ANMELDEN南條悠真(なんじょう ゆうま)が、あの生活の苦しい後輩を婚約披露パーティーの控室に連れてきたとき、私――夏目杏奈(なつめ あんな)は、ちょうど口紅を直していた。 「莉央がうっかりドレスを汚してしまったんだ。少しだけ、君のドレスを貸してやってくれないか」 私は数秒、言葉を失った。すると悠真は、当たり前のように続けた。 「今日の主役が杏奈だってことは、みんな分かってる。何を着ていたって変わらないだろ」 ドアのそばには、一人の女の子が立っていた。洗い古して白っぽくなったスニーカーを履き、小さな声で「こんにちは、杏奈さん」と言った。 親友の藤崎瑶子(ふじさき ようこ)が、私の前に立ちはだかった。 「これは杏奈の婚約披露パーティーなのよ。このドレスだって、三十軒もお店を回ってやっと決めたものなのに!」 悠真が私を一瞥した。 五年。 彼にこういう目で見られるたび、私はいつも折れてきた。 私は瑶子をそっと押しとどめ、ゆっくりと口紅のキャップを閉めた。 「着せてあげて」 悠真は満足そうに私の頭を撫でた。 「やっぱり杏奈は分かってくれるな。結婚式の日には、最高のウェディングドレスを買ってあげる」 久保莉央(くぼ りお)は、私の婚約披露パーティー用のドレスに着替えた。悠真は身をかがめ、彼女のドレスの裾を持ち上げてやった。 彼はやわらかな声で言った。 「莉央、本当にきれいだ」 その仕草を、私は知っている。 私たちがウェディングフォトを撮ったとき、カメラマンに同じことを頼まれて、彼は「わざとらしい」と言って拒んだ。 私は婚約指輪を外した。 今度こそ、もう、物分かりのいい女でいるのはやめる。
Mehr anzeigen私は窓辺へ行き、階下を見下ろした。郵便受けはエントランスの脇にある、目立たない緑色の箱だった。階段を下りて、郵便受けを開ける。中には封筒が一通入っていた。とても薄く、手に取ると頼りないほど軽かった。入っていたのは、一枚の紙と車のキーだけだった。紙には、彼の字が並んでいた。車は私に残す、と書かれていた。君には、もっといいものがふさわしいから、と。その下には、三本のマフラーを編んでいたときの気持ちが綴られていた。私がそれを巻いている姿を想像したこと。驚かせたかったこと。最後の一文だけ、筆圧がやけに強かった。【幸せになってほしい】私はその紙を、長いあいだ見つめていた。それから丁寧に折りたたみ、封筒に戻した。そして、そのまま郵便受けの中へ押し戻した。車のキーだけが、手のひらに残った。ひどく冷たかった。私は身を翻し、階段を上がった。三階まで来たところで、ふと足が止まった。その角度からは、階下の街灯が見えた。淡い光の輪の中に、見慣れた人影が立っていた。彼は私の住む建物を、長いこと見上げていた。やがて背を向け、ゆっくりと通りの角へ歩いていった。その姿は、夜の中へ消えていった。私はしばらく、その場に立っていた。彼の姿が完全に見えなくなるまで。それからまた階段を上がり、部屋に戻った。鍵をかけ、ドアに背中を預けて目を閉じる。胸の中には、想像していたような痛みはなかった。ただ、ぽっかりと穴が空いたような感覚だけがあった。テーブルの上にはコップが置かれたままだった。けれど中の水は、もう一滴も残っていなかった。私は窓辺へ行き、カーテンを開けた。窓の外には澄んだ夜空が広がり、星がいくつか浮かんでいた。遠くから、かすかな車の音が聞こえる。この街は、いつもどおり動いていた。これまでの、数えきれない夜と同じように。それでも、確かに変わったものがあった。私はスマホを手に取り、瑶子にメッセージを送った。【瑶子、明日空いてる?家探しに付き合ってくれない?】すぐに返事が来た。【いいよ。どんな家を見るの?】【本当に私のものになる家】【分かった】私はスマホを置き、リビングへ行ってスピーカーの電源を入れた。長いこと聴いていなかった曲
悠真は、それきり私を訪ねてこなくなった。一か月後、瑶子から電話がかかってきた。悠真が会社を辞めたという。「会社には長期休暇を申請したみたい。しばらく休みたいって。知ってた?」「知らない」「悠真のお母さんが私のところに来たの。二人に何があったのかって聞かれたけど、あまり詳しくは言わなかった。ただ、杏奈は疲れていて、一人でいたがってるって伝えた」「うん」「杏奈、本当にもう吹っ切れたの?」私は窓の外を見た。新しいアパートの金木犀が咲いていて、甘い香りが風に乗って部屋まで流れ込んでくる。「もちろん」「じゃあ、これからどうするつもり?」「まずは仕事を落ち着かせる。ほかのことは、それから考える」「もう恋愛するつもりはないの?」「そのとき次第かな」瑶子はしばらく黙っていた。「知ってる?莉央も先週、私のところに来たの」「何しに?」「あなたがどこにいるのか聞かれたの。謝りたいんだって。こんなことになるなんて思わなかった、自分はただ悠真先輩をお兄さんみたいに慕っていただけで、誰かの恋人を奪うつもりなんてなかったって」瑶子は小さく鼻で笑った。「だから言ってやったの。杏奈は、あなたの謝罪なんて求めてないって。奪ったかどうかを決めるのは、あなたじゃない。悠真が何をしたかでしょう、って」瑶子はそこで少し言葉を切った。「そしたら泣き出してね。