直人の視界がぐらつき始めた。それでも耳元で鳴り続ける声は鮮明に脳裏を刺す。「あの病院は俺が個人出資したとこだ。中でやってることはお前の想像を超えてるぜ」「最初の頃は従順だったからな、電気ショックに窒息プレイ、ストレッチ療法……どれもこれも試したんだ。反抗しようとしても結局土下座するんだからな」「そしたらこいつが隠し持ってた携帯で助けを求めてやがった。俺がぶっ壊すまでな」「あれからはベッドに縛り付けてやった。反抗すれば電気、失敗すれば首締め、気に入らなきゃ鞭だ。お前だってあの女が泣き崩れる動画見たら溜飲が下がるだろうよ」「でな、どうしたと思う?こいつの体にお前の名前を刻んでやがった!このクソ女がまだお前のこと考えてるなんて!この写真見てみろ!」スマホ画面に拡大表示された写真。痩せ細った白い腕に、醜く乱れた刻印が無数に走っている。【直人、ナオト、神尾……】文字は次第に乱れ、深く抉られた線からは、見る者の五臓六腑を震わせるほどの苦痛が滲み出ていた。直人の視界が渦を巻き、喉元が痙攣して声も出せない。首筋を掴み、酸欠状態で思考が真っ白になる。直人の様子に気付かない界人は憎々しく呟いた。「急いで戻った理由はな、こいつが逃亡したからさ!捕まえたらお前に引き渡す。お前の手でとことん痛めつけてやれ!」その刹那、拳が風を切って顔面を直撃した。「ぎゃあっ!」悲鳴を上げて倒れる界人。粉々に砕けたスマホを蹴散らし、鉄拳が容赦なく降り注ぐ。「てめえ!直人!正気か!?」充血した両目が血の涙を流すかのような直人が咆哮する。「誰が許可した!?あの女にそんなことをする権利がどこにある!」歯を折られた界人が血を吐きながら喚く。「お前だって憎んでるんだろ!俺はお前のためを思って……!」直人の体がよろめく。胸を押さえ、突然横向きになって血を吐き出した。「痛いのは俺の方だ!お前が血を吐くわけねえだろ!」赤く染まった瞳が理性を失っていた。「精神病院に……五年も閉じ込めておいただと……」瞼を閉じれば、記憶が洪水のように押し寄せる。初めて高梨夏希に再会になった日。追いかけられていた彼女を、盗みの嫌疑で当然のように断罪した。あの怯え方は、再び監禁される恐怖からだったのか。無理矢理抱いた時、泣きながら必死に服を握りしめたのは、醜い傷跡を
「ピピピ──」耳元で鋭い機械音が鳴り続けている。直人は意識を取り戻すと、全身の骨が砕かれたような激痛に襲われた。口の中に広がる鉄臭い血の味。呼吸するたびに肺が引き裂かれるような痛みが走る。ぼんやりとした会話が聞こえてきた。「今日のバイタルは?」「安定してます。でも、どうしてまだ目を覚まさないんでしょう……三日も昏睡状態ですよ。最新の医療機器を全て使っているのに」「車に跳ね飛ばされて即ICU送り、何度も危篤状態になったらしいわ。もう一歩で助からなかったとか……」「若いのに……左足は多分、残せないみたいです」直人はまぶたを重く開くと、天井の白い照明が目に刺さり、うめき声を漏らした。看護師が駆け寄る。「神尾さん!ご意識が戻られたんですね!」「ご家族を呼んで!」頭の霧が徐々に晴れ、体の痛みよりも先に記憶が蘇った。「高梨夏希……夏希を……俺は夏希に会わなきゃ……」直人はチューブを引き千切り、ベッドからよろめき立ち上がる。しかし左足に稲妻のような痛みが走り、床に膝を突いた。「神尾さん!」「誰か来て!」騒ぎの中、扉を開けて入ってきた秘書が青ざめて駆け寄り、直人の体を支えた。「社長!落ち着いてください!」直人は眼前がちらつくほどの痛みを押し殺し、秘書の腕をがっしり掴んだ。「高梨夏希は……」秘書は直人の充血した瞳を見て、声を詰まらせた。「社長……まずはご自身の足のことを--」「足なんてどうでもいい!」しゃがれ声で遮った。「お前の電話……あれは嘘だろ?あり得ない……あの人がそんな……」言葉を続ける前に、まためまいが襲った。秘書は直人をベッドに押し戻し、苦渋に満ちた表情で告げた。「高梨さんは……亡くなられました」直人の顔から血色が一気に引く。「筋萎縮性側索硬化症による呼吸器感染……余命宣告を受けていた上、無理な骨髄採取で両足が麻痺した状態で……火事に巻き込まれて」「逃げ遅れたと。そして遺体は特殊な献体契約で……一切残されていないそうです」麻痺。火災。献体。言葉が脳裏を渦巻き、直人は頭を抱えてうずくまった。「……嘘だ」「遺体がないなら……偽装かもしれない。連絡を取って俺を騙してるんだろう?」直人の喉が軋んだ。しかし秘書の声が再び冷たく続いた。「社長、高梨さんの死には不
