Share

第15話

Author: 一燈月
呼び出し音が数回鳴った後、電話は繋がった。

「徒花先生」

電話の向こうから聞こえてきたのは、宗介の優雅で、どこか笑みを含んだ声だった。清らかな泉の響きを思わせるその声に、小夜は一瞬、心を奪われそうになる。

しかし、すぐに我に返ると、礼儀正しく挨拶を返し、本題を切り出した。

「天野様、先ほどお送りいただいた招待状の件ですが、失礼ながら、どのようなご意図でしょうか」

小夜は一拍置いて、丁寧に断りの言葉を続けた。

「私と天野様との間のお取引は、先日礼服をお納めした時点で完了したと認識しておりますが」

相手が天野家の長男だと分かった以上、彼女はますます関わりたくなかった。

山荘で感じた血の匂い、そしてあの狂気じみた放蕩者の弟。天野家からは、ただ距離を置きたいと願うばかりだった。

この一家は、あまりに厄介すぎる。

電話の向こうから、くすり、と軽い笑い声が聞こえた。明らかに、彼女の言葉の裏にある意図を読み取っている。

「高宮さん」

今度は、宗介は彼女の本名を直接呼んだ。温かい声で、笑いながら言う。

「あなたが作ってくださった礼服、大変気に入りました。これはささやかな宴で、感謝の印でもあります。どうか、私、天野の顔を立てていただけませんか」

これは、完全にこちらの素性を知った上での物言いだ。

相手の口調は終始穏やかで優しいが、その言葉には逆らうことを許さないような響きがあった。

小夜はふと、この天野家の兄弟は、ある一点において非常に似ていると思った。二人とも同じように強引だ。ただ、兄の方が弟よりずっと成熟し、手練手管に長けている。

こう言われてしまっては、もう断れない。

ただ……

小夜は数秒黙り込んだが、やはり尋ねずにはいられなかった。

「天野様、私どもを結びつけるものは、礼服一着きりです。宴という、特別で大切な場に、私のような部外者がお邪魔しては、ご迷惑ではないでしょうか」

小夜と圭介(けいすけ)は籍を入れただけで、彼女の身分を公にしてはいなかった。

世間は圭介が既婚者であることしか知らず、その妻が誰なのかは知らない。

圭介が小夜を社交の場に連れて行くことは滅多になく、ごく近しい友人たちだけが知る事実だった。そのため、圭介の妻としての彼女の存在は、社交界ではほとんど知られていない。

長谷川家と天野家は親しい付き合いがあったが、陽介が彼女を嫌っていたため、小夜は天野家と接触したことがなかった。

宗介は長年海外にいたため、二人はこれまで会ったことすらなかった。彼が自分のことを知っているはずがない。

しかし今、彼は自分の名前を呼ぶことができる。明らかに身元を調べられている。それなのに、送られてきた招待状に書かれていたのは、彼女のデザイナーとしての雅号「徒花」だった。

つまり、相手が招待しているのは彼女個人であり、圭介の妻という立場のためではない。

だからこそ、余計に不可解だった。

この、一度しか会ったことのない顧客と、他に何の接点もない。交友関係など言うまでもない。普通の宴会ならまだしも、これは宴なのだ。

宗介の答えは、相変わらず穏やかで落ち着いていた。

「私は、高宮さんを気に入っている」

小夜は言葉を失った。

そんな理由で納得できるはずがない。自分の何を知っているというの?……まあ、デザイナーとしての腕は確かだけれど

芸術デザインの分野において、小夜は常に自信を持っていたし、その自負もあった。

しかし、直感が告げていた。宗介が口にする「気に入っている」という言葉は、きっとそれほど単純な意味ではない、と。

自分の答えがあまりに素っ気ないと思ったのか、宗介は笑って言った。

「高宮さん、宴にお越しいただければ、お分かりになりますよ」

小夜はまだ聞きたいことがあったが、相手の口調が、穏やかではあるものの、電話に出た時より少し冷たくなっているのを感じ取った。もう、苛立ちが滲んでいる。

電話を切り、小夜は眉をひそめてその場にしばらく立ち尽くし、やがて電話帳を開き始めた。

彼女は、まだ腑に落ちなかった。

この数千万円にもなる大きな依頼を紹介してくれた友人に、聞いてみることにした。

当時、この依頼を受けたのは、上流階級にいる、ある親しい友人からの紹介だった。関係が良く、これまでにもいくつか良い案件を紹介してくれていたため、顧客がこれほどミステリアスでも、彼女は引き受けたのだ。

