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真夏の果実

真夏の果実

By:  桔梗Completed
Language: Japanese
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十年間ずっと御村嘉之のそばに寄り添い、ようやく結ばれることになった鈴木芙実。 けれど、結婚式の前夜、芙実は嘉之の口から、思いもよらない言葉を聞いてしまう。 「芙実?あの子なんて、文乃の代用品だよ」 それを聞いた瞬間、芙実は嘉之と過ごした日々に終止符を打ち、もう二度と彼に会わないと、そう心に決めた。

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Chapter 1

第1話

「手術には70%のリスクが伴いますし、たとえ成功しても記憶喪失などの後遺症が残る可能性があります......本当に、覚悟はできていますか?」

鈴木芙実(すずき ふみ)は力強くうなずいた。

「ええ、もう決めたの」

医者はふぅとため息をついた。「実は、海外の方が技術も設備もずっと進んでいます。あなたの恋人の御村さんは人脈も広く、素晴らしい方です。お願いすれば、きっと最先端の病院を手配してくれるはず。わざわざこんな大きなリスクを冒す必要はないと思いますよ」

芙実の口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。

その医者が言う「素晴らしい恋人」――御村嘉之(みむら よしゆき)は、確かに自分にはとても優しかった。

自分を主役にするために、何十億というテレビドラマ投資を惜しまず注ぎ、何十時間ものフライトを経て海外のオークション会場に赴き、高額なダイヤモンドリングを競り落として喜ばせ、徹夜で帰国してプロポーズをする――まるで夢のような話だった。

自分は深く愛されている、そう信じて疑わなかった。もしあの時、酔っ払った嘉之の本音をドア越しに聞かなければ――

「芙実?あの子なんて、文乃の代用品だよ......文乃の妹だから助けてやっただけで、一度寝たからには責任取らなきゃな」

その瞬間、全身の血が凍ったようだった。まるで氷の底に沈んだような感覚。

でも、個室での会話はそれだけじゃ終わらなかった。

「もし文乃と結ばれない運命なら、芙実と結婚するのも悪くない。俺に一途だし、どれだけ突き放しても離れようとしないんだ」

一瞬の沈黙のあと、部屋の中から笑い声が上がった。嘉之の友人たちは彼を持ち上げた。

「まさに『純愛の塊』じゃん!御村家にはお前みたいな奴がいるんだな!」

そのとき初めて、芙実は気づいた。嘉之が何度も呼んでいた「ふみちゃん」という名前――それは、自分のことではなかったのだ。本当に呼ばれていたのは、姉・鈴木文乃(すずき ふみの)だった。

遠く海の向こうまで数十時間かけて飛んだあの日も、実は文乃に恋人ができたと聞き、最後にもう一度文乃の顔を見たい一心からだった。

そして、文乃が幸せそうに他の誰かの肩にもたれているのを見たその瞬間、嘉之は諦めた。そしてその直後、気晴らしのようにオークション会場でプロポーズ用の指輪を買ったのだ。

夜通し車を走らせて帰国し、芙実のマンションの下で夜明けまで待ち続けた。雪が髪に積もるほど。

あのプロポーズは、たちまちネットで話題になった。

高級車に大豪邸、美男美女のカップル。ロマンチックなその光景は多くの人の注目を集め、ショート動画アプリで爆発的に拡散され、数百万、いや、千万単位のいいねがついた。

「商界の新星」と呼ばれる嘉之は、整った顔立ちと冷徹な印象の持ち主。けれど、そのとき指輪を差し出した手は、かすかに震えていた。

「この指輪をつけたら、ふみちゃんを永遠に縛っておける。もう、どこにも行かせない」

いつもは高飛車な嘉之が、人前でここまで頭を下げたのは、ただ「ふみちゃん」に離れてほしくない一心からだった。

そのプロポーズ映像に、たくさんの人が心を打たれ、ニュースもこぞってこの名場面を報じた。

――でも、実際はどうだったのだろう。

嘉之にとって、あれはただ報われない恋への惜別、あるいは妥協にすぎなかったのかもしれない。

どこにも行かせない?

