カップの縁に唇を寄せたとき、少し冷めかけたコーヒーの温度が、逆に安心感を与えてくる。朝の光はまだ部屋に満ちきっておらず、カーテン越しに漏れる柔らかい光が、ダイニングテーブルの上に斜めの影を描いていた。そこには、並べられたふたつのマグと、開かれたノートパソコン。立ち上がっているのは、高田が最近ようやく実装し終えた、自作のToDoアプリだった。
画面の背景は無機質なグレー、けれど中央に浮かぶタスク群のフォントは、大和の提案で少しだけ角の丸い、読みやすい書体に変えてある。高田はそれが最初こそ気に入らなかったが、今ではその“妥協点”すら愛着の一部に感じられていた。
「奏多くん」
呼びかける声は、コーヒーの湯気の向こうから小さく届いた。高田の視線は画面に留まったままだったが、その口元は静かに動いた。「僕、この間、自分の人生のエラーログ探してたらね…あんまり、なかった」
言い終えたあと、自分でも少し驚いたように目を細めた。まるで初めて知る事実を口にしたかのように。その言葉は、まるで誰かに向けたというより、自分の中の確認だった。「ほんなら、ログ書き換えんでええな。上書き保存でいこ」
そう返した大和の声は、静かで穏やかだった。冗談めかした調子ではなく、真っ直ぐで、無理のない言葉の重みがあった。向き合うことよりも、並んでいることに意味がある。そう教えてくれるような響きだった。
高田はふと、手元のマグを持ち上げる大和の手を見た。節の太い指が、持ち慣れたような自然な動きで取っ手を支えていた。自分の手とは違う、でも今は隣にある手。気づけば、そのままそっと、自分の指先を大和の手の甲に重ねていた。
ぬるいコーヒーの湯気が、ふたりの手のあいだにたゆたっている。画面のタスク一覧に、いくつかの文字が並んでいた。
「洗濯洗剤の補充」
「週末の食材買い出し」 そして「月末、花火大会」どれも、“恋人”という言葉が直接関わる内容ではない。ただの日常の用事、タスク、やるべきことのリスト。だが、そのすべてが、“ふたりで過ごす”前提で入力されているというだけで、意味はまったく違ってくる。
高田は無意識のうちに、カーソルを動か
寝る前の静かな時間、部屋の明かりはすでに落とされていて、スタンドライトの柔らかな灯りだけが、高田の手元を照らしていた。布団の端に浅く腰を掛けたまま、彼は手帳を開いていた。ページはすでに何枚も埋まり、記録というより、軌跡のような文字列が重なっている。手帳の端には折り目がつき、指の腹で触れるたびに、過去の時間が微かに浮かび上がるようだった。インクのにじみがかすかに視界に広がる。その下に、まだ何も書かれていない余白が広がっている。高田はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。思考が整理されるのを待っているのではない。ただ、言葉を選ぶ時間が必要だった。その夜、彼が手帳に記したのは、たったひとつの文だった。「愛してる、という言葉に数式はつけない。これだけは、未定義のままでいい」文字は慎重に、しかし迷いなく綴られていった。筆圧は控えめだったが、その分だけ輪郭ははっきりしていた。明確な定義を持たせることが彼の生き方だった。曖昧さを許さず、すべてを論理の枠に収めようとした過去の自分なら、この一文を笑っただろう。あまりにも感情的で、根拠のない、エラーを孕んだ表現。けれど今は、それこそが唯一無二の「真理」だと、思えた。高田はペンを置いたあと、手帳のページに視線を落としたまま、ふっと息をついた。視界の端には、布団の中で眠る大和の姿がある。背中を向けたままだが、その寝息が部屋の空気を一定のリズムで満たしていた。耳を澄ませば、まるで“存在そのもの”が音になって空間に溶け込んでいるようだった。彼の隣にいるということが、ただの偶然ではなく、積み重ねた選択の結果であることを、高田は知っている。