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あなたに捧げた五年の春を、私は取り戻す

あなたに捧げた五年の春を、私は取り戻す

Von:  夏霞みAbgeschlossen
Sprache: Japanese
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Zusammenfassung

逆転

ドロドロ展開

ひいき/自己中

不倫

妻を取り戻す修羅場

南條悠真(なんじょう ゆうま)が、あの生活の苦しい後輩を婚約披露パーティーの控室に連れてきたとき、私――夏目杏奈(なつめ あんな)は、ちょうど口紅を直していた。 「莉央がうっかりドレスを汚してしまったんだ。少しだけ、君のドレスを貸してやってくれないか」 私は数秒、言葉を失った。すると悠真は、当たり前のように続けた。 「今日の主役が杏奈だってことは、みんな分かってる。何を着ていたって変わらないだろ」 ドアのそばには、一人の女の子が立っていた。洗い古して白っぽくなったスニーカーを履き、小さな声で「こんにちは、杏奈さん」と言った。 親友の藤崎瑶子(ふじさき ようこ)が、私の前に立ちはだかった。 「これは杏奈の婚約披露パーティーなのよ。このドレスだって、三十軒もお店を回ってやっと決めたものなのに!」 悠真が私を一瞥した。 五年。 彼にこういう目で見られるたび、私はいつも折れてきた。 私は瑶子をそっと押しとどめ、ゆっくりと口紅のキャップを閉めた。 「着せてあげて」 悠真は満足そうに私の頭を撫でた。 「やっぱり杏奈は分かってくれるな。結婚式の日には、最高のウェディングドレスを買ってあげる」 久保莉央(くぼ りお)は、私の婚約披露パーティー用のドレスに着替えた。悠真は身をかがめ、彼女のドレスの裾を持ち上げてやった。 彼はやわらかな声で言った。 「莉央、本当にきれいだ」 その仕草を、私は知っている。 私たちがウェディングフォトを撮ったとき、カメラマンに同じことを頼まれて、彼は「わざとらしい」と言って拒んだ。 私は婚約指輪を外した。 今度こそ、もう、物分かりのいい女でいるのはやめる。

