Share

第14話

Author: 一燈月
「大したことじゃないんだけどさ」

その話になると、陽介はふうっと息をつき、少し身を乗り出した。

「兄が最近帰国してさ、しばらくは海外にも行かないで、今年は国内にいるみたいなんだ。

明後日、あいつのためにうちで宴を開くことになってな。身内と親しい友人だけ呼ぶんだけど、お前たち二人も来いよ」

彼がそう言う時、宴への招待が長谷川圭介宛には夫婦二人分で届いているという事実を、意にも介さない様子だった。

陽介にしてみれば、高宮小夜が来る必要など全くなく、ただ邪魔なだけだ。天野家は、彼女を歓迎しない。

圭介と若葉さえ来てくれればいい。

「宗介兄もお戻りになったのね」

若葉の美しい切れ長の瞳が一瞬揺らぎ、すぐに微笑んで応えた。

「もちろん、行かせていただくわ。どうして早く言ってくださらなかったの、プレゼントの準備も間に合わないじゃない」

陽介は手を振った。

「そんなもん、お前が準備する必要なんてないって。お前が来てくれるだけでいいんだよ」

彼は圭介の方を向いた。

「圭介、お前、その日は空いてるよな」

圭介は淡々と言った。

「ああ、行く」

彼と宗介には多少の付き合いがあり、相手が帰国したことも、招待状が届いていたこともとっくに知っていた。当然、行くつもりだった。

話がまとまると、一同はしばらく賑やかに過ごしてから、それぞれ解散した。

陽介と別れた後、若葉は圭介の車に乗り、相沢家の屋敷へと向かった。

車が相沢家の門の前に停まったが、圭介は一緒に降りようとしなかった。

若葉は不思議そうに尋ねた。

「圭介?」

「今夜はだめだ。昼間、家の千代から用事があると電話があってな。一度戻らないと」

圭介は穏やかな声でそう説明すると、車を発進させた。

若葉は車が走り去る方向を見つめていた。その優美で穏やかだった笑みは一瞬で消え去り、氷のように冷たく、陰鬱な表情に変わる。

……また、高宮小夜。本当に、しつこい女ね。

……

昨夜はポートフォリオの制作で徹夜し、今朝は早起きして出社した。

午前中だけで立て続けに三人も面接し、小夜の疲労は色濃くなっていた。この働き詰めの日々は、体にこたえる。

会社での引き継ぎは、できるだけ早く終わらせなければ。

昼食を適当に済ませると、小夜はオフィスで少し昼寝をしようとソファに横になった。しかし、眠りについて間もなく、けたたましい携帯の着信音が鳴り響いた。

発信者の表示を見て、小夜は驚きに目を見張った。

圭介からだった。

記憶にある限り、彼から連絡してきたことなど、数えるほどしかない。いつも自分から一方的に連絡し、圭介は常に不機嫌な態度だった。

以前の自分なら、圭介から連絡があれば、きっと大喜びしただろう。

しかし今、小夜は電話に出ることすら億劫だった。だが、離婚の話かもしれないと思い直し、彼女は通話ボタンを押した。

聞き慣れた、冷たい声が聞こえてきた。

「母さんが、今夜一緒に本家で食事を、と。いつ仕事が終わる?迎えに行く」

小夜は何も言えず、少し茫然とした。

義母が本家での食事に誘ってくれることに驚きはない。長谷川家で、彼女に最も良くしてくれたのは義母だった。しかし、圭介は何を言っているのだろう?

圭介が、迎えに来る?

