Share

第8話

Author: あむ
穂乃香は顔を上げ、悠真を見つめた。

体の芯まで、ぞっとするほど冷えていた。

彼の中で、自分が寧々より大切ではなくなったことは、もう受け入れている。

けれど今は、寧々の祖母よりも下だというのか。

「嫌よ」

穂乃香は二人の手を振り払った。

「私は、あなたたちのための生きた臓器バンクじゃない!」

そう言い捨て、彼女は踵を返した。

しかし次の瞬間、首の後ろに鋭い痛みが走った。

悠真の手刀は、あまりにも速く、容赦がなかった。

穂乃香は何が起きたのか理解する間もなく、その場に崩れ落ちた。

薄れていく意識の中で、悠真が自分を横抱きにし、医師に告げる声だけが聞こえた。

「手術室を用意してください」

次に目を覚ましたとき、腹部に身を裂かれるような痛みが走った。

穂乃香は震える手で病衣をめくった。

包帯で覆われた傷口には、点々と血がにじんでいた。

「肝移植の手術を終えたばかりです。動かないでください」

看護師が、起き上がろうとする彼女を押さえた。

穂乃香は唇を強く噛みしめた。

血の味が口の中に広がる。

本当に、彼は――寧々の祖母を助けるために、無理やり自分の肝臓を移植させたのだ。

病衣の下の傷は、まだ鈍く疼いていた。

まるで鈍い刃で、内臓を何度もかき回されているようだった。

けれど、その痛みでさえ、胸の痛みの万分の一にも届かない。

穂乃香は震える指で、腹部に残った痛々しい傷跡に触れた。

なんて滑稽なのだろう。

自分の体に刻まれた一番深い傷が、最も愛した人の手によって残されたものだなんて。

それから数日、穂乃香は人形のようにベッドに横たわっていた。

隣の病室から聞こえてくる、明るい笑い声を聞きながら。

「おばあ様はお幸せですね。こんなに孝行なお孫さんと、優しいお孫婿さんがいらっしゃって」

「久瀬さんは本当に情の深い方ですね。

奥様のおばあ様のために、あんなに奔走なさるなんて……」

奥様。

穂乃香は笑いたかった。

けれど、口元を動かす力さえ残っていなかった。

彼女は、病院で丸半月を過ごした。

廊下からは毎日のように、悠真が寧々とその祖母を気遣う声が聞こえた。

けれど彼が、穂乃香の病室に足を踏み入れることは一度もなかった。

退院の日、穂乃香は荷物をまとめて病院を出ようとしていた。

そのとき、廊下の角で偶然、涙まじりに悠真へ問いかける寧々の声を聞いた。

「久瀬さん……どうして私が何度拒んでも、そこまでして優しくしてくださるんですか。

どうして……私の祖母を助けるために、奥様の肝臓まで……」

穂乃香はその場に立ち止まった。

低く響く悠真の声が聞こえる。

「何度も言っただろう。君が好きだからだ。君と一緒にいたい。

なあ、寧々。俺の胸を裂いて、この心臓を見せれば信じてくれるのか?」

どれほどの沈黙が流れただろう。

やがて寧々は、ようやく決心したように口を開いた。

「わ、私……あなたと一緒にいてもいいです。でも、条件があります」

悠真は喜びを隠しきれない様子で、すぐに彼女を抱きしめた。

「言って」

その声はひどくかすれていた。

「君が言うなら、どんな条件でも聞く」

「私は愛人にはなりません」

寧々は一語一語、はっきりと言った。

「堂々とあなたと一緒にいたいんです。あなたが離婚してくれるなら」

死んだような静寂が落ちた。

穂乃香は自分の心音を数えた。

一つ、二つ――

十七回目を数えたとき、ようやく悠真の声が聞こえた。

「わかった」