それは統計的な因果ではなく、感情による意思だった。論理で解釈できないからこそ、重い。数字で説明できないからこそ、真実に近い。手帳の文字をもう一度だけ見つめてから、高田は静かにそれを閉じた。ページを閉じる音が、小さく室内に響いた。指先に、紙の感触がまだ残っている。それは、過去を記録した記憶の皮膚のようであり、未来への準備でもあった。消しゴムを手に取って、少しだけ悩んだあと、今夜は使わずに戻す。その一文は、訂正の対象ではなかった。書いたままでいいと思えたのは、おそらく初めてのことだ
カップの縁に唇を寄せたとき、少し冷めかけたコーヒーの温度が、逆に安心感を与えてくる。朝の光はまだ部屋に満ちきっておらず、カーテン越しに漏れる柔らかい光が、ダイニングテーブルの上に斜めの影を描いていた。そこには、並べられたふたつのマグと、開かれたノートパソコン。立ち上がっているのは、高田が最近ようやく実装し終えた、自作のToDoアプリだった。画面の背景は無機質なグレー、けれど中央に浮かぶタスク群のフォントは、大和の提案で少しだけ角の丸い、読みやすい書体に変えてある。高田はそれが最初こそ気に入らなかったが、今ではその“妥協点”すら愛着の一部に感じられていた。「奏多くん」 呼びかける声は、コーヒーの湯気の向こうから小さく届いた。高田の視線は画面に留まったままだったが、その口元は静かに動いた。「僕、この間、自分の人生のエラーログ探してたらね…あんまり、なかった」 言い終えたあと、自分でも少し驚いたように目を細めた。まるで初めて知る事実を口にしたかのように。その言葉は、まるで誰かに向けたというより、自分の中の確認だった。「ほんなら、ログ書き換えんでええな。上書き保存でいこ」そう返した大和の声は、静かで穏やかだった。冗談めかした調子ではなく、真っ直ぐで、無理のない言葉の重みがあった。向き合うことよりも、並んでいることに意味がある。そう教えてくれるような響きだった。高田はふと、手元のマグを持ち上げる大和の手を見た。節の太い指が、持ち慣れたような自然な動きで取っ手を支えていた。自分の手とは違う、でも今は隣にある手。気づけば、そのままそっと、自分の指先を大和の手の甲に重ねていた。ぬるいコーヒーの湯気が、ふたりの手のあいだにたゆたっている。画面のタスク一覧に、いくつかの文字が並んでいた。「洗濯洗剤の補充」 「週末の食材買い出し」 そして「月末、花火大会」どれも、“恋人”という言葉が直接関わる内容ではない。ただの日常の用事、タスク、やるべきことのリスト。だが、そのすべてが、“ふたりで過ごす”前提で入力されているというだけで、意味はまったく違ってくる。高田は無意識のうちに、カーソルを動か
湯が沸騰する前の、くぐもった音が耳に優しく触れていた。キッチンに立つ高田の指先は、無駄のない動きで豆を量り、ドリッパーにゆっくりとセットしていく。キッチンタイマーの無音のカウントが、彼の中にあるリズムと重なる。動作はルーチンでありながら、どこか丁寧だった。ひとつひとつの手順に迷いがなく、けれど感情のないそれとは違っていた。Tシャツの背中に、じわりと汗が滲んでいる。梅雨の名残が湿気として空気に残り、朝の涼しさと混ざり合って、肌にまとわりつく。だがその不快さよりも先に、ふいに背後から回された腕のぬくもりが、高田の呼吸を一瞬だけ止めた。「それ、仕事前にやるのやめて」声は抑揚がなく、まるで独り言のようだった。けれど、その言葉にはほんのわずかに、困ったような、諦めたような、けれど拒絶ではない色が滲んでいた。体を逃がすこともなく、むしろ高田は、どこか力を抜くように身を委ねた。「効率落ちんように、朝の愛情タイムや」耳元でささやかれた声は、低くてあたたかくて、朝の空気の中で特別に感じられた。関西弁のやわらかいイントネーションが、背骨に沿って、じわじわと伝わってくるようだった。