登入その日の夜、理人が帰宅したのは1時を回ってからだった。
私は、小さなケーキを買って、キッチンの椅子に座って待っていた。 暗い部屋で待つ私の姿を見て、理人は驚いた声を上げた。 「まだ起きてたのか。遅くなるから先に寝ろと言っただろう」 「……どうしても今日、お祝いしたかったの」 テーブルの上の小さなケーキを見ると、理人は眉を顰めた。 「それはあてつけか?」 そのささやかな願いも、理人は、予約をすっぽかされた腹いせだと解釈した。 「違うの……だって、今日は大切な日でしょう?」 私の縋るような言葉も、理人には届いていなかった。 「埋め合わせならすると言っただろう。食事なら別の日に改めてしよう。今日はもう休む」 理人は、寝室に消える前に私を一瞥して言った。 「同情を誘おうとするのはよせ。みっともない」 そして、音を立てて扉は閉まった。 希望を断ち切られた私は動けずに、出番のなくなったケーキを見つめた。 もう彼は、私のことなど愛してはいない。 ささやかなお祝いすらも強く拒絶するほどに。 体の不自由な詩織を気にかけるのは、仕方がないと思おうとしていた。 それだけ彼が優しい人なのだと。 しかし違った。彼の優しさは、もう、私のものではない。 詩織ただ一人だけのものなのだ。 何気なく携帯を開くと、詩織のSNSが更新されているのが目に入った。 『私たちが再会できた記念日。サプライズで素敵なケーキを貰っちゃった!』 その写真には、豪華なケーキが写っていた。 たくさんのフルーツが宝石のように盛り付けられ、細かく細工されたチョコレートやクリームが、芸術品のようにあしらわれている。 ……こんなケーキ、プレゼントされたことなんてない。 理人は、昔からサプライズが苦手だった。 結婚記念日のケーキも、私がレストランに頼んだものだ。 この写真一枚で、理人が本当に詩織を喜ばせたかったのだと分かる。 胸の奥で張り詰めていた糸が、切れる音がした。 ──離婚しよう。 力を込めていた両腕を、だらりと下に垂らした。 ──翌朝。 いつも通り、丁寧に朝食を用意して、コーヒー用のお湯を沸かした。 コーヒーは、AAグレードのキリマンジャロの深煎りを中挽きにする。 これ以外のコーヒーだと不機嫌になるからだ。 理人が起きてきて、食卓を見て言った。 「朝食はいらない」 私は、コーヒーを淹れる手を止めた。 「……どうしたの?」 「今朝は少し、腹の調子が悪い。食べずに行く」 「……そう。コーヒーは?」 「いい」 そう言うと、理人は鞄を手に取った。 「もう行くの? いつもより……」 「仕事だ」 いつもより早いと言い切るより早く、鋭い一言だけが返ってきた。 きっと仕事が理由ではないと、直感で分かった。 「……理人」 私は、昨日決意したことを伝えることにした。 「なんだ?」 理人はこちらも見ずに、携帯を気にしている。 「離婚しましょう」 私の言葉に、理人は手を止め、顔を上げた。 その表情は、いかにもうんざりしたような顔だった。 「……昨日のことを怒ってるのか?」 「昨日のことだけじゃない。理人、最近ずっと、」 「埋め合わせはすると言ったのが、まだ分からないのか? 拗ねるのは勝手だが、いちいち相手してやれるほど暇じゃない。子供っぽい冗談はやめてくれ」 理人は、私がただ、昨日のことを怒っているだけだと思っているらしい。 私は強い口調で言った。 「……冗談じゃない。本気よ」 「本気だと?」 理人は鼻で笑った。 「俺の元から離れて、仕事もしていないのに、どうやって一人でやっていくって言うんだ?」 「それは……」 仕事を辞めて家庭に入ったのは、理人の希望だった。 