しかし、その時はこの大口案件が具体的にどういう経緯で来たのかは尋ねず、ただ友人の広い交友関係のおかげだろうと思っていた。

今こそ、確かめる時だ。

……

小夜が電話をかけようとした、その時。遠くから、女性の優しく柔らかな呼び声が聞こえた。

「小夜ちゃん!小夜ちゃん!こっちよ」

義母である佳乃の声だった。

小夜が顔を上げると、白いロングダウンを着た、優雅で華やかな佇まいの女性が手を振りながら、こちらへ早足で歩いてくるのが見えた。後ろには、黒いスーツのボディガードが二人、ぴったりと続いている。

彼女は仕方なく、携帯をしまった。

佳乃が近づくのを待たず、小夜は先に駆け寄り、外気に晒されて少し冷たくなったその手を握ると、急いで車に乗せた。

この義母は、元来、体が弱い。少しでも凍えさせてはならないのだ。

「お義母様、こんな寒い日に、車を寄越してくださればよかったのに。ご自分で出てきて、凍えて病気にでもなったらどうするんですか。手袋もなさらずに」

小夜は前の席のボディガードから温められたふわふわの手袋を受け取り、義母に着けてやった。

この義母の元々病弱な体は、十八年前に圭介の弟を産んでから、さらに健康状態が悪化し、どれほど養生しても体調は芳しくなかった。この数年は、少しの冷えさえも体に障るのだ。

彼女が体を悪くするたびに、家中の者が肝を冷やし、落ち着かない日々を送ることになる。

彼女が小言を言い終える前に、ふと顔を上げると、義母がにこにこと自分を見つめていた。

五十歳を過ぎているというのに、その顔に歳月の影は少しも見えず、全身から穏やかで優しい光が放たれているようだった。

どこか儚げで憂いを帯びた雰囲気を漂わせているが、頬はほんのり桃色で愛らしく、子供のような無邪気さを感じさせ、見る者を惹きつける。

この義母が、生まれた家でも、嫁ぎ先の長谷川家でも、いかに大切に守られてきたかが窺える。この歳になっても、その眼差しは純粋で澄み渡り、世間知らずな純粋さを保っていた。

そんな風ににこやかに見つめられると、どんなにささくれだった心も、和らいでしまう。

小夜はため息をつき、言った。

「お義母様、次からはこんなことはなさらないでください。お義母様が病気になったら、みんな本当に心配するんですから」

佳乃は素直に頷くと、もう一つの温かい手袋を取り出し、無理やり小夜に着けさせた。

車内は暖房が効いており、体の丈夫な小夜には必要なかったが、佳乃に促されては、着けるしかなかった。

その後、道中ずっと、佳乃は彼女の手を握ってあれこれと話し、時折、どうして最近、圭介と二人で会いに来てくれないのかと愚痴をこぼした。

孫がたまに来てくれるくらいだ、と。そして、圭介が帰ってきたら絶対に家法で罰してやると息巻いた。

小夜は、ただ静かに真剣に耳を傾け、時々相槌を打った。

彼女は、恵まれた家庭に育ったわけではなかった。両親は彼女を弟を養うための金のなる木としか見ておらず、温情などひとかけらもなかった。

一流大学に合格した後など、弟の家の購入資金のために彼女を売り飛ばそうとさえした。もし恩人の助けがなければ、彼女の人生は、とうに地獄に突き落とされていただろう。

かつて圭介を愛していたが、同時に、彼をとても羨ましくも思っていた。こんなに素晴らしく、自分を愛してくれる母親がいることを。それは、彼女が幼い頃に夢見ても、決して手に入らなかったものだった。