芙実は唇を皮肉に歪めた。残念だけど、その願いにはもう応えられないかもしれない。

病院を出たあと、芙実は名刺を取り出し、そこに書かれた番号に電話をかけた。電話の向こうから聞こえてきた男性の声には、どこか狡猾な笑みがにじんでいた。

「どうです?もう決まりましたか?僕の腕は冗談抜きで一流ですから。偽装死亡の契約を結べば、世の中から鈴木芙実という人間は完全に消えることになりますけど」

芙実は目を閉じ、静かに答えた。

嘉之のライバル・中条凪時(なかじょう なぎと)との契約にサインし、一か月後に事故を装って「偽装死」を遂げると約束した。

その一か月は、この世から自分の痕跡をすべて消すための時間。そして、これまでの人生で最も重要な「物語」を演じ切るための時間になるはずだった。
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第1話
「手術には70%のリスクが伴いますし、たとえ成功しても記憶喪失などの後遺症が残る可能性があります......本当に、覚悟はできていますか?」鈴木芙実(すずき ふみ)は力強くうなずいた。「ええ、もう決めたの」医者はふぅとため息をついた。「実は、海外の方が技術も設備もずっと進んでいます。あなたの恋人の御村さんは人脈も広く、素晴らしい方です。お願いすれば、きっと最先端の病院を手配してくれるはず。わざわざこんな大きなリスクを冒す必要はないと思いますよ」芙実の口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。その医者が言う「素晴らしい恋人」――御村嘉之(みむら よしゆき)は、確かに自分にはとても優しかった。自分を主役にするために、何十億というテレビドラマ投資を惜しまず注ぎ、何十時間ものフライトを経て海外のオークション会場に赴き、高額なダイヤモンドリングを競り落として喜ばせ、徹夜で帰国してプロポーズをする――まるで夢のような話だった。自分は深く愛されている、そう信じて疑わなかった。もしあの時、酔っ払った嘉之の本音をドア越しに聞かなければ――「芙実?あの子なんて、文乃の代用品だよ......文乃の妹だから助けてやっただけで、一度寝たからには責任取らなきゃな」その瞬間、全身の血が凍ったようだった。まるで氷の底に沈んだような感覚。でも、個室での会話はそれだけじゃ終わらなかった。「もし文乃と結ばれない運命なら、芙実と結婚するのも悪くない。俺に一途だし、どれだけ突き放しても離れようとしないんだ」一瞬の沈黙のあと、部屋の中から笑い声が上がった。嘉之の友人たちは彼を持ち上げた。「まさに『純愛の塊』じゃん!御村家にはお前みたいな奴がいるんだな!」そのとき初めて、芙実は気づいた。嘉之が何度も呼んでいた「ふみちゃん」という名前――それは、自分のことではなかったのだ。本当に呼ばれていたのは、姉・鈴木文乃(すずき ふみの)だった。遠く海の向こうまで数十時間かけて飛んだあの日も、実は文乃に恋人ができたと聞き、最後にもう一度文乃の顔を見たい一心からだった。そして、文乃が幸せそうに他の誰かの肩にもたれているのを見たその瞬間、嘉之は諦めた。そしてその直後、気晴らしのようにオークション会場でプロポーズ用の指輪を買ったのだ。夜通し車を走らせて帰国し、芙実のマンション
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第2話
芙実がちょうど病院を出てタクシーを拾おうとしたそのとき、1台のフェラーリが突然ドリフト気味に彼女の目の前に停まった。すぐあとに、長身で凛としたシルエットが足早に近づいてくる。「ふみちゃん、検査終わったら電話くれるって言ってたよね?仕事片付けたらレストランに迎えに行くって話だったじゃん」朝、嘉之は「検査に付き添う」と言っていた。けれど出発前から彼のスマホは鳴りっぱなしだった。だからこそ、嘉之は申し訳なさそうな顔で説明した。「ごめん、会社で急にトラブルがあってさ。検査終わったらすぐ連絡して。すぐ迎えに行くから」だけど、病院を出てから芙実が何度電話をかけても、全部切られてしまった。芙実はうつむき、着信拒否された履歴がずらりと並ぶ画面をじっと見つめた。