Partager

第8話

Auteur: あむ
穂乃香は顔を上げ、悠真を見つめた。

体の芯まで、ぞっとするほど冷えていた。

彼の中で、自分が寧々より大切ではなくなったことは、もう受け入れている。

けれど今は、寧々の祖母よりも下だというのか。

「嫌よ」

穂乃香は二人の手を振り払った。

「私は、あなたたちのための生きた臓器バンクじゃない!」

そう言い捨て、彼女は踵を返した。

しかし次の瞬間、首の後ろに鋭い痛みが走った。

悠真の手刀は、あまりにも速く、容赦がなかった。

穂乃香は何が起きたのか理解する間もなく、その場に崩れ落ちた。

薄れていく意識の中で、悠真が自分を横抱きにし、医師に告げる声だけが聞こえた。

「手術室を用意してください」

次に目を覚ましたとき、腹部に身を裂かれるような痛みが走った。

穂乃香は震える手で病衣をめくった。

包帯で覆われた傷口には、点々と血がにじんでいた。

「肝移植の手術を終えたばかりです。動かないでください」

看護師が、起き上がろうとする彼女を押さえた。

穂乃香は唇を強く噛みしめた。

血の味が口の中に広がる。

本当に、彼は――寧々の祖母を助けるために、無理やり自分の肝臓を移植させたのだ。

病衣の下の傷は、まだ鈍く疼いていた。

まるで鈍い刃で、内臓を何度もかき回されているようだった。

けれど、その痛みでさえ、胸の痛みの万分の一にも届かない。

穂乃香は震える指で、腹部に残った痛々しい傷跡に触れた。

なんて滑稽なのだろう。

自分の体に刻まれた一番深い傷が、最も愛した人の手によって残されたものだなんて。

それから数日、穂乃香は人形のようにベッドに横たわっていた。

隣の病室から聞こえてくる、明るい笑い声を聞きながら。

「おばあ様はお幸せですね。こんなに孝行なお孫さんと、優しいお孫婿さんがいらっしゃって」

「久瀬さんは本当に情の深い方ですね。

奥様のおばあ様のために、あんなに奔走なさるなんて……」

奥様。

穂乃香は笑いたかった。

けれど、口元を動かす力さえ残っていなかった。

彼女は、病院で丸半月を過ごした。

廊下からは毎日のように、悠真が寧々とその祖母を気遣う声が聞こえた。

けれど彼が、穂乃香の病室に足を踏み入れることは一度もなかった。

退院の日、穂乃香は荷物をまとめて病院を出ようとしていた。

そのとき、廊下の角で偶然、涙まじりに悠真へ問いかける寧々の声を聞いた。

「久瀬さん……どうして私が何度拒んでも、そこまでして優しくしてくださるんですか。

どうして……私の祖母を助けるために、奥様の肝臓まで……」

穂乃香はその場に立ち止まった。

低く響く悠真の声が聞こえる。

「何度も言っただろう。君が好きだからだ。君と一緒にいたい。

なあ、寧々。俺の胸を裂いて、この心臓を見せれば信じてくれるのか?」

どれほどの沈黙が流れただろう。

やがて寧々は、ようやく決心したように口を開いた。

「わ、私……あなたと一緒にいてもいいです。でも、条件があります」

悠真は喜びを隠しきれない様子で、すぐに彼女を抱きしめた。

「言って」

その声はひどくかすれていた。

「君が言うなら、どんな条件でも聞く」

「私は愛人にはなりません」

寧々は一語一語、はっきりと言った。

「堂々とあなたと一緒にいたいんです。あなたが離婚してくれるなら」

死んだような静寂が落ちた。

穂乃香は自分の心音を数えた。

一つ、二つ――

十七回目を数えたとき、ようやく悠真の声が聞こえた。

「わかった」

たったそれだけだった。

軽く、何でもないような一言。

穂乃香は壁にもたれたまま、ずるずると床に座り込んだ。

腹部の傷が焼けるように痛む。

けれど、心臓を生きたままえぐり取られたような痛みに比べれば、何ほどのこともなかった。

家に戻ると、穂乃香は最後のラブレターを燃やした。

炎が紙をのみ込んでいくのを見つめながら、彼女は悠真がこの手紙を渡した日のことを思い出していた。

勢いに満ちた少年だった彼は、雪の降る中、彼女の家の下に立っていた。

長い睫毛には雪がついていた。

「穂乃香、これで九十九通目のラブレターだ。俺と付き合ってくれないかな。これから一生、君を好きでいるから」