激しい警報音が鳴り響いた。医師や看護師が一斉に駆け込んできた。「患者の容態が急変!緊急措置を!」「急げ!」秘書は押しのけられるように病室の外へ出ると、ただ茫然と立ち尽くしていた。その時、卓也が荒々しい足音で近づいてきた。「どうなった!?」部下からの報告を聞きながら、彼の表情は氷のように冷たくなった。「またあの女が何か仕出かしたのか!?こんな奴らに天罰が下らないのが信じられん……」秘書は深く息を吸い、卓也の横顔をじっと見据えた。「小田さん……実は、昔のことを調べていたんです。お聞きいただきたいことが」過去の真実が語られていくうちに、卓也の顔は驚愕から怒り、そして虚ろな空白へと変わった。さっきまでの威圧的な男が、一瞬で十年も老け込んだように背中を丸め、目尻を赤く染め上げる。「幸子……幸子が……」床に跪いていた犯人を見るや、猛然と飛びかかり、拳を叩きつけた。「この畜生共め!殺してやる!!」「小田さん!」「人が死ぬ!止めろ!」--外が大混乱する中、救急室では直人の意識が薄れていった。このまま目を閉じれば楽になれる--そんな甘い誘惑に引きずられそうになる。長い長い夢を見ていた。幼い頃からの記憶が走馬灯のように巡る。小さな直人と夏希は、青い竹馬の友。彼の人生の全てに、あの儚げな影が寄り添っていた。陽射しの中、夏希が笑いかけてくる。駆け寄っては胸に飛び込んでくる。頬を染めながらこっそり唇を重ね、慌てて逃げていく。そして最後には、彼の腕の中で、痛みに麻痺した虚ろな瞳を向ける夏希の姿……全てを壊したのは自分だった。五年間、憎しみ狂った日々は、ただの茶番だった。それでも夏希は、砕けそうな約束を握りしめ、彼を守り続けてくれた。二人の「縁結びの紐」が切れた時、全ての重荷は彼女ひとりにのしかかっていた。涙が止まらない。枕が濡れていくのを感じながら、夢の終わりに夏希の後を必死に追いかける。「待て……!」もう少しで届きそうな時、振り向いた夏希の顔が焼け爛れ、血を滴らせていた。「直人さん、もう愛してない」「大嫌い。あなたなんか……二度と会いたくない」「--ハッ!」直人が目を覚ました時、乾いた目がひりひりと疼いた。「……目が覚めたか」ベッドの横に座る卓也は目を充血させ、スーツには皺
小山千春と山崎界人は口を塞がれ、拘束ベルトで病床に縛り付けられていた。二人の目には恐怖と怒りが渦巻いていたが、もがけばもがくほどベルトは食い込む。直人の瞳には一片の迷いもない。杖をつき、足を引きずりながら自らもベッドに横たわると、冷たい声を絞り出した。「電気ショックを」付き添いの秘書は顔を歪ませた。「社長……お体が持ちません。傷がまだ--」「電気ショックだ」直人の声は機械的だった。無言の圧力に秘書は震え、歯を食いしばって装置のスイッチを入れた。ボタンが押された瞬間、三人の身体が弓なりに反った。全身に激しい痛みが走り、直人は唇を噛み締めたが、漏れる呻きを抑えきれない。……痛い。……夏希も、こんな痛みを感じたのか。千春と界人の二人はついに耐えきれず、目を白黒させ、制御できないよだれが布団の一部を濡らすほどに溢れ出した。電気ショック、停止、そして再び電気ショック……界人は三度目の電撃ショックで失禁し、酸っぱい臭いが部屋に充満する。解放された時、三人はぐったりと力尽きていた。界人は泡を吹き、千春は喘ぎ、直人の瞳は虚ろで、痙攣が止まらない。しばらく横たわった後、直人は体を引きずり上げ、歯の隙間から言葉を零した。「次だ……窒息療法を」首に巻かれたロープが機械で締め上げられる。酸欠で顔が紅潮し、眼球が飛び出しそうになるたび、装置は死の寸前で止まる--息継ぎの隙も与えず、再び締めつける。界人は意識を失い、目覚めるたびに泣き叫んだ。「直人……許して!俺のせいだ!頼むから許して!」直人は耳を貸さない。痛みで震える体、剥がされそうな魂。胸奥に刺さる後悔が、夏希の名を脳裏に刻む。……夏希は、どれほど苦しんだのか。引き裂かれるような「ストレッチ療法」、魂を揺さぶる鞭打ち。尊厳も生死の選択権も、ここでは無意味だった。瀕死の直人がようやく絞り出したのは、「連中を……閉じ込めろ……」という指示だ。「毎日、同じことを……逃すな」彼らは罪人--夏希への贖罪のため、永遠にこの地に縛られる。血の混じった唾を飲み込み、震える手を抑えながら、直人は秘書に命じた。「連絡しろ……あの連中に」秘書は直人の様子を見て、目も真っ赤にしていた。彼はすぐに直人の意図を悟り、慌てて頷きながら言った。「わかりました!すぐに連絡します!」直人