長谷川家に嫁いでから、彼女もその愛情に包まれた。

この歪で、失敗に終わった結婚生活の中で、義母の存在は彼女が得た唯一の救いであり、喜びだった。しかし、運命とは常に不公平なものなのか、美しいものはいつも、指の間からこぼれ落ちる砂のように、掴もうとしても掴むことができない。

きっと、自分のものではないものは、決して手に入らない運命なのだろう。

圭介との離婚が成立すれば、長谷川家は過去のものとなり、この本家に来ることもなくなる。

義母との縁も、それで終わりだ。

そう思うと、小夜は心の中でため息をつき、やはり佳乃の手を握らずにはいられなかった。そして、それとなく頼み事を切り出した。

「お義母様、圭介を少し急かしていただけませんか。今夜」

彼女は圭介が慌てて去っていった様子を思い出し、念のため付け加えた。

「あるいは、明日の夜でも構いません。とにかくこの二日のうちに、必ず時間を作って本家に戻るようにと。私たち、しばらく家族団らんの食事をしていませんし」

この数日間、圭介はいつも話し合いを拒絶した。今夜、本家で食事をするのが好機だと思ったが、その途中で彼は子供を連れて、あの初恋の相手を追いかけて行ってしまった。彼女の忍耐は、もう限界に近かった。

自分が急かしても動かないなら、義母に頼むしかない。

彼を捕まえさえすれば、離婚の話は進む。

佳乃は彼女の心の内など知らず、もちろん快く承諾し、あの子が帰ってきたら、きっとお灸を据えてやるとまで言ってくれた。

小夜の決意は固まっていた。その言葉に、彼女はただ微笑みを返すだけで、何も答えなかった。
Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第100話

    彰がハンドルを握る手が一瞬こわばった。彼は頷いて応じた。……「お姉さん、お見舞いに来ました。兄さんはどこですか?」佑介は、小夜が入院したと聞くや、お菓子や日用品をいくつもの袋に詰め込み、病院へと駆けつけた。しかし、病室に入ると、彼女が一人、ぽつんとベッドにいるだけだった。小夜は微笑み、話題を逸らした。「来てくれたのね。こんなにいっぱい、何を持ってきたの?」「お姉さんの入院に付き添うんだ」佑介は当然のように言った。小夜は一瞬呆然とし、心に温かいものがさっと流れた。この数日、佑介が言っていた「弟になりたい、息子になりたい」という言葉を、ふと思い出す。あれは、冗談ではなかったのだろうか?弟、か……彼女は布団の下で思わず手をきゅっと握りしめた。佑介は近づくと、お菓子を取り出しながら不満を漏らした。「僕、どうしてあんなに早く退院しちゃったんでしょうね。そうじゃなきゃ、今頃二人で病室仲間になれたのに」小夜は呆れて笑ってしまった。「それが、何かいいことなの?」「へへ、冗談だよ」佑介はナッツの袋を開け、小夜に手渡した。「僕が早く治ってよかった。こうして、お姉さんの面倒を見れるんだから」小夜は笑ってそれを受け取った。「あなただって、まだ手術したばかりでしょう。私は頭を怪我しただけで、手足はなんともないわ。自分のことは自分でできるし、いざとなったら看護師さんを頼めばいい。心配しないで」「看護師さんより僕の方がずっと丁寧だよ。それに、頭はとても大切なんだから、もっと気をつけないと」佑介は彼女にお湯を注ごうとして、ふと、ベッドサイドの保温ランチジャーに気づき、一瞬動きを止めた。「これは?」「ああ、加藤さんが持ってきてくれた滋養スープよ」小夜の口調は、ひどく淡々としていた。「どうして飲まないの?」佑介は蓋を開けてみた。ランチジャーの中は湯気が立ち上り、明らかに一口も手がつけられていない。聞いた後で、彼は後悔した。お姉さんが、長谷川家と完全に縁を切ろうとしているのは明らかだった。その線引きは、あまりにもはっきりしている。幸い、自分は早めに立場を表明しておいた……佑介はランチジャーの蓋を閉め、笑って言った。「大丈夫だ。後で近くのホテルに頼んで、毎日違う滋養スープを届けて