今、九十九通のラブレターはすべて灰になった。

彼の言う一生は、たった十年で終わったのだ。

ラブレターは燃え尽きた。

ならば、自分ももう去るべきだ。

穂乃香はスーツケースを開き、服を一枚ずつ畳んで入れていった。

書斎を片づけていたとき、悠真のパソコンがついたままになっているのに気づいた。

ラインの画面が開いたままで、次々と通知が浮かび上がる。

【悠真、白石さんがついに受け入れたって聞いたぞ。

でも離婚が条件なんだろ?まさか本当に穂乃香と別れるつもりか?】

【よく考えろよ。白石さんなんて、結局は愛人みたいなもんだろ。

穂乃香とは何年の付き合いだと思ってるんだ】

【それに本当に離婚なんてしたら、穂乃香は相当傷つくぞ。

そう簡単にはなだめられないだろ】

【おい悠真、どうするつもりなんだよ。何か言えって】

穂乃香はその場に立ったまま、画面に流れていくメッセージを静かに見つめていた。

やがて、悠真の返信が表示された。

【どっちも欲しい】

【でも今は、寧々のほうが欲しい】

グループラインは数秒だけ静まり返った。

そしてすぐに騒然となる。

【うわ、マジかよ。白石さんってそんなに魅力あるのか?本気で離婚まで考えるなんて】

【ちゃんと考えろよ。穂乃香も意地のある女だぞ。

お前から離婚を切り出したら、たぶん本当に終わるぞ】

【いや、方法はある。悠真、離婚届を用意して、不動産の名義変更の書類だって言って穂乃香にサインさせろよ。

あいつはお前のことを信じきってるから、たぶん中身も見ずに署名する】

【完全に騙し通してしまえば、騒がれもしないし、出ていかれることもない。

白石さんに飽きた頃に、適当に離婚を白紙に戻せばいい】

その名案に、グループ内の全員が賛同していた。

【すげえな。それなら悠真、両方手に入れられるんじゃ】

悠真も、一言だけ返していた。

【いい考えだ】

穂乃香はゆっくりとパソコンを閉じた。

指先が冷たくなっていた。

彼にとって、自分には真実を知る権利さえないのだ。

翌朝。

穂乃香が朝食を終えたばかりの頃、悠真が帰ってきた。

きちんとスーツを着こなし、手には案の定、一枚の書類を持っている。

「穂乃香、これにサインしてくれ」

その口調は、まるで今日の天気の話でもしているかのように自然だった。

「城東市の別荘を君の名義にしておく」

穂乃香は、静かに彼を見つめた。

かつて彼女の代わりに酒を飲み、彼女のために人と殴り合い、雪の中で膝をついてプロポーズしてくれた男。

これが、十年以上愛してきた男なのだ。

「いいわよ」

穂乃香は何も知らないふりをしてペンを受け取った。

そして中身を見ることなく、その不動産書類に名前を書いた。

悠真は明らかに安堵した様子だった。

「しばらく寧々を連れて旅行に行く。家には戻らない」

彼が背を向けたとき、穂乃香は静かに呼び止めた。

「悠真」

「ん?」

彼が振り返る。

「何でもない。楽しんできて」

悠真が去ったあと、穂乃香はその書類を手に、そのまま役所へ向かった。

窓口の職員は、何度も確認した。

「青柳様、本当に離婚届を提出されるということでよろしいですか。

一度受理されますと、取り消すことはできません」

「間違いありません」

受理印が押された瞬間、穂乃香の心は不思議なほど静かになった。

完全に気持ちが死ぬとは、こういうことなのだろう。

痛くも痒くもない。

まるで、腐ってしまった歯を抜いたあとのように。

空港のロビーには、大勢の人が行き交っていた。

穂乃香は片道の航空券を握りしめ、最後に一度だけスマホを見た。

SNSには、悠真の友人が投稿した、悠真と寧々の空港での写真が上がっていた。

添えられた言葉は――

【悠真、ついに念願の彼女を手に入れたな。おめでとう!】

穂乃香はスマホの画面を消した。

SIMカードを抜き、捨てた。

そしてまっすぐ、搭乗口へ向かって歩き出した。

彼女にとってもめでたいことだ。

自由を手に入れ、新しい人生を取り戻したのだから。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Dernier chapitre

