LOGINその場は、水を打ったように静まり返っていた。ふざけきった口調に、誰もがすぐには反応できず、呆気にとられて固まってしまったのだ。小夜も言葉を失っていた。従弟の航に恨みを買うような覚えは全くない。顔を合わせたことすら数えるほどだというのに、この理不尽な敵意は一体何なのだろう。「こら、航!謝りなさい!」怜奈が真っ先に我に返り、息子の耳を引っ張ると、小夜に向かってすまなそうに頭を下げた。航はすぐにその手を振り払い、不満げに言い返した。「はあ?なんでだよ。言われた通り呼んだだけじゃん。『お義姉さん』ってよ。何が間違ってんだよ」「航!」学が低い声で一喝する。その紳士的な佇まいも、もはや崩れ去っていた。父が本気で殴ろうとしているのを察知し、航はさっと身を翻して佳乃の背後に隠れた。大柄な体を小さく縮こまらせる。「叔母さん、助けてくれよ!」佳乃は、無表情の小夜と、険しい顔で近づいてくる兄、そして騒がしい甥を交互に見て、困り果てた顔でようやく一言絞り出した。「航、それはあなたが悪いのよ。謝りなさい……」航は途端に白けた顔になり、父の横をすり抜けると、屋敷の中へと逃げ込んでしまった。いくら呼んでも出てこない。学も後を追って中へ入っていった。中で繰り広げられる騒がしいやり取りを聞きながら、怜奈は気まずさとやるせなさを滲ませた。「本当にごめんなさいね。あの子、甘やかして育てちゃったから、常識がないのよ。後でしっかり言い聞かせるから!どうか許してやって」小夜は作り笑いを浮かべた。「大変ですね。本当にお疲れさまです」怜奈は言葉に詰まった。……昼食の時間。午前中の騒ぎのせいで、食卓の雰囲気はやや重苦しいものがあったが、佳乃と学の兄妹が親しげに言葉を交わすうちに、すぐに和らいでいった。小夜は黙々と食事をしながら、時折、周りの様子を窺った。義母の佳乃とその兄夫婦の仲は本当に良いようだ。何年も会っていなくても、少しも壁を感じさせない。席上では国内外の珍しい風景や出来事、そして彼女も興味のある芸術界の面白い話などが話題に上っていた。一方、義父の雅臣は会話にあまり加わることができず、終始、佳乃の皿に料理を取り分けては、時折愛想笑いを浮かべるだけだった。従弟の航はというと……視線を斜め向かいに移し、
小夜は、長谷川圭介という男をよく理解していた。圭介の中に、体の関係から生じたかりそめの情や執着が、多少はあったかもしれない。だが、仕事や旧友、そして初恋の相手には到底及ばない。この七年間、小夜はそれを嫌というほど思い知らされてきたのだ。圭介の心の天秤にかければ、小夜は間違いなく最も軽い存在だ。その点において、圭介は決して小夜の期待を裏切らなかった。事情を知らない佳乃は、何も言わずに出て行った息子に小言をこぼした後、小夜が気を悪くしたのではないかと案じ、慰めの言葉をかけた。……昼近くになり、佳乃の実家から来客があった。やって来たのは、佳乃の兄である遠藤学(えんどう まなぶ)、つまり圭介の伯父だ。妻の安藤怜奈(あんどう れいな)と息子の遠藤航(えんどう わたる)も一緒だった。小夜は佳乃と共に出迎えた。ほどなくして、紳士的な佇まいの中年男性が車から降りてくる。佳乃の姿を見るなり、学は笑顔で両腕を広げた。「佳乃」遠藤家で唯一の娘で末っ子である佳乃は、幼い頃から可愛がられて育った。嫁いでから長い年月が経ち、五十を過ぎた今でも、兄の前では少女のようにその胸に飛び込んだ。抱擁を交わした後、今度は義姉の怜奈と抱き合う。怜奈も親しみを込めて応じたが、続いて佳乃が甥の航を抱きしめようとしたところ、さっと身をかわされてしまった。「もう、この子ったら!叔母さんでしょ!」怜奈はそう言うと、航の額に軽くげんこつを落とした。真冬だというのに、父と同じくらいの背丈がある十八、九歳の少年は、薄い青色のデニムジャケット一枚という軽装だ。襟を大きく開け、首には華奢なシルバーチェーン。端正な顔立ちはどこか遊び人風で、気だるげに佇むその姿は強烈な存在感を放っていた。母に叩かれ、航は不機嫌そうに呟く。「ベタベタすんの嫌いなんだよ。気持ち悪い……」言い終わらないうちに、今度は学に頭を強く叩かれた。「父さん、何すんだよ!」「まあまあ、そんなに叩かないで。バカになっちゃうじゃない」佳乃は笑いながら兄の腕を引く。怒るどころか、航の元気いっぱいの様子が気に入ったようだった。学は呆れたように言った。「佳乃、お前まで甘やかすな。こいつは叩かなきゃ分からないんだ」怜奈も続けて尋ねた。「そういえば佳乃、圭介は