その視線に気づいたのか、嘉之もようやく異変を察した。不在着信の数々を見て、少しバツが悪そうに言った。「知ってるだろ?会議中はマナーモードにしてるからさ」堂々とした口調でそう言いながら、彼の口から出てくるのは「仕事が忙しい」の一点張りだった。その「忙しい」間、芙実には一日中ほとんど連絡が返ってこなかった。でも、嘉之は知らない。彼の一挙一動が、すでに誰かによって芙実にリアルタイムで報告されていたことを。「会議中」と言い残して彼が去った直後、芙実のもとに匿名の誰かから一枚のスクリーンショットが送られてきた。画像には、黒いストッキングに包まれた長い脚が艶めかしく光っていた。ただ、膝の部分が何かに擦れて血がにじんでいるのが目に留まる。女性は弱々しく床に座り込み、カメラを見上げるその瞳には涙が浮かんでいた。「階段から落ちちゃって、すごく痛いの......もう動けない」そのすぐ下には嘉之のLINEアイコンと返信メッセージ。「怖がらないで、そこにいて。すぐ行く」夕陽の余韻が芙実の影を長く伸ばした。彼女は、がらんとした病院の廊下の長椅子にひとりで座っていた。手には、脳腫瘍と記された診断書をぎゅっと握りしめている。まるで迷子になった子どものように、どうすればいいのかわからないまま座り込んでいると、スマホがひっきりなしにバイブ音を響かせた。匿名の人物は、次々と写真や動画を芙実に送りつけてくる。映っているのは、嘉之がその女性のアパートに駆けつけたときの、焦りを隠せ
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第3話
レストランの前には、すでにマネージャーとスタッフが一列に並んで待っていた。芙実が車から降りると、店員が急いで駆け寄ってきた。その店員の目には、ほんの少し羨望の色が浮かんでいた。「鈴木さん、こっそり教えますけど......今日、社長があなたのために特別なサプライズを用意してるんですよ」なんと嘉之は、わざわざシンガポールからデザート職人を呼び寄せ、ケーキの材料だけでも数百万円をかけたという。しかもそのケーキには、高価なエメラルドが忍ばせてあり、それを想いを寄せる相手への誕生日プレゼントにしようとしていたらしい。芙実は話を聞きながら、何も言わずに静かに後ろにいる嘉之のほうを見つめた。「男はお金の使い方で本気度がわかる」なんて言葉があるけど、ここまで手間をかけて準備してくれるってことは、もしかして......彼、自分のことを想ってくれてるのかもしれない。嘉之はちょうどスマホをいじっていて、誰かとチャットをしているようだった。時折、画面を見ながら口元を緩めて笑っている。次の瞬間、芙実のスマホも鳴った。画面を開くと、チャットのスクリーンショットが次々と送られてくる。【昨日あなたがちょっと乱暴だったせいで、私の服が全部破れちゃったんだから】怒った顔のウサギのスタンプが添えられていた。文乃からだった。その可愛らしいスタンプに、嘉之はつい笑って、こう返信していた。【昨日のお前のあの姿、男で我慢できるやつなんかいないよ】【午後、新しい服を一緒に買いに行こう?ゴールドカード使っていいよ。上限なしで】あの朝に味わった絶望のあとなら、もう二度と心が揺れることはないと思っていた。それでも胸が締めつけられるような痛みが走り、全身が鈍くうずいた。レストランは豪華に飾られていたけれど、その場にいるのは二人だけ。なんだか少し寂しい雰囲気が漂っていた。嘉之は言った。「大勢呼ぶ必要なんてないよ。賑やかなの、好きじゃないから」けれど芙実は、賑やかなのが何より好きだった。二十分後、嘉之が巨大な城の形をしたケーキを運んできた。芙実と目が合った瞬間、彼は甘く優しい笑顔を見せた。そして芙実の頭にバースデーハットを乗せ、しっとりとした口調で語りかけた。「ふみちゃん、知ってる?このお城のケーキには意味があるんだ。お前と家族になりたい
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第4話