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第99話

    昼過ぎ、一台のファントムが邸宅の敷地内へと入った。圭介が車から降り立つ。体に沿って仕立てられた気品のある黒のスーツを纏い、長い指で銀の袖口をさりげなく整えながら、大股で書斎へと向かった。栄知は書斎で書に興じていた。「祖父様」圭介は声をかけ、近づくと、火鉢の上の鉄瓶を手に取り、栄知にお茶を淹れた。栄知は書に集中し、彼を無視した。テーブルの上の湯呑みに手をつけようともせず、書斎には、筆が紙の上を滑る、さらさらという音だけが響いていた。一文字を書き終えると、栄知は筆を置き、ようやく彼の方を見た。「どうした。このわしが呼ばねば、お前は永遠に顔を見せる気もなかったと見えるな?」「そんなことはございません」圭介は愛想笑いを浮かべた。「俺は毎日、祖父様のことを気にかけておりますよ」「ふん、気持ちの悪いことを言うな」栄知は彼をちらりと横目で見た。「お前が毎日気にかけているのは、このわしか?どこぞの娘ではないのか。近頃、ずいぶんと女運が良いそうじゃないか?」圭介はわざと真顔を作り、冗談めかして言った。「それは、どこの口の軽い者が、わざわざ祖父様に私の悪口を吹き込んだのですか?」栄知は冷笑し、強く机を叩いた。「わしの前で、その口先だけの戯言はやめろ。お前の母親以外に、お前のくだらん事を隠し通せる者などおるか!圭介、お前が外でどう遊ぼうとわしは関心もないし、口出しする気もない。だが、覚えておけ。素性の知れない子供など作って、この長谷川家の血筋を乱すような真似はするな!」圭介は微笑んだ。「祖父様、分をわきまえております」栄知は怒鳴った。「分をわきまえているだと?分をわきまえている男の妻が、離婚を切り出すというのか!」書斎は、静まり返った。圭介の顔から笑みは消えず、数秒の間を置いて言った。「それは、彼女が決められることではございません」栄知は杖を強く床に打ち付け、怒声を発した。「ずいぶんと横暴だな。自分の妻にまで策略を巡らせるとは。わしがいつ、お前にそんなことを教えた?家とは、策略を巡らせて駆け引きするような場所か。そんなことをすれば、人の心まで冷え切ってしまうわ!」圭介は仕方なく笑った。「祖父様、先に策略を巡らせたのは、私ではございません。どうか、もうお構いなく。私には考

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第98話

    「パンッ!パンッ!パンッ!」三度教鞭で打たれ、掌は真っ赤になった。痛みに目に涙がにじむが、外にこぼすことは許されない。栄知はかつて軍で高位にあり、家を治めるにあたっては常に厳格で、特に彼が泣くことを嫌った。男は血を流しても、涙を流してはならない。今日、もし泣こうものなら、さらにひどく打たれるだけだ。栄知が、再び問うた。「どこが悪かった?」樹は涙をこらえ、一度喉を詰まらせ、震える声で答えた。「ママの方の親戚を、家に入れちゃいけなかった。あの人たちを入れなければ、ママは怪我をしなかった。もう、二度としません」馬場執事が、教鞭を差し出した。今度は七度打たれ、樹の小さな手は、まるで大根のように腫れ上がった。ついに涙をこらえきれず、大粒の雫がぽろぽろとこぼれ落ちる。しかし、唇を固く噛み締め、栄知に聞こえぬよう、決して泣き声は上げなかった。しばらくして、室内から杖が重々しく床を打つ音と、栄知の歯がゆさに満ちた声が響いた。「お前の過ちは、状況が見えず、他人に利用され、身内を傷つけたことだ。今回の件、父親は非情すぎたが、お前はただ愚かだった!」樹は、俯いて何も言わなかった。栄知は淡々と言った。「ここで跪いてよく考えろ。分かったら、立て」……馬場執事が、部屋に入った。彼は教鞭を置くと、室内に座り、杖を握る、年老いてもなお眼光鋭い老人の肩を揉んだ。そして、そっと声をかけた。「旦那様、外は大雪です。坊ちゃまがこのまま跪いていては、体を壊してしまいます」栄知は怒鳴った。「何だと。過ちを犯したのなら、罰せられて当然だろう。人にいいように振り回されて、何が何だか分かっていない。これで、長谷川家の跡継ぎと言えるか」馬場執事は、その背中を軽く叩いた。「坊ちゃまはまだお小さいのです。まだ七歳で、多くのことにおいて、すでに同年代の子供たちをはるかに超えていらっしゃいます。どうか、気長に」栄知は、ふんと鼻を鳴らした。「まだ小さい、だと?長谷川家唯一の後継者として、年齢は言い訳にならん。圭介がその歳の頃には、もう一族の会議に陪席していたぞ。それが、この若さで、毎日女の周りをうろちょろしているとは。何事だ!全く、甘やかされおって。これまでの教えが無駄だったわ。跪かせておけ!」……夜が、

