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第7話

Author: 談棲
司は舌打ちした。

恵茉は思わず息を呑んだ。菫、やるじゃない。こんなことまで言うなんて。

でも、ちょっと切なかった。冗談っぽく言う言葉ほど、本音だったりする。菫はきっと、ずっと前からこう聞きたかったのだろう。

司はじっと菫を見つめた。その目は、何を考えているのか分からず、ただ深い。

しばらくして、タバコを灰皿に押しつけ、手を伸ばしてグラスを取った。「俺は飲む」

「赤、白、黄、全部混ぜて」

アルコールを混ぜるのは一番酔いやすく、体にも悪い。医者の菫が知らないはずはない。

司はゆっくり口を開く。「菫、容赦ないな」

「一ノ瀬さんが本気じゃないだけでしょ」ここで「はい」と答えれば、酒は飲まずに済んだ。

「それは違う。先生の質問が俺の人格を侮辱してるんだ」

そう言うと、司は本当に三種類の酒を混ぜて飲み始め、周囲を唖然とさせた。

しばらく考えて菫は理解した。浮気はしていない。だから「はい」とは答えられない。

「そうかしら」

彼の言い分を信じるか、それともUFOを信じるか。

ただ証拠を残したくないだけだ。離婚の時に「事実婚中の不倫を認めた」と記録され、財産分与で不利になるのを避けたいだけ。

三杯飲み干したあと、司の顔色が少し青ざめたように見えた。照明のせいかもしれない。

健一はこの夫婦の空気がおかしいのを察し、慌てて場を収めようとした。「もう遅いし、今日はここまでにしよう。続きはまた今度な」

他の皆も、この空気に耐えられず立ち上がる。「そうね、また今度」

司は席を動かず、眉を上げた。「まだ俺、聞いてないんだけど?こんな損していいのか?」

健一は苦笑し、肩をすくめた。「分かったよ、聞けよ」余計なことを言った。

これまでのゲームは、どれも核心を突く内容ばかりで、誰も容赦しなかった。司がまだ続けると言い出した時、皆は「復讐だ」と思った。菫への質問も鋭いに違いないと。

雪菜は、菫が困るところを見られると思って上機嫌になり、隣で得意げに見ていた。

司はあの垂れ目で、菫の身体を意味ありげに見回した。菫の背筋が無意識に強張る。

司は突然笑い、語尾を伸ばした。「奥さん、昨夜俺の夢、見たか?」

「??」

全員が目を丸くした。これだけ?

雪菜は倒れそうになり、不満げに声を上げた。「これが質問なの!?」

「俺が何を聞こうが勝手だろ。お前には関係ない」司は新しい女を完全に無視した。

雪菜は唇を噛み、悔しそうに睨む。だが司は気にも留めず、菫を見た。「奥さん?」

菫の脳裏に、彼が帰国したあの夜がよみがえる。唇を噛んだ。「はい」

司は笑みを深めた。「俺たち、海の島にいた夢、見ただろ?」

なんなんだこの質問は!皆が顔を見合わせた。手を抜くどころか、これは完全に大サービスじゃないか。

けれど、誰も気づかなかった。落ち着いた表情の裏で、菫の耳が真っ赤になっていたことに。

四日三晩、二人で過ごした南の島での記憶が蘇る。司は手を抜いているのではない。二人にしか分からない合図でからかっているのだ。

菫は酒を一口飲み、彼の戯れるような眼差しを受け止めて、小さく「うん」と答えた。

「今、俺と一緒に帰って、夢の続き、やりたいんじゃないか?」

「……」菫は言葉に詰まり、「飲む」とだけ言った。

手を伸ばしてグラスを取ろうとしたが、司の手がその上に重なった。「お酒で逃げるのはなし、質問を答えてくれ」

菫は眉を顰める。「なんで?」

司は気だるげに言った。「今日のゲームは俺が仕切ってる。先生、俺のルールに従え」

「……」

菫は息を詰めた。「はい」

次の瞬間、司はみんなの前ですっと立ち上がる。気ままに見えて、抗えない色気を纏って。

「じゃ、帰るか。お前と一緒に」

周囲の呆然とした視線の中、司は本当に菫と共に雅月会館を後にし、車に乗った。

菫は、今日ここに彼を連れて帰るつもりなんてなかった。なのに、なぜか美穂が望んでいた結果になってしまった。

帰り道、二人とも口を開かなかった。菫はずっと窓の外を見ていた。

都内の夜景は美しい。ネオンが流れる天の川のように輝き、その光が彼女の瞳に映り込む。

気づけば、ガラスには男の横顔もぼんやりと映っていた。

目を閉じている。眠っているのか、酔っているのか分からない。けれど、この薄い像の中でも、彼の顔立ちははっきりと整っている。

広い額、通った鼻筋。少し西洋風の輪郭なのに、不思議と東洋的な美意識にも合う顔。恵茉が言っていた。「この人、腹立つときもあれば、惚れるときもある」

確かに、愛憎半ばする存在だ。

郊外の別荘に着き、菫は自分でドアを開けて降りた。少し歩いて、男がついて来ていないことに気づく。

振り返ると、運転手も車を降りていた。「奥さん、司さんは酔っておられるようです」

菫は車のそばまで戻り、彼を見下ろした。肌は冷たく白く、首筋は不自然に赤い。呼吸にはウイスキーの香りが混じる。

彼がどれくらい飲めるのか分からない。まさか、あの三杯で酔ったわけじゃないはず。

ただ、自分が来る前にどれほど飲んでいたのかも分からない。本当に酔っていても不思議ではない。

「彼を中に運んで」

運転手が支えようとしたが、司は触れられた瞬間、眉をひそめて押しのけた。「触るな」

運転手は怯んで動けない。「奥さん……」

菫は仕方なく、自分で近づいた。押しのけられたら、そのまま車に置いておくつもりだった。

高級車で一夜過ごしても、一ノ瀬家の御曹司には何の問題もないだろう。

彼の腕を引き上げると、意外にも、司は首を傾け、彼女の匂いを嗅ぐようにしてから、何も言わず支えられるまま降りてきた。

とはいえ、長身の彼を二階まで運ぶのは大変で、何度も壁や家具にぶつかりそうになった。

二人はよろめきながら部屋に辿り着き、菫は彼をベッドに放り込もうとする。だが司は、意識的なのか無意識なのか、彼女の首に手を回した。

重心を崩し、菫は彼の上に重なって、二人一緒にベッドに倒れ込む。

司は低く呻き、まぶたを少し上げて、酔った瞳で彼女を見つめる。

二人がこんなに近づいたのは、一年以上ぶりだった。

男の体温と淡い酒の香りが入り混じり、菫も酔ったような気分になる。

司の手のひらが彼女の頬を撫でる。その優しさに、泣きたくなる。

菫はふっと思った。今夜、子どもを作ってしまおうか。彼への償いとして。そうすれば、完全に終わらせられる。もう絡み合う必要はないのだから。

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