病室のドアが開かれる。失血が多かったのだろう、若葉は蒼白な顔でベッドに昏睡しており、右腕には包帯が幾重にも巻かれ、手の甲には点滴の針が刺さっている。圭介は、ベッドのそばに座っていた。しばらくすると、麻酔が切れてきたのか、ベッドの上の女の睫毛が微かに震え、やがてその瞳が開かれた。その視線は、どこか茫然と彼に向けられる。「圭介……?」「ああ、いるよ」ベッドの上の女は、かろうじて笑みを浮かべた。その目元は微かに赤く、力ない声で言った。「来てくれないかと、思ってた」「そんなことはない。約束しただろう」「そうね、約束してくれた。約束してくれたものね」若葉の目に涙が光り、不意に笑って言った。「圭介、私たち、知り合って何年になるかしら?」圭介は少し考え、「二十年、か」と答えた。「二十年と五ヶ月よ」若葉は、正確な数字を口にした。圭介は一瞬、言葉に詰まった。「よく覚えているな」「知ってるでしょう。あなたと知り合ってからの一日一日を、私は全部、はっきりと覚えているのよ」若葉は、蒼白な顔で微笑んだ。圭介は、何も言わなかった。若葉はさらに尋ねた。「私たちが初めて会った時のこと、覚えてる?」圭介は言った。「夏だったな」「そう、夏よ。あの時、私たちは九歳で、私が数ヶ月お姉さんだった。初めて会った時から、あなたの印象はすごく強かったわ」そう言うと、若葉は思わず笑みをこぼした。「母にあなたと遊ぶように言われたんだけど、あなたはあの頃、木彫りに夢中だったでしょう。私があなたの机の上にあった木彫りに興味を持って、一つ手に取ろうとしたら、突き飛ばされて。それでうっかり、いくつか壊しちゃったの。もう少しで殴り合いになるところを、最後はおばさんと母に引き離されたわね」圭介もその時のことを思い出し、わずかに笑った。若葉は続けた。「その後、家に帰って考えたら、やっぱりあなたの好きなものに勝手に触っちゃいけなかったって反省して。わざわざ母に頼んで、お詫びにいくつか木彫りを買ってきてもらって、それでようやく仲直りしたのよね。それからよ。小学校も、中学校も、高校もずっと一緒で、大学はお隣同士で、その後は一緒に留学して……」思い出話は、長く続いた。圭介はただ黙ってそれを聞いていた。
圭介は血相を変え、さっとベッドから身を起こした。パジャマのまま、ハンガーから黒のロングダウンをひっ掴んで羽織ると、そのまま部屋を飛び出した。「それで、今はどうなんだ?容体は?救急車は呼んだのか?」圭介に矢継ぎ早に問いただされ、容子はようやく我に返り、嗚咽を漏らしながら病院の名を告げた。圭介は彼女の要領を得ない話を遮ると、樹の面倒を見るよう言い含め、自分もすぐに向かうと落ち着かせてから電話を切った。ダウンのジッパーを乱暴に引き上げると、彼は電話で執事を叩き起こし、車を手配させて庭へと向かった。こんな時間に突然、しかも病院へ向かうとあっては、執事が雅臣に報告しないはずがなかった。雅臣が慌てて起き出し、庭へ駆けつけた時には、すでに車と運転手が待機しており、圭介が乗り込むところだった。彼は慌てて圭介を呼び止めた。「待て!」……車に乗り込もうとしていた圭介は動きを止め、体勢を戻して振り返った。「父さん」執事からおおよその事情を聞いていた雅臣は、顔を怒りに歪ませていた。「お前は医者でもないだろう。行ったところで、何になるというんだ!」「様子を見に行かなければ」「何が様子だ!」雅臣は怒鳴った。「分かっているのか、小夜こそがお前の妻だぞ!お前は彼女をここに閉じ込めておきながら、関係を修復する努力もせず、こんな夜更けに他の女の元へ行くなど。これがどんな結果を招くか、考えたことがあるのか!」圭介は黙り込んだ。長い沈黙の後、彼は感情を押し殺した静かな口調で言った。「父さん、ご存知のはずだ。若葉には約束したんだ。放ってはおけないと」雅臣は怒りのあまり、声が震えた。「では、考えたことがあるのか。お前と若葉くんの噂が、最近どれだけ広まっているか。母さん以外、親戚中でその噂を知らない者がいるとでも思うのか!明日はお前の叔父さん一家も来るんだぞ。お前が小夜を一人ここに残していけば、周りは彼女をどう見る?彼女自身はどうすればいい?どう思えと言うんだ!お前のあの聡明さはどこへ行った!」最後の言葉は、もはや咆哮に近かった。闇夜に激しい風が吹き荒れ、心の底まで凍てつくようだ。庭の空気は張り詰めた。圭介は庭の中央に立ち、その整った顔は闇に沈んで表情が読めない。長い沈黙の後、ごく小さな呟きが