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Kapitel 1

第1話

南條悠真(なんじょう ゆうま)が、あの生活の苦しい後輩を婚約披露パーティーの控室に連れてきたとき、私――夏目杏奈(なつめ あんな)は、ちょうど口紅を直していた。

「莉央がうっかりドレスを汚してしまったんだ。少しだけ、君のドレスを貸してやってくれないか」

私は数秒、言葉を失った。すると悠真は、当たり前のように続けた。

「今日の主役が杏奈だってことは、みんな分かってる。何を着ていたって変わらないだろ」

ドアのそばには、一人の女の子が立っていた。洗い古して白っぽくなったスニーカーを履き、小さな声で「こんにちは、杏奈さん」と言った。

親友の藤崎瑶子(ふじさき ようこ)が、私の前に立ちはだかった。

「これは杏奈の婚約披露パーティーなのよ。このドレスだって、三十軒もお店を回ってやっと決めたものなのに!」

悠真が私を一瞥した。

五年。

彼にこういう目で見られるたび、私はいつも折れてきた。

私は瑶子をそっと押しとどめ、ゆっくりと口紅のキャップを閉めた。

「着せてあげて」

悠真は満足そうに私の頭を撫でた。

「やっぱり杏奈は分かってくれるな。結婚式の日には、最高のウェディングドレスを買ってあげる」

久保莉央(くぼ りお)は、私の婚約披露パーティー用のドレスに着替えた。悠真は身をかがめ、彼女のドレスの裾を持ち上げてやった。

彼はやわらかな声で言った。

「莉央、本当にきれいだ」

その仕草を、私は知っている。

私たちがウェディングフォトを撮ったとき、カメラマンに同じことを頼まれて、彼は「わざとらしい」と言って拒んだ。

私は婚約指輪を外した。

今度こそ、もう、物分かりのいい女でいるのはやめる。

……

「あら、このお嬢さんはどなた?とてもきれいね」

悠真の叔母は隣のテーブルから近づいてくると、莉央の手を取り、感心したように全身を眺めた。

莉央はうつむき、唇の端をかすかに上げた。

彼女が口を開くより早く、悠真が横から答えた。

「俺の後輩です。家庭の事情が少し大変で、さっきドレスを汚してしまって。杏奈が気の毒に思って、自分からドレスを貸してあげたんです」

叔母は頷き、私をちらりと見た。

「それで杏奈ちゃんは今日、そんな格好なの?婚約披露パーティーなのに、ずいぶん地味じゃない」

「彼女はそういうことを気にしないんです」

悠真が私の代わりに答え、何気ない動作で私の肩を抱こうとした。

彼の手が肩に触れる寸前、私はそっと身を引いた。

彼の手は空を切った。

「どうした?」

私は目を伏せた。

「何でもない」

瑶子が後ろから私の腕をつかみ、そのまま廊下の角まで引っ張っていった。

「本当にこのままでいいの?」

「じゃあ、どうしろっていうの」

「みんなの前に出て言いなさいよ。あのドレスはあなたのものだって。あの子は彼の婚約者じゃない、あなたが婚約者なんだって!」

私は、赤くなった彼女の目を見つめた。

「瑶子、私より焦ってるね」

「焦るに決まってるでしょ」

瑶子の声は少しかすれていた。

「さっき、あの席の人たちが何て言ってたか知ってる?」

彼女はスマホを取り出し、一本の動画を再生した。

悠真の大学時代の友人が撮ったものだった。

画面の中で、莉央は私のドレスを着て、悠真の右隣に立っている。彼の手は彼女の腰の後ろに添えられていた。

誰かが冷やかした。

「奥さん、すごくきれいですね」

莉央はうつむき、頬を赤らめた。

彼女は否定しなかった。

悠真も否定せず、ただ笑って軽く手を振っただけだった。

動画の下にはコメントがついていた。

【悠真の婚約者、清楚でかわいい】

三十件以上のいいねがつき、誰一人として訂正していなかった。

私は胸の奥にこみ上げる苦さを押し込み、動画を閉じて、スマホを瑶子に返した。

宴会場から、また新たな笑い声が湧き上がった。

莉央は誰かに促されて挨拶回りをしていた。落ち着いた様子で受け答えし、グラスを持って軽く身をかがめる。