デザイナーの学校を卒業して、大手の服飾会社に就職も決まっていた。 しかし、理人の「生活の面倒は全て見る、家にいて俺のことを支えてくれ」という言葉で、私はその就職を諦めた。 「できもしないことを言うもんじゃない。適当な言葉は自分に返ってくる」 そう言うと、理人は玄関に向かった。 私はその背中を追いかけて、もう一度言った。 「離婚して」 理人は靴を履きながら言った。 「いい加減にしろ。離婚はしない」 そう言い残して、家を出てしまった。 有浦に嫁入りする者として、我慢強く夫を支えるものだと、何度も言われてきた。 そうすれば理人に愛してもらえると信じて、従った。 それでも、理人から愛情が返ってくる内は、何の不満もなかった。 ──詩織が、現れるまでは。 しばらく、玄関に立ち尽くしていたが、諦めてキッチンに戻った。 手をつけられていない食事を片付けるのは、心が痛んだ。 しばらくすると、携帯が短く振動した。 理人からのメッセージだ。 『今夜、家で結婚記念日を祝おう』 『食事の支度を頼む』 簡素なメッセージだった。 私が離婚すると言ったことを、少しは重く受け止めたのだろうか。 『何を用意したらいい?』 私の質問には、『任せる』とだけ返ってきた。 心の奥に、小さい棘が刺さったような違和感を覚えたが、忙しい合間を縫って連絡してきてくれたと自分に言い聞かせ、買い物に出かけた。 いつも食材を買いに行く店へ向かう途中、カフェのテラス席に見慣れた顔が見えた。 ──理人。 そして、その隣には詩織がいた。 二人は、彩り豊かなサンドイッチとコーヒーで、モーニングを楽しんでいた。 理人は、コーヒーに拘りがある。 お気に入りのコーヒー以外飲みたくないと言って、外食ではいつも頑なにコーヒーを拒んでいた。 だから、毎朝丁寧にコーヒーを淹れていたのに。 今の理人は、詩織と楽しそうに会話をしながら、普通のブレンドコーヒーに口をつけている。 ……今の理人にとって、コーヒーの味なんて関係ないのね。 ぐっ、と手に力を入れて、涙を飲み込んだ。 仕事も、お腹の調子が悪いのも、嘘だった。 私の頭は、だんだん冷静になっていった。 証拠を残せば、離婚の時、有利になるかもしれない。 私は二人に携帯を向けた。 楽しそうな二人の姿を自分の携帯に残すのは、殊の外辛かった。 しかし、これからの自分のためだと思って……一枚写真を撮り、その場を後にした。 夕食の支度には身が入らなかった。 しかし、食事を用意し慣れた体は、勝手に動いた。 気づけば、食卓には、家でのお祝いには充分に相応しい食事が並んでいた。 理人は、時間通りに帰ってきた。 この所、私との約束を守ったことなんてなかったのに……。 もしかして、少しは考え直してくれたんだろうか。 離婚しようという決意が、ほんの少しだけ揺らいだ。 しかし、それも一瞬だった。 「木香、話がある」 理人の目は鋭く、まるで怒っているようだった。 「……どうしたの?」 「携帯を見せろ」 心臓が高鳴った。 「どうして?」 「口答えをする気か?」 「いいえ……でも理由が知りたいの」 今朝撮った写真のことを思い出した。 私は携帯をぎゅっと握った。 理人の浮気の証拠でもある。 消されたくない。 「理由だと?」 理人が、私の腕を強く捻り上げた。 「痛い……!」 「俺に隠し事をする気か?」 理人の腕の力は強く、みしみしと骨が軋んだ。 「痛い、離して……折れちゃう……」 理人が手を離すのと同時に、私は携帯を取り落とした。 腕がズキズキと痛む。強く握られて、少し赤くなっていた。 「折れるほど強くしていない。