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第97話

    「何を怖がることがある。お前は俺の義弟だろう。姉さんの顔を立てて、丁重にもてなしてやるよ」圭介は、妖艶な切れ長の目を笑みで細めたが、足の力は少しも緩めなかった。隼人は必死に首を横に振り、とても認めようとはしなかった。「ち、違います、俺じゃ……」「随分と度胸があるじゃないか」隼人は慌てて言った。「俺じゃない、瑶子が、立花が……いや、違う、俺だ、俺が魔が差したんだ。義兄さん、どうか許してください、もう二度としませんから。すぐに申市に帰ります、もう二度と来ませんから!」彼は空いた手で、力いっぱい自分の頬を何度も叩き、圭介のズボンの裾を掴んで、涙をぽろぽろと流した。圭介は彼を足で蹴り飛ばし、冷たく鼻を鳴らした。「少しは根性があるじゃないか。桐生」彰が応じると、隼人を床に押さえつけ、手早く頭に巻かれたばかりの包帯を解き、カメラを取り出して処置された傷口を詳細に撮影した。隼人は床に崩れるように倒れ、頭を抱え、傷口がひどくひんやりとするのを感じながらも、息を殺すことしかできなかった。圭介はしばらく写真を眺め、隼人の顔を足で蹴ると、ゆっくりとした口調で言った。「義弟よ、せっかく帝都まで来たんだ。俺としても、盛大に歓迎してやらなければな。だから、まだ帰るなよ。分かったか?」隼人は彼が何をしたいのか分からなかったが、ただ頭を抱えて力いっぱい頷いた。その時、ちょうど病室のドアが開き、採血で気を失った立花瑶子が、ベッドに横たわったまま運び込まれてきた。「ちょうどいい。お前たち、恋人同士でここでしっかり養生するといい。治療費は俺が出してやる」そう言うと、圭介は桐生を連れて、満足げに立ち去った。病室で、隼人は床に縮こまっていたが、しばらくしてようやくもがきながら起き上がると、よろよろとベッドのそばへ駆け寄り、瑶子の青白い顔に触れ、涙が止めどなく溢れた。「ごめん、ごめん……」傷口が剥き出しになり、彼はそのまま泣き崩れて気を失った。駆けつけた医師が、再び彼に包帯を巻き、ベッドへと運び戻した。……深夜。帝都の中心部に、一軒の古い屋敷が佇んでいた。長谷川家の当主は静寂を好み、軍を退いてからは、ここに一人で住み、人との付き合いもほとんどない。しかし、今日に限っては賑やかだった。屋敷の大門が開き