たったそれだけだった。

軽く、何でもないような一言。

穂乃香は壁にもたれたまま、ずるずると床に座り込んだ。

腹部の傷が焼けるように痛む。

けれど、心臓を生きたままえぐり取られたような痛みに比べれば、何ほどのこともなかった。

家に戻ると、穂乃香は最後のラブレターを燃やした。

炎が紙をのみ込んでいくのを見つめながら、彼女は悠真がこの手紙を渡した日のことを思い出していた。

勢いに満ちた少年だった彼は、雪の降る中、彼女の家の下に立っていた。

長い睫毛には雪がついていた。

「穂乃香、これで九十九通目のラブレターだ。俺と付き合ってくれないかな。これから一生、君を好きでいるから」

今、九十九通のラブレターはすべて灰になった。

彼の言う一生は、たった十年で終わったのだ。

ラブレターは燃え尽きた。

ならば、自分ももう去るべきだ。

穂乃香はスーツケースを開き、服を一枚ずつ畳んで入れていった。

書斎を片づけていたとき、悠真のパソコンがついたままになっているのに気づいた。

ラインの画面が開いたままで、次々と通知が浮かび上がる。

【悠真、白石さんがついに受け入れたって聞いたぞ。

でも離婚が条件なんだろ?まさか本当に穂乃香と別れるつもりか?】

【よく考えろよ。白石さんなんて、結局は愛人みたいなもんだろ。

穂乃香とは何年の付き合いだと思ってるんだ】

【それに本当に離婚なんてしたら、穂乃香は相当傷つくぞ。

そう簡単にはなだめられないだろ】

【おい悠真、どうするつもりなんだよ。何か言えって】

穂乃香はその場に立ったまま、画面に流れていくメッセージを静かに見つめていた。

やがて、悠真の返信が表示された。

【どっちも欲しい】

【でも今は、寧々のほうが欲しい】

グループラインは数秒だけ静まり返った。

そしてすぐに騒然となる。

【うわ、マジかよ。白石さんってそんなに魅力あるのか?本気で離婚まで考えるなんて】

【ちゃんと考えろよ。穂乃香も意地のある女だぞ。

お前から離婚を切り出したら、たぶん本当に終わるぞ】

【いや、方法はある。悠真、離婚届を用意して、不動産の名義変更の書類だって言って穂乃香にサインさせろよ。

あいつはお前のことを信じきってるから、たぶん中身も見ずに署名する】

【完全に騙し通してしまえば、騒がれもしないし、出ていかれることもない。

白石さんに飽きた頃に、適当に離婚を白紙に戻せばいい】

その名案に、グループ内の全員が賛同していた。

【すげえな。それなら悠真、両方手に入れられるんじゃ】

悠真も、一言だけ返していた。

【いい考えだ】

穂乃香はゆっくりとパソコンを閉じた。

指先が冷たくなっていた。

彼にとって、自分には真実を知る権利さえないのだ。

翌朝。

穂乃香が朝食を終えたばかりの頃、悠真が帰ってきた。

きちんとスーツを着こなし、手には案の定、一枚の書類を持っている。

「穂乃香、これにサインしてくれ」

その口調は、まるで今日の天気の話でもしているかのように自然だった。

「城東市の別荘を君の名義にしておく」

穂乃香は、静かに彼を見つめた。

かつて彼女の代わりに酒を飲み、彼女のために人と殴り合い、雪の中で膝をついてプロポーズしてくれた男。

これが、十年以上愛してきた男なのだ。

「いいわよ」

穂乃香は何も知らないふりをしてペンを受け取った。

そして中身を見ることなく、その不動産書類に名前を書いた。

悠真は明らかに安堵した様子だった。

「しばらく寧々を連れて旅行に行く。家には戻らない」