被害者ぶるな」 足元に落ちた携帯を拾うと、ロックを解除した。 ……私の携帯の暗証番号は、理人の誕生日から変えていない。 「……なんだこれは」 理人が、例の写真を見つけて、私の目の前に突きつけてきた。 他の女性と親しくしている現場を妻に見られたというのに、謝るどころか威圧してくるなんて……。 思わず、棘のある言葉が溢れた。 「あなたが、私に仕事だと嘘をついて……槙原さんと、食事をしていた時の写真よ」 理人は、眉一つ動かさなかった。 「それが盗撮をした理由か?」 「……嘘をついたのは、あなたでしょう」 「嘘? 詩織には、仕事の手伝いをしてもらっていたんだ」 「お腹が悪いと言っていたのは?」 「そのまま話せば、またお前はくだらないわがままで邪魔をしに来るだろう」 私は唇を噛んだ。 理人はあくまで、私の方が悪いと言いたいらしい。 「詩織の忠告を聞いて正解だったな。お前が通りかかって携帯を向けていたと」 ……気付かれていたんだ。 気が動転していたとはいえ、迂闊だった自分に腹が立った。 「いくら妻といえど、プライバシーの侵害だ」 「……夫なら、嘘をついて女の人と会っていてもいいの?」 「詩織には仕事を手伝ってもらってると言っただろ。嘘じゃない。一方で盗撮は立派な犯罪だ」 理人が、私の携帯を操作した。 写真を消されてしまうと思った。 けれど、事態は私の想定より重かった。 「ほら」 理人が私に携帯を返した。 ロック画面の壁紙が、初期のものになっている。 「……え?」 「初期化した。これで余計なことはできないだろ」 私は絶句した。 友達の連絡先も、生活に必要なアプリも……昔の、理人との写真も消えていた。 「そんな!」 「警察に突き出しても良いところを、これだけで許してやると言ってるんだ。文句があるなら……」 その言葉を遮るように、理人の携帯が鳴った。 画面を確認すると、詩織の番号だった。 理人はすぐに電話に出た。 『理人……助けて……高熱が出て下がらないの……苦しい……』 「大丈夫か!? 横になって待ってろ。今、病院に連れて行く」 そう言うと、理人は電話を切って、すぐに家を出ようとした。 「待って、記念日はどうするの?」 理人は少しだけ振り向いて、私を睨んだ。 「今はそれどころじゃない。そもそも、お前が余計なことをするから、お祝いなんて気分でもない。それはお前もだろう?」 そう言い捨てると、理人はもう、玄関から姿を消していた。 初期化された携帯を片手に、私は膝をついた。 何もかも私が悪いという言い方だった。 もう理人の中に、私への愛情は残っていない。 たった一年で、何もかも詩織に奪われたのだ……。「木香……お前は……どうしたら俺を許してくれる……?」病室の床に膝をついて項垂れたまま、理人は縋り付くように言った。「……」私は理人を見下ろして呟いた。「私が子供を殺された時、あなたが、私を信じてくれていたら……可能性があったかもね」理人には、返す言葉がなかった。私は改めて告げた。「時間を巻き戻して。それ以外に、許す方法はないわ」──離婚の手続きは、宏樹が代行した。詩織は逮捕された。警察に引き渡される時には、すっかり狂人のようになっていたらしい。泣きながら抵抗したが、もうその涙に騙される人は一人もいなかったそうだ。妊婦を拉致し、強制的に堕胎させた凄惨な事件は大々的に報道された。ニュース記事のコメントには、『酷すぎる! この詩織って女、人の心がないの?』『胎児相手でも立派な殺人罪! 司法は然るべき措置を!』『不倫相手をこんなになるまで野放しにした男にも非があるでしょ。奥さんが可哀想』『男特定。有浦グループの社長らしい。