映像が流れ始めると、直人が最初に目にしたのは、夏希の無残な顔だった。一瞬にして彼の涙が溢れ、震える手で触れようとしたが、スクリーンが阻んだ。特殊な装置の中に横たわる夏希の遺体に未知の薬霧が噴霧され、全身が溶け始める。血肉は蒸発し、骨は薬液に浸かり、砕け散り、ゆっくりと水へと還っていった。高温で水跡も消え、何一つ残らなかった。映像が止まり、暗転した画面に、直人は自分自身の真っ赤な目を映し出していた。「本当に……何も残してくれなかったのか」嗚咽と笑いが入り混じった声。秘書が忍び寄ると、メガネの男が穏やかに言った。「ご愁傷様です」直人が充血した目を上げると、「寄付契約……俺も署名する。彼女と一緒に……」「申し訳ありませんが、実験は終了しました」男は微笑みで遮った。「ご厚意に感謝します」直人は乾いた瞼を瞬かせ、胸が引き裂かれるように疼いた。「……わかりました」平静を装って立ち上がり、よろめく足取りで外へ出た背中は、孤独と決意に染まっていた。秘書がメガネの男に会釈し、ため息をついて追いかける。「先に帰れ。会社に仕事が残っているだろう」直人の顔は奇妙に落ち着いて見えた。秘書は頷き、去っていった。海辺に一人座った直人は、遠くの波を眺めていた。夕陽が海面を金色に染め、少女の姿が浮かび上がる。跳ねるように手を振る夏希だ。「直人!待ってたよ!早く来て!」笑顔で駆け寄ろうとする直人は幻影に手を伸ばした。携帯は鳴り続け、やがて幻影の夏希が唇を尖らせた。「直人!うるさいよ!電話に出なさいってば!」直人はロボットのようにポケットを探り、携帯を握りしめて受話口を耳に当てた。「神尾社長!大変です!海外の匿名口座が当社株を大量買い占め、急落が止まりません!」「早くご帰社を!このままでは神尾グループが破産宣告を--」通話は砂浜に叩きつけられる携帯と共に途切れた。「うるさいのは捨てよう。夏希、待って……」直人は一歩、また一歩と、幻の夏希の足跡を追うように海へと近づいていった。波が腰まで浸かり、やがて海水が口元を覆う。突如押し寄せる大波に飲み込まれ、意識がふわりと浮遊し始めた。眼前で揺らめく夏希の面影が、薄靄の中に溶けるように霞んでいく。「夏希……!どこに……!?」直人は恐怖に駆られて叫
高梨夏希(たかなし なつき)は三本の肋骨を折って、ようやく精神病院から逃げ出した。逃げ出した後、真っ先に向かったのは遺体提供の同意書にサインするためだった。「高梨さん、ご説明しておきますが、これは特殊な提供です。新型化学侵食剤の実験にご遺体が使われます。最終的には骨の欠片さえ残らない可能性が……ご理解いただけますか?」胸の鈍痛を押さえながら、夏希は息を詰ませた。折れた肋骨が呼吸を邪魔し、声は擦れた送風機のようだった。「……願ってもないことです」彼女は引きつった笑みを浮かべた。泣いているような表情だった。どうせ余命幾ばくもない。国の役に立てるなら本望だ。診断書には「筋萎縮性側索硬化症」--通称ALSの文字が躍っている。さらに合併症で肺感染症を併発し、余命は一ヶ月を切っていた。担当者の目に憐憫が滲んだ。「科学研究へのご協力、感謝いたします。これは微々たるものですが……」痙攣する手でお金入りの封筒を受け取った。神経薬の過剰摂取の後遺症で、指が勝手に震える。このお金は児童養護施設に寄付し、最後に墓参りを済ませたら、あとは静かに死を待つつもりだ。よろめきながら外へ出ると、樹木の陰で待ち伏せていた男たちと目が合った。「いたぞ!こっちだ!」「逃げやがって……戻ったら電気ショックでぶっ殺すぞ!」血の気が引く。反射的に走り出す。胸腔に鋭い痛みが走り、鉄の味が喉に広がる。恐怖で筋肉が硬直し、警備員の多いビルへ必死で駆け込んだ。勢いあまって誰かにぶつかり、封筒の中のお金がばら撒かれた。硬い胸板に顔を打ち付け、耳元に騒ぎ声が響く中、冷たい薫りが鼻腔を刺した。「高梨夏希」低音の声が宣告するように名前を呼ぶ。凍りついた彼女の眼前には、五年ぶりの神尾直人(かみお なおと)が立っていた。より鋭くなった眉尻、冷徹さを纏った貴公子然とした顔。だがその視線には、紛れもない嫌悪と憎悪が渦巻いている。心臓を掴まれたような痛み。目頭が熱くなる。「神尾……社長」追ってきた男たちが直人の姿にたじろぐ。直人は夏希を睨みつけ、声を絞り出した。「誰の許可で戻ってきた?」俯いたまま答えない。あの夜、資産家の息子に精神病院へ押し込められ、五年間虐待されたことは、彼には伝わっていないのだ。直人の視線が男たちへ移ると、彼らは地面
「神尾社長、大変申し訳ございません。このクソ女のせいでご不快な思いをさせて……すぐ連行いたします!」男が猛然と踏み込み、夏希の髪を掴んでぐいと後ろへ引っ張った。「このクソ女!お金を盗んで逃げようとしやがって……死にたいのか!」頭皮が裂けるような痛みに、彼女は苦悶の声を漏らす。膝から崩れ落ちた際、腕を路面に擦りつけ深い擦り傷ができた。「放して!あれは私のお金だ!」「貧乏人の分際で、どこにそんな金ができるんだ!」抵抗しようとした夏希の後頸部を男が押さえつけると、彼女は突然硬直した。精神病院での電気ショック療法を思い出したのだ。顔から血の気が引くのを感じながら、震えが止まらなかった。「ほら、大人しくなったろうが」男が罵りながら引きずろうとした瞬間、冷たい声が響いた。「いい加減にしろ。神尾グループの前で何たる醜態だ」直人がカードケースからカードを一枚取り出すと、男の足元へ投げ捨てた。