  • 君を幸せにできなかった   第25話

    あの日、寧々は朦朧とした様子で悠真に点滴の針を刺していた。何度も失敗したせいで、彼の手の甲は青紫に腫れ上がっていた。前の人生で、自分はどうしたんだっけ。確か、失敗ばかりの彼女を、少し可愛いとさえ思ってしまったのだ。寧々が泣きながら謝ってきても、気にすることはないと笑い、ゆっくりやればいいと慰めたはずだ。その日の選択が、彼は彼女という渦に呑み込まれた。過ちを重ね、二度と引き返せなくなった。けれど今度は違う。悠真は目の前で謝る寧々を冷ややかに見据え、厳しい声で言った。「責任者を呼んでくれ」その後、病院は寧々にいくらかの補償金を渡し、彼女を解雇した。それきり、寧々は悠真の世界から完全に消えた。点滴を終えたあと、見慣れた人影が彼のもとへ歩いてきた。その人は、彼に手を差し伸べた。「悠真、帰りましょう」悠真は顔を上げた。愛情に満ちた目で微笑む穂乃香を見て、彼もまた笑った。そして彼女の手を握り、立ち上がった。「ああ、帰ろう」二人は固く手をつないだまま、遠くの光の中へ歩いていった。やがて、その姿は見えなくなった。そして現実の世界で、血だまりの中に倒れていた悠真の呼吸も、ゆっくりと止まっていった。悲鳴も、救急車のサイレンも、警笛の音も、しだいに遠ざかっていく。そして最後には、何も聞こえなくなった。……悠真が事故で亡くなったという知らせが穂乃香の耳に届いたとき、彼女の手にあったバラの花束が、音を立てて床へ落ちた。鮮やかな赤い花びらが床一面に散り、その色がゆっくりと彼女の目を染めていく。「どうして……」電話の向こうの穂乃香の父の声も重かった。「加害者はすでに捕まった。白石寧々だ」真実を知り、悠真に捨てられたあと、寧々には悠真が残したマンションと二億円があった。それさえあれば、祖母と二人、残りの人生を食べるに困ることはなかったはずだった。けれどその後、悠真は彼女へ二度目の報復をした。彼女に与えていた特権を、すべて取り上げたのだ。ちょうどその頃、祖母は寧々と悠真が不倫関係だったことを知った。彼女は怒りと衝撃のあまり、その場で息を引き取った。祖母は、寧々にとって唯一の心の支えだった。その祖母を失い、寧々の世界は完全に崩れ落ちた。寧々はそのすべて

  • 君を幸せにできなかった   第24話

    電話の向こうの悠真の呼吸が、しだいに荒くなっていく。その声には、痛みが滲み始めていた。けれど穂乃香は、すべて聞こえないふりをした。「あなたはいつも、この関係が壊れた理由を私に聞きたがる。でも、答えを目の前に差し出しても、あなたには見えなかった。結局、根本にあるのは、あなたが私のことを大切にしていなかったということよ」だから悠真は、彼女の気持ちも顧みず、平然と裏切った。寧々が彼女の尊厳を踏みにじるのを許し、本来なら受けずに済んだはずの傷を、何度も彼女に負わせた。「だから、私たちがどうして離婚したのか、もうわかったでしょう?悠真。私たちはもう離婚したの。これ以上、関わるべきじゃない」そう言って、穂乃香は電話を切ろうとした。だがその前に、電話の向こうから慌てたような懇願が聞こえた。「待ってくれ……穂乃香、頼む。そんなふうに言わないでくれ。一度だけ会おう。お願いだ」穂乃香の記憶の中で、悠真がここまで卑屈になったことはほとんどなかった。数少ない例外も、彼女をなだめ、離婚を思いとどまらせようとしたときくらいだ。「会わないわ」穂乃香は静かに言った。「どちらかが死なない限り、私たちはもう二度と会わないほうがいい」通話はそこで切れた。真っ暗になった画面を見つめながら、悠真は胸の奥から激しい痛みが広がっていくのを感じた。その痛みは毒を含んだ蔦のように全身へ絡みつき、彼を縛りつけた。身動きもできないまま、ただ苦しみの中へ沈んでいくしかなかった。悠真は足を動かそうとした。けれど次の瞬間、視界が真っ暗になり、体が重く床へ倒れ込んだ。「悠真!」「旦那様!」「誰か、早く!」その電話のあと、悠真は急に大きく体調を崩した。日に日に痩せ細り、どれだけ薬を飲ませても、どれほど滋養のあるものを口にさせても、少しもよくならなかった。誰もが、彼は重い病にかかったのではないかと囁いた。けれど悠真だけはわかっていた。これは病ではない。心が壊れたのだ。穂乃香にあの言葉を告げられるまでは、彼はまだ、二人にはやり直せる可能性があると信じていた。だが今、いったい何が残っているというのか。悠真はスマホに保存された、穂乃香との写真を見つめた。そしてついに、こらえきれず声を上げて泣いた