この数日間の働き詰めで、ついに後遺症でも出て、疲労のあまり幻覚を見ているのではないか、と彼女は思った。

電話の向こうは、小夜がなかなか返事をしないのを見ると、「仕事が終わったら迎えに行く」とだけ言い放って電話を切った。彼女が承諾したかどうかも確かめずに。

いつもの、彼女を無視し、ぞんざいに扱うスタイルだ。

小夜はふうっと息をついた。幻覚ではなかったらしい。彼女は寝返りを打つと、昼寝を再開した。

この食事を断るつもりはなかった。

圭介が電話で話したがらないのなら、夜、一緒に本家へ行く時に話せばいい。ようやく捕まえたのだから。

……

夕方、仕事が終わるや否や、圭介の車が会社の近くに停まった。

樹も一緒だった。

樹は二人の間に座っていた。ママを見て挨拶しようと思ったが、数日前にママが若葉さんをあんなに困らせたことを思い出した。

若葉さんは後ですごく悲しんでいて、自分が長いこと慰めてあげたのに、ママはこの数日間、謝りの電話一本もしてこない。

そう思うと、樹はふんとそっぽを向いて、ママを無視することにした。

小夜は樹の態度に驚かなかったが、彼をなだめる気力もなかった。自分が間違っているとも思わない。

どうせ、これからは樹に対して母親としての責任が残るだけだ。

しかし、樹が車に乗っている以上、小夜は子供の前で圭介に直接離婚の話を切り出すことはしなかった。

こういう話は、子供の前でするべきではない。

夜の六時、七時頃は、帝都のラッシュアワーのピークだった。

普段なら三十分ほどの道のりが、一時間経ってもまだ着かない。その上、途中で問題が起きた。

圭介に、一本の電話がかかってきた。

その顔が一瞬で和らぎ、聞いたこともないほど優しい声色になるのを見て、小夜は電話の相手が誰なのか、すぐに察した――相沢若葉だ。

「分かった、心配するな。すぐに行く」

圭介は電話を切ると、無表情で小夜の方を向き、淡々と言った。

「少し用事ができた。今夜は本家には行けない」

小夜は何かを察し、心が冷えていくのを感じた。

「どういうこと?」

「本家の運転手を寄越す」

圭介はそう言うと、運転席の桐生に命じて有無を言わさず小夜を車から降ろし、同じように若葉さんを心配して一緒に行くと叫ぶ樹を連れて、あっという間に走り去った。

小夜は寒風の中に立ち、遠ざかる車を見つめていた。心の底から冷え切っていた。

もはや麻痺してしまったのか、しばらくすると、小夜は落ち着いて携帯を取り出し、タクシーを呼んで仮住まいのマンションへ帰ろうとした。もう、本家で食事をする気も失せていた。

今は、長谷川家の人間に会いたくなかった。

その時、携帯が鳴った。義母の長谷川佳乃(はせがわ よしの)からの電話だった。

通話に出るとすぐ、向こうから佳乃の、怒気を含みながらもどこか優しい声が聞こえてきた。

「圭介のあのバカ息子!夫の務めも果たさないで、なんてことするの!

あなたを一人、道端に残すなんて、こんな寒い日に。帰ってきたら絶対に家法で罰してやるわ!棒でぶん殴ってやらなきゃ気が済まない!」

一通り怒りを発散させると、今度は慌てたように言った。

「小夜ちゃん、どこか暖かい場所で待っててちょうだい。凍えちゃだめよ。お母さんがすぐに迎えに行くから」

小夜は驚いた。

「お義母さん、来なくて大丈夫です、私……」

自分で帰るから、また日を改めて伺います、と言おうとしたが、向こうはすでに電話を切っていた。

耳元で響くツーツーという音を聞きながら、小夜は少し呆れ、むしろ笑えてきた。この、一方的に要件を伝えてすぐに電話を切る癖は、長谷川家に代々伝わるものなのかしら。

しかし、義母の佳乃は圭介とは違う。善意からだ。

そして、長谷川家で、佳乃は最も良くしてくれた人だった。

それに、小夜はこの義母の性格をよく知っていた。自分で迎えに来ると言ったら、必ず自分で来る。彼女を迎えられない限り、諦めることはないだろう。

車を見逃すのが怖くて、小夜は道端で待つしかなかった。

車を待っていると、携帯が震えた。メッセージを見て、小夜は思わず固まった。

数日前に会ったばかりの、あの顧客――つまり、天野宗介からのメッセージだった。

相手から送られてきたのは、天野家の宴の電子招待状だった。しかも、彼女個人を招待するものだ。

小夜は、心底不思議に思った。

天野家で宴があるなんて、どうして私は知らないのだろう?