「金を持って消えろ。二度と会社の前に近づくんじゃない」男が慌ててカードを拾い逃げ去ると、直人は夏希の手首を掴んで社内へ引きずり込んだ。背中を壁に叩きつけられる衝撃で、彼女は目眩を覚えた。檻のような腕が覆い被さる。「高梨夏希……五年ぶりだな。まるで野良犬みたいな身なりで現れるとは」直人の憎悪に満ちた声が鼓膜を刺す。「まさに天罰だ」その瞬間、夏希は全てを打ち明けそうになった。だが喉元で言葉を飲み込む。神尾幸子(かみお ゆきこ)との約束を思い出したのだ。五年前の誘拐事件--夏希をかばい、誘拐犯に連れ去られた幸子。再会した彼女は両足を誘拐犯に折られ、顔も傷つけられた。炎上する廃工場から脱出寸前、幸子は夏希の手を握り締めて泣いた。「夏希ちゃん、あなただけでも……夫と弟には、きれいなままの私を覚えていてほしいの」そう言い残し、炎の中へ消えていった。清らかな幸子。輝ける直人。だが自分は誘拐犯の巣窟をくぐった身--汚れ役は彼女一人で十分だって、夏希がそう思ってた。「夏希……姉さんは?姉さんはどうした!」直人が血走った目で抱き締めてきた夜、夏希は涙を笑顔に隠して答えた。「死んだわよ。『二人のうち一人しか助けない』って匪賊が言うから。私が生きたいから、あの人は死んだの」直人の瞳が怒りと絶望で歪むのを、今でも鮮明に覚えている。幸子
握り締められた手首に鋭い痛みが走り、夏希は眼前の獣のような男を見上げると、ふと艶やかに笑った。「この程度の報いですか?幸子さんは死んだのに、私はまだ生きていますよ」その言葉に男の理性は崩れ、目が暗く濁った。直人は突然、夏希の首を扼し、力を込めて締め上げる。呼吸を奪われた彼女の顔は青ざめ、喉から「グッ」という苦悶の音が漏れ、生理的な涙が頬を伝った。窒息死するかと思った瞬間、男は手を離した。脱力した魚のように床に崩れ落ちた夏希は、激しく咳き込む。涙で滲んだ視界の先で、直人が蹲む姿が見えた。冷たい刃物のような声が響く。「生き地獄にしてやる」再び伸ばされた手が空中で微かに止まり、次の瞬間、彼女の襟首を掴んで引き裂いた。「ビリッ」と布が破れる音。男の怒声が炸裂する。「これは何だ!?」指痕の下に、紫黒く変色した深い痕が夏希の喉を横切っていた。血の気を含んだ唾液を飲み込み、夏希は震える手で傷を隠そうとする。精神病院で刻まれたものだ。彼らは「窒息療法」と称し、首を吊り上げながら毎日こう囁いた。「繰り返せ。高梨夏希は卑劣な女で、神尾直人にふさわしくない」涙を流しながら、彼女は繰り返した。「高梨夏希は……卑劣な女です……」最初の二年は最後の言葉を拒み、三年目からは麻痺したように呟くようになった。もはや直人に値しない、と。直人の指が痕に触れた瞬間、夏希の痙攣が激しくなる。涙を流しながら、彼女は笑みを浮かべた。「海外じゃ、こんな特殊な遊びが流行ってるのよ」直人の怒りが爆発するのを見据え、ためらわず続ける。「あなたとの夜より……ずっと刺激的だったわ」男は夏希を引きずり上げ、休憩室へ放り込んだ。ベッドに叩きつけられると、暴力的な気配が覆い被さる。衣服を引き裂く音。夏希が震える声で問う。「千春さんに顔向けできますか?」冷笑が返ってきた。「勘違いするな。千春は妊娠している。お前は単なる性欲処理の道具だ」「高梨夏希、これがお前の報いだ。借金を返すか、あの連中に引き渡されるか、選べ」「妊娠」「性欲処理の道具」--その言葉が鉄槌のように脳髄を叩く。夏希は震えるまぶたを閉じ、引き裂かれる心臓を抱えて抵抗を断念した。抱擁も慈しみもない。男の荒々しい復讐行為に、文字通りの「道具」として蹂躙される彼女の耳元で、執拗な問いが響き続ける。「奴らも同
映像が流れ始めると、直人が最初に目にしたのは、夏希の無残な顔だった。一瞬にして彼の涙が溢れ、震える手で触れようとしたが、スクリーンが阻んだ。特殊な装置の中に横たわる夏希の遺体に未知の薬霧が噴霧され、全身が溶け始める。血肉は蒸発し、骨は薬液に浸かり、砕け散り、ゆっくりと水へと還っていった。高温で水跡も消え、何一つ残らなかった。映像が止まり、暗転した画面に、直人は自分自身の真っ赤な目を映し出していた。「本当に……何も残してくれなかったのか」嗚咽と笑いが入り混じった声。秘書が忍び寄ると、メガネの男が穏やかに言った。「ご愁傷様です」直人が充血した目を上げると、「寄付契約……俺も署名する。彼女と一緒に……」「申し訳ありませんが、実験は終了しました」男は微笑みで遮った。「ご厚意に感謝します」直人は乾いた瞼を瞬かせ、胸が引き裂かれるように疼いた。「……わかりました」平静を装って立ち上がり、よろめく足取りで外へ出た背中は、孤独と決意に染まっていた。秘書がメガネの男に会釈し、ため息をついて追いかける。「先に帰れ。