くすぐったい、というより、しみる。静かに、確実に。高田の睫毛がわずかに震えた。視線はドリッパーの上、湯気のたつ注ぎ口に留まったまま。けれど、その意識はもう背後へと傾いていた。日常の一部として大和がいることは、まだ完全に馴染んだ感覚ではなかった。だが、こうして触れられるたびに、その存在が確かに“今の構成要素”になっていることを、高田は静かに受け入れていた。「お湯、もうすぐ落ちる」少しだけ硬い声でそう言ったあと、高田はコーヒーサーバーに向けてお湯を注いだ。香ばしい香りが、ふたりの距離のあいだに立ち上る。しばらくして腕が外され、大和がマグカップを棚から取り出した。「今日、外回り?」高田の問いに、大和はうなずく代わりに「うん」と短く応じた。返事はラフで、ただの日常会話。けれど、それすらも高田にとっては、かつては想像もつかなかったやりとりだった。マグに注がれるコーヒーの湯気が、また立ちのぼる。高田は一杯を手に取り、もう一杯をそっと大和に差し出
ベッドの端に静かに腰を下ろすと、掛け布団がわずかに沈んだ。部屋の灯りはすでに落とされていて、暗がりの中で光っているものは何もなかった。ただ、耳に届くのは隣で眠る大和の、深く安定した寝息だけだった。高田は、しばらくその音に耳を澄ませていた。吸う音と吐く音の間にある、微細な沈黙。それがやけに心地よく感じられた。部屋の空気は、日中の熱を残していながら、どこかやさしく湿っていて、寝具の中にも自然なあたたかさが染み込んでいた。布団を静かにめくり、寝台の中へ体を滑らせる。シーツに触れた肌が少しだけひやりとして、高田は無意識に肩をすくめた。すぐに、隣の体温がその冷たさを溶かしていく。大和の背中はあたたかくて、ひとつの呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。高田は、そっと背中を寄せた。布団越しではなく、肌と肌の温度が直接混ざるように。互いの背骨がわずかに重なり合い、鼓動のリズムがずれることなく溶けていく。そのわずかな接触に、なぜだか安心した。ずっと、ひとりの空間で過ごしてきた。感情が揺れるたびに、それをコードに変換し、手帳に記録して、処理可能なものに変えてきた。それが“自分のやり方”であり、唯一の安全地帯だった。けれど今、背中に感じる体温の前では、その必要がなかった。処理しなくてもいい。定義づけなくても、感情は感情として、そこにあってもいいのだと、ようやく思えるようになっていた。空白とは、失ったものではなく、まだ満たされていない場所。だからこそ、そこに何を置くかは、自分で選べる。誰かと共にいるということは、その空白を“埋めてもらう”ことではなく、一緒に“埋めていく”という行為なのだと、今の自分は思える。かつて、自分の部屋は“避難所”だった。誰の視線も、感情も届かない、無音の世界。だが今は、その空間に、呼吸の音が重なっている。寝返りを打つ音、何かを落とす音、そして、不器用に差し出される言葉たち。不完全で、未定義で、ぎこちなくて、それでも確かに“ふたりの生活”が、この場所で始まっている。高田は、眠っている大和の背に、そっと額を寄せた。すぐ目の前の背中が上下するたび、まるでその鼓動が自分の体に転写されていくようだった。言葉も数式も必要ない、無