  • 君を幸せにできなかった   第23話

    それでも、穂乃香の父は胸を打たれていた。以前の穂乃香のよそよそしさや冷たさに比べれば、これだけでも大きな前進だった。一方、海外にいる穂乃香は、父から届いたメッセージを見つめたまま、長いあいだ動けずにいた。プレゼントへの礼と、それをとても気に入ったという言葉。その短い文章を読んでいるうちに、複雑な感情が少しずつ彼女をのみ込んでいった。本当は、ずっと前から父のことを許していた。あのときの父は、完全に被害者だった。それでも当時の穂乃香は、母の立場に立つことしかできなかった。父が母を裏切ったのだと思い込み、決然と父との関係を断った。けれど、自分も失敗した結婚を経験し、さまざまな人や出来事を見てきた今なら、父の苦しみも少しずつ理解できる。ただ、一度できてしまった傷は簡単には消えない。穂乃香にも、過去の埋め合わせをしたい気持ちはあった。けれど何から始めればいいのか、わからなかった。だから、少しずつでいい。執事が言っていたように、少なくとも、あとで後悔しないように生きたい。そのとき、手の中のスマホが震えた。穂乃香ははっと我に返った。画面に表示された発信者名は「父」だった。何度も迷った末、彼女は電話に出た。「穂乃香。プレゼントをありがとう。お父さん、とても嬉しかったよ」父は、穂乃香からなかなか返信が来ないのを、彼女がまだメッセージを見ていないのだと思ったらしい。それでも、娘を怒らせたのではないかと不安になり、思わず電話をかけてきたのだ。父がそこまで自分の気持ちを気にしているとは思わず、穂乃香は鼻の奥がつんと熱くなった。深く息を吸ってから、静かに言った。「気に入ってくれたなら、よかったわ。これからは、もっといろいろ贈るわ」その一言が、父と娘の間にあったわだかまりを開く鍵になったかのようだった。二人の会話は、少しずつ増えていった。ところがそのとき、電話の向こうから、切羽詰まった聞き覚えのある声がした。「お義父さん、お願いします。穂乃香と一度だけ会わせてください。俺はもう、自分が間違っていたとわかっています……」「止まれ、この馬鹿者!何をするつもりだ!」しばらく混乱した音が続いたあと、穂乃香は父の口から事情を聞いた。穂乃香の父と自分の祖父に相次いで叱責され、

  • 君を幸せにできなかった   第22話

    久瀬家で、悠真は穂乃香の父が自分に対して何をしようとしているのか、まだ知らなかった。彼の頭の中にあるのは、ただ一つ。穂乃香を見つけることだけだった。彼は穂乃香の父へ、さまざまな謝罪の品や補償の品を送り続けた。かつて香澄の墓を傷つけたことを思い出し、墓石を修繕させようとまでした。けれど、そのすべては手つかずのまま突き返された。それでも悠真は気にしなかった。ただ、さらに贈り物を送り続けた。同時に、海外へ人を向かわせ、穂乃香の行方を探らせた。だが送り込んだ者たちは、ことごとく追い返された。それどころか、海外へ出ることさえできなくなった。「何だって?」自分の部下がまた出国を止められたと聞いた瞬間、悠真はとうとう座っていられなくなった。穂乃香の父にギャラリーから追い出されたあと、彼はふと気づいたのだ。穂乃香の父が帰国したということは、穂乃香がそれを黙認したからではないか。もし許していないのなら、穂乃香はとっくに何か動いているはずだ。つまり、穂乃香は海外にいる。そういえば、一つだけまだ探していない場所があった。彼女が絶対に戻らないと思い込んでいた、青柳家だ。最初、悠真はまだ確信を持てなかった。だが送り込んだ人間が何度も追い返されるうちに、彼はついに確信した。穂乃香は青柳家にいる。そう思った瞬間、悠真はすぐに外へ向かった。ついでに秘書へ、航空券を手配するよう命じた。けれど、彼が遠くへ行く前に、背後から鋭い声が飛んだ。「待て」悠真が振り返ると、階段の上に悠真の祖父が立っていた。「穂乃香さんを探しに海外へ行くつもりなら、やめておけ」「じいちゃん!」悠真の胸が締めつけられる。彼は数歩、祖父のほうへ戻った。「どうしてだよ」一年前、悠真の祖父は体調を崩し、療養のため一時的に海外へ行っていた。まさかその一年のあいだに、自分の孫がここまで大きな問題を起こすとは思ってもいなかった。最初の頃、祖父も悠真を諭した。だが寧々に夢中になっていた悠真は、まったく聞く耳を持たなかった。そして今、穂乃香が去ってからようやく振り返った。けれど、もう遅かった。悠真の祖父は杖をつき、悠真を見据えた。「なぜだと思う」悠真は拳を握りしめた。「今回のことは、俺