会社に仕事が残っているだろう」直人の顔は奇妙に落ち着いて見えた。秘書は頷き、去っていった。海辺に一人座った直人は、遠くの波を眺めていた。夕陽が海面を金色に染め、少女の姿が浮かび上がる。跳ねるように手を振る夏希だ。「直人!待ってたよ!早く来て!」笑顔で駆け寄ろうとする直人は幻影に手を伸ばした。携帯は鳴り続け、やがて幻影の夏希が唇を尖らせた。「直人!うるさいよ!電話に出なさいってば!」直人はロボットのようにポケットを探り、携帯を握りしめて受話口を耳に当てた。「神尾社長!大変です!海外の匿名口座が当社株を大量買い占め、急落が止まりません!」「早くご帰社を!このままでは神尾グループが破産宣告を--」通話は砂浜に叩きつけられる携帯と共に途切れた。「うるさいのは捨てよう。夏希、待って……」直人は一歩、また一歩と、幻の夏希の足跡を追うように海へと近づいていった。波が腰まで浸かり、やがて海水が口元を覆う。突如押し寄せる大波に飲み込まれ、意識がふわりと浮遊し始めた。眼前で揺らめく夏希の面影が、薄靄の中に溶けるように霞んでいく。「夏希……!どこに……!?」直人は恐怖に駆られて叫
小山千春と山崎界人は口を塞がれ、拘束ベルトで病床に縛り付けられていた。二人の目には恐怖と怒りが渦巻いていたが、もがけばもがくほどベルトは食い込む。直人の瞳には一片の迷いもない。杖をつき、足を引きずりながら自らもベッドに横たわると、冷たい声を絞り出した。「電気ショックを」付き添いの秘書は顔を歪ませた。「社長……お体が持ちません。傷がまだ--」「電気ショックだ」直人の声は機械的だった。無言の圧力に秘書は震え、歯を食いしばって装置のスイッチを入れた。ボタンが押された瞬間、三人の身体が弓なりに反った。全身に激しい痛みが走り、直人は唇を噛み締めたが、漏れる呻きを抑えきれない。……痛い。……夏希も、こんな痛みを感じたのか。千春と界人の二人はついに耐えきれず、目を白黒させ、制御できないよだれが布団の一部を濡らすほどに溢れ出した。電気ショック、停止、そして再び電気ショック……界人は三度目の電撃ショックで失禁し、酸っぱい臭いが部屋に充満する。解放された時、三人はぐったりと力尽きていた。界人は泡を吹き、千春は喘ぎ、直人の瞳は虚ろで、痙攣が止まらない。しばらく横たわった後、直人は体を引きずり上げ、歯の隙間から言葉を零した。「次だ……窒息療法を」首に巻かれたロープが機械で締め上げられる。酸欠で顔が紅潮し、眼球が飛び出しそうになるたび、装置は死の寸前で止まる--息継ぎの隙も与えず、再び締めつける。界人は意識を失い、目覚めるたびに泣き叫んだ。「直人……許して!俺のせいだ!頼むから許して!」直人は耳を貸さない。痛みで震える体、剥がされそうな魂。胸奥に刺さる後悔が、夏希の名を脳裏に刻む。……夏希は、どれほど苦しんだのか。引き裂かれるような「ストレッチ療法」、魂を揺さぶる鞭打ち。尊厳も生死の選択権も、ここでは無意味だった。瀕死の直人がようやく絞り出したのは、「連中を……閉じ込めろ……」という指示だ。「毎日、同じことを……逃すな」彼らは罪人--夏希への贖罪のため、永遠にこの地に縛られる。血の混じった唾を飲み込み、震える手を抑えながら、直人は秘書に命じた。「連絡しろ……あの連中に」秘書は直人の様子を見て、目も真っ赤にしていた。彼はすぐに直人の意図を悟り、慌てて頷きながら言った。「わかりました!すぐに連絡します!」直人
激しい警報音が鳴り響いた。医師や看護師が一斉に駆け込んできた。「患者の容態が急変!緊急措置を!」「急げ!」秘書は押しのけられるように病室の外へ出ると、ただ茫然と立ち尽くしていた。その時、卓也が荒々しい足音で近づいてきた。「どうなった!?」部下からの報告を聞きながら、彼の表情は氷のように冷たくなった。「またあの女が何か仕出かしたのか!?こんな奴らに天罰が下らないのが信じられん……」秘書は深く息を吸い、卓也の横顔をじっと見据えた。「小田さん……実は、昔のことを調べていたんです。お聞きいただきたいことが」過去の真実が語られていくうちに、卓也の顔は驚愕から怒り、そして虚ろな空白へと変わった。さっきまでの威圧的な男が、一瞬で十年も老け込んだように背中を丸め、目尻を赤く染め上げる。「幸子……幸子が……」床に跪いていた犯人を見るや、猛然と飛びかかり、拳を叩きつけた。「この畜生共め!殺してやる!!」「小田さん!」「人が死ぬ!止めろ!」--外が大混乱する中、救急室では直人の意識が薄れていった。このまま目を閉じれば楽になれる--そんな甘い誘惑に引きずられそうになる。長い長い夢を見ていた。幼い頃からの記憶が走馬灯のように巡る。小さな直人と夏希は、青い竹馬の友。彼の人生の全てに、あの儚げな影が寄り添っていた。陽射しの中、夏希が笑いかけてくる。駆け寄っては胸に飛び込んでくる。