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第96話

    先頭に立つ男は、この世のものとは思えないほど美しく、それでいて危険なまでに妖艶で、瑶子の目は釘付けになった。病室のドアが重々しく閉められて、ようやく彼女は我に返った。慌てて立ち上がると、わずかに俯き、指先で耳元の髪をそっとかき上げ、甘えるような声で呼びかけた。「お義兄様」来る前に長谷川圭介の写真は見ていたが、実物は写真よりもはるかに、この世のものとは思えないほど美しい。本人を前にして、羨望の念はさらに募る。お義姉さんは、なんて幸運なのかしら。どうして、こんなにいい思いをしてるの!でも、自分だって容姿は悪くないはず。そう思うと、彼女はことさら見栄えのするような姿勢を取り、甘えるような声で言った。「お義兄様、奥様はずいぶん気が強いのですね。私たち、ほんの少し話しただけで、ご自分の実の弟に手を上げるなんて。でも、大丈夫です。隼人が目を覚ましても、絶対に問題にしませんから。みんな、家族ですもの」圭介は笑い、瑶子を上から下まで値踏みするように見つめると、不意に口を開いた。「なぜ、まだ立っている?」……瑶子は、まだ緊張しながら髪を弄っていたが、その言葉に、はっと固まった。どういう意味?続いて、圭介が尋ねるのが聞こえた。「妊娠しているそうだな?」瑶子は一瞬ためらってから頷いた。心の中では少し後悔していた。お義兄様の実物がこれほどハンサムで魅力的だと知っていたら、こんな嘘はつかなかったのに!でも、まあいいわ。自分の容姿は清楚で美しいし、性格も優しい。義兄が、あんな気の強い奥様を好きでいられるはずがない。隼人が病気なのを口実に長谷川家に住み込みさえすれば、必ず機会は見つかるはず!男の人って、浮気を嫌う人なんていないもの。その時が来れば……そんな想像を膨らませ、顔も自然と赤らみ、淡い桃色に染まって、いっそう可憐に見えた。しかし、圭介にそれを愛でる気は微塵もなかった。彼は桐生の方を向き、尋ねた。「確か、妊娠検査には血液検査もあったな?」彰は答えた。「はい」圭介は微笑んだ。「彼女を連れて行け。たっぷり採血しろ、検査結果が曖昧では困る」彰が病室のドアを軽くノックすると、すぐに外からスーツ姿の屈強な男たちが数人、部屋に駆け込み、瑶子の方へ大股で歩み寄った。瑶子の顔が青ざめ、この時になってようやく

  • 夫と子を捨てた妻が、世界を魅了するデザイナーになった   第95話

    「パパ!パパ!僕が悪かった!」リビングで、樹はスーツ姿の屈強な男二人に両脇を抱えられて外へ連れ出され、大声で泣き叫び続けていた。「本当にごめんなさい、次は絶対にちゃんとやります!もう一度チャンスをください!ひいおじいちゃんのところに送らないで、お願いします!パパ!パパ!」彼は宙に持ち上げられ、手足をばたつかせて必死にもがいたが、すぐに押さえつけられてしまった。圭介は階段の上に立ち、上から見下ろすその瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。「これが二度目のチャンスだ。できなければ罰を受ける、それが決まりだ。樹、何にでも二度目のチャンスがあると思うな」樹はひどく慌て、脳裏に何かが閃き、おぼろげに何かを悟ったように叫んだ。「ママ、ママに会いたい!行かない、ママに会うんだ!」「連れて行け」圭介は冷たく言った。「祖父様によろしく伝えておけ」ボディガードは「はい」と応じると、そのまま坊ちゃんを抱えて去っていった。泣き叫ぶ声が道中に響き渡ったが、やがて閉まる車のドアに遮られた。一台の黒塗りの車が、朱雀園を出ていった。……彰は圭介の後ろに立ち、その一部始終を見ていた。彼は尋ねた。「大旦那様はすでに事の次第をご存じです。坊ちゃんが今回あちらへ行かれれば、ひどい目に遭われるのは必至ですが、本当によろしいのですか?」圭介は微笑んだ。「最近、あいつも調子に乗りすぎている。少しは分別をつけるべきだろう」彰は、それ以上何も言わなかった。千代はめちゃくちゃになった応接室を片付け終えると、目を赤くして歩み寄ってきた。「旦那様、申し訳ありません。私のせいです。奥様を、あの方たちとお二人きりにさせるべきではありませんでした」圭介は手を振った。「構わん。気力を養い、血を補うスープを多めに用意して、この数日間、定時に病院へ届けてくれ」簡単な指示をいくつか出すと、彼は家を出て車に乗り込んだ。彰は車を発進させる前に、用意していたタブレットの資料を差し出した。「これは立花瑶子の資料です」圭介はそれを受け取ると、何気なく二、三度目を通し、ふと視線を止めた。「ほう、面白いな。この立花瑶子と若葉の家には、こんな因縁があったとは。相沢の伯父さんも、なかなか派手に遊んでいたものだ」彰は尋ねた。「相沢様にお

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status