報道されてないけど、権力で揉み消そうとしてる?』否定的なコメントばかり集まっていた。理人は、廃人のようになってしまったそうだ。周囲に「妻」と紹介して職場にも連れ込んでいたことが災いして、不倫を内々で片付けることができなくなり、有浦グループもバッシングを逃れられなかった。会社にも姿を表さず、家に籠ってブツブツと何かを呟くことしかできなくなり、離婚の手続きはかなり難航した。あの後、私は大手ファッション会社に、デザイナーとして就職した。ずっと昔に作ったポートレートを少し手直しして提出したところ、すぐに採用された。そして今は、大物歌手の衣装を任されている。「木香さん、次のコンサートに間に合わせられるかしら?」歌手のマネージャーが、スケジュール表を手に、アトリエに入ってきた。「任せて。もうあと少し。現状の写真を撮るわ。確認に回してくれる?」「ありがとうございます……! それにしても……」トルソーに着せられたスカーレットのドレスを見て、マネージャーが呟いた。「こんなに能力のある人が、今まで、非常な夫に飼い殺されていたなんて……世の中って理不尽ね」私はそれを聞いて、微笑んで返した。「いいの。もう終わったことよ」マネージャーは、デザイン図を手に、アトリエを出ていった。入れ違いで入ってきたのは、理人だ
確かに、私の端末には、先ほどの映像データの他に、別のファイルが送られてきていた。そのファイルにはロックが掛かっていて、開くことができない。「木香」宏樹は心配そうな顔で言った。「そこにあるのは、君にとってとても辛い事実だ。俺に任せてくれるなら、離婚手続きは全て代行する」「宏樹!」「理人は黙っていろ」宏樹の迫力に、理人はそれ以上何も言えなかった。「ただもし、君の目で全ての真実を知って、自らの手で幕を下ろしたいなら……"かつて君が愛した男"の誕生日を、入力してくれ」私は迷うことなく、理人の誕生日を入力した。『……理人、木香さんはいいの?』最初に聞こえてきたのは、詩織の甘えるような声だった。『ああ、構わない。あいつは仕事もしないで家にいるだけだ。槙原社で立派に働く詩織が優先されるのは当然だ』続いたのは、理人の残酷な言葉だった。これは……別荘のカメラの映像だ。詩織が私を拉致するより、ずっと前の日付が表示されていた。詩織が口を覆って呻いた。「木香、止めろ!」理人は、慌てて私の携帯を取り上げようとした。しかし、宏樹の手が、その手を掴んで止めた。「理人」宏樹の声は鋭かった。「自分が招いた結果だ。受け入れろ」それは、有浦家の……理人の兄としての、威厳が感じられる声だった。「やめろ……やめてくれ……謝るから……俺が間違っていた……」理人のきれぎれの懺悔と共に、音声は流れ続ける。『理人、あなたが欲しいわ』『詩織……ずっと側にいられなくてすまない。突然離婚したら、有浦家の体裁に関わる。辛い思いをさせるが、耐えてくれ』……映像の中の二人は、深く口付け合った。それは、紛れもない、不倫の証拠だった。覚悟は決まっていた。心は冷え切り、もう揺れることはなかった。「木香、違うんだ……俺が愛しているのはお前だけだ……これは……これは間違いなんだ……」理人は耐えきれず、その場に崩れ落ちた。『木香さんより、私を愛してる?』『ああ、愛しているよ』理人が詩織を抱き上げ、ベッドルームに向かった。画面が切り替わると、二人の愛し合う姿が映し出された。「いやあ! もうやめて!」恥辱に詩織は耐えかねて、叫びながら病室を逃げ出してしまった。「いいの? 槙原さんのこと追わなくて」私の嘲笑に反論することなど、今の理人にはできなかった。「違う!