その仕草も、私が教えたものだった。

先月、彼女は初めてきちんとした場に出るのが不安だと言い、グラスの持ち方を尋ねてきた。私は彼女に付き合って、午後いっぱい練習した。

「タクシーを呼んでくれる?瑶子」

「戻らないの?」

「もう、戻る理由がないから」

私は受付に戻り、芳名帳のそばに指輪を置いた。

テーブルの上にはうっすら埃が積もっていて、指輪を置いた瞬間、かすかな音がした。

スマホの画面が明るくなった。

悠真の投稿だった。

【今夜はお越しいただき、ありがとうございました】

写真が三枚添えられていた。

一枚は宴会場全体。

一枚は、彼が友人たちとグラスを掲げている写真。

そして最後の一枚は――

莉央が私のドレスを着て、目元をやわらげて笑っている写真だった。

彼は莉央をタグ付けしていた。

添えられていたのは、「莉央、ゲスト対応を手伝ってくれてありがとう。お疲れさま」という一文だった。

その投稿のどこにも、私はいなかった。

名前すらなかった。

私は画面を消した。

道路の向こう側まで歩いても、宴会場の明かりはまだ煌々と灯っていた。

ずいぶん離れたはずなのに、音楽と笑い声がかすかに聞こえる。

車に乗る前、私は一度だけ振り返った。

悠真はホテルの正面玄関の階段に立ち、うつむいてスマホを見ていた。

莉央が彼の後ろから歩み寄り、そっと上着を肩に掛けた。

彼は手を上げて襟元を整えた。

その動きは、あまりにも自然だった。

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第1話
南條悠真(なんじょう ゆうま)が、あの生活の苦しい後輩を婚約披露パーティーの控室に連れてきたとき、私――夏目杏奈(なつめ あんな)は、ちょうど口紅を直していた。「莉央がうっかりドレスを汚してしまったんだ。少しだけ、君のドレスを貸してやってくれないか」私は数秒、言葉を失った。すると悠真は、当たり前のように続けた。「今日の主役が杏奈だってことは、みんな分かってる。何を着ていたって変わらないだろ」ドアのそばには、一人の女の子が立っていた。洗い古して白っぽくなったスニーカーを履き、小さな声で「こんにちは、杏奈さん」と言った。親友の藤崎瑶子(ふじさき ようこ)が、私の前に立ちはだかった。「これは杏奈の婚約披露パーティーなのよ。このドレスだって、三十軒もお店を回ってやっと決めたものなのに!」悠真が私を一瞥した。五年。彼にこういう目で見られるたび、私はいつも折れてきた。私は瑶子をそっと押しとどめ、ゆっくりと口紅のキャップを閉めた。「着せてあげて」悠真は満足そうに私の頭を撫でた。「やっぱり杏奈は分かってくれるな。結婚式の日には、最高のウェディングドレスを買ってあげる」久保莉央(くぼ りお)は、私の婚約披露パーティー用のドレスに着替えた。悠真は身をかがめ、彼女のドレスの裾を持ち上げてやった。彼はやわらかな声で言った。「莉央、本当にきれいだ」その仕草を、私は知っている。私たちがウェディングフォトを撮ったとき、カメラマンに同じことを頼まれて、彼は「わざとらしい」と言って拒んだ。私は婚約指輪を外した。今度こそ、もう、物分かりのいい女でいるのはやめる。……「あら、このお嬢さんはどなた?とてもきれいね」悠真の叔母は隣のテーブルから近づいてくると、莉央の手を取り、感心したように全身を眺めた。莉央はうつむき、唇の端をかすかに上げた。彼女が口を開くより早く、悠真が横から答えた。「俺の後輩です。家庭の事情が少し大変で、さっきドレスを汚してしまって。杏奈が気の毒に思って、自分からドレスを貸してあげたんです」叔母は頷き、私をちらりと見た。「それで杏奈ちゃんは今日、そんな格好なの?婚約披露パーティーなのに、ずいぶん地味じゃない」「彼女はそういうことを気にしないんです」悠真が私の代わりに答え
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第2話