両家の親同士の付き合いを考えれば、天野家は彼女と圭介の関係を知っているはずだ。こうした宴には、本来なら夫婦揃って招かれるものだが、招待状はとっくに圭介の元へ届いていたはずなのに、彼女は何も知らなかった。

圭介は、なぜこの宴のことを教えてくれなかったのか?

そうか、彼はいつも自分の妻の存在を公にしたがらない。今や相沢若葉も帰国したのだ。宴会に彼女を連れて行くはずがない!

先ほど、圭介が若葉からの電話一本で自分をあっさり捨てた行為を思い出し、小夜は心の中で冷笑した。

それにしても、自分はこの天野家とは親しくないし、陽介との関係は最悪だ。

あの天野宗介も、山荘では自己紹介すらしなかったのに、今になって突然、こんな特別そうな宴に自分だけを招待するなんて、一体どういうつもりなのだろう?

考えても分からないなら、直接聞けばいい。小夜は、迷わず電話をかけた。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第188話

    長谷川本家。本家での丸一日、小夜は佳乃のそばに付き添い、彼女が何をしようと、そのあとについて回った。話に付き合い、一緒に絵を描く。佳乃自身、画壇では名の知られた存在であり、特に風景画や動物画を得意としていた。その筆致は詩的で、描かれた風景や動物は、まるで目の前に存在するかのように躍動感に満ちていた。広々とした画室。白いカーテンが風に揺れ、燦々と降り注ぐ陽光がガラス越しに差し込んでいる。一面の純白の中、二人の美しい女性が部屋の中央に並んで座っている。目の前のイーゼルには長方形のキャンバスが置かれ、雪のような白と灰黒の色彩がその上を彩っていた。小夜は、佳乃が真剣にキャンバスに向かう姿を、静かに見つめていた。やがてキャンバスには一枚の冬景色が浮かび上がった。西洋風の尖塔を持つ館が、枯れ木の林の中にぽつんと佇んでいる。葉を落とした木々の枝には無数の巣があり、多くのカラスが翼を広げたり、静かに佇んだりして、今にも空へ飛び立とうと身構えていた。視線を下へ移すと、キャンバスの隅で一羽の、瀕死のカラスが雪の上に倒れ、その黒い瞳で灰色の空を見上げていた。生命力と、息苦しいほどの圧迫感が共存している。小夜は、思わず眉をひそめた。彼女には絵心がある。その技量や感性は、プロにも引けを取らない。だからこそ、一枚の絵の背後にある心境や葛藤を、一目で見抜くことができた。この数年、義母の状態はずいぶんと良くなったのだと、ずっと思っていた。冗談を言って笑い、遊ぶこともあり、その年齢にしては稀有なほどの天真爛漫さを保っている。佳乃を知らない者が初めて会えば、こんなに美しく優しい女性が、長年うつ病に苦しんでいたとは、とても想像できないだろう。しかし、佳乃の絵だけは、終始変わることがなかった。生命力と圧迫感が紙一重で、まるで何かに必死にもがいているかのようだ。「お義母様の描かれる動物は、いつも本当に生き生きとしていますわね」小夜は、キャンバスの上の息絶えそうなカラスに指をかざし、その輪郭を空中でそっとなぞりながら尋ねた。「どうして、人物画は描かないのですか?」これほど生き物を生き生きと描く技術をお持ちなのに、義母が人物を描くのを見たことがない。ずっと、不思議に思っていた。佳乃はそっと絵筆を置くと、絵の中のカ