「理人……何を言ってるの?」宏樹が口角を上げて立ち上がった。後頭部から血が流れ落ち、首筋を通って、スーツを濡らした。「当然、データは送信済みだよ。木香の端末にも、……理人の端末にも」詩織は目を見開いて、口元を抑えた。「さっきまでの会話の映像も、全てリアルタイムで理人の端末に送っていたんだ。タブレットを壊されるその瞬間まで」詩織は、理人の足元に縋り付いた。「嫌! 違うわ! この狂人が私を嵌めようとしてるの! こいつは木香の協力者よ! 理人のお兄様だから油断してたの……さっきまでの映像も全部フェイクだわ! 理人! 理人は私を信じてくれるわよね!?」詩織の必死な様子を見て、理人の胸は痛んだ。詩織の言葉を信じてしまいたかった。彼女の悲痛な様子は、嘘をついているようには思えなかった。少なくとも、理人の目にはそうだった。理人は屈んで、詩織を抱き上げた。詩織は泣きながら、理人の首に抱きついた。「理人……!」理人は詩織の髪を撫でると、低い声で言った。「戻ろう。全て説明してくれ。……お前を疑うのは辛い」────理人の腕に支えられながら、詩織が戻ってきた。ふらふらとした様子ではあったが、もう車椅子には乗っていなかった。「……槙原さん。芝居はやめたのね」私が冷たい口調で言っても、もう理人は止めなかった。不機嫌そうな顔で、ただ口を結んでいた。詩織が、どさりと椅子に腰を下ろした。「違うの、誤解しないで……あの映像は作られたものよ。宏樹が……木香さんに唆されて、嘘の動画を作ったの……」肩を震わせながら涙を落とす様子は、何も知らない人の目には、無実の罪で虐められているように見えただろう。……理人は、これに騙されてきたんだ。病室のドアが開いた。頭に包帯を巻いた宏樹が、しっかりとした足つきで戻ってきた。「宏樹!」私は思わず声を上げた。「大丈夫だよ」宏樹が笑った。「ところで理人。監視カメラの管理アプリは持ってるだろ?」宏樹にそう言われて、理人ははっとした。長らく別荘を放置していたため、カメラの存在も、それを確認するアプリケーションがあることも、すっかり忘れていたようだ。理人がアプリを起動し、パスワードを入力した。「パスワードまでは忘れてなかったようだね」宏樹が苦笑した。理人の端末には、確かに、宏樹から送られてきたものと同じ
「確かめる方法?」その場にいる全員が、宏樹の方を向いた。「ああ……理人。あの別荘には確か、監視カメラがついていたよな?」監視カメラという言葉に、詩織の肩がぴくりと跳ねた。「そういえばそうだ。カメラの映像を見れば、木香、お前が嘘をついていることが分かるぞ」理人は勝ち誇っているが、これは好機だった。そのカメラの映像には、詩織が映っているはずだ。それを見せれば、言い訳はできないだろう。ちらりと見ると、詩織は明らかに青い顔をしていた。「監視カメラのデータを取りに行かないといけないな。俺が行こう。この中で、最も中立に近いだろう?」宏樹が言った。「どうだろうな。宏樹は木香に騙されてる。証拠を消すようなことがあったらどうする?」理人の言葉に、宏樹は笑った。「理人の言う通りなら、カメラの映像を見て決めるさ。データは必ず持ち帰る。行って戻ってくるまでの時間で、改ざんなんて無理だろ?」理人はまだ納得いかないようだったが、詩織の方を見た後、頷いた。「わかった。すぐ行ってきてくれ」詩織は幾分顔色が悪く見えた。自分の悪事の証拠が、これから暴かれようとしているのだから、当然だ。しかし理人は、しおりの顔色の悪さを心配して、ここに残ることを選んだんだろう。「宏樹……」私は宏樹に視線を向けた。正直、行って欲しくなかった。ここにいる私の味方は、宏樹だけだからだ。そんな私を見て、宏樹は私にだけ見えるようにウィンクをした。大丈夫、と口の動きだけで言った。「それじゃあ、行ってくるよ」宏樹が病室を後にした。それに続くように、詩織が言った。「あの……私、少しお手洗いに行ってもいいかしら? 気分が悪いの……」その様子に、私は思わず口を開いた。