「杏奈、受付に指輪を置きっぱなしにしてたぞ」午前二時、悠真から電話がかかってきた。声はいつもどおり、落ち着いていた。「知ってる」「じゃあ、俺が預かっておく。明日、君の指にはめてやるよ」彼はそこで少し間を置き、声をやわらげた。「今日は嫌な思いをさせたな。莉央のドレスは、本当にただの事故だったんだ。君が貸してやったことは、みんなちゃんと見てたよ」「悠真、別れましょう」電話の向こうが、一瞬、静まり返った。それから彼は、ふっと笑った。「杏奈、今日つらかったのは分かってる。でも、別れるなんて、そこまでのことか?」「本気よ」「君は機嫌が悪くなるたびに、すぐ別れるって言うだろ」彼は声を落とした。いつもの、辛抱強くなだめるような口調だった。「分かった。気が済んだら電話して。迎えに行くから」「悠真……」「杏ちゃん、言うことを聞いて。明日、あの和食の店に連れていってやるよ。この前、行きたいって言ってただろ」私はそれ以上、何も言わなかった。数秒の沈黙のあと、彼の声が低くなった。「杏奈、五年だぞ。君が本気で俺から離れられると思ってるのか?」その言葉は、とても軽かった。けれど私は、何も返せなかった。彼は本当に、私がいなくなるなんて思ってもいないのだ。私は電話を切った。瑶子がキッチンから水の入ったコップを持ってきて、私の向かいに座った。「何て言ってたの?」「迎えに来るって」「行くの?」「行かない」彼女は何か言いかけたけれど、私の表情を見て、そのまま飲み込んだ。私はスマホの画面を見つめた。通話履歴の一番上には、彼の名前があった。五年前に登録したままの「悠真」その後ろには、小さな太陽の絵文字がついている。あの頃、私たちは付き合い始めたばかりだった。彼は大学の正門の前で私を待っていた。手には焼き芋を一つ持っていた。十一月の風は冷たく、吐いた白い息は何度も風にさらわれた。彼は言った。「君の友だちに聞いたんだ。毎日わざわざ遠回りして、駅前の焼き芋屋の匂いを嗅ぎに行ってるって」私は「高すぎるのよ、一つ五百円もするし」と言った。彼は笑って、それを私の手に握らせた。「これからは、食べたいものがあったら何でも俺に言って。五百円のものでも、五万円のもの
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第3話
「瑶子、入れてくれ」翌日の夕方、悠真は瑶子の家の玄関先に立っていた。手には白い紙袋を提げている。瑶子がドアの前に立ちはだかった。「杏奈は会いたくないって言ってる」「怒ってるのは分かってる」彼は軽く笑った。「少しだけ話させてくれ。話したらすぐ帰る」「何を話すの?SNSの投稿に杏奈の名前ひとつ出さなかった言い訳?」悠真の笑みが、一瞬だけ止まった。「瑶子。これは俺と杏ちゃんの問題だ」「もう杏ちゃんなんて呼ばないで。なれなれしすぎ」私は玄関まで歩いていき、瑶子の腕をそっと下ろさせた。「瑶子、入れてあげて。ちゃんと面と向かって話すから」瑶子は脇へ退いた。けれど冷たい目で、悠真を上から下まで見据えていた。彼は靴を脱いで上がると、その紙袋をテーブルの上に置いた。中身はケーキだった。「君の好きなマロンケーキ。昨日、渡せなかったから」私は箱を開けなかった。彼は向かい側に腰を下ろした。「杏ちゃん、俺にどうしてほしいんだ?」「言ったでしょう。別れたいの」彼は眉をひそめた。「ドレス一着のことで、別れるっていうのか?」「ドレスだけの話じゃない」「じゃあ、何なんだ?」彼は両手を組んでテーブルの上に置いた。昔、私が機嫌を損ねるたびに見せていたのと、まったく同じ姿勢だった。付き合ってやっている。辛抱強く、私が言い終えるのを待ってやっている。そんな態度だった。「去年のあなたの誕生日、私は二か月も前からレストランを予約していた。なのに出かける直前、莉央からお腹の具合が悪いって電話が来て、あなたは先に車で彼女のところへ行った」「莉央は一人だったんだ。万が一のことがあったらどうする?」「行ってみたら、ただ食べすぎただけだった。それでもあなたは、そのまま彼女と一晩中テレビを見ていた。私は一人で、店が閉まるまでレストランで待っていたのに」彼は一瞬、言葉に詰まった。「あのときは謝っただろ?ネックレスも買った」「莉央にも同じものを買ったでしょう」「莉央はあのとき、ちょうど落ち込んでいて……」「莉央って、いつもそうじゃない」私の声は低かった。けれど、不思議なくらい揺れなかった。「落ち込んでいない莉央を、私は見たことがないわ」悠真は黙った。「先月の出張のと