彼が背を向けたとき、穂乃香は静かに呼び止めた。

「悠真」

「ん?」

彼が振り返る。

「何でもない。楽しんできて」

悠真が去ったあと、穂乃香はその書類を手に、そのまま役所へ向かった。

窓口の職員は、何度も確認した。

「青柳様、本当に離婚届を提出されるということでよろしいですか。

一度受理されますと、取り消すことはできません」

「間違いありません」

受理印が押された瞬間、穂乃香の心は不思議なほど静かになった。

完全に気持ちが死ぬとは、こういうことなのだろう。

痛くも痒くもない。

まるで、腐ってしまった歯を抜いたあとのように。

空港のロビーには、大勢の人が行き交っていた。

穂乃香は片道の航空券を握りしめ、最後に一度だけスマホを見た。

SNSには、悠真の友人が投稿した、悠真と寧々の空港での写真が上がっていた。

添えられた言葉は――

【悠真、ついに念願の彼女を手に入れたな。おめでとう!】

穂乃香はスマホの画面を消した。

SIMカードを抜き、捨てた。

そしてまっすぐ、搭乗口へ向かって歩き出した。

彼女にとってもめでたいことだ。

自由を手に入れ、新しい人生を取り戻したのだから。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 君を幸せにできなかった   第25話

    あの日、寧々は朦朧とした様子で悠真に点滴の針を刺していた。何度も失敗したせいで、彼の手の甲は青紫に腫れ上がっていた。前の人生で、自分はどうしたんだっけ。確か、失敗ばかりの彼女を、少し可愛いとさえ思ってしまったのだ。寧々が泣きながら謝ってきても、気にすることはないと笑い、ゆっくりやればいいと慰めたはずだ。その日の選択が、彼は彼女という渦に呑み込まれた。過ちを重ね、二度と引き返せなくなった。けれど今度は違う。悠真は目の前で謝る寧々を冷ややかに見据え、厳しい声で言った。「責任者を呼んでくれ」その後、病院は寧々にいくらかの補償金を渡し、彼女を解雇した。それきり、寧々は悠真の世界から完全に消えた。点滴を終えたあと、見慣れた人影が彼のもとへ歩いてきた。その人は、彼に手を差し伸べた。「悠真、帰りましょう」悠真は顔を上げた。愛情に満ちた目で微笑む穂乃香を見て、彼もまた笑った。そして彼女の手を握り、立ち上がった。「ああ、帰ろう」二人は固く手をつないだまま、遠くの光の中へ歩いていった。やがて、その姿は見えなくなった。そして現実の世界で、血だまりの中に倒れていた悠真の呼吸も、ゆっくりと止まっていった。悲鳴も、救急車のサイレンも、警笛の音も、しだいに遠ざかっていく。そして最後には、何も聞こえなくなった。……悠真が事故で亡くなったという知らせが穂乃香の耳に届いたとき、彼女の手にあったバラの花束が、音を立てて床へ落ちた。鮮やかな赤い花びらが床一面に散り、その色がゆっくりと彼女の目を染めていく。「どうして……」電話の向こうの穂乃香の父の声も重かった。「加害者はすでに捕まった。白石寧々だ」真実を知り、悠真に捨てられたあと、寧々には悠真が残したマンションと二億円があった。それさえあれば、祖母と二人、残りの人生を食べるに困ることはなかったはずだった。けれどその後、悠真は彼女へ二度目の報復をした。彼女に与えていた特権を、すべて取り上げたのだ。ちょうどその頃、祖母は寧々と悠真が不倫関係だったことを知った。彼女は怒りと衝撃のあまり、その場で息を引き取った。祖母は、寧々にとって唯一の心の支えだった。その祖母を失い、寧々の世界は完全に崩れ落ちた。寧々はそのすべて