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第187話

    車はそのまま、本家の車寄せに滑り込んだ。小夜が車を降りるなり、待ち構えていた佳乃が駆け寄って彼女を抱きしめ、柔らかな声で呼びかけた。「小夜ちゃん」耳元で響く、聞き慣れた慈愛に満ちた声に、小夜の目頭が不意に熱くなる。この家で、今や彼女が唯一、心から慕える人だ。佳乃の肩に顔を埋め、震える声で応えた。「お義母様」「ええ、ええ。好物を作っておいたのよ。さあ、いらっしゃい」佳乃は愛おしげに彼女の顔を覗き込むと、その手を引いて家の中へと促した。歩きながら、小夜はそっと佳乃の顔色を窺った。前回会った時よりも血色が良く、ずいぶんと回復した様子に、ようやく少しだけ安堵した。二人が家に入っていく。一歩遅れた圭介は、険しい顔つきの雅臣と視線を合わせた。「書斎へ来い」雅臣は冷たく言い放つと、背を向けて階上の書斎へと向かった。圭介は小夜の去った方向を一瞥したが、黙って父の後について階段を上がった。……「一体、何を馬鹿な真似をしているんだ!」書斎に入るなり、雅臣の抑えつけていた怒りが爆発した。多少の分別があり、相手が自慢の優秀な息子でなければ、手が出ていただろう。雅臣の怒りが収まるのを待って、圭介はようやく淡々と口を開いた。「彼女が、国外へ行こうとしていたんだ」雅臣の怒りが、ぴたりと止んだ。その顔に、わずかに苦渋の色が浮かぶ。「国外へ?どこだ?どこの国だ?」「パリ」「パリ、か」雅臣の表情が少し和らいだが、すぐにまた厳しい口調に戻った。「だからといって、あんな常軌を逸した真似が許されると思うな。無法にもほどがある。交通事故?拉致?どれだけの目が貴様を監視していると思っているんだ。こんな騒ぎを起こして、上に知れたらどうするつもりだ!その時、どう釈明する!」「慎重に処理する。問題ない」圭介は平然と言ってのけた。雅臣は怒りのやり場を失い、胸に憤りが渦巻くものの、それ以上叱責する言葉が出てこなかった。この息子は幼い頃からエリートとして育て上げ、何事においても優秀で、常に理性的で自制心があった。やり方は非情でも、常に行動は慎重だった。これほど狂気じみた真似をしたことなど、一度もなかった。しかし、その理由を思えば、理解できなくもない。自分は、この息子ほど非情にはなれない。だからこそ、長

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第186話

    「喧嘩?してないよ」樹は少し考えて、正直に答えた。ママはいつも優しい。唯一、ママが怒ったのを見たのは、自分が若葉と一緒にいた時だけだ。おかげで今では、若葉と遊ぶことをママに言うのが怖くなってしまった。「若葉さん、前にママと誤解があるから、ちゃんと話して仲直りするって言ってたけど、いつ仲直りするの?」こうしてママに隠し事をするのは、すごく面倒くさい。「もうすぐよ、もうすぐ」若葉は軽く笑い、樹の頭を優しく撫でながら、その艶やかな瞳の奥に宿る、どす黒い憎しみを隠した。「パパとママが喧嘩してなくて、本当によかったわ。それで、樹くんはちゃんとママのそばにいて、慰めてあげてる?」彼女は、心配そうなふりをして尋ねた。「うん、してるよ」樹はこくこくと頷き、目を細めて笑った。「若葉さんの言うこと、ちゃんと聞いてるよ。毎日ママと一緒に寝てるんだ。ママ、すごく嬉しそうだよ」そう。若葉の口元に、満足げな笑みが浮かぶ。樹を数日長谷川家に残しておいた甲斐があったというものだ。本来なら、あの日、圭介が承諾した時点で、樹を自分の家に連れてきて遊ばせることができた。だが、彼女は考えを変え、樹を数日長谷川家に残して、小夜の邪魔をさせてやることにしたのだ。圭介が何を考えてこんな真似をしているのかは分からないが、一度約束した以上、自分の男が他の女と、たとえ元妻であろうと寝ることは許せない!過去七年間の結婚生活などなかったことにしてやれる。だが、これからの圭介は、自分だけのものだ!今夜、樹を実家に連れて行って両親を安心させてから、また送り返そう。若葉はそう考え、その艶やかな瞳に妖しい光を宿した。……翌日。朝、圭介の腕の中で目を覚ました小夜は、腰に回された腕を振り払うと、顔を洗おうと身を起こした。しかし、腰の腕に力がこもり、ぐいと引き戻される。そのまま抱きかかえられると、浴室へと運ばれた。この数日、彼女が手に怪我をしていたため、普段は強引な圭介が珍しく辛抱強く、歯磨きから洗顔まで手伝ってくれていた。一体、何の気の迷いなのか。浴室に着くと、暖房は効いているものの、床のタイルはまだ少しひんやりとしている。小夜は素足を圭介の足の甲に乗せた。朝っぱらから、気分は最悪だ。彼女は深呼吸を一つすると、圭介が差し出