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第4話
鏡に映るウェディングドレスは、私によく似合っていた。母が後ろからベールを整えてくれる。嬉しそうに笑うその目尻には、いつもより深いしわが寄っていた。「悠真くんはいつ来るの?もう半年以上会ってないわね」私はスマホの画面に目を落とした。十分前、悠真から返信が来ていた。【莉央が卒論発表用のデータをなくしたらしくて、研究室で泣いてる。ちょっと行ってくる】【ドレスは先に試着しておいて。おばさんにはうまく説明してくれ。いつも俺のことを可愛がってくれてるし、きっと分かってくれる。夜はおばさんの好きなレストランを予約して、お詫びするから】母は先月、心臓のカテーテル手術を受けたばかりだった。私と悠真のことは、まだ話していない。私は画面を消し、母のほうへ振り返った。「お母さん、彼、会社で急に会議が入って、来られなくなったって」母は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑って私の手を軽く叩いた。「仕事なら仕方ないわ。男の人は仕事熱心なくらいでちょうどいいのよ。あなたがきれいに着られていれば、それで十分。ほら、お母さんがたくさん写真を撮ってあげる」カシャ。写真の中の私は、真っ白なウェディングドレスをまとって笑っていた。けれど、その目には少しの光もなかった。母を故郷へ帰る新幹線に乗せたあと、私は瑶子の家へ向かった。ソファに座り、結婚式のプロデュース会社に電話をかけた。「すみません。以前予約した清湖の教会ですが、キャンセルをお願いします」電話の向こうで、相手が一瞬言葉を詰まらせた。「夏目様、あちらの会場は八か月待ちでして、内金の240万円は返金できません。それでもよろしいでしょうか」「はい」「夏目様はこれまで十数回もお越しになって、そのたびにとても丁寧に確認されていましたよね。担当デザイナーも、本当に心を込めて準備されている方だと話していて……」「キャンセルしてください。お願いします」私は電話を切った。瑶子はソファの反対側に座っていた。「本当に決めたの?」「うん」その教会は郊外にあった。市内から四十キロほど離れていて、直通の電車はない。バスを二回乗り継ぎ、さらに二十分歩かなければならない。それでも私がそこを選んだのは、隣に湖があったからだった。五年前、悠真が初めて私を連れて出かけてく
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第5話
瑶子の家を出る日は、小雨が降っていた。彼女は玄関先で腕を組み、私が荷物を車に積み込むのを見ていた。「本当に、もう振り返らないの?」「振り返らない」「もし彼が会いに来たら?」「来ないよ」「どうして分かるの?」私はトランクを閉め、ロックした。「これから行く場所を、彼は知らないから」彼女は私を見つめたまま、それ以上は何も聞かなかった。新しい部屋へ車を走らせている途中、スマホが何度か震えた。大学時代の同級生グループだった。誰かが私をメンションしている。【杏奈、悠真と何かあったの?】【けんかでもした?悠真が別れたって言ってたけど、本当?】【莉央がグループで卒業祝いのギフトコード配ってたよ。見た?】私は履歴を開いた。莉央は二十件分のギフトコードを送っていて、どのメッセージにも「悠真先輩」という言葉が入っていた。その下では同級生たちが面白がって囃し立て、悠真先輩に守ってもらえて幸せだね、と彼女を持ち上げている。悠真は、グループには一度も顔を出さなかった。それでも莉央のメッセージに何度も出てくる「悠真先輩」という呼び方が、まるで彼の存在を皆に見せつけているようだった。私はグループチャットを抜け、新しいアパートの地下駐車場に車を入れた。そこは古いアパートで、エレベーターはなかった。部屋は六階にある。大家は退職した老夫婦で、契約のとき、こう言った。「お嬢さん、一人暮らし?