 彼女は、美紀が死を偽装してまで智昭の愛を取り戻そうとしているのだと、勝手に思い込んでいた。その日、玄関のドアを叩く音は重く、そして急かすようだった。 美紀は苛立ち、ドアを開けると、目を閉じたまま不機嫌そうに叫んだ。「智昭、いい加減にしてよ!どうすれば私を解放してくれるの!?」彩子は鼻で笑い、口元にずる賢い笑みを浮かべたが、心の中では嫉妬と怒りで煮えくり返っていた。 彼女は美紀を睨みつけながら怒りをぶつけた。「解放?こっちのセリフよ。あの人たちを放っておいてくれない?」美紀は目の前の人物が彩子だと気づき、冷たい目で一瞥すると、低い声で言い放った。「私はあの人たちと関わる気なんて一度もなかったわ。あなたこそ旦那と息子の管理、ちゃんとしてくれる?」そう言うと、美紀は勢いよくドアを閉め、すぐさま管理会社に電話して彩子を敷地から追い出した。彩子は病院へ向かい、花梨の治療を担当している家庭医を訪ねた。 そしてバッグから分厚い札束を取り出し、眉をつり上げながら邪悪な笑みを浮かべて言った。「ちょっと薬に一手間加えてくれれば、あの女の妹は二度と目を覚まさない。これ全部、あなたのものよ……」彩子は札束を医者の前に滑らせた。 医者は一瞬戸惑ったが、すぐに微笑みながら頷いた。その様子を、俊彦は陰からじっと見ていた。彩子が病院から出てきた瞬間、俊彦は彼女の前に立ちはだかった。彩子は驚き、目を見開いてわざとらしく叫んだ。「お兄ちゃん!?なんでここにいるの?」俊彦は彼女の手首を掴み、額の青筋を浮かせながら怒りを込めて言った。「彩子……人としてやっちゃいけないことをするなって、警告したはずだ!俺が知った以上、た
手術室の赤いランプが消え、大きなドアがゆっくりと開いた。美紀はすぐさま前に出て、切実な眼差しで医師に尋ねた。「先生、妹はどうなりましたか?」医師は軽くうなずき、命に別状はないことを示した。その瞬間、美紀はようやく安堵の息を吐いた。彼女は花梨のベッドについて行こうとしたが、その腕を智昭に強く掴まれた。智昭は目の前の美紀をじっと見つめ、目には深い後悔と罪悪感が浮かんでいた。そして、突然大声で叫んだ。「美紀、君が俺を愛してなかったとしてもいい!俺は君を愛してる、それだけで十分なんだ!俺がずっと愛してきたのは君だけだ!」浮気した夫の口からそんな言葉を聞かされ、美紀は心の中で思わず苦笑した。ずっと自分を愛していた?それがどれだけ皮肉に聞こえるか――彼女は智昭の手を乱暴に振り払った。そして、これまでの我慢を捨てたように、冷たい声で横に立っている彩子を指差した。「あなたが愛してるのは、あの人でしょ。私じゃなくて」智昭の目に戸惑いの色が浮かび、一瞬呆然とした。そして慌てて問いかけた。「じゃあ……優斗くんは?俺たちの優斗くんはどうなるんだ?」過去の出来事が脳裏をよぎる。美紀はもう振り返りたくなかった。顔をそむけながら、冷たく言い放つ。「あなたの子どもは、まだお腹の中にいるんじゃない?」そう言い終えると、彼女は一度も振り返ることなくその場を去った。残されたのは、智昭と彩子の二人だけだった。智昭は美紀の背中を見つめ、心の中が空っぽになったような感覚に襲われた。息が詰まるような苦しさが全身を包み、呼吸することすら難しかった。翌日、美紀は花梨を家に連れ帰り、家庭医を手配して面倒を見ることにした。もう智昭に関わるつもりはなかった。自分はもう、あの頃の美紀ではないのだ。彼女は花梨のそばに静かに座っていた。そんな時、不意に玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこに立っていたのは智昭と、その手に引かれた優斗だった。美紀は無表情のまま、冷たい視線を智昭に向けた。智昭は気まずそうに笑いながら、隣の優斗を指差して言った。「優斗くんがママに会いたいって、泣きながらどうしてもって言うから……」優斗はその場で美紀に飛びつき、大声で泣き叫んだ。「ママ!ママ、やっと帰ってきてくれた!」その瞬間、美紀の頭の中に、ま