  • 君を幸せにできなかった   第21話

    穂乃香の父は、悠真の言葉に怒りを通り越して、思わず笑いそうになった。「君の言うあの女とは終わったというのは、ただ君が先に飽きただけだろう。もし一生飽きなかったら、娘に一生、夫の帰りを待たせるつもりだったのか。それに、君は娘と結婚していたのだから、あの子が裏切りを絶対に許せない性格だと知っていたはずだ」穂乃香の父の声は冷たかった。「私はかつて、寂しさに負けて、ただ人のよさそうな女と再婚した。財産はすべて穂乃香に譲った。それでも、あの子はこの何年も私に一言も口をきかなかった。妻と死別した私でさえ、これほど拒絶されているのだ。では、君はどうだ?どうしてまだ、あの子が君を愛しているなどと思える。もし本当にまだ愛しているなら、あの子は君の前から消えたりしない。久瀬くん。もう自分に都合のいい夢を見るのはやめろ」穂乃香の父は、きっぱりと言い切った。「このギャラリーのことも諦めろ。今日は帰れ。そして今後、あの子を見つけようなどと思うな。穂乃香は、君に会うつもりなどない」そう言うと、穂乃香の父は湯呑みを持ち上げ、話は終わりだと示した。入口に控えていた護衛も歩み出る。「久瀬様、お引き取りを」轟音とともに、ギャラリーの扉が悠真の目の前で固く閉ざされた。空からは滝のような雨が降り注ぎ、悠真の全身をたちまち濡らしていく。冷気が背中から全身へ広がった。それでも、穂乃香を見つけるという彼の決意までは冷ませなかった。穂乃香の父が帰国していることは、悠真にとってむしろ好都合だった。少なくとも、穂乃香へたどり着く道が一つ増えたのだから。そう考えると、彼は目の前のギャラリーを深く見据えた。そしてようやく背を向け、雨の帳の中へ消えていった。悠真は知らない。二階のガラス窓の向こうで、穂乃香の父がずっと彼の背中を見つめていたことを。その姿が完全に見えなくなってから、穂乃香の父は視線を戻し、そばにいた執事に命じた。「久瀬くんの祖父に連絡を入れろ。彼を海外へ行かせるな。穂乃香の心をこれ以上乱されたくない」執事はすぐに頭を下げた。「かしこまりました」執事が下がると、穂乃香の父はソファへ戻った。そして、懐から一枚の写真を取り出した。そこには、亡き妻、香澄の笑顔が写っていた。