エレベーター付きのところにしたほうがいいんじゃない?」「大丈夫です。ここがいいんです」本当に、ここはよかった。静かで、家賃も安くて、悠真から遠い。引っ越して最初にしたのは、持ってきた荷物を片づけることだった。本棚には、ゴミ袋から拾い戻したあのレシピ本を置いた。それから紙箱がいくつか。中には彼にもらったバッグやアクセサリー、そしてこの数年で増えていった記念日の贈り物が入っている。私は一つずつ取り出し、床に並べた。バッグのストラップには、彼が選んだ刻印があった。【杏ちゃんへ】ジュエリーボックスの中には、彼が初めてくれたネックレスが入っていた。ペンダントトップは、小さな太陽の形をしている。彼は言った。「杏奈って名前、春みたいだろ。杏の花は、あたたかい光に向かって咲く。だか
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第6話
悠真は、私の新しい住まいの近くに姿を見せるようになった。来る時間は、決まっていた。朝七時半になると、アパートの入口にある喫茶店のそばに車を停める。夜六時になると、向かいのコンビニに現れる。しばらく車の中にいることもあれば、外に出て風に当たっていることもあった。けれど視線はいつも、私の住む建物へ向けられていた。三日目、彼はとうとう階下で私を呼び止めた。「杏奈」仕事帰りの私は、コンビニで買ったおにぎりを手に提げていた。彼がこちらへ歩いてくる。目の下には、うっすらとくまができていた。「話がしたい」「話すことなんてない」「ある」彼は私の前に立ちはだかった。「君、あの品物をフリマに出したのか?」「うん」「どうして」「もう要らないから」「要らない?」彼の声が少し高くなった。「あれは俺が贈ったものだぞ。要らなくなったからって、売るのか?」「じゃあ、どうすればよかった?捨てるよりは無駄にならないでしょう」彼は深く息を吸った。「杏奈、俺にどうしてほしいんだ」私は彼を避けて歩き出した。「帰って。もう来ないで」「帰らない」彼は後を追ってきた。「ちゃんと話してくれるまで、俺は毎日来る」「何を話すの?」「俺たちがどうしてこうなったのかだよ」彼は手を伸ばし、私の腕をつかんだ。「この五年、俺たちはうまくやってきただろ?」私は足を止め、彼を見た。「どこがうまくいっていたの?」彼は口を開きかけた。「私の誕生日には別の人に付き添って、記念日は覚えていない。私の好きなものも知らない。それが、あなたの言う『うまくいっていた』なの?」「そんなのは些細なことだろ……」「些細なこと?」私は彼の手を振り払った。「そうね。あなたにとっては、全部些細なことよ。莉央のことだけが大事なんでしょう」「莉央が大事だなんて言ってない」「言わなくていい」私は建物の中へ入った。「あなたの行動が、もう全部語ってるから」彼も後から入ってきて、階段の踊り場で私に追いついた。「杏奈、最後にもう一度だけチャンスをくれ。何でも直す。莉央とはきっぱり縁を切る。君の好きなものだって、全部覚えるから……」「悠真」私は三段目の階段に立ち、振り返った。その
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第7話
悠真は七日間、通い続けた。私が家を出る前には、何が食べたいかとメッセージを送ってくる。夜になると階下で待ち、私の部屋の明かりが消えるまでそこにいた。八日目、彼は来なかった。ようやく諦めたのだと思い、私は少しだけ息をついた。けれど夜十時、スマホが鳴った。知らない番号だった。「夏目杏奈様でいらっしゃいますか?」「はい」「こちら市立病院です。南條悠真様がおけがをされまして、現在、救急外来にいらっしゃいます。携帯電話に登録されている緊急連絡先が、夏目様だけでしたので……」私は通話を終えると、着替えて家を出た。病院に着いたとき、悠真はちょうど縫合を終えたところだった。左腕には厚く包帯が巻かれている。私を見るなり、彼の目が少し明るくなった。「来てくれたんだ」「どうしたの?」「知り合いの荷物を運ぶのを手伝っていたら、棚が倒れてきて、ちょっと当たった」彼は笑ってみせた。「医者には、骨には異常ないって言われた。