LOGIN――え? 圭介?圭介のこと? 栄知が、亡くなった孫を偲んで誰かと話をしているのだろうか。けれど、口調がどこか引っかかる。小夜は無意識に息を止め、もっとはっきりと聞き取ろうと扉に身を寄せた。 その瞬間、扉がいきなり内側から開いた。 もたれかかっていた小夜は体勢を崩し、そのまま部屋の中へとよろめき込む。 額がごつりと何かにぶつかった。鈍い痛みが走る。 「ここで何をしている」 頭上から、低く落ち着いた声が降ってきた。かすかに驚きの色が混じっている。聞き覚えのある声だ。 額を押さえながら見上げる。 目が合って、小夜は息を呑んだ。 黒い半袖シャツに、短く刈り上げた頭。彫りの深い顔立ちに、鷹のように鋭い黒い瞳。――亮介だった。 圭介の従兄である彼が、なぜここに。 いや――よく考えてみれば当然だ。栄知はもともと特務機関の出身であり、長谷川の一族の中で今いちばんその内部で幅を利かせ、出世頭となっているのが亮介なのだ。二人の行き来が多くて当然だろう。以前はここにあまり出入りしていなかった小夜が、それを知らなかっただけだ。 小夜は気まずさを押し隠し、居住まいを正して言った。「栄知様に呼ばれまして」 「小夜か」書斎の奥から、年齢を感じさせながらもよく通る声が響いた。「入りなさい」 岩のように扉の前に立つ亮介を避けて中に入ると、栄知が書斎の机の向こうで筆を揮っていた。 亮介も扉を閉めて、小夜の後ろへ戻ってくる。 「なんだ。あのろくでなしがいなくなったら、お爺様とも呼んでくれんのか」栄知は手元から目を上げずに、少しからかうように言った。 「……お爺様。ご無沙汰しております」 「うむ」 栄知は目を細めて満足げに笑い、小夜を手招きした。傍らに控えていた使用人に、銅壺の置物に挿してあった半紙の束を抜き取らせ、小夜に渡す。 「どうだ。見てやってくれ」 小夜は両手で丁寧に受け取った。 広げてみると、筆で書かれた文章や詩、さらには水墨画まである。筆運びにはまだ幼さが残り、形こそそれらしいが、決して達筆とは言えない。長年書を嗜んできた栄知の手によるものではない。 ある可能性に思い当たり、小夜の目元がふっと柔らかくほどけた。「……とてもお上手です」 栄知は嬉しそうに声を上げて笑った。
電話の向こうの沈黙を察し、若葉は嗜虐的に口元を吊り上げた。 「安心して。今のところ、私、あの女には興味がないの。それよりもっと欲しいものがあるから。……取引しましょう。私があの女を、あなたのものにしてあげる。それどころか、あの女が自分から望んであなたと結婚するようにしてあげてもいい。どう?」 「……何を根拠に、君を信じろと言うんだ」 「試して損はないでしょう?うまくいかなければ、私に貸し与えたものを全部引き上げればいいだけよ」若葉はふふっと笑った。「それに、失敗するつもりはないわ。私はあなたたちより――下手すればあの女自身よりも、高宮という人間をよくわかっているのよ」 「大きく出たな」 青山はドアノブから手を離し、ジャケットを再びハンガーに戻した。つい先ほどまで小夜が座っていた椅子にゆっくりと腰を下ろし、スマホをテーブルに置いてスピーカーモードに切り替える。 「まず聞こう。君は何が欲しい」 「話が早くて助かるわ」 若葉は前置きなしに、単刀直入に切り出した。「技術よ。あなたの持つ技術が欲しいの」 「無理だね」 青山は口元に薄い笑みを浮かべていたが、その目の奥は氷のように冷え切っていた。「君が何を欲しがろうと構わない。だが、ささよと僕が裏で繋がっていると知られることだけは、絶対に許さない。わかるな」 「もちろんよ。私たちは最初から、知り合いですらないわ」若葉は平然と言った。 「私が今進めているAI自動化技術のプロジェクト、今のチームの力じゃ到底足りないのは自分でもわかっているわ。だからといって、あなた本人を引き抜こうなんて思ってない。私が欲しいのは、あなたが海外に持っている技術リソースよ。チームに、目をつけた優秀な技術者が何人かいるの。あなたが裏から声をかければ、彼らは必ずこっちへ来る。 確かな技術の裏付けさえあれば、グループからのプロジェクト資金は確実に降りる。立ち上げは絶対に成功するわ。しかも彼らは表向き、あなたとは一切無関係。高宮に勘づかれることもない。 それに、彼らはあくまであなたの顔を立てて動くのだから、もし私が使えない奴だと判断したら、あなたはいつでも彼らを引き上げられる。あなたにとって、まったく損のない話でしょう?」 青山は無表情のまま、空になった湯呑みを指先で弄んでい