  • 君を幸せにできなかった   第24話

    電話の向こうの悠真の呼吸が、しだいに荒くなっていく。その声には、痛みが滲み始めていた。けれど穂乃香は、すべて聞こえないふりをした。「あなたはいつも、この関係が壊れた理由を私に聞きたがる。でも、答えを目の前に差し出しても、あなたには見えなかった。結局、根本にあるのは、あなたが私のことを大切にしていなかったということよ」だから悠真は、彼女の気持ちも顧みず、平然と裏切った。寧々が彼女の尊厳を踏みにじるのを許し、本来なら受けずに済んだはずの傷を、何度も彼女に負わせた。「だから、私たちがどうして離婚したのか、もうわかったでしょう?悠真。私たちはもう離婚したの。これ以上、関わるべきじゃない」そう言って、穂乃香は電話を切ろうとした。だがその前に、電話の向こうから慌てたような懇願が聞こえた。「待ってくれ……穂乃香、頼む。そんなふうに言わないでくれ。一度だけ会おう。お願いだ」穂乃香の記憶の中で、悠真がここまで卑屈になったことはほとんどなかった。数少ない例外も、彼女をなだめ、離婚を思いとどまらせようとしたときくらいだ。「会わないわ」穂乃香は静かに言った。「どちらかが死なない限り、私たちはもう二度と会わないほうがいい」通話はそこで切れた。真っ暗になった画面を見つめながら、悠真は胸の奥から激しい痛みが広がっていくのを感じた。その痛みは毒を含んだ蔦のように全身へ絡みつき、彼を縛りつけた。身動きもできないまま、ただ苦しみの中へ沈んでいくしかなかった。悠真は足を動かそうとした。けれど次の瞬間、視界が真っ暗になり、体が重く床へ倒れ込んだ。「悠真!」「旦那様!」「誰か、早く!」その電話のあと、悠真は急に大きく体調を崩した。日に日に痩せ細り、どれだけ薬を飲ませても、どれほど滋養のあるものを口にさせても、少しもよくならなかった。誰もが、彼は重い病にかかったのではないかと囁いた。けれど悠真だけはわかっていた。これは病ではない。心が壊れたのだ。穂乃香にあの言葉を告げられるまでは、彼はまだ、二人にはやり直せる可能性があると信じていた。だが今、いったい何が残っているというのか。悠真はスマホに保存された、穂乃香との写真を見つめた。そしてついに、こらえきれず声を上げて泣いた

  • 君を幸せにできなかった   第23話

    それでも、穂乃香の父は胸を打たれていた。以前の穂乃香のよそよそしさや冷たさに比べれば、これだけでも大きな前進だった。一方、海外にいる穂乃香は、父から届いたメッセージを見つめたまま、長いあいだ動けずにいた。プレゼントへの礼と、それをとても気に入ったという言葉。その短い文章を読んでいるうちに、複雑な感情が少しずつ彼女をのみ込んでいった。本当は、ずっと前から父のことを許していた。あのときの父は、完全に被害者だった。それでも当時の穂乃香は、母の立場に立つことしかできなかった。父が母を裏切ったのだと思い込み、決然と父との関係を断った。けれど、自分も失敗した結婚を経験し、さまざまな人や出来事を見てきた今なら、父の苦しみも少しずつ理解できる。ただ、一度できてしまった傷は簡単には消えない。穂乃香にも、過去の埋め合わせをしたい気持ちはあった。けれど何から始めればいいのか、わからなかった。だから、少しずつでいい。執事が言っていたように、少なくとも、あとで後悔しないように生きたい。そのとき、手の中のスマホが震えた。穂乃香ははっと我に返った。画面に表示された発信者名は「父」だった。何度も迷った末、彼女は電話に出た。「穂乃香。プレゼントをありがとう。お父さん、とても嬉しかったよ」父は、穂乃香からなかなか返信が来ないのを、彼女がまだメッセージを見ていないのだと思ったらしい。それでも、娘を怒らせたのではないかと不安になり、思わず電話をかけてきたのだ。父がそこまで自分の気持ちを気にしているとは思わず、穂乃香は鼻の奥がつんと熱くなった。深く息を吸ってから、静かに言った。「気に入ってくれたなら、よかったわ。これからは、もっといろいろ贈るわ」その一言が、父と娘の間にあったわだかまりを開く鍵になったかのようだった。二人の会話は、少しずつ増えていった。ところがそのとき、電話の向こうから、切羽詰まった聞き覚えのある声がした。「お義父さん、お願いします。穂乃香と一度だけ会わせてください。俺はもう、自分が間違っていたとわかっています……」「止まれ、この馬鹿者!何をするつもりだ!」しばらく混乱した音が続いたあと、穂乃香は父の口から事情を聞いた。穂乃香の父と自分の祖父に相次いで叱責され、

