LOGIN林北斗(はやし ほくと)は緘黙症を患っており、桐島霜乃(きりしま しもの)と結婚して三年が過ぎた。三年目になる頃には、二人の間に交わされる言葉はほとんどなくなっていた。 霜乃は北斗の病を治そうと、あらゆる手段を試みた。食事療法、漢方、鍼灸、心理カウンセリング、さらにはスタンドアップコメディまで…… だがある日、霜乃は偶然耳にしたラジオ番組で、北斗が初恋の相手、香月明希(かづき あき)への深い想いを語っているのを聞いてしまう。そして、ようやく理解したのだった…… 北斗の緘黙症を癒す薬は、最初から自分ではなかったのだと…… 今回こそ、霜乃は北斗のもとを離れる決意を固めた。彼女は、自分自身の人生の価値を見つけたいと思った。北斗のためだけに生きるのではなく。
View More「フォーラムのこと、ごめん」一言一言、喉から絞り出すように北斗が言った。霜乃は横目で彼を見た。北斗の表情には、かつての冷たさや傲慢さは微塵もなかった。代わりに、言いようのない悲しみと苦しみが滲んでいた。「私には、あなたの権力なんて必要ない。欲しいものがあるなら、私は自分の力で取りに行く」霜乃の声は穏やかで、感情の起伏もなかった。本当に、ただ話を整理しに来ただけというように聞こえた。「三年前、私があなたに嫁いだとき、私はあなたを愛してた。欲しかったから、その愛を手に入れようと努力した。でも三年後、私はあなたと離婚した。もう愛していないから、その感情のために何かをすることもない。これは私自身が選んだ今の気持ちであって、あなたの気持ちとは関係ない。北斗、私が一番嫌いなあなたのところ、分かる?」霜乃は突然顔を上げ、真っすぐ彼を見た。北斗は一瞬驚き、口を開けたままどう返せばいいか分からなかった。「一番嫌いなのは、あなたの自分本位なところ。この三年間、あなたはずっと自分の世界に生きてた。香月が去ったその瞬間で時間が止まってて、私がどんなに頑張っても、あなたには見えてなかった。三年経っても、あなたはやっぱり自分勝手。自由になりたい私を、またあなたの手元に縛りつけようとする。私が本当に欲しいのは自由なのに、それをあなたは奪おうとした。今回のフォーラム、私は本気で勝ちたかった。でも、そんな勝ち方は望んでなかった。あなたのせいで、私が本来自分の力で手に入れるべきだった賞を失った。あなたのせいで、医学界の人々に侮られ、疑われた。今はあなたの力でどうにかできるかもしれない。でも、これからは?あなたは香月と一緒になるべきよ。だって、あなたたちは本質的に同じ。どちらも自分本位なの。あなたの今の熱烈な追いかけだって、結局はあなた自身のため。私は欲しい、だから追いかけるそういう、自己中心的な執着でしかない。私にいいかって聞いた?戻りたいかって聞いた?必要かって聞いたこと、ある?」その一言一言が、北斗の心を突き刺した。彼が自分の中で愛や後悔だと信じていたものが、今この瞬間、すべて剥がれ落ちていくのが分かった。この愛は、本当に愛だったのか。それともただの執着、わがままな欲望だったのか?彼の中で、答えが揺らいでいた。「霜乃……ごめ
北斗は早くから空港で待っていた。アシスタントから、明希がどんな手段を使ったのか分からないが、霜乃が今回のフォーラムで提出した解答や実技映像を入手し、それを非常に権威のある医学フォーラムに公開したと聞いたとき、北斗の全身の血が一気に頭に上り、心拍が一気に跳ね上がった。スマートフォンを握る手が震えて止まらなかった。どうすればいい、どうすれば。またしても、全てを台無しにしてしまったのかもしれない。霜乃が白紙で提出したり、あえて賞を取らなかったのには、何か意図があったのかもしれない。もしかして、自分に対する怒りや反発だったのかもしれない。北斗には、もはや答えが分からなかった。何度もスマホを見返し、彼女からの新しいメッセージが届いていないかを確認した。だが、通知は一向に来なかった。「林社長、滑走路には入れません。お客様用の待機エリアでお待ちください」空港の地上係員に、彼は今日だけでもう三回は止められていた。またしても断られた彼は、仕方なく元の場所へ戻り、時計の針が進むのをじっと数えていた。......飛行機の到着予定時刻は、深夜三時だった。だが、北斗には少しの眠気もなかった。深夜の空港にも関わらず、旅客の数は意外に多かった。そして彼はようやく、人波の中から霜乃を見つけた。彼女は荷物を持っていなかった。手元にあるのは、小さなハンドバッグだけ。どう見ても、長居するつもりはなさそうだった。たった一年足らずの間に、彼女の印象は大きく変わっていた。かつては長い髪だったが、今は耳の辺りで切り揃えられたショートヘア。化粧もしていないが、肌の色艶はとても良かった。霜乃も、北斗に気づいた。だが、彼はその場で動けなかった。ぎこちなく手を振り、口元を引きつらせて笑い、口の形だけで「久しぶり」と言った。北斗には、たしかに自分の声が出ている感覚があった。だが、それはあまりに小さく、彼女には届いていなかっただろう。そして、彼女が人混みをかき分け、無表情のまま自分の方へ歩いてくるその瞬間、北斗には、世界に二人だけしかいないような錯覚さえ覚えた。彼はそっと両腕を広げ、抱きしめようとした。だが霜乃は、彼から一メートル手前で足を止めた。北斗は、自嘲気味にもう一度微笑み、手を下ろした。何も言わずに彼女を案内し、空港を出て、自分のビジネスカーへ
