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第二話「すべて消えた携帯電話」

作者: mezashi
last update publish date: 2026-04-23 19:55:03

その日の夜、理人が帰宅したのは1時を回ってからだった。

私は、小さなケーキを買って、キッチンの椅子に座って待っていた。

暗い部屋で待つ私の姿を見て、理人は驚いた声を上げた。

「まだ起きてたのか。遅くなるから先に寝ろと言っただろう」

「……どうしても今日、お祝いしたかったの」

テーブルの上の小さなケーキを見ると、理人は眉を顰めた。

「それはあてつけか?」

そのささやかな願いも、理人は、予約をすっぽかされた腹いせだと解釈した。

「違うの……だって、今日は大切な日でしょう?」

私の縋るような言葉も、理人には届いていなかった。

「埋め合わせならすると言っただろう。食事なら別の日に改めてしよう。今日はもう休む」

理人は、寝室に消える前に私を一瞥して言った。

「同情を誘おうとするのはよせ。みっともない」

そして、音を立てて扉は閉まった。

希望を断ち切られた私は動けずに、出番のなくなったケーキを見つめた。

もう彼は、私のことなど愛してはいない。

ささやかなお祝いすらも強く拒絶するほどに。

体の不自由な詩織を気にかけるのは、仕方がないと思おうとしていた。

それだけ彼が優しい人なのだと。

しかし違った。彼の優しさは、もう、私のものではない。

詩織ただ一人だけのものなのだ。

何気なく携帯を開くと、詩織のSNSが更新されているのが目に入った。

『私たちが再会できた記念日。サプライズで素敵なケーキを貰っちゃった!』

その写真には、豪華なケーキが写っていた。

たくさんのフルーツが宝石のように盛り付けられ、細かく細工されたチョコレートやクリームが、芸術品のようにあしらわれている。

……こんなケーキ、プレゼントされたことなんてない。

理人は、昔からサプライズが苦手だった。

結婚記念日のケーキも、私がレストランに頼んだものだ。

この写真一枚で、理人が本当に詩織を喜ばせたかったのだと分かる。

胸の奥で張り詰めていた糸が、切れる音がした。

──離婚しよう。

力を込めていた両腕を、だらりと下に垂らした。

──翌朝。

いつも通り、丁寧に朝食を用意して、コーヒー用のお湯を沸かした。

コーヒーは、AAグレードのキリマンジャロの深煎りを中挽きにする。

これ以外のコーヒーだと不機嫌になるからだ。

理人が起きてきて、食卓を見て言った。

「朝食はいらない」

私は、コーヒーを淹れる手を止めた。

「……どうしたの?」

「今朝は少し、腹の調子が悪い。食べずに行く」

「……そう。コーヒーは?」

「いい」

そう言うと、理人は鞄を手に取った。

「もう行くの? いつもより……」

「仕事だ」

いつもより早いと言い切るより早く、鋭い一言だけが返ってきた。

きっと仕事が理由ではないと、直感で分かった。

「……理人」

私は、昨日決意したことを伝えることにした。

「なんだ?」

理人はこちらも見ずに、携帯を気にしている。

「離婚しましょう」

私の言葉に、理人は手を止め、顔を上げた。

その表情は、いかにもうんざりしたような顔だった。

「……昨日のことを怒ってるのか?」

「昨日のことだけじゃない。理人、最近ずっと、」

「埋め合わせはすると言ったのが、まだ分からないのか? 拗ねるのは勝手だが、いちいち相手してやれるほど暇じゃない。子供っぽい冗談はやめてくれ」

理人は、私がただ、昨日のことを怒っているだけだと思っているらしい。

私は強い口調で言った。

「……冗談じゃない。本気よ」

「本気だと?」

理人は鼻で笑った。

「俺の元から離れて、仕事もしていないのに、どうやって一人でやっていくって言うんだ?」

「それは……」

仕事を辞めて家庭に入ったのは、理人の希望だった。

デザイナーの学校を卒業して、大手の服飾会社に就職も決まっていた。

しかし、理人の「生活の面倒は全て見る、家にいて俺のことを支えてくれ」という言葉で、私はその就職を諦めた。

「できもしないことを言うもんじゃない。適当な言葉は自分に返ってくる」

そう言うと、理人は玄関に向かった。

私はその背中を追いかけて、もう一度言った。

「離婚して」

理人は靴を履きながら言った。

「いい加減にしろ。離婚はしない」

そう言い残して、家を出てしまった。

有浦に嫁入りする者として、我慢強く夫を支えるものだと、何度も言われてきた。

そうすれば理人に愛してもらえると信じて、従った。

それでも、理人から愛情が返ってくる内は、何の不満もなかった。

──詩織が、現れるまでは。

しばらく、玄関に立ち尽くしていたが、諦めてキッチンに戻った。

手をつけられていない食事を片付けるのは、心が痛んだ。

しばらくすると、携帯が短く振動した。

理人からのメッセージだ。

『今夜、家で結婚記念日を祝おう』

『食事の支度を頼む』

簡素なメッセージだった。

私が離婚すると言ったことを、少しは重く受け止めたのだろうか。

『何を用意したらいい?』