  • 君を幸せにできなかった   第20話

    香澄が遺したギャラリーの買収日。悠真は、かなり早い時間からギャラリーに来ていた。ギャラリーのスタッフから、今日の買収に穂乃香は来ないと聞かされていた。それでも彼は、わずかな期待を捨てきれなかった。万が一、穂乃香が来るかもしれない。ここは、彼女の母が生前心血を注いだ場所だ。あれほど母を愛していた穂乃香が、来ないはずがない。悠真はそう思いながら、ただ彼女を待ち続けた。やがて、遠くから足音が近づいてきた。悠真はすぐに姿勢を正し、開け放たれた扉のほうを期待に満ちた目で見つめた。白い影がゆっくりと中へ入ってきた。悠真は弾かれたように立ち上がった。しかし、「穂乃香」と呼びかけようとした言葉は、喉の奥で止まった。「お義父さん……どうしてあなたが。穂乃香は?」入ってきたのは、穂乃香ではなかった。穂乃香の父だった。穂乃香の父は、目の前の悠真を冷ややかに見据えた。「娘がどこにいるかを、君に答える義務はない。だが、妻のギャラリーを買い取ろうとしているなら、私が出向くのは当然だろう」悠真はわずかに口を開いた。「ですが、お義父さんは……」悠真の記憶では、穂乃香の父は妻を亡くしたあと再婚した。それをきっかけに穂乃香は父と衝突し、国内へ来たのだ。それ以来、穂乃香は父に自分のことへ口を出させなかった。特に、亡き母に関わることには。それなのに、なぜ今になって彼は帰国し、香澄のギャラリーに関わろうとしているのか。穂乃香はこのことを知っているのか。穂乃香の父は、悠真の問いには答えず、そのまま室内へ入って彼の向かいに腰を下ろした。「今日は買収の話をしに来たのだろう。関係のないことを聞く必要があるのか」穂乃香の父が悠真の前に座った瞬間、目に見えない威圧感が部屋中を満たした。悠真でさえ、息苦しさを覚えるほどだった。「ですが、お義父さん。俺は今日、買収のために来たわけではありません」悠真は低く言った。「ただ、穂乃香に一度会いたいんです。あいつは何か誤解している。それをきちんと説明したいんです」穂乃香と父の関係が今はどのようになっているのか、悠真にはわからない。けれど今、穂乃香と連絡を取れる可能性があるのは、この人だけだった。だから悠真は、本来の目的を正直に話した。

  • 君を幸せにできなかった   第1話

    結婚して五年。久瀬悠真(くぜ はるま)は、ひとりの女子大生に心を奪われた。貧しい家庭に育ちながらも、彼女はどこまでも凛としていた。彼女は悠真が差し出したブラックカードにも目もくれず、「誰かに飼われるような生き方はしません」と言い放った。その瞬間、悠真は彼女に囚われた。彼は世間の目も顧みず、その女子大生に猛アタックを始めた。だが、家で待つ妻のことは忘れていた。かつて九十九通ものラブレターを捧げ、ようやく振り向かせた最愛の妻――青柳穂乃香(あおやぎ ほのか)のことを。穂乃香は泣き叫ぶことも、責め立てることもしなかった。ただ、悠真が彼女を傷つけるたびに、かつて彼から贈

  • 君を幸せにできなかった   第4話

    次に目を覚ましたとき、穂乃香は病院のベッドに横たわっていた。扉の外から、寧々のすすり泣く声が聞こえた。「どうしましょう……抗生剤と間違えて、睡眠薬を飲ませてしまいました。そんなつもりじゃなかったのに……本当に何かあったら、重大な医療事故になりますよね……」続いて、悠真の優しい声がした。「怖がらなくていい。俺がいる。君に責任は取らせない。たとえ本当に問題になったとしても、俺が家族として示談書にサインすればいい」穂乃香は唇を強く噛みしめた。血の味が口の中に広がる。それからどれほど経ったのか、病室の扉が開き、悠真が入ってきた。「私……どうなったの?」穂乃香

  • 君を幸せにできなかった   第3話

    穂乃香は、燃え残ったラブレターの切れ端を手の中に握りしめた。炎の余熱が、掌をじりじりと焼いている。「何でもないわ。もう必要のないものを燃やしていただけよ」悠真は眉をひそめ、燃え残った紙片を見つめた。どこか見覚えがあるような気がした。けれど彼がそれを深く考えるより先に、寧々の声が廊下から飛んできた。「久瀬さん、結局パーティーには行くんですか?早くしないと、私も行きません!」穂乃香は顔を上げた。「パーティー?」「彼女を仲間内に紹介したいんだ」悠真はそこで少し間を置いた。「でも、彼女は君の看護係だからって、君が行かないなら自分も行かないと言っている。穂

  • 君を幸せにできなかった   第2話

    穂乃香は、悠真が寧々のためにここまでするとは思ってもみなかった。彼女にアプローチするためなら、自分の妻を傷つけることさえためらわないなんて。激痛の中で何かを言おうとした瞬間、穂乃香の視界は暗くなり、そのまま意識を失った。次に目を覚ましたとき、後頭部に鋭い痛みが走った。穂乃香は痛みに耐えながら、ゆっくりと目を開けた。視界に映ったのは見慣れない天井で、ここがどこなのか、自分がどれほど眠っていたのかもすぐにはわからなかった。「奥様、お目覚めですか」冷ややかな声が聞こえた。穂乃香が顔を向けると、寧々がベッドのそばに立っていた。手には救急箱を提げている。寧々はシン

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status