霜乃は、国内の医学フォーラムで公開されたクレーム投稿をマウスでスクロールしながら見ていたが、ただただ滑稽に思えた。自分の力でないもので何かを得たいと思ったことは一度もない。それなのに、またしても世間の注目の的に引き戻されてしまった。その時、彼女のスマートフォンが鳴り、知らない番号からのメッセージが届いた。【霜乃、ごめん。こんなことになるなんて思わなかった】【香月明希の投稿はすぐに処理させる。君には絶対に悪影響は出さない。今回の賞も、君が安心して受け取れるようにする。何のトラブルも起こさせない。信じてほしい】北斗だ。世界は茶番だ。今の霜乃には、それだけが真実に思えた。霜乃は北斗に返信せず、すぐに主催者へ電話をかけた。賞を辞退する旨を伝え、続いて辞退と経緯を説明した声明文をファックスで送信した。そして、予想通りすぐに北斗から再びメッセージが届いた。【霜乃、本当にごめん。君の通う学院に、新たに医療機器を寄贈することにした。それと、さっき上京市第一病院に依頼して、年末にもう一度、同じテーマでフォーラムを開催する準備を進めてる。今度こそ香月をちゃんと抑えるから、絶対に失敗させない】メッセージを見ながら、霜乃はただ苦笑した。しばらく考えた末に、一言だけ返信した。【私はあなたと復縁するつもりはない。どうか私の世界から出ていってください】送信すると同時に、彼女は北斗の新しい番号をブロックした。しかし、その直後、またもや別の番号からメッセージが届いた。送り主はやはり北斗だった。息が詰まるような圧迫感が胸にのしかかる。けれど、その一方で、彼女は諦めにも似た無力感を抱いた。次々と届く謝罪や約束のメッセージ。混じって届く銀行の入金通知。学長からの連絡。これが、かつて自分が望んでいたはずの生活だった。けれど今は、ただの重荷であり、邪魔であり、苦しみでしかなかった。以前はどうすれば北斗の心を掴めるかが悩みだった。今は、どうすれば完全に彼の影響と、息苦しい支配から逃れられるか、それが唯一の悩みだった。霜乃は、自分でもわかっていた。ブロックや削除には何の意味もない。北斗には力も、金もある。番号を変えるなど、彼にとっては造作もないこと。自分が彼と完全に接点を断つのは、不可能に近いのだ。窓辺に立ち、彼女は長く思案していた。まずは、真人
霜乃は、今回のコンテストが上京市で開催されるとは思ってもみなかった。学校の研究室での一件の後、学院中のほとんどの人が、真人を含めて、彼女が国内でも名の知れた製薬系企業の御曹司の元妻であることを知ることとなった。それ以降、周囲の彼女への態度は一変した。ある者は厄介事を恐れて距離を置き、ある者は利益を得ようと近づいてきた。だが、真人だけは変わらなかった。二人の間でこの話題が語られることは一度もなく、以前と同じように接してくれた。霜乃は、真人が自分に好意を持っていることには気づいていた。だが彼が決してそれを言葉にしないので、彼女も気づかないふりをして、友人関係を続けていた。今回、上京市に戻るにあたり、真人は同行を申し出たが、彼女はそれを断った。霜乃は、自分一人で、過去に失ったものを取り戻したかった。両親も、家族も、友人たちも上京市にいる。北斗との離婚があったからといって、この街に戻らない理由にはならなかった。コンテストは二日間にわたって行われ、初日は理論試験、二日目は実技試験だった。開催前日、上京市第一病院の院長が彼女に連絡を取り、軽く挨拶を交わしたあと、食事に誘った。霜乃は少し迷った末に、その誘いを受けることにした。しかし、予想外だったのは、そこに現れたのが病院の院長だけではなかったということだった。医学、医薬界の著名な人物たちが、顔を揃えていたのだ。席の場では、誰も彼女を咎めたり、過剰に注目したりはしなかった。その代わりに、出席していた教授たちは、ある医学的なテーマを巡って、理論から実践まで活発な議論を展開していた。そして、コンテスト本番の日。霜乃が渡された試験問題を見た瞬間、全ての理由が理解できた。今回のテーマは——昨夜、教授たちが議論していたものと同じ「喉の腫瘍」だった。彼らは明らかに、彼女にだけ事前に情報を与えていたのだ。霜乃は沈黙した。理由は、すぐに察しがついた。北斗だ。彼は、そういう人間だった。欲しいものがあれば、どんな手段を使ってでも手に入れようとする。彼女は答案を白紙で提出した。翌日の実技試験にも参加したが、わざとミスを繰り返し、完成度の低い操作を見せた。現場にいた医師たちが何度も注意を促したが、彼女はまるで聞こえなかったかのように振る舞った。試験後、彼女はすぐにアメリカ行きのチ
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