何日か安静にしていれば治る」「誰の荷物を運んでいたの?」彼は答えなかった。看護師が処置に入ってきた。私を見ると、何気なく言った。「彼女さんですか?彼氏さん、本当にまめですね。けがをしているのに、ずっと携帯を握っていたんですよ。あなたから電話が来たときに出られなかったら困るからって」私は悠真を見た。彼は目をそらした。看護師が出ていったあと、私は尋ねた。「莉央の荷物を運ぶのを手伝っていたんでしょう?」彼は黙った。「彼女が卒業して引っ越すから、荷物が多くて、手伝いに行った」彼は低い声で言った。「こんなことになるとは思わなかった」「悠真、莉央のことが好きなの?」私がそう尋ねると、彼ははっと顔を上げた。「何を言ってるんだ?」「莉央のことが好きなの?」私はもう一度、同じことを聞いた。彼は私を見つめ、唇をわずかに動かした。「俺は……」「よく考えてから答えて」彼はうつむき、包帯を巻かれた自分の腕を見た。長いあいだ、何も言わなかった。病室の中は静かで、モニターの規則的な電子音だけが響いていた。「分からない」彼はようやく口を開いた。「ただ、莉央には俺が必要なんだって分かる。君は……君はまるで、何も必要としていないみたいだった」「
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第8話
悠真が入院していた週、莉央が一度見舞いに来たらしい。それは後になって、瑶子から聞いた。瑶子が送ってきたのは、莉央のSNS投稿のスクリーンショットだった。写真の中で、悠真は病院のベッドにもたれ、左腕に包帯を巻いたまま、うつむいてスマホを見ている。添えられていた文章は、こうだった。【悠真先輩が私を手伝ってけがをしてしまいました。本当に申し訳ないです。でも先輩は、気にしなくていい、力になれてうれしいって言ってくれました】コメント欄は、彼女を慰める言葉で埋まっていた。【悠真先輩は優しい、気にしなくていい、こんなにいい先輩がいて幸せだね】みんな、そんなことばかり言っていた。瑶子から音声メッセージが届いた。「杏奈、怒ってない?」「何に怒るの?」私はスマホをテーブルに置いた。「莉央が言っていることは事実だもの。悠真が彼女に優しいのは、本当でしょう」「じゃあ、あなたは?あなたたちの五年間は何だったの?」私は答えなかった。何だったのだろう。私の独りよがりだったのだ。我慢すれば大切にしてもらえると思っていた。物分かりよくしていれば、いたわってもらえると思っていた。けれど彼の優しさは、もうとっくに別の人へ向けられていた。午後、悠真からメッセージが届いた。【杏奈、退院した。莉央のことは、彼女ときちんと話した。いつなら時間がある?一度会って話したい】その数行を見て、私は急にひどく疲れた。体ではなく、心の奥からくる疲れだった。何をしても、もうどうにもならないと思えてしまうような疲れ。私は返事をせず、スマホをマナーモードにしてテーブルの上に放った。二時間後、悠真から電話がかかってきた。私は電話を切った。それでもまたかかってきた。三度続いたあと、私はようやく電話に出た。「杏奈、俺はいま新幹線の駅にいる。俺に会ってくれないなら、君の実家まで行く。おばさんに直接謝る。俺は……」私は勢いよく立ち上がった。「悠真、あなた本気で言ってるの?母、先月心臓のカテーテル手術を受けたばかりなのよ。少しの刺激だってよくないのに、母の前で何を話すつもり?」電話の向こうが、水を打ったように静まり返った。七、八秒ほど経ってから、彼はようやく口を開いた。呆然とした声で、言葉も少しつかえて
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第9話