ひび割れだらけのスマートフォンの画面をアンロックすると、高校時代のグループチャットから通知が届いていた。グループの管理者が珍しく全員にメンションを飛ばし、嬉しそうな口調でこう言っていた。「文乃が帰国したよ。今は都心部の北都ホテルにいるんだけど、誰か会いに行きたい人いる?」そのメッセージには、ついでのように一枚の写真も添えられていた。写っていたのは、長いこと見ていなかった懐かしい顔ぶれ、同じデザインのバースデーケーキ、キラキラしたプレゼントが並ぶテーブル。そして、右下には嘉之の顔の半分が、何気なく写り込んでいた。背景のインテリアは、芙実が今いるレストランとほとんど同じだった。ただ、部屋の広さも華やかさもまるで違って、人の数も圧倒的に多かった。そうか。彼の言っていた「急用」って、自分に黙って、隣の会場で文乃の誕生日を祝ってたってことだったんだ。文乃が帰国したという知らせが入った途端、グループチャットは瞬く間に更新されて、祝福や歓迎の言葉で溢れ返った。その中には、いくつか冷たい言葉も混ざっていた。「なんでこのグルチャで報告するの?アイツ、いるだけで不快なんだけど」「わざと見せてるのよ!文乃の両親を奪って、次は嘉之まで。文乃が戻ってきたのに、どのツラ下げて北都にいるのかしらね」その非難の言葉に、芙実の中で十年前の記憶が一気に蘇った。十四歳のとき、芙実は本物のお嬢様として鈴木家に迎えられた。家に着いた瞬間、名目上の姉・文乃は母の腕の中で、涙を浮かべてこう言っていた。「芙実ちゃんに嫌われたらどうしよう......私、何もいらない。ただパパとママと一緒にいたいだけなのに......」怯えたようなその表情は可憐で、思わず守ってあげたくなるような雰囲気だった。父は複雑な顔をしながら玄関に立つ芙実を見つめ、文乃をきゅっと抱きしめた。母も、気まずそうに口を開いた。「芙実、この子があなたのお姉ちゃんよ。文乃はね、小さい頃から私たちが大事に育ててきたの。もう、私たちから離れられないのよ」まるで文乃を守るかのように、両親は芙実の前に立ちはだかった。誕生日が同じだったにもかかわらず、両親は文乃を優先した。「芙実にはもうパパとママがいるでしょ?だから、お誕生日会はお姉ちゃんに譲ってくれる?」「今回はお姉ちゃ
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第5話
あの頃、この連中も口を揃えて「お義姉さん」って呼んでたっけ。「前から嘉之に幼なじみがいて、ずっと彼のこと想ってる子がいるって聞いてたけど、今日ようやく紹介してくれたな」「お義姉さん、この世で嘉之を手懐けられるのは、もうあなただけだよ。これからは俺たち全員、お義姉さんの家族みたいなもんだから。嘉之がもしお義姉さんを怒らせたら、まず俺たちが許さないからね!」結局、最初から最後まで馬鹿だったのは、自分ひとりだけだった。「そうだ、今日はお義姉さんの誕生日でもあるんだよな。ちゃんとお祝いして、怪しまれないようにしよう!」その時から、芙実のスマホに通知音が次々と鳴り始めた。画面を開くと、やっぱりあの「家族たち」からの誕生日メッセージだった。【お義姉さん、お誕生日おめでとう!】【本当は、俺たちも誕生日パーティー行きたかったんだよ。でも嘉之が「今日は二人きりで過ごすから、邪魔すんな」って言ってさ......でも安心して、今度ちゃんと改めて、みんなで盛大に祝うから!】スマホ画面に並んだ、その嘘くさいメッセージのやりとりが、芙実にはこれまでにないほどの嫌悪感を呼び起こした。でも、大丈夫。こんな偽りの宴も、もうすぐ終わる。あと一ヶ月。もう一ヶ月だけ我慢すればいい。芙実はすぐに踵を返して、自宅へ戻った。別荘の中に入って、ようやく胸の奥に溜まっていた重い息を、ゆっくりと吐き出した。もう、離れる準備はできてる。この世界に残す痕跡は、ひとつ残らず消していかなくちゃ。思い出以外に、この世界に残すものなんて、何もない。まず最初に手をつけたのは、地下室の鍵だった。あの年、十五歳のときに御村家は破産。莫大な借金を背負った嘉之の両親は、ビルから身を投げて自殺した。その余波で鈴木家も会社が傾いた。それでも鈴木家はどんなに困窮しても、芙実の学費が払えなくなっても、両親は家産を売ってまで、姉の文乃を海外に留学させた。姉が去ったあの日から、嘉之はまるで魂が抜けたみたいになっていた。その傍に、ずっと寄り添っていたのが芙実だった。彼にとっては、手放せない影のような存在。嘉之の仲間たちですら、「この世の誰が見放しても、芙実だけは絶対に裏切らない」って言っていた。でも、そういう言葉を聞くたびに、嘉之はどこかうんざりしたように言った