自分が悠真から離れる、あなたたちのために身を引くって言ったの」「もう必要ないよ」私は言った。「私たちは、もう終わってるから」「分かってる。でも私、彼女にこう言ったの。杏奈は誰かに譲ってもらう必要なんてない。自分の足で、ちゃんと遠くへ行ける人だって」私は笑った。「瑶子、ありがとう」「何言ってるの。親友でしょ」電話を切ったあと、私は本棚の前に立った。あのレシピ本は、まだ目につく場所に置いてある。私はそれを手に取り、最後のページを開いた。あの一節は、まだそこに残っていた。【あなたと一緒に、時間を無駄にしたい】私はペンを取り、その下に一行書き足した。【これからは、私のために時間を使いたい】本を閉じ、私はそれを本棚の下段に戻した。古いものたちと一緒に。パソコンを開き、仕事に取りかかった。窓の外では、空が少しずつ暗く
悠真の連絡先を削除した翌日、彼の母から電話がかかってきた。「杏ちゃん、悠真、最近どうしたの?毎日ぼんやりしていて、聞いても何も言わないのよ」「おばさん、私たち、別れました」電話の向こうで、長い沈黙が落ちた。「莉央って子のせいなの?」「それだけではありません」「あの子には会ったことがあるわ。見た感じはおとなしくて、いい子そうだったけれど」悠真の母はため息をついた。「でも悠真は私に言っていたのよ。あなたは自分にとって、とても大切な人だって。あの子があなたを……」「おばさん」私は彼女の言葉を遮った。「誰が大切かどうか、そういう問題じゃないんです」「じゃあ、何の問題なの?」「習慣の問題です」彼女はそれ以上、何も聞かなかった。その夜、宅配便が届いた。中にはマフラーが入っていた。アイボリーの、少し編み目の歪んだマフラーだった。メモが一枚添えられている。悠真の字だった。去年の冬、私が手編みのマフラーが欲しいと言っていたから、見よう見まねで編んでみた。下手だけど、嫌がらないでほしい。そう書かれていた。私はそのマフラーを見つめながら、去年の冬を思い出した。確かに、私は手編みのマフラーが欲しいと言った。同僚が彼氏に編んでもらったマフラーを巻いていて、素敵だねと何気なく褒めただけだった。そのとき悠真はスマホを見ていて、顔も上げずに言った。「買えばいいだろ。手編みなんて、そんなに暖かくないし」今になって、彼は編んだ。出来はよくなかった。糸端もきちんと始末されていない。私はメモごとマフラーを宅配箱に戻した。そしてそのまま玄関の外へ持っていき、ゴミ置き場のそばに置いた。翌日の午後、私はゴミを捨てに階下へ下りた。エントランスを出たところで、悠真が立っているのが見えた。少し痩せていた。左腕はまだ固定されたままで、目の下のくまも濃い。まるで一晩中眠っていなかったようだった。私を見ると、彼は背筋を伸ばした。「杏奈」私は足を止め、彼を見た。「昨日、下で夜中まで待ってた」彼の声はかすれていて、その目には、おずおずとこちらの様子をうかがうような色があった。「そんなことをする必要はない」私の声は静かだった。「ある」彼は一歩前に出ると、ポケットから小さな
悠真が入院していた週、莉央が一度見舞いに来たらしい。それは後になって、瑶子から聞いた。瑶子が送ってきたのは、莉央のSNS投稿のスクリーンショットだった。写真の中で、悠真は病院のベッドにもたれ、左腕に包帯を巻いたまま、うつむいてスマホを見ている。添えられていた文章は、こうだった。【悠真先輩が私を手伝ってけがをしてしまいました。本当に申し訳ないです。でも先輩は、気にしなくていい、力になれてうれしいって言ってくれました】コメント欄は、彼女を慰める言葉で埋まっていた。【悠真先輩は優しい、気にしなくていい、こんなにいい先輩がいて幸せだね】みんな、そんなことばかり言っていた。瑶子から音声メッセージが届いた。「杏奈、怒ってない?」「何に怒るの?」私はスマホをテーブルに置いた。「莉央が言っていることは事実だもの。悠真が彼女に優しいのは、本当でしょう」「じゃあ、あなたは?あなたたちの五年間は何だったの?」私は答えなかった。何だったのだろう。私の独りよがりだったのだ。我慢すれば大切にしてもらえると思っていた。物分かりよくしていれば、いたわってもらえると思っていた。けれど彼の優しさは、もうとっくに別の人へ向けられていた。午後、悠真からメッセージが届いた。【杏奈、退院した。莉央のことは、彼女ときちんと話した。いつなら時間がある?一度会って話したい】その数行を見て、私は急にひどく疲れた。体ではなく、心の奥からくる疲れだった。何をしても、もうどうにもならないと思えてしまうような疲れ。私は返事をせず、スマホをマナーモードにしてテーブルの上に放った。二時間後、悠真から電話がかかってきた。私は電話を切った。それでもまたかかってきた。三度続いたあと、私はようやく電話に出た。「杏奈、俺はいま新幹線の駅にいる。俺に会ってくれないなら、君の実家まで行く。おばさんに直接謝る。俺は……」私は勢いよく立ち上がった。「悠真、あなた本気で言ってるの?母、先月心臓のカテーテル手術を受けたばかりなのよ。少しの刺激だってよくないのに、母の前で何を話すつもり?」電話の向こうが、水を打ったように静まり返った。七、八秒ほど経ってから、彼はようやく口を開いた。呆然とした声で、言葉も少しつかえて