LOGIN美月side
空港の出発ロビー。手荷物や搭乗手続きを終えて、私は隣に立つ世羅を見て微笑んだ。
「ついにこの日が来たね。準備はいい?」
「なんか来てしまうとあっという間だったな。大丈夫、準備ならもうとっくに出来ているわ」
世羅が差し出す手に私の手を重ねてゆっくりと歩き出し、搭乗ゲートへと向かおうとしていた時のことだった。
「待て、美月! 待ってくれ!」
遠くから聞き覚えのある声がして振り返ると、そこには切なそうな顔をした陸が立っていた。かつての傲慢な自信に満ちた面影はなく、肩を落として悲壮感が漂っている。
「陸、なんでここに?」
「美月、僕の後ろに隠れて」
世羅は、私を守るように自分の背中に手を引いて壁になってくれた。世羅の背中の横から少しだけ顔を出すと、以前のような威圧さや牙をなくした弱々しい陸がそこに立っていた。
「俺は……ずっと美月のことを大事に思っていた。ずっと愛していたんだ」
婚約時には一度も言ったことのない愛のセリフを、別れて他の男と海外へ旅立つ寸前で初めて口にしてい
美月side翌日、未来のチアの発表会が終わり、夕暮れ時の海辺を三人で散歩していた。 オレンジ色に染まる水平線を眺めながら、世羅がふと私に問いかけた。「僕の都合で色んな所へ振り回しているけれど、美月は今、幸せ?」私は立ち止まり、吹き抜ける潮風を頬に感じながら、隣に立つ世羅を見上げた。「ええ。とても幸せよ。……初めて会った日の朝、ホテルの部屋を出る時に私は思ったの。この恋は夜明けと共に忘れようって」「この恋は今の状態の私を苦しめるものだって。だけど、あの時、未来を変えようともがきながらも動いたことで今がある。こんなに輝かしくて幸せなことはないわ」世羅は何も言わず、私の手を強く握りしめた。「僕もだよ。美月に出逢えたおかげで未来に会うことも出来た。美月が諦めないでくれてよかった」二人で視線を交わらせていると、先を歩く未来が振り返って手を振っている。「パパ、ママ! 太陽が沈んじゃうよ!」沈む夕日の中、手をつないで歩き出す三人のシルエット。 私の薬指には、あの日、世羅から贈られたダイヤモンドの指輪が海の煌めきを吸い込んでいつまでも変わらぬ光を放ち続
美月side「スイス……。今度はヨーロッパなのね」「美月にはやっと自分の居場所ができたのに、また振り回してしまうことになる。未来だって今の学校が大好きだろう。だから、迷っているんだ。実際に断ろうともした。でも、その施設でなら今の研究をさらに進化させて、もっと多くのそれこそ世界中の何百万人もの命を救える可能性があるんだ」世羅は自分の成功よりも常に「誰かのために何ができるか」を優先する人だ。そして何より家族の幸せを一番に考えてくれている。そんな世羅を見て、未来はビックリするほど力強い声で答えた。「パパ、私、大丈夫だよ」未来の声に、私と世羅は難しい決断をすぐにした娘に対して不安も混じった瞳で見つめた。「学校を離れるのは少し寂しいし、新しい場所は緊張するけれど、パパがたくさんの人を助けるお手伝いができるなら、私、応援する!スイスでもチアできるかな?」未来の言葉に世羅の瞳が潤んだ。私も世羅に向かって深く頷いた。「世羅、私たちはどこへ行っても大丈夫よ。未来も応援するというなら、私はそんな未来の想いも大切にしたいの。日本からアメリカへ来た時、私には何もなかった。でも今は違う。私にはあなたと未来がいる。家族が一緒ならそこが私たちの居場所になるのよ」
美月side「私ね、将来は誰かのために働ける人になりたいの。パパが病気を治す人なら、私は人の心を元気にするような仕事をしたいな。悲しんでいる人がいたら手を差し伸べて笑顔にしたいの」未来はキラキラとした瞳でまだ見ぬ遠い将来を描いている。その真っ直ぐな視線は、かつて日本で絶望の淵にいた私に、勇気を与えてくれた世羅の瞳とそっくりだった。窓から差し込む午後の柔らかな光の中でおやつを頬張る娘の姿を見守る。 ふと、サイドボードに飾られた一枚の写真に目をやった。そこには、アメリカに到着したばかりの少し緊張しながらも希望に満ちた顔をした私と世羅が写っている。(あの時、勇気を出して海を渡って本当に良かった……)今、私の手の中には誰も邪魔することの出来ない確かな幸せがある。「マム、明日のチアの発表会、パパも来れるかな?」「ええ、もちろんよ。パパが早起きして一番前の席を取ると張り切っていたわ」玄関の鍵が開く音がする。「ただいま。二人とも、何を話しているんだい?」