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第6話
【今夜あなたが隣の部屋にいたことも、嘉之が私の誕生日を祝うためにあなたを置いて出ていったことも、全部知ってるわ】【ずっと嘉之に愛されてきた私に、あなた程度で勝てると思ってるの?】両親のひいきも、自分を代用品として扱う恋人も。芙実にとっては、どちらも手に入らないものだった。けれど、文乃にとっては、どちらも簡単に手に入るものだった。芙実は、自分じゃ勝てないって分かってた。だから、争うこともしなかった。ただ静かに、この街を離れようとしていた。その後どんな日々が続こうと、嘉之が何時に帰ろうと、どんな言い訳を繰り返そうと、もうどうでもよかった。ただ、北都を離れる日までを指折り数えながら、無表情で「理想的な妻」を演じていた。いつものようにスーパーで買い物して、家に戻って夕飯を作った。けれど料理は、一品一品が冷めては温められ、温めてはまた冷めていくだけで、嘉之は結局帰ってこなかった。芙実は夕飯を口にすることなく、ずっとリビングで彼の帰りを待ち続けていた。薄暗い部屋には、退屈なバラエティ番組が流れ、賑やかな笑い声ががらんとした部屋に反響し、かえって寂しさを際立たせていた。ようやく深夜1時、誰かがソファで眠っていた芙実を抱きかかえた。檀香の中に混ざったジャスミンの匂いが鼻を突き抜けて、芙実は吐き気を感じた。あの香りは、姉の一番のお気に入り。あまりにも馴染み深い匂いだった。込み上げてきた吐き気に耐えきれず、芙実はとっさに嘉之を突き飛ばし、トイレへ駆け込んで激しく嘔吐した。嘉之は慌てて背中をさすりながら言った。「また辛いもん食べたんじゃないか?あんなにたくさん辛い料理作ったら、お腹壊すって」でも彼は気づいてなかった。あの食卓には、誰の箸もつけられていなかったことを。それに芙実は、辛いものが苦手で、特に味の濃い料理はNGだった。あの食卓に並んでいたのは、全部嘉之の好物ばかりだった。嘉之は芙実に水を差し出した。そのとき、襟元から隠れていたキスマークがちらりと見え、芙実の心を鋭く突き刺した。嘉之は芙実の苦しそうな様子を見るに堪えなかった。だからこそ、彼女を抱きしめる時に、つい力が入りすぎる。大きな骨ばった手で頭をそっと撫で、髪に優しく触れる仕草は、彼の体に染み付いた癖だった。あの頃、芙実が彼をかばって肋骨を
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第7話
電話の向こうから、マネージャーの信じられないような声が聞こえてきた。「あなた、本気なんですか?御村さんがあなたの芸能活動のために、どれだけのお金を出したと思ってるんですか?」口にしてすぐ、マネージャーは自分の失言に気づき、慌てて口元を押さえた。「すみません、本当はこれ、会社の機密事項なんです。御村さんから『絶対に本人には言うな』って言われてたのに......」芙実が芸能界に入ってから、嘉之はすぐに映画会社を立ち上げた。彼は芙実が芸能界の汚れた部分に関わることを嫌い、巨額の資金を投入して「スズフミメディア」を設立。芙実の上司として、そして彼女を守る後ろ盾として動き出した。ただ、嘉之は常に控えめな姿勢を崩さず、社長という肩書きすらも公にはしていなかった。マネージャーでさえ、二人が恋人同士だということを知らなかったほどだ。そのせいで、周囲の人間は様々な憶測を立てた。中には、芙実が映画会社のオーナーに取り入って仕事をもらっているなどと、陰で好き勝手に噂する者もいた。けれど、芙実はそうした声に一切反論しなかった。突然の契約解除は、嘉之にとって大きな損失になる。だから芙実は、今撮影中の作品が終わった後に契約を切る決意を固めていた。その映画の原作は『真夏の果実』という小説。八年にわたる少女の片想いを描いた物語で、出版直後からネットで大きな人気を博していた。