長谷川本家。本家での丸一日、小夜は佳乃のそばに付き添い、彼女が何をしようと、そのあとについて回った。話に付き合い、一緒に絵を描く。佳乃自身、画壇では名の知られた存在であり、特に風景画や動物画を得意としていた。その筆致は詩的で、描かれた風景や動物は、まるで目の前に存在するかのように躍動感に満ちていた。広々とした画室。白いカーテンが風に揺れ、燦々と降り注ぐ陽光がガラス越しに差し込んでいる。一面の純白の中、二人の美しい女性が部屋の中央に並んで座っている。目の前のイーゼルには長方形のキャンバスが置かれ、雪のような白と灰黒の色彩がその上を彩っていた。小夜は、佳乃が真剣にキャンバスに向かう姿を、静かに見つめていた。やがてキャンバスには一枚の冬景色が浮かび上がった。西洋風の尖塔を持つ館が、枯れ木の林の中にぽつんと佇んでいる。葉を落とした木々の枝には無数の巣があり、多くのカラスが翼を広げたり、静かに佇んだりして、今にも空へ飛び立とうと身構えていた。視線を下へ移すと、キャンバスの隅で一羽の、瀕死のカラスが雪の上に倒れ、その黒い瞳で灰色の空を見上げていた。生命力と、息苦しいほどの圧迫感が共存している。小夜は、思わず眉をひそめた。彼女には絵心がある。その技量や感性は、プロにも引けを取らない。だからこそ、一枚の絵の背後にある心境や葛藤を、一目で見抜くことができた。この数年、義母の状態はずいぶんと良くなったのだと、ずっと思っていた。冗談を言って笑い、遊ぶこともあり、その年齢にしては稀有なほどの天真爛漫さを保っている。佳乃を知らない者が初めて会えば、こんなに美しく優しい女性が、長年うつ病に苦しんでいたとは、とても想像できないだろう。しかし、佳乃の絵だけは、終始変わることがなかった。生命力と圧迫感が紙一重で、まるで何かに必死にもがいているかのようだ。「お義母様の描かれる動物は、いつも本当に生き生きとしていますわね」小夜は、キャンバスの上の息絶えそうなカラスに指をかざし、その輪郭を空中でそっとなぞりながら尋ねた。「どうして、人物画は描かないのですか?」これほど生き物を生き生きと描く技術をお持ちなのに、義母が人物を描くのを見たことがない。ずっと、不思議に思っていた。佳乃はそっと絵筆を置くと、絵の中のカ
車はそのまま、本家の車寄せに滑り込んだ。小夜が車を降りるなり、待ち構えていた佳乃が駆け寄って彼女を抱きしめ、柔らかな声で呼びかけた。「小夜ちゃん」耳元で響く、聞き慣れた慈愛に満ちた声に、小夜の目頭が不意に熱くなる。この家で、今や彼女が唯一、心から慕える人だ。佳乃の肩に顔を埋め、震える声で応えた。「お義母様」「ええ、ええ。好物を作っておいたのよ。さあ、いらっしゃい」佳乃は愛おしげに彼女の顔を覗き込むと、その手を引いて家の中へと促した。歩きながら、小夜はそっと佳乃の顔色を窺った。前回会った時よりも血色が良く、ずいぶんと回復した様子に、ようやく少しだけ安堵した。二人が家に入っていく。一歩遅れた圭介は、険しい顔つきの雅臣と視線を合わせた。「書斎へ来い」雅臣は冷たく言い放つと、背を向けて階上の書斎へと向かった。圭介は小夜の去った方向を一瞥したが、黙って父の後について階段を上がった。……「一体、何を馬鹿な真似をしているんだ!」書斎に入るなり、雅臣の抑えつけていた怒りが爆発した。多少の分別があり、相手が自慢の優秀な息子でなければ、手が出ていただろう。雅臣の怒りが収まるのを待って、圭介はようやく淡々と口を開いた。「彼女が、国外へ行こうとしていたんだ」雅臣の怒りが、ぴたりと止んだ。その顔に、わずかに苦渋の色が浮かぶ。「国外へ?どこだ?どこの国だ?」「パリ」「パリ、か」雅臣の表情が少し和らいだが、すぐにまた厳しい口調に戻った。「だからといって、あんな常軌を逸した真似が許されると思うな。無法にもほどがある。交通事故?拉致?どれだけの目が貴様を監視していると思っているんだ。こんな騒ぎを起こして、上に知れたらどうするつもりだ!その時、どう釈明する!」「慎重に処理する。問題ない」圭介は平然と言ってのけた。雅臣は怒りのやり場を失い、胸に憤りが渦巻くものの、それ以上叱責する言葉が出てこなかった。この息子は幼い頃からエリートとして育て上げ、何事においても優秀で、常に理性的で自制心があった。やり方は非情でも、常に行動は慎重だった。これほど狂気じみた真似をしたことなど、一度もなかった。しかし、その理由を思えば、理解できなくもない。自分は、この息子ほど非情にはなれない。だからこそ、長