美月side月日は流れ、未来は十歳になった――――――。世羅は相変わらず研究も行っているが、最近では経営にも本格的に携わるようになっていった。自分の研究結果を世の中に広めるまでが自分の使命だと話し、企業との製品化に向けた話にも積極的に取り組んでいる。一方で、世界各国にいる柳グループの他の研究者たちが研究だけに専念できるような環境の構築した。かつて世羅が広告塔としてスポンサー探しや講演会に追われることは、人脈こそ広がるが研究の成果には直結しない。広告や営業の専門部門を強化し、各自が自分の強みを最大限に生かせる組織へと柳グループを内側から変革させていったのだ。「ただいまー、マム!」未来が元気よく玄関を開けて学校から帰ってきた。おやつを食べて宿題を終わらせたら遊びに行きたくてウズウズしている様子がこちらにも伝わってくる。アメリカで生まれ育った未来は、日本語と英語を器用に使い分け、学校ではリーダーシップを発揮する活発で明るく真っ直ぐな少女に育った。最近はチアリーディングを習い始めて、地域のイベントでも練習の成果を披露している。「ママ! パパの論文がね、また新しい教科書に載っていたよ。写真の下に小さくパパの名前が書いてあったんだけど、先生が授業中に私のパパだって紹介したら、みんなに『未来のパパ、かっこいい!』って言われたの! すっごく嬉しかったな。パパって本当に凄い人な
美月side「きゃー! やったよ、未来! パパよ! パパがノーベル賞を獲ったのよ! パパの研究が、世界中の人たちに認められたんだよ!!」私は思わず未来を高く抱き上げ、涙で視界が滲むのをそのままにした。歓喜に沸く会場でマイクの前に立った世羅は、一呼吸おいてカメラの向こうにいる私たちを見据えたように小さく微笑んでから、力強い声でスピーチを始めた。「この賞を頂けたことは、私個人の力ではなく、多くの人の支えがあってのことです。未知の領域に挑み続けたチーム全員の情熱が認められた結果でもあります。挫折を味わいながらも、諦めずに支えてくれた研究メンバー、そして……僕自身の可能性を信じて隣にいてくれた最愛の妻に、心からの感謝を捧げます」世羅の声が、少しだけ潤んでいるように聞こえた。「彼女がいなければ、私は自分の信念を貫き通すことはできなかったでしょう。美月、君が僕の光だった。心から、ありがとう」この日、世羅の存在は瞬く間に世界中へと知れ渡ることとなった。初めて会った日、胸ポケットに入っていた『Yanagi』の彫刻入りのボールペンと、彼が静かに自分の名前を名乗ったことで、私は彼が「柳世羅」だと知ることができた。あの時は、少し陰のある佇まいで巨大なグループの御曹司だなんて思いもしなかった。
美月side未来が誕生して一年半が経った。この日、豪華なホテルのスイートルームで、私は世羅のタキシードのネクタイを整えていた。「世羅、緊張してる?」「ああ、今までにない緊張感だね。結果が分からないというのはなんだか心臓に悪いよ」今日は、世界中が注目するノーベル賞受賞者の発表日。世羅が最有力候補の一つとして挙げられ、世羅と彼の研究チームがストックホルムの授賞式会場へと招待されていた。世羅の襟元を直していると、私は不意に涙で視界が歪みはじめた。「どうしたんだい、美月」「ううん……。プロポーズしてくれた日のことを思い出していたの。私は、『あなたは、研究の成果が認められて、世界中で名前の知られる研究者になって将来の柳グループを牽引していく』って言ったけれど、本当にその通りになったんだなって」「美月が、僕のことを信じて側にいてくれたからだよ」世羅は私の肩を抱き寄せ、額に優しくキスをした。世羅の胸に顔を埋めて温もりを感じながら、世羅を見送った。二時間後―――――