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第185話

    芽衣が外で奔走している間も、小夜は手をこまねいてはいなかった。一室に閉じ込められ、できることは限られていたが、それでも彼女は弁護団に連絡を取り、人を雇って圭介を慎重に見張らせ、より確実な不倫の証拠を押さえるよう依頼した。今度こそ、言い逃れのきかない決定的なものを。圭介の束縛から逃れた時、これらはすべて、形勢を逆転させるための強力な武器となる。彼女は、決して運命に屈するつもりはなかった。……あっという間に、金曜の午後になった。食事の時間になっても、樹が学校から帰ってこない。心配になった小夜が、食事を運んできた千代に尋ねると、彼女は言葉を濁し、はっきりとは答えなかった。小夜は、すぐに察した。平然とした顔で何も言わず、千代を下がらせた。手の怪我もだいぶ良くなり、もう一人で食事はできる。圭介が書斎で仕事を終えて戻ってくると、まっすぐに、ほのかな明かりが灯るバルコニーへと向かった。揺り椅子に身を預け、暖色の光に照らされ、しなやかな曲線を描く女に触れようとした瞬間、屈み込んできた圭介の胸を、小夜の細い腕が強く押し返した。小夜は、覆いかぶさろうとする男を冷ややかに見つめる。その表情には、わずかな苛立ちが浮かんでいた。「本家へ、お義母様のお見舞いに行きたいの」樹はいない。圭介と二人きりで、同じ空間にいたくなかった。それに、確かに義母の佳乃のことも少し気にかかっていた。圭介はもちろんその意図を理解していたが、何も言わず、揺り椅子の両側に手をつき、身の下の柔らかな女を静かに見つめる。その体の隅々までが、彼の情欲を掻き立てていた。腕一本分の距離を保ち、上と下で対峙したまま、どちらも動かない。茜色の夕日が差し込み、静かで、どこか甘美な空気が流れる。しばらくして、小夜は唇を軽く噛み、圭介を押し返していた腕をゆっくりと下ろした。しかし、彼の思い通りに事が進むのを、許すつもりはなかった。圭介は笑った。一拍置いて、彼は小夜のしなやかな腰を片腕で抱き寄せ、もう片方の手で揺り椅子の肘掛けを支えながら、体を滑り込ませるようにして横になった。白く柔らかな雲のような体が、ふわりと揺れて彼の腕の中へと落ちる。小夜は一瞬虚を突かれ、身を起こそうとしたが、腰を強く押さえつけられて沈み込む。圭介が彼女の腰