だが、その物語に現実のモデルがいることを、誰も知らなかった。それは芙実が鈴木家で疎まれながら過ごした八年間。そして、嘉之への淡い恋心を胸に秘めていた八年間でもあった。作者は芙実自身。そして偶然の巡り合わせで、主演も彼女が務めることになった。芙実は、自らの青春時代を演じることになったのだ。それだけに、この映画には強い思い入れがあった。幸い、撮影は極めて順調に進んでおり、あと二十日ほどでクランクアップの予定だった。撮影が終わったら、死を装ってこの街を去るつもりだった。そしてその先は、流れる川のように、嘉之とは永遠に別れるつもりだった。けれど、その計画が誰かによって壊されようとしていることに、芙実はまだ気づいていなかった。主演が変更されるという連絡を受けた時、芙実は薄手のTシャツ姿のまま、雪と氷に覆われた屋外の湖に立っていた。突き刺すような冷気が肺の奥
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第8話
文乃は新人ながら、デビュー早々に数々のリソースを独占し、年間で最も注目される小説の実写化作品のヒロインに抜擢されたことで、大きな話題を呼んでいた。無数のカメラが文乃に向けられる中、彼女は真紅のドレスをまとい、細い首元にはエメラルドが輝いていた。その姿は、もともとの美しさをさらに引き立てていた。「デビューしてすぐにトップとは......鈴木さん、噂ではスズフミの社長がパトロンだそうですが?」そんな悪意ある質問が飛んだ。「パトロン、ですか?」文乃は口元を手で隠して苦笑いを浮かべると、「もう一人の当事者に直接聞いてみてはいかがでしょう」とさらりと返した。スクリーンが切り替わり、マスクで半分顔を隠した男性が映し出された。映像業界の大物は、素顔を公開するつもりはないようだが、それでも片側だけで圧倒的な存在感を放っていた。「文乃さんは、俺にとって大切な人です。彼女が望むなら、俺のすべてを捧げる覚悟があります。パトロンなんて言葉じゃ、とても彼女の価値を語れません」嘉之の声からは、揺るぎない決意が感じられた。その言葉に、芙実の唇が嘲るように歪んだ。文乃をああしてかばう時、嘉之は考えたことがあるだろうか。芙実もまた、長い間「成り上がり女」だの「コネで優遇されてる」だのと誹謗され続けてきたことを。でもあの時、彼は一度だって自分を庇ってはくれなかった。比べるほどに滑稽で、今の自分はまるで道化そのものだ。「でも『真夏の果実』の主演って、もともとは別の女優さんで、冬の湖で十数時間も撮影に耐えて、あと一ヶ月でクランクアップってところだったそうですね?」記者が追及を続けた。嘉之の目がわずかに揺れ、思考が遠のく気配を見せた。それを見た文乃はすかさずマイクを取って、「申し訳ありませんが、ヒロイン役として私は最初から御村さんの第一候補でした」ときっぱりと言い切った。嘉之も我に返ったように唇を引き締め、「あの女優さんも......確かに素晴らしかったが、この役に一番ふさわしいのは文乃さんです」と断言した。耳元で風が唸り、冷たい風が芙実の頬を刺した。ようやく届いた嘉之からの返信には、こう書かれていた。【心配するな、ふみちゃん。俺がついてる。チャンスはまた巡ってくる。だけど、お前のお姉さんは新人で何も持ってないんだ】なんて皮肉な
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第9話
煌びやかな宴会場には、華やかな衣装に身を包んだ男女が行き交っていた。チャリティーパーティーで最初に展示されたのは、ヴィクトリア時代の名作「蛇型ネックレス」。このネックレスを、嘉之はなんと20億円という驚くべき額で落札し、文乃に贈ったのだった。蛇の形に巻きつく宝石とダイヤモンドが見事な輝きを放ち、目を奪われるほど鮮烈な光を反射していた。その煌めくジュエリーと美しい文乃の組み合わせに、出席者たちは思わず見惚れ、嘉之もまた、目を離せずにいた。これまでにも嘉之は文乃に多くの贈り物をしてきたが、ここまで高価なものは初めてだった。その瞬間、会場のカメラが、まさに「お似合いカップル」の二人にフォーカスを合わせた。