私の質問には、『任せる』とだけ返ってきた。

心の奥に、小さい棘が刺さったような違和感を覚えたが、忙しい合間を縫って連絡してきてくれたと自分に言い聞かせ、買い物に出かけた。

いつも食材を買いに行く店へ向かう途中、カフェのテラス席に見慣れた顔が見えた。

──理人。

そして、その隣には詩織がいた。

二人は、彩り豊かなサンドイッチとコーヒーで、モーニングを楽しんでいた。

理人は、コーヒーに拘りがある。

お気に入りのコーヒー以外飲みたくないと言って、外食ではいつも頑なにコーヒーを拒んでいた。

だから、毎朝丁寧にコーヒーを淹れていたのに。

今の理人は、詩織と楽しそうに会話をしながら、普通のブレンドコーヒーに口をつけている。

……今の理人にとって、コーヒーの味なんて関係ないのね。

ぐっ、と手に力を入れて、涙を飲み込んだ。

仕事も、お腹の調子が悪いのも、嘘だった。

私の頭は、だんだん冷静になっていった。

証拠を残せば、離婚の時、有利になるかもしれない。

私は二人に携帯を向けた。

楽しそうな二人の姿を自分の携帯に残すのは、殊の外辛かった。

しかし、これからの自分のためだと思って……一枚写真を撮り、その場を後にした。

夕食の支度には身が入らなかった。

しかし、食事を用意し慣れた体は、勝手に動いた。

気づけば、食卓には、家でのお祝いには充分に相応しい食事が並んでいた。

理人は、時間通りに帰ってきた。

この所、私との約束を守ったことなんてなかったのに……。

もしかして、少しは考え直してくれたんだろうか。

離婚しようという決意が、ほんの少しだけ揺らいだ。

しかし、それも一瞬だった。

「木香、話がある」

理人の目は鋭く、まるで怒っているようだった。

「……どうしたの?」

「携帯を見せろ」

心臓が高鳴った。

「どうして?」

「口答えをする気か?」

「いいえ……でも理由が知りたいの」

今朝撮った写真のことを思い出した。

私は携帯をぎゅっと握った。

理人の浮気の証拠でもある。

消されたくない。

「理由だと?」

理人が、私の腕を強く捻り上げた。

「痛い……!」

「俺に隠し事をする気か?」

理人の腕の力は強く、みしみしと骨が軋んだ。

「痛い、離して……折れちゃう……」

理人が手を離すのと同時に、私は携帯を取り落とした。

腕がズキズキと痛む。強く握られて、少し赤くなっていた。

「折れるほど強くしていない。被害者ぶるな」

足元に落ちた携帯を拾うと、ロックを解除した。

……私の携帯の暗証番号は、理人の誕生日から変えていない。

「……なんだこれは」

理人が、例の写真を見つけて、私の目の前に突きつけてきた。

他の女性と親しくしている現場を妻に見られたというのに、謝るどころか威圧してくるなんて……。

思わず、棘のある言葉が溢れた。

「あなたが、私に仕事だと嘘をついて……槙原さんと、食事をしていた時の写真よ」

理人は、眉一つ動かさなかった。

「それが盗撮をした理由か?」

「……嘘をついたのは、あなたでしょう」

「嘘? 詩織には、仕事の手伝いをしてもらっていたんだ」

「お腹が悪いと言っていたのは?」

「そのまま話せば、またお前はくだらないわがままで邪魔をしに来るだろう」

私は唇を噛んだ。

理人はあくまで、私の方が悪いと言いたいらしい。

「詩織の忠告を聞いて正解だったな。お前が通りかかって携帯を向けていたと」

……気付かれていたんだ。

気が動転していたとはいえ、迂闊だった自分に腹が立った。

「いくら妻といえど、プライバシーの侵害だ」

「……夫なら、嘘をついて女の人と会っていてもいいの?」

「詩織には仕事を手伝ってもらってると言っただろ。嘘じゃない。一方で盗撮は立派な犯罪だ」

理人が、私の携帯を操作した。

写真を消されてしまうと思った。

けれど、事態は私の想定より重かった。

「ほら」

理人が私に携帯を返した。

ロック画面の壁紙が、初期のものになっている。

「……え?」

「初期化した。これで余計なことはできないだろ」

私は絶句した。

友達の連絡先も、生活に必要なアプリも……昔の、理人との写真も消えていた。

「そんな!」

「警察に突き出しても良いところを、これだけで許してやると言ってるんだ。文句があるなら……」

その言葉を遮るように、理人の携帯が鳴った。

画面を確認すると、詩織の番号だった。

理人はすぐに電話に出た。

『理人……助けて……高熱が出て下がらないの……苦しい……』

「大丈夫か!? 横になって待ってろ。今、病院に連れて行く」

そう言うと、理人は電話を切って、すぐに家を出ようとした。

「待って、記念日はどうするの?」

理人は少しだけ振り向いて、私を睨んだ。

「今はそれどころじゃない。そもそも、お前が余計なことをするから、お祝いなんて気分でもない。それはお前もだろう?」

そう言い捨てると、理人はもう、玄関から姿を消していた。

初期化された携帯を片手に、私は膝をついた。

何もかも私が悪いという言い方だった。

もう理人の中に、私への愛情は残っていない。

たった一年で、何もかも詩織に奪われたのだ……。

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