  • 君を幸せにできなかった   第22話

    久瀬家で、悠真は穂乃香の父が自分に対して何をしようとしているのか、まだ知らなかった。彼の頭の中にあるのは、ただ一つ。穂乃香を見つけることだけだった。彼は穂乃香の父へ、さまざまな謝罪の品や補償の品を送り続けた。かつて香澄の墓を傷つけたことを思い出し、墓石を修繕させようとまでした。けれど、そのすべては手つかずのまま突き返された。それでも悠真は気にしなかった。ただ、さらに贈り物を送り続けた。同時に、海外へ人を向かわせ、穂乃香の行方を探らせた。だが送り込んだ者たちは、ことごとく追い返された。それどころか、海外へ出ることさえできなくなった。「何だって?」自分の部下がまた出国を止められたと聞いた瞬間、悠真はとうとう座っていられなくなった。穂乃香の父にギャラリーから追い出されたあと、彼はふと気づいたのだ。穂乃香の父が帰国したということは、穂乃香がそれを黙認したからではないか。もし許していないのなら、穂乃香はとっくに何か動いているはずだ。つまり、穂乃香は海外にいる。そういえば、一つだけまだ探していない場所があった。彼女が絶対に戻らないと思い込んでいた、青柳家だ。最初、悠真はまだ確信を持てなかった。だが送り込んだ人間が何度も追い返されるうちに、彼はついに確信した。穂乃香は青柳家にいる。そう思った瞬間、悠真はすぐに外へ向かった。ついでに秘書へ、航空券を手配するよう命じた。けれど、彼が遠くへ行く前に、背後から鋭い声が飛んだ。「待て」悠真が振り返ると、階段の上に悠真の祖父が立っていた。「穂乃香さんを探しに海外へ行くつもりなら、やめておけ」「じいちゃん!」悠真の胸が締めつけられる。彼は数歩、祖父のほうへ戻った。「どうしてだよ」一年前、悠真の祖父は体調を崩し、療養のため一時的に海外へ行っていた。まさかその一年のあいだに、自分の孫がここまで大きな問題を起こすとは思ってもいなかった。最初の頃、祖父も悠真を諭した。だが寧々に夢中になっていた悠真は、まったく聞く耳を持たなかった。そして今、穂乃香が去ってからようやく振り返った。けれど、もう遅かった。悠真の祖父は杖をつき、悠真を見据えた。「なぜだと思う」悠真は拳を握りしめた。「今回のことは、俺