「逃げるつもりなの?」詩織が何かを言う前に、理人が制した。「木香、いい加減にしろ! 具合が悪い詩織を、手洗いにも行かせないつもりか!?」病院からの連絡さえ無視した理人が言うのだから、滑稽だった。子供を奪われたばかりの私よりも、少し顔色が悪いだけの詩織の方が心配らしい。「詩織、木香の言うことは気にするな。付き添おうか?」「……大丈夫よ。外に赤石が来てくれてるの。理人は、木香さんのそばにいてあげて」「お前……自分が犯人に仕立て上げられそうだと言うのに、木香に気を遣うのか?」「木香さんがこんなことをしたの
「何を、言っている?」「本当に何も聞いてないのね」私は、口角を上げた。理人が、こんなにも愚かな人だとは思っていなかった。「堕胎薬を打たれたわ。……子供は死んだ。もう摘出されて、バケツの中よ」理人の顔が青くなった。「まさか……」「本当よ。お医者さんに聞いてみたら?」理人は硬直したまま動かない。緊迫した空気が続く中、それを破るように、病室のドアが開いた。そこには、車椅子に乗った詩織の姿があった。「詩織! なぜここに?」理人が振り向いて、詩織に駆け寄った。「木香さんに謝りに来たの……」詩織は、悲しげな顔で言った。「理人さんと、木香さんの時間を邪魔してごめんなさい。私が邪魔だから……木香さんは、こんなことをしたのよね?」詩織が何を言っているのか、分からなかった。地下室に閉じ込めて、堕胎薬を打った、正に犯人だと言うのに。「よく来れたわね」腹が煮え繰り返るようだった。子供を殺した張本人が、のうのうと目の前に現れたからだ。「木香! 何だその言い方は!」「理人。お腹の子を殺したのはそいつよ」その言葉を聞いて、理人は激昂した。「ついに狂ったか!? 詩織はずっと俺といた!」「私が堕胎薬を打たれたのは、あなたが槙原さんと食事をする前よ。あれから私はずっと、地下室にいたわ」すると、詩織は目に涙を浮かべた。「木香さん、やめて。理人との時間を邪魔したのは謝るわ。……だけど、そんな自作自演をしたって、自分の首を絞めるだけよ」自作自演?実際にお腹の子供を殺されて、冷たい地下室に閉じ込められて……それを自作自演だと言ったの?私は、怒りでどうにかなりそうだった。「どうして私が自作自演で、子供を堕ろす必要があるの!?」詩織は、悲しそうに続けた。「ごめんなさい。さっき、車椅子がぶつかって……木香さんの鞄を落としてしまったの。中からこれが出てきたわ」詩織が取り出したのは、……私が打たれた堕胎薬。ご丁寧に、空になった注射器まで一緒だった。「木香、どういうことだ……?」理人の顔が怒りに満ちる。詩織は続けた。「木香さんの鞄から出てきたんだから、自分で打ったんでしょう。嘘をついて……お医者さんを騙したんじゃないかしら」怒りで呼吸がうまくできない。冷静に反論したいと思っても、口から漏れるのは荒い呼吸だった。「木香さん。私を犯人にしよ
「え……?」私は顔を上げて、宏樹の目を見た。優し気で、真剣な眼差しだった。「辛いことを話してくれてありがとう。……ここには、俺と君しかいない。泣いたって……誰にも馬鹿にされないよ」心の中を全て見通したような言葉に、初めて、涙が溢れてきた。理人には、ずっと、泣いて人の同情を誘うなと言われてきた。有浦に嫁ぐ者として、人前で弱いところを見せるのは恥だと。しかし、その有浦の宏樹から、泣いてもいいと言われた。初めて、許されたような気持ちだった。宏樹は、私が泣き止むまで、黙って側にいてくれた。その時、バン!と音がして、病室のドアが開いた。「木香!」理人だった。声を荒げた様子に、少しは心配してくれたのかと思ったが、そうではないらしかった。「今度は一体何なんだ!? 病院を使ってまでこんな芝居をして……何がそんなに気に入らない!?」「理人」私に詰め寄る理人に、宏樹が鋭く声を掛けた。「……宏樹?」理人の動きが止まる。宏樹の目の奥は、笑っていなかった。「木香がこんな目に遭っているのに、その態度は何だ?」