悠真の連絡先を削除した翌日、彼の母から電話がかかってきた。「杏ちゃん、悠真、最近どうしたの?毎日ぼんやりしていて、聞いても何も言わないのよ」「おばさん、私たち、別れました」電話の向こうで、長い沈黙が落ちた。「莉央って子のせいなの?」「それだけではありません」「あの子には会ったことがあるわ。見た感じはおとなしくて、いい子そうだったけれど」悠真の母はため息をついた。「でも悠真は私に言っていたのよ。あなたは自分にとって、とても大切な人だって。あの子があなたを……」「おばさん」私は彼女の言葉を遮った。「誰が大切かどうか、そういう問題じゃないんです」「じゃあ、何の問題なの?」「習慣の問題です」彼女はそれ以上、何も聞かなかった。その夜、宅配便が届いた。中にはマフラーが入っていた。アイボリーの、少し編み目の歪んだマフラーだった。メモが一枚添えられている。悠真の字だった。去年の冬、私が手編みのマフラーが欲しいと言っていたから、見よう見まねで編んでみた。下手だけど、嫌がらないでほしい。そう書かれていた。私はそのマフラーを見つめながら、去年の冬を思い出した。確かに、私は手編みのマフラーが欲しいと言った。同僚が彼氏に編んでもらったマフラーを巻いていて、素敵だねと何気なく褒めただけだった。そのとき悠真はスマホを見ていて、顔も上げずに言った。「買えばいいだろ。手編みなんて、そんなに暖かくないし」今になって、彼は編んだ。出来はよくなかった。糸端もきちんと始末されていない。私はメモごとマフラーを宅配箱に戻した。そしてそのまま玄関の外へ持っていき、ゴミ置き場のそばに置いた。翌日の午後、私はゴミを捨てに階下へ下りた。エントランスを出たところで、悠真が立っているのが見えた。少し痩せていた。左腕はまだ固定されたままで、目の下のくまも濃い。まるで一晩中眠っていなかったようだった。私を見ると、彼は背筋を伸ばした。「杏奈」私は足を止め、彼を見た。「昨日、下で夜中まで待ってた」彼の声はかすれていて、その目には、おずおずとこちらの様子をうかがうような色があった。「そんなことをする必要はない」私の声は静かだった。「ある」彼は一歩前に出ると、ポケットから小さな
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第10話
悠真は、それきり私を訪ねてこなくなった。一か月後、瑶子から電話がかかってきた。悠真が会社を辞めたという。「会社には長期休暇を申請したみたい。しばらく休みたいって。知ってた?」「知らない」「悠真のお母さんが私のところに来たの。二人に何があったのかって聞かれたけど、あまり詳しくは言わなかった。ただ、杏奈は疲れていて、一人でいたがってるって伝えた」「うん」「杏奈、本当にもう吹っ切れたの?」私は窓の外を見た。新しいアパートの金木犀が咲いていて、甘い香りが風に乗って部屋まで流れ込んでくる。「もちろん」「じゃあ、これからどうするつもり?」「まずは仕事を落ち着かせる。ほかのことは、それから考える」「もう恋愛するつもりはないの?」「そのとき次第かな」瑶子はしばらく黙っていた。「知ってる?莉央も先週、私のところに来たの」「何しに?」「あなたがどこにいるのか聞かれたの。謝りたいんだって。こんなことになるなんて思わなかった、自分はただ悠真先輩をお兄さんみたいに慕っていただけで、誰かの恋人を奪うつもりなんてなかったって」瑶子は小さく鼻で笑った。「だから言ってやったの。杏奈は、あなたの謝罪なんて求めてないって。奪ったかどうかを決めるのは、あなたじゃない。悠真が何をしたかでしょう、って」瑶子はそこで少し言葉を切った。「そしたら泣き出してね。自分が悠真から離れる、あなたたちのために身を引くって言ったの」「もう必要ないよ」私は言った。「私たちは、もう終わってるから」「分かってる。でも私、彼女にこう言ったの。杏奈は誰かに譲ってもらう必要なんてない。自分の足で、ちゃんと遠くへ行ける人だって」私は笑った。「瑶子、ありがとう」「何言ってるの。親友でしょ」電話を切ったあと、私は本棚の前に立った。あのレシピ本は、まだ目につく場所に置いてある。私はそれを手に取り、最後のページを開いた。あの一節は、まだそこに残っていた。【あなたと一緒に、時間を無駄にしたい】私はペンを取り、その下に一行書き足した。【これからは、私のために時間を使いたい】本を閉じ、私はそれを本棚の下段に戻した。古いものたちと一緒に。パソコンを開き、仕事に取りかかった。窓の外では、空が少しずつ暗く
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