夜の空気は静かに満ちていた。高田の部屋は灯りを落とされ、わずかな常夜灯の光が壁をやわらかく照らしている。窓は閉ざされ、夏の湿気も扇風機の弱い風によって穏やかに分散されていた。部屋の一角では、大和が布団にくるまり、規則正しい寝息を立てている。寝顔は無防備で、額の髪がわずかに額に貼りついていた。高田は静かに立ち上がり、音を立てぬように机の前へ移動した。椅子を引く手も丁寧で、背筋をまっすぐに保ったまま、彼は新しい手帳を机に置いた。旧いものは引き出しの奥に仕舞われたままで、手を伸ばすことはしなかった。新しい手帳の表紙はまだ硬く、ページは一枚一枚が光を反射するように白かった。高田はその最初のページを開き、ペンを取り出した。キャップを外すと、静かな夜のなかに小さな「カチリ」という音が響いた。耳に届くのは、それだけだった。一呼吸置いてから、高田はゆっくりとペン先を紙に落とした。// 新生活ログ文字は整っていて、書き慣れたフォーマットであることが行間に滲んでいた。だが、その筆致にはわずかなためらいがあった。言葉の選び方に慎重さが見える。それでも、手は止まらない。同居開始:7月12日ペン先がわずかに震える。日付を記すという、ただの事実の記録にさえ、何か確かな重みが宿っていた。それは高田にとって、単なる出来事の記録ではなく、“始まり”そのものの証明だった。名前:大和 奏多(共有者)文字を綴るごとに、胸の奥にゆっくりと温度が満ちていく。文字列の中に見える「共有者」という単語が、初めて自身の生活に溶け込んだ存在として書かれたことに、静かな感慨がにじんでいた。定義:愛は、継続するプロセスである。その一文を書き終えたとき、高田の指先はペンを握ったまま、紙の上に留まった。意味を考えているわけではなかった。言葉の温度を、感覚として受け止めようとしていた。長い沈黙の中、彼はそのページをしばらく見つめていた。ペン先がまだ紙に触れていた。文字が完全に乾いていないのか、光を反射して淡く光っていた。高田はゆっくりと椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。天井の模様はいつもと変わらず、ただそこにあるだけだっ
洗濯機の回転音が、低く部屋の奥から響いていた。規則正しく、やや水を含んだその音は、まるでこの新しい生活が回り始めたことを静かに告げているようだった。キッチンのテーブルに並んで座るふたりの姿は、一見すれば穏やかな朝の風景だった。だが、その間に漂う空気には、微細な緊張の名残がある。家具の配置は少しずつ整い、棚にはふたり分のカップが並び、洗面所には並ぶ歯ブラシがある。けれど、暮らしというものの“馴染み方”には時間が必要だと、誰より高田が理解し始めていた。テーブルの上には、トーストとゆで卵、薄めに淹れられたコーヒーが乗っている。カップの中の液体がまだゆるく湯気を上げていた。高田は、パンの耳に指先をかけたまま、視線を伏せている。食べきれずに残したその一切れを、ふとした無意識で大和の皿に移しかけた。「……その、俺の皿にパンの耳乗せんとって?」笑うでもなく、責めるでもなく、大和は言った。口調は穏やかだったが、どこかに小さな戸惑いがにじんでいた。高田は一瞬だけ顔を上げ、すぐにまた目線を自分の皿に戻した。「……あ、ごめん」謝る声は小さく、ほとんど息のようだった。だが、その響きにどこか自己否定のような色が混ざっていたことに、大和は気づいた。「いや、あやまらんでええねん。これ、俺が食うてもええし」その言葉に、高田は小さく頷いた。けれどその頷きにも、まだ“安心”という名の動作の自然さはなかった。フォークを持つ指が、少しだけ固まっている。視線を動かすたび、睫毛がわずかに揺れる。背中の筋肉が緊張していることを、自分でもうっすらと意識していた。けれどその緊張は、かつてのように“間違い”として脳内アラートを鳴らすものではなかった。日常がまだ自分の中にインストールされていない。だからこそ、ひとつひとつのやりとりが、確認のように響いてくる。これでいいのか、これがふつうなのかと問う気持ちが、まだどこかにある。けれど同時に、その答えが“今はまだなくてもいい”ということも、理解し始めていた。大和は、目の前で再びパンの耳を手に取り、なにも言わずに口に運んだ。その一連の動作に、何かを咎める色はなかった。咀嚼の合間にち