  • 君を幸せにできなかった   第21話

    穂乃香の父は、悠真の言葉に怒りを通り越して、思わず笑いそうになった。「君の言うあの女とは終わったというのは、ただ君が先に飽きただけだろう。もし一生飽きなかったら、娘に一生、夫の帰りを待たせるつもりだったのか。それに、君は娘と結婚していたのだから、あの子が裏切りを絶対に許せない性格だと知っていたはずだ」穂乃香の父の声は冷たかった。「私はかつて、寂しさに負けて、ただ人のよさそうな女と再婚した。財産はすべて穂乃香に譲った。それでも、あの子はこの何年も私に一言も口をきかなかった。妻と死別した私でさえ、これほど拒絶されているのだ。では、君はどうだ?どうしてまだ、あの子が君を愛しているなどと思える。もし本当にまだ愛しているなら、あの子は君の前から消えたりしない。久瀬くん。もう自分に都合のいい夢を見るのはやめろ」穂乃香の父は、きっぱりと言い切った。「このギャラリーのことも諦めろ。今日は帰れ。そして今後、あの子を見つけようなどと思うな。穂乃香は、君に会うつもりなどない」そう言うと、穂乃香の父は湯呑みを持ち上げ、話は終わりだと示した。入口に控えていた護衛も歩み出る。「久瀬様、お引き取りを」轟音とともに、ギャラリーの扉が悠真の目の前で固く閉ざされた。空からは滝のような雨が降り注ぎ、悠真の全身をたちまち濡らしていく。冷気が背中から全身へ広がった。それでも、穂乃香を見つけるという彼の決意までは冷ませなかった。穂乃香の父が帰国していることは、悠真にとってむしろ好都合だった。少なくとも、穂乃香へたどり着く道が一つ増えたのだから。そう考えると、彼は目の前のギャラリーを深く見据えた。そしてようやく背を向け、雨の帳の中へ消えていった。悠真は知らない。二階のガラス窓の向こうで、穂乃香の父がずっと彼の背中を見つめていたことを。その姿が完全に見えなくなってから、穂乃香の父は視線を戻し、そばにいた執事に命じた。「久瀬くんの祖父に連絡を入れろ。彼を海外へ行かせるな。穂乃香の心をこれ以上乱されたくない」執事はすぐに頭を下げた。「かしこまりました」執事が下がると、穂乃香の父はソファへ戻った。そして、懐から一枚の写真を取り出した。そこには、亡き妻、香澄の笑顔が写っていた。

  • 君を幸せにできなかった   第20話

    香澄が遺したギャラリーの買収日。悠真は、かなり早い時間からギャラリーに来ていた。ギャラリーのスタッフから、今日の買収に穂乃香は来ないと聞かされていた。それでも彼は、わずかな期待を捨てきれなかった。万が一、穂乃香が来るかもしれない。ここは、彼女の母が生前心血を注いだ場所だ。あれほど母を愛していた穂乃香が、来ないはずがない。悠真はそう思いながら、ただ彼女を待ち続けた。やがて、遠くから足音が近づいてきた。悠真はすぐに姿勢を正し、開け放たれた扉のほうを期待に満ちた目で見つめた。白い影がゆっくりと中へ入ってきた。悠真は弾かれたように立ち上がった。しかし、「穂乃香」と呼びかけようとした言葉は、喉の奥で止まった。「お義父さん……どうしてあなたが。穂乃香は?」入ってきたのは、穂乃香ではなかった。穂乃香の父だった。穂乃香の父は、目の前の悠真を冷ややかに見据えた。「娘がどこにいるかを、君に答える義務はない。だが、妻のギャラリーを買い取ろうとしているなら、私が出向くのは当然だろう」悠真はわずかに口を開いた。「ですが、お義父さんは……」悠真の記憶では、穂乃香の父は妻を亡くしたあと再婚した。それをきっかけに穂乃香は父と衝突し、国内へ来たのだ。それ以来、穂乃香は父に自分のことへ口を出させなかった。特に、亡き母に関わることには。それなのに、なぜ今になって彼は帰国し、香澄のギャラリーに関わろうとしているのか。穂乃香はこのことを知っているのか。穂乃香の父は、悠真の問いには答えず、そのまま室内へ入って彼の向かいに腰を下ろした。「今日は買収の話をしに来たのだろう。関係のないことを聞く必要があるのか」穂乃香の父が悠真の前に座った瞬間、目に見えない威圧感が部屋中を満たした。悠真でさえ、息苦しさを覚えるほどだった。「ですが、お義父さん。俺は今日、買収のために来たわけではありません」悠真は低く言った。「ただ、穂乃香に一度会いたいんです。あいつは何か誤解している。それをきちんと説明したいんです」穂乃香と父の関係が今はどのようになっているのか、悠真にはわからない。けれど今、穂乃香と連絡を取れる可能性があるのは、この人だけだった。だから悠真は、本来の目的を正直に話した。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status