文乃は恥じらいを浮かべ、潤んだ瞳をきらきらと輝かせながら、大胆にも嘉之に想いを告げた。「ずっと私のために尽くしてくれて......ありがとう」しかし、その言葉とは裏腹に、嘉之の表情にはどこか曇りがあった。ここ数日、嘉之はチャリティーパーティーの準備に追われていて、芙実に会えていなかった。理由はわからないが、最近彼は何度も悪夢を見ていた。夢の中には、血まみれの芙実が現れ、そのたびに冷や汗をかきながら飛び起きていた。先ほど送ったメッセージにも芙実から返事はなく、再度送信してみたところ、なんとブロックされていることに気づいた。「大丈夫、問題ない」と自分に言い聞かせた。たとえ芙実が何かに不満を抱えて距離を置いたとしても、それが長く続くはずがない。北都には身寄りも親もなく、芙実が長いこと怒り続けるとも思えなかった。以前だってそうだった。どんなに喧嘩しても、きちんと謝れば芙実はすぐに許してくれた。そう自分に言い聞かせながら、嘉之は高級ブランド店に電話をかけた。かつて、ダイヤモンドで飾られたウェディングドレスをオーダーメイドしていた。それは芙実への結婚の贈り物だった。来月、芙実と結婚する予定だったのだ。ただし、その計画は彼女にはまだ伝えていなかった。サプライズで驚かせたかったのだ。嘉之にとっては、その1ヶ月が猶予期間でもあった。その間だけ、禁断の恋に溺れるつもりだった。だが、結局1ヶ月も持たなかった。文乃との関係にも、その甘い幻想にも、もう嫌気が差していた。たった1ヶ月......もう、我慢できそうになかった。そんなことを考え
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第10話
この世で、芙実ほど嘉之が一生で最も恐れている光景を知っている人間はいない。十五歳のとき、嘉之の両親は借金取りに追い詰められ、彼の目の前で飛び降り自殺した。その後、路地の角で血まみれの鉄パイプを振り回す凶悪そうな男の前に、彼女が身を挺して飛び出した。芙実が嘉之の取り乱した姿を見たのは、これまでに二度。どちらも、かけがえのない人を失う瞬間だった。リアルな擬似死を演出するため、芙実はスタントの使用を自ら拒否し、本物のトラックに轢かれる「死に方」を選んだ。嘉之が必死で駆けつけたとき、目にしたのは、愛する人がトラックに轢かれ、もはや形を留めていない血肉の塊になっている光景だった。凪時の目に、一瞬だけためらいが浮かんだ。「そこまでリスクを冒す必要はないでしょう。俺の技術なら監視映像の差し替えなんて簡単です。誰にも見破られない自信があります」芙実は静かに首を振った。「嘉之は疑い深い人間なんです。私が直接やらなきゃ、きっと信じてくれないでしょう」どれだけ不確定要素を減らしても、轢かれるその瞬間、内臓がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚に襲われた。全身に激痛が走った。まるで幼い頃、姉に突き落とされて二階から落ちたときのように。少女の下に広がる鮮紅が、真っ白な雪原にじわじわと滲み広がり、やがて駆けつけた男の足元にまで届いた。何度も読み込んだ台本が、彼女の手からこぼれて地面に散らばった。そのうちの一枚が風に舞い、ふわりと嘉之の目の前に落ちてきた。彼は反射的にそれを掴み、そこにびっしりと書き込まれたメモに目を奪われた。一番下の行に、小さく丁寧な文字でこう記されていた。【女優・鈴木芙実のキャリアスコア+1】この映画の主演が決まったと知らされたとき、芙実は嬉しすぎて何日も眠れなかった。当時、嘉之は冗談交じりに笑いながら言った。「お前がその気になれば、今すぐ最優秀女優にしてやるよ。こんな無名の低予算映画にこだわる必要なんてないだろ?」でも、芙実は首を振って、台本を大切そうに胸に抱えていた。「私にとっては、百回賞をもらうより、この作品の主演をやれることのほうが嬉しいの......」芙実がどれだけこの作品を大事にしていたか、嘉之が知らなかったはずがない。でも商業的な価値しか見ていなかった嘉之は、その大切な役を、文
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