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夢醒めて、ふたりは散る
夢醒めて、ふたりは散る
Author: 列星安陳

第1話

Author: 列星安陳
「江口さん、あなたは国内屈指の夢療師です。

本当に私たちのプロジェクトに参加されるのですね?」

江口結衣(えぐち ゆい)の声は揺るぎなかった。

「ええ、決めました」

「ではすぐにビザと手続きを整えます。

最長でも七日あれば完了するでしょう。

ただ一点ご注意していただきたいことがあります。

この研究には、A国に長期滞在していただく必要があります。

ご家族とも事前に話し合うようお願いします。

とりわけご主人の園田教授は特別な立場にありますから、一緒に渡航することは難しいかもしれません」

結衣は夢療師だ。

彼女の研究を支えるため、夫の園田清志(そのだ きよし)は、彼女が設計した「夢装置」の最初の体験者となった。

結衣は信じていた。

清志の夢の中で、二人の幸せな未来を目にするはずだと。

ところが彼女が見たのは――清志が熱を帯びた表情で、ある女性を強く抱きしめる姿だった。

「澪......本当に戻ってきてくれたんだな。

一生、君を守り続ける」

「澪......俺は結婚したけれど、あの女は君と比べ物にならない。

顔が君に少し似ていて、それに両親に急かされたから......仕方なく結婚しただけなんだ。

澪、もし君が戻ってきてくれるなら......」

あまりに突然の光景に、モニター越しに見守っていた結衣は、身体を硬直させた。

交際三年、結婚して二年。

それが結衣にとって、初めて知る「橋本澪(はしもと みお)」という存在だった。

――彼と出会ったのはA国。

清志は教師、結衣は彼の生徒だった。

初めて顔を合わせたときから、彼は激しい想いを隠さず、結衣にぶつけてきた。

冷徹で孤高の物理学者として知られた男が、留学生の少女を追いかけるために、驚くほど低姿勢になった。

結衣が少し咳をしただけで、彼は教室中の学生の前で風邪薬を用意し、自ら飲ませてくれた。

「家が恋しい」と何気なく漏らせば、現地のスーパーをくまなく巡り、地元料理を作ってくれた。

ある日、グループ課題で意見が対立したとき、数人の外国人男子学生に差別的な言葉を浴びせられた。

結衣は異国の地で差別に耐えようとしたが、その背後から清志が飛び出し、リーダー格の学生を地面に押さえつけて殴り倒した。

そのせいで、彼は一年分のボーナスを失った。

だが学校は、彼の研究成果に期待していたため、退職処分までは至らなかった。

真摯な心を捧げてくれる彼に、研究一筋だった結衣の心も揺さぶられ、やがて二人は結ばれた。

結婚の日。

世界的な学術賞の授賞式で、清志はトロフィーを掲げながら、堂々と指輪を見せ、世界中に自らの愛を宣言した。

――結衣は信じていた。

彼の心も眼差しも、自分だけに注がれているのだと。

だが、夢に現れた澪とのすべてが、その幻想を無残に打ち砕いた。

真実はただひとつ。

清志にとって、結衣は代わりに過ぎなかったのだ。

けれど――彼女は江口結衣。

誰かの影ではない。

たとえ愛を失っても、自分だけは失わない。
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