頬を染めながらこっそり唇を重ね、慌てて逃げていく。そして最後には、彼の腕の中で、痛みに麻痺した虚ろな瞳を向ける夏希の姿……全てを壊したのは自分だった。五年間、憎しみ狂った日々は、ただの茶番だった。それでも夏希は、砕けそうな約束を握りしめ、彼を守り続けてくれた。二人の「縁結びの紐」が切れた時、全ての重荷は彼女ひとりにのしかかっていた。涙が止まらない。枕が濡れていくのを感じながら、夢の終わりに夏希の後を必死に追いかける。「待て……!」もう少しで届きそうな時、振り向いた夏希の顔が焼け爛れ、血を滴らせていた。「直人さん、もう愛してない」「大嫌い。あなたなんか……二度と会いたくない」「--ハッ!」直人が目を覚ました時、乾いた目がひりひりと疼いた。「……目が覚めたか」ベッドの横に座る卓也は目を充血させ、スーツには皺
「ピピピ──」耳元で鋭い機械音が鳴り続けている。直人は意識を取り戻すと、全身の骨が砕かれたような激痛に襲われた。口の中に広がる鉄臭い血の味。呼吸するたびに肺が引き裂かれるような痛みが走る。ぼんやりとした会話が聞こえてきた。「今日のバイタルは?」「安定してます。でも、どうしてまだ目を覚まさないんでしょう……三日も昏睡状態ですよ。最新の医療機器を全て使っているのに」「車に跳ね飛ばされて即ICU送り、何度も危篤状態になったらしいわ。もう一歩で助からなかったとか……」「若いのに……左足は多分、残せないみたいです」直人はまぶたを重く開くと、天井の白い照明が目に刺さり、うめき声を漏らした。看護師が駆け寄る。「神尾さん!ご意識が戻られたんですね!」「ご家族を呼んで!」頭の霧が徐々に晴れ、体の痛みよりも先に記憶が蘇った。「高梨夏希……夏希を……俺は夏希に会わなきゃ……」直人はチューブを引き千切り、ベッドからよろめき立ち上がる。しかし左足に稲妻のような痛みが走り、床に膝を突いた。「神尾さん!」「誰か来て!」騒ぎの中、扉を開けて入ってきた秘書が青ざめて駆け寄り、直人の体を支えた。「社長!落ち着いてください!」直人は眼前がちらつくほどの痛みを押し殺し、秘書の腕をがっしり掴んだ。「高梨夏希は……」秘書は直人の充血した瞳を見て、声を詰まらせた。「社長……まずはご自身の足のことを--」「足なんてどうでもいい!」しゃがれ声で遮った。「お前の電話……あれは嘘だろ?あり得ない……あの人がそんな……」言葉を続ける前に、まためまいが襲った。秘書は直人をベッドに押し戻し、苦渋に満ちた表情で告げた。「高梨さんは……亡くなられました」直人の顔から血色が一気に引く。「筋萎縮性側索硬化症による呼吸器感染……余命宣告を受けていた上、無理な骨髄採取で両足が麻痺した状態で……火事に巻き込まれて」「逃げ遅れたと。そして遺体は特殊な献体契約で……一切残されていないそうです」麻痺。火災。献体。言葉が脳裏を渦巻き、直人は頭を抱えてうずくまった。「……嘘だ」「遺体がないなら……偽装かもしれない。連絡を取って俺を騙してるんだろう?」直人の喉が軋んだ。しかし秘書の声が再び冷たく続いた。「社長、高梨さんの死には不
直人の視界がぐらつき始めた。それでも耳元で鳴り続ける声は鮮明に脳裏を刺す。「あの病院は俺が個人出資したとこだ。中でやってることはお前の想像を超えてるぜ」「最初の頃は従順だったからな、電気ショックに窒息プレイ、ストレッチ療法……どれもこれも試したんだ。反抗しようとしても結局土下座するんだからな」「そしたらこいつが隠し持ってた携帯で助けを求めてやがった。俺がぶっ壊すまでな」「あれからはベッドに縛り付けてやった。反抗すれば電気、失敗すれば首締め、気に入らなきゃ鞭だ。お前だってあの女が泣き崩れる動画見たら溜飲が下がるだろうよ」「でな、どうしたと思う?こいつの体にお前の名前を刻んでやがった!このクソ女がまだお前のこと考えてるなんて!この写真見てみろ!」スマホ画面に拡大表示された写真。痩せ細った白い腕に、醜く乱れた刻印が無数に走っている。【直人、ナオト、神尾……】文字は次第に乱れ、深く抉られた線からは、見る者の五臓六腑を震わせるほどの苦痛が滲み出ていた。直人の視界が渦を巻き、喉元が痙攣して声も出せない。首筋を掴み、酸欠状態で思考が真っ白になる。直人の様子に気付かない界人は憎々しく呟いた。「急いで戻った理由はな、こいつが逃亡したからさ!捕まえたらお前に引き渡す。お前の手でとことん痛めつけてやれ!」その刹那、拳が風を切って顔面を直撃した。「ぎゃあっ!」悲鳴を上げて倒れる界人。粉々に砕けたスマホを蹴散らし、鉄拳が容赦なく降り注ぐ。「てめえ!直人!正気か!?」充血した両目が血の涙を流すかのような直人が咆哮する。「誰が許可した!?あの女にそんなことをする権利がどこにある!」歯を折られた界人が血を吐きながら喚く。「お前だって憎んでるんだろ!俺はお前のためを思って……!」直人の体がよろめく。胸を押さえ、突然横向きになって血を吐き出した。「痛いのは俺の方だ!お前が血を吐くわけねえだろ!」赤く染まった瞳が理性を失っていた。「精神病院に……五年も閉じ込めておいただと……」瞼を閉じれば、記憶が洪水のように押し寄せる。初めて高梨夏希に再会になった日。追いかけられていた彼女を、盗みの嫌疑で当然のように断罪した。あの怯え方は、再び監禁される恐怖からだったのか。無理矢理抱いた時、泣きながら必死に服を握りしめたのは、醜い傷跡を