「何で宏樹がここに……!?」「俺の話はいい。木香のことは聞いているのか?」理人は、宏樹の強い口調に一瞬たじろいだが、私の方を一度見て、再び続けた。「こいつがが病院に駆け込んで、俺を呼んだんだろう?」「違う、お前の別荘の地下に、薬を打たれて監禁されていたんだ」「まさか! そんなの、こいつの虚言に決まって……」「俺が見つけた」理人は絶句した。信じられない、という顔をした。おそらく、理人は詩織がやったことを知らない。だとしたら、なぜこんなことになっているか、分からないのは当然だ。「……木香」理人が私の隣に歩み寄った。「本当なのか?」私は、目を赤くして答えた。「あなたは、一度も私を信じてくれないわね」理人は私の顔を見て、驚愕した。もう何年も……理人の前ですら、こんな風に泣いたことはなかったからだ。しかし、理人の言葉はあまりにも冷酷だった。「……その涙で、宏樹を騙したのか」言葉も出なかった。理人は、宏樹のことすら、私が騙していると思っている。どれだけ詩織に対して盲目になれば、こんな言葉が出てくるのだろう。「理人!」宏樹の制止に、理人は食ってかかった。「宏樹、こいつは嘘つきだ。俺と詩織のことを疑い、あの手この
「理人……そばにいてくれてありがとう……」詩織は、病院のベッドの上で、理人に汗を拭いてもらいながら、か細く言った。「詩織がそれで気が楽になるなら、なんてことないさ」「でも、きっと木香さん、怒ってるよね……私たちのこと、疑ってるみたいだし……」詩織は、理人と一緒にカフェにいる写真を撮られた時から、木香への警戒を深めていた。従順な奥さんだと、理人から聞いていた。詩織が理人とべったりになってからも、文句を言うこともなく、顔を合わせれば暗い顔で会釈をする程度。きっと自分が理人を奪ったとしても、何かを起こす度胸などないと思っていたのに。詩織は、歯を強く噛み締めた。「詩織が気にする事じ
「有浦木香さんは、妊娠しています」理人と訪れた産婦人科で、医師は簡潔に述べた。予想外の結果に、理人は目を見開いた。「それは本当か?」「はい、間違いありません。おめでとうございます」医師が少し微笑んだ。理人は言葉を失い、私の方を見た。その顔は、喜んでいるようには見えなかった。「ありがとうございます。……理人、行こう」少しは喜んでくれるかという淡い期待も潰えた。私は軽く頭を下げて、診察室を出た。病院を出る時に、後ろで看護師たちの声が聞こえた。「あの人たち、子供ができたっていうのに、ずいぶん暗い顔をしてるのね」「喜んでるようには見えなかったわ」「不倫なんでしょ。よくある
翌朝になっても、理人は帰って来なかった。精神的なストレスからか、体調が優れない。嘔吐感に苛まれ、トイレに駆け込んだ。そして、そこで気付いた。──最後に生理が来たのはいつ?私は、寝室の棚に妊娠検査薬があるのを思い出した。恐る恐る検査してみると……陽性だった。……理人との子供を妊娠している。離婚を決意した私にとって、あまりにも重い事実だった。理人に連絡を取ろうと思ったが、携帯が初期化されたままなので、メッセージが送れない。部屋中を探して、電話番号のメモを見つけ、電話を掛けた。しかし、いくらコールしても繋がらなかった。仕方なく、もう一つの番号……理人の職場に電話を掛けた。
冷たくて固い床の上で、私の手足は冷えていった。その地下室の扉は、私、有浦木香(ありうらこのか)がゴミ同然に叩き込まれるまで、長らく開かれていなかった。そこでは、壊れてしまった古い家具や、破れて染みがついた絨毯が、埃を被っていた。愛した夫は、きっと今頃、私との結婚記念日にはキャンセルしたレストランで、食事を楽しんでいることだろう。──彼の、初恋の相手と一緒に。さっき投与された堕胎薬が、お腹の子供の命を奪っていくのが分かる。この子を産んで、育てたかった。本当は、幸せな家庭を築きたかった。それも、私のわがままで済まされてしまうの?もう、声を上げる力もなくなった。お腹の子が死んで