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第184話

    若葉は書斎にいて、圭介と長く話し込んだ。話は、昼まで続いた。食事には引き留めず、数日後に彼女の実家へ同行することを約束すると、圭介は自ら若葉を階下まで送り、その姿を見送った。寝室へ戻ると、千代が小夜に食事を食べさせているところだった。圭介も傍らに腰を下ろし、自分も食事を摂りながら、その様子を静かに見ていたが、次第にその眼差しが変わっていく。小夜の食べ方は上品だった。薄い唇を小さく開け、ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。その所作は落ち着いていて、見ていて飽きないものだった。しばらくそうして食べた後、圭介が不意に口を開いた。「もういい、下がってくれ」千代は戸惑いながらも、箸を置いて部屋を出て行った。小夜は、いぶかしげに彼を見つめる。また、何なの?圭介は小夜の前に座ると、箸を取って小さく切った牛肉を挟み、その口元へ運んだ。涼やかな切れ長の目が、笑みを湛えている。小夜は顔を背けた。「もう、お腹いっぱいよ」「二、三口しか食べていないだろう。加藤さんの作ったものが、口に合わなかったか?」圭介は軽く笑った。「なら、作り直させよう」「いい加減にして!」小夜が目の前の男を睨みつけるが、圭介はただ笑って、箸をさらに近づけた。「自分で食べられる」小夜が箸を取ろうとすると、その手首を掴まれた。「まだ傷が治っていない。無茶をするな」結局、彼女は圭介に一口ずつ食べさせられる羽目になった。その手つきは丁寧で優しく、珍しく甲斐甲斐しく世話を焼いているようだった。ただ、その眼差しがどこかおかしい。見つめられるうちに、小夜は背筋が寒くなるのを感じた。そこそこに食べたところで、彼女は満腹だと偽って食事を終え、唇を拭うと、バルコニーの方へ向かおうと立ち上がった。今の小夜の活動範囲は、この主寝室の中だけだ。しかし、立ち上がった途端、腕を強く引かれ、驚く間もなく圭介の厚い胸板へと倒れ込む。唇は力ずくで奪われ、水音が漏れ、重い喘ぎ声が耳元で渦巻いた。大きく熱い手がセーターの下に滑り込み、肌を愛撫して身体に火をつけた。小夜は、触れられた場所が熱く痺れて力が抜けていくのを感じ、しばらくはなすがままにキスをされていたが、やがてはっと我に返った。この男、また発情してる!キスで頭がぼうっとする中、必死に頭をのけぞ

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第183話

    「小夜?小夜?」耳元で不意に響いた声が、彼女を現実に引き戻した。「うん、聞いてる」小夜は胸に渦巻く思いを無理やり抑え込み、芽衣と協力についての話をいくつか交わした後、ようやく小声で尋ねた。「私の方で、何かできることはある?」「自分の身を守ることだけ考えてて!」芽衣はそう請け負った。「私は、できるだけ早く動くから!」電話が切れ、小夜はしばらく呆然としていた。『雲山』、その名前…………数年前、大学の研究室。小夜はパソコンの前に座り、画面に映し出された、自分に何の隠し立てもなく開示された膨大な量のソースコードを、感嘆の眼差しで見つめていた。「すごい!青山、あなた、本当に天才よ!このモデルが完成したら、絶対にAI業界で有名になるわ!この分野の第一人者になれる!」小夜の隣に立つ小林青山(こばやし あおやま)は、背筋がすっと伸びていた。その言葉を聞き、彼は快活で朝日のような笑みを浮かべ、口を開いた。その声は、優しくも力強かった。「じゃあ、ささよ君はずっと、この道のりを見届けて、そばで励まし続けてくれた。だから、このモデルが完成したら、名前をつけたいんだ」青山は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐに小夜を見て言った。「僕の名前は『青山』だろ?だから……『雲山』というのはどうだ」「えっ、雲山……?」「ああ。高くそびえる山には、いつだって雲が寄り添っているものだ……まるで、ずっと僕を支えてくれた君みたいに。二人で、誰にも到達できない高みを目指すんだ」その時の小夜は、驚きと、胸の奥が熱くなるような恥じらいを感じながらも、勇気を出して頷いた。「うん、いいわ」その後、すべてがあまりに早く変わりすぎた。少年の心に芽生え、小夜の心にも静かに降り積もっていた密かな想いは、育つ暇もなく大波に打ち砕かれ、粉々になった。それきり、長い年月が二人を隔てた。もし、本当に彼だとしたら……小夜は、どんな顔をして彼に会えばいいのか分からず、心に臆する気持ちが芽生えるのを感じた。ソファの上で、小夜は両腕で膝を抱え、そこに顔を埋めたまま、久しく動かなかった。少しでも動けば、きりきりと痛む心が引き裂かれそうで、言葉にできない感情に苛まれる。……書斎。若葉がドアを開けて中へ入ると、何気なく部

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status