直人の目が真っ赤に充血していたが、今は床に倒れた千春に構っている余裕などない。彼が探し求めているのは高梨夏希だ--この全ての真相を、彼女から聞き出さねばならない。これまで確固たるものだと信じ込んでいた思いが、ようやく揺らいでいた。遅ればせながら気付いたのだ。あの優しかった夏希が、そんな残忍な人間であるはずがない……震える手でスマホを取り出す。夏希に連絡しようとして初めて、自分が彼女の行方を全く知らないことに気がつく。代わりに秘書に電話をかけた。「神尾社長?ご指示がおありで……」「高梨夏希はどこだ!?」咆哮のような声に秘書は背筋を凍らせた。「私、存じ上げませんが……」直人は深く息を吸い込み、焦りを抑え込むように低い声で命じた。「今すぐ全ての手を尽くして、高梨夏希の居場所を突き止めろ」受話器の向こうで汗のにおいが伝わってくるようだった。「え、えっと……なぜ高梨さんを?」「余計な質問はするな!」電話を切り、直人は足早に外へ向かう。他の連絡先にも次々と電話をかけ、人脈を総動員して高梨夏希の行方を追わせた。聞かなければならないことが山ほどある。何より、彼女の身体に何かあったのか?焦燥感が内臓を焼くように疼く。会社の玄関を出た瞬間、誰かとぶつかった。「痛っ!歩き方見ろよ……あれ?直人!?」金髪をひらめかせた男がにやにやと笑っている。山崎界人(やまさき かいと)だ。「そんな急いでどこ行くんだよ?久しぶりだろ。メールも無視するなんて冷たいじゃねえか。飯おごれよ」直人は眉をひそめながら歩き続けた。「今は無理だ。急用が」界人がぶつぶつ文句を言いながら後を追った。「ちょっと待てよ直人!そんなに急ぐなって……久しぶりの再会だろ?メール既読無視とか冷血すぎんじゃねえの?せっかくお前のために面白いネタ仕入れてきたのにさ」直人の表情は岩のように硬い。「後で聞く」「高梨夏希の話なんだけどな」直人の背筋がぴたりと止まった。ゆっくりと振り向く視線の先で、界人が悪戯っぽく片眉を吊り上げた。「へへ、やっぱ食いつくと思ったよ。骨の髄まで憎んでるくせに、まさか興味ないなんて言うかと思ったぜ」直人はスマホの画面をちらりと見た。検索網は既に展開されている。今はこの男の話を聞くしかない。喉の奥で鈍い痛みを感じながら、低く
卓也は、直人がもう救いようがないと悟った。彼は失望に満ちた目で直人を見つめ、声を嗄らせて言った。「直人……お前は本当に、道理をわきまえない奴だ」直人は虚ろな表情で床に横たわり、頭上からの明かりが目を眩ませる。「高梨夏希のためなら、神尾家の全てを捨てるというのか?」直人の声は低く、砂を噛んだようだった。「……当然の報いだ。姉の株式も私の分も全て譲る。償いの……一端にでもなれば」「そんなもので償えると思うな!」卓也の顔が歪んだ。「幸子の弟と名乗る資格はない!彼女にすまないと思わんのか!出て行け……消えろ!」最後の言葉は、ほとんど絶叫に近かった。直人はよろめきながら立ち上がり、ドアを押し開けて外へ出た。この先に何が待っていようと、受け入れる。ただ、もう一度夏希に会うために--ドアは枷のように感じられていた。ようやく解き放たれ、己の本心と向き合う覚悟が決まった瞬間だった。しかし数歩も歩かないうちに、耳を劈くような声が背後から響いた。「神尾直人!」冷たい表情で振り返ると、千春が走り寄ってくる。直人の瞳には微塵の感情も浮かんでいない。「何の用だ?」顔を歪ませ、目は充血している千春の様子が明らかに異常だった。「約束したでしょう!私に適合する骨髄を見つけて治すって!嘘つき!」直人は眉を顰めた。「馬鹿げたことを言うな。適合ドナーは見つかり移植も終わったはずだ」「それが誰よ!」千春は泣き叫んだ。「あんたの選んだドナー、病気持ちじゃないの!骨髄の活性が低すぎて、合併症で私の骨髄まで侵されていくって!医者にはもう助からないって言われたのよ!」直人の顔色が一瞬で褪せた。「……戯言を」千春が検査結果を彼の顔に叩きつける。直人は慌てて紙を掴み、一行一行追うごとに顔が青ざめていく。夏希と千春の骨髄が適合していた。もしドナーに問題があれば--つまり夏希が……「殺す気なのね!この人殺し!」千春が爪を立てて襲いかかるが、直人が腕を掴んで制止した。「……そんなはずがない!」直人は首を振り、自分に言い聞かせるように呟いた。千春は泣き笑いしながら絶叫した。「あんたなんて冷血よ!私は神尾家の医療資源を利用するためにあなたに近づいたんだから!五年前に火事から助けたって嘘も平気でついたわ!」直人が千春の手首を握り
乾いた目を瞬かせ、直人は墓石の脇に咲くマーガレットの花束を疑うように見つめた。「姉さん……」膝で進みながら、彼は突然墓碑に抱きつき、泣き笑いを始めた。自分を欺き続ける醜さに深く嫌悪しつつも、心の奥では狂おしいほどの喜びが渦巻いていた。--ほら、姉さんはもう夏希を許してくれたんだ。もはや心に嘘はつけない。この苦しみから逃れるためなら、高梨夏希を縛りつけてもいい。藤の蔓のように絡み合い、腐れ縁になろうとも構わない。神尾幸子の墓前で、直人は丸一日跪いていた。一滴の水も口にせず、充血した目でマーガレットの花束を見据えたまま。夜が明け、朝日が昇る頃、ようやく硬直した体を動かし、よろめきながら立ち上がった。膝の痺れが刺すように疼く。歩く足取りは不自然に引きずりながらも、彼の表情には晴れやかな覚悟が浮かんでいた。墓碑に目を落とし、呟く。「……姉さんが許さないなら、あの世で詫びるよ」ふらつく足取りでその場を離れ、直人は真っ先に小田卓也の元へ向かった。手にした書類を全て机に押し付けると、卓也は困惑した面持ちでそれに目を通した。「……どういうつもりだ!?」卓也の声が震えた。直人はしばし黙り込み、かすれた声で答えた。「俺は神尾グループの全株式を譲る。今日からお前が実質的な経営者だ」卓也の顔が一瞬で蒼白になり、やがて怒りに歪んだ。直人がペンを差し出すと、彼はそれを激しく払いのけた。「直人……お前、正気か!?高梨夏希を追う気か!?幸子を殺した女だぞ!忘れたのか!?」直人の顔から血色が引いたが、視線は揺るがなかった。「……忘れてない。でも、どうしようもないんだ」声は押し潰された獣の嗚咽のようだった。「どうしようもない……!」「忘れられない!夏希に会えなきゃ、俺は死んだも同然だ!」怒号が部屋に響く。抑え込んでいた苦悩が一気に爆発し、充血した目から血の涙が零れそうだった。「バシッ!」と頬を殴打される音。卓也の手が震えていた。「そんな言葉……幸子に顔向けできるのか!?」次の瞬間、拳が直人の顔面を直撃した。床に倒れても、彼は抵抗せず雨あられの暴撃を受け続けた。「姉さんに顔向けできるのか!?」血を吐きながらも、直人は静かに首を振った。「……悪い」「狂ってる……それほどまでに諦められないのか!?
その瞬間、直人の顔から血の気が引き、足元がふらついた。バーの喧噪の中、千春の甲高い声が周囲の視線を集めている。「神尾直人、そんなに彼女を憎んでるくせに未練たらしくして!偽善者ね!」「芝居打って追い出したじゃない!いなくなったら今さら涙もじょうずだなんて!」「……黙れ」直人はテーブルを蹴り上げ、ガラスの割れる音が響いた。千春が蒼白になって後ずさりする様を、直人は獣のような赤い目で睨みつけた。千春はその様子に遅れて恐怖が込み上げ、よろめきながら数歩後退すると、考える間もなく外へ駆け出した。額の血管が脈打ち、脳髄を刃物で抉られるような痛みが走る。あの女の言葉が耳朶に刺さっていた。『飛び込んだのは自分、あなたは高梨夏希を海に突き落とした』なぜ自分に言わなかった?なぜ夏希は沈黙していたのか?ふと気付いた。あの事故以来、彼女の顔すら見ずに手術台に縛りつけたことを。胸が締めつけられるように疼き、膝を抱えて喘いだ。出会って以来の自分を思い返す。雑用を押し付け、罵声を浴びせ、波間に突き落とし、無理やり謝罪させ--ベッドで泣かせるまで追い詰めた。あの頃とは違う。愛し合っていた頃は、いつだって彼女の頬を撫でながら、甘える声に耳を澄ませていた。敏感な夏希が苦しまぬよう、どんなに我慢しても優しく溶かすように抱いた。自分の首筋に顔を埋め、「直人くん、大好き」と囁くあの子。わざと「愛してないの?」とからかえば、きっとキスで応えてくれたはずだ。「夏希は神尾直人を世界一愛してるの!」--バーを出た直人が震える手でタバコに火をつけた。高級スーツの膝が路上の埃にまみれても構わず、燃え尽きるまま放置した。指先が焦げる痛みで我に返り、墓園行きのタクシーに飛び乗った。階段を重い足取りで登りきると、陽射しを浴びて微笑む神尾幸子の墓石が待っていた。直人が墓碑に額を押し付けると、ひび割れた声が零れた。「姉さん……もう限界だ」胸から夏希を引き剥がそうとすればするほど、根を張った蔓のように心臓を引き裂く。このまま引き抜けば、空洞になった胸に何が残るというのか。「どうすれば」ふと目に入ったのは墓石の隅に置かれたマーガレットの花束。しなびかけているが、丁寧にリボンを結んだ形跡が残る。忌日以外に墓参りしない小田卓也が供えるはずがない。思い当たる名