茶室の前で二時間近く待ち続けた彰が、いい加減しびれを切らして中に踏み込もうとした矢先、小夜が自ら出てきた。 「あいつが、何かしたのですか」 目の縁が赤く、鼻先もほんのりと紅い。明らかに泣いた後だった。彰の目の奥が、すっと冷たく沈む。口調こそ落ち着いていたが、体はすでに大股で茶室に向かっていた。青山に落とし前をつけに行く気だ。 「違うわ!」 小夜は慌てて彼の腕を掴み、強引に外へ引っ張った。「栄知様に今夜来るよう呼ばれているの。これ以上遅れられないわ。それに、あなたには関係ないでしょう!」 いつもこうだ。 この一年、小夜が青山と会うたびに、彰は異常なほどぴったりと張りついてくる。最初の頃は部屋の中にまで同席しようとしたほどだ。きつく叱っても、返ってくるのは決まって同じ言葉だった。 ――旦那様の遺命です。社長をお守りしろと。 青山が自分を傷つけるわけがないのに。 何度か本気で怒って、ようやく外で待たせるようになったが、それでも時間制限つきだ。小夜には彰に対する命令権があるとはいえ、相手は長谷川本家が育て上げた筆頭の腹心であり、単に気に入らないからと切り捨てるわけにはいかない。 せいぜい、専属秘書の奈々をそばに置いて、彰との接触を物理的に減らすくらいしかできなかった。 だが国内にいる限り、どうしても彼を完全に振り切ることはできない。 本当にやっかいだ。 彰を車に押し込み、走り出す。道中、運転席の彰がバックミラー越しにやはり一言挟んできた。「奥……社長、小林青山という男は危険です。見た目ほど単純な人間ではありません。今後は、少し距離を置かれたほうがよろしいかと」 「……」 小夜は呆れたように言った。「それ、本当に青山のことを言ってるの?自分のことじゃなくて?」 「……私は、決して社長を傷つけません」 「ふん」 小夜は取り合う気にもなれなかった。それに、まだ心も落ち着いていない。目を閉じ、指先で眉間を揉みながら、波立つ感情をやり過ごそうとした。 …… 茶室の二階。 オレンジ色のベントレーが視界から消えるのを見届けた青山が、席を立とうとした時、テーブル上のスマホが震えた。画面に表示された番号を見た瞬間、彼の唇から穏やかな笑みがすっと消え失せた。 「何の用だ」 何度か無視した
青山はタブレットを小夜の前に押しやった。 「構わないさ。君と僕の仲だろう。君を信じられなくて、他に誰を信じるって言うんだ」 確かに、その通りではある。 青山の会社が公安に納入している中核アルゴリズムですら、小夜はその仕組みを知っているし、開発にも携わっていた。青山は昔から、彼女に対して一切の壁を作らない。 だが、その信頼は今の彼女にはあまりに重かった。ためらいはしたが、重ねて頼み込まれ、小夜はとうとう画面をタップした。 そして、息を呑んで固まった。 国内のプロジェクトだけではない。 海外の案件までリストアップされている。 瞬時に察した。これは純粋に意見を求めているわけではない。この男の本当の狙いは――別のところにあるのだ。 …… 「あなた、これ……」 呆然と顔を上げたまま、小夜は絶句した。 青山はまるで動じた様子もなく、気楽に笑って言った。「そう構えなくていい。君の意見を参考にしたいだけだよ。最後に決めるのは僕だからね」 そうは言われても、小夜は静かにタブレットをテーブルに置いた。長い沈黙のあと、ようやく重い口を開く。 「青山。もし私の思い違いなら、ただの自惚れだと思って聞き流して……もう、私を待たないで。あなたはこんなに優秀な人なんだから、もっといい人にいくらでも出会えるわ。あなたの大切な時間を、私なんかに使わないで」 「ささよ」 小夜が正面から切り込んできたのを見て、青山もついに覚悟を決めた。 「僕にそんな資格がないのはわかっている。一年前、君を海外へ送り出したのは僕だ。そのせいで、君はあんな酷い目に遭った。それなのに僕は国内で身動きが取れず、君を助けに行くことすらできなかった……だから、ずっと怖くて訊けなかったんだ。でも今は、お互いを縛るものがなくなって、新しい人生が始まっている。だから、訊かせてほしい。あの日の言葉を、まだ信じていてもいいかな」 小夜の表情が凍りついた。 あの日の言葉。覚えていないはずがない。一年前、青山の助けで海外へ逃れる日、搭乗の直前に、彼女は確かに彼と約束を交わしたのだ。 けれど、今は…… 「違うの」 長い間うつむいてから、小夜は絞り出すように声を出した。「海外へ行くと決めたのは私自身の意志よ。あなたはただ、手を貸してくれただけ。
「まだ、言い足りないかしら」 小夜は淡々と続けた。「あの計画書は、ただの絵に描いた餅よ。今のあなたの技術水準で、あんな最終収益目標を達成するなんて夢物語もいいところ。相沢さん、誰もがあなたと同じ思考回路だと思わないで。仕事は仕事よ。計画書に本当に問題がないのなら、役員会で圧倒的多数で否決になんてならないわ。……それから、ヴァルテックの株式の買い戻しについて、私が提示した条件は今でも有効よ。金額も――」 「あり得ないわ!」 若葉が、氷のように冷たい声で遮った。 「高宮。ヴァルテックは、圭介が私にくれたものよ。契約は正式に成立している。あれは私の会社なの。絶対に手放さないわ」 …… 一方的に電話が切れた。 どう考えても理解できない。小夜はスマホを無造作に隣のシートへ放り出し、心の中で深くため息をついた。背もたれに体を預け、そっと目を閉じる。 「着きました」 車が、繁華街の一角にひっそりと佇む茶室の前で停まった。彰が先に降りて後部のドアを開ける。「お供しましょうか」 「いいわ」 小夜は小さく首を振り、ひとりで茶室へと向かった。引き戸を開けると、風鈴がちりんと涼やかな音を立てる。 その音が消えるか消えないかのうちに、車のそばに残った彰がふと視線を上げた。二階の掃き出し窓の前に、青竹のようにすらりとした男が立っている。視線が絡んだ。いつも淀んだ水底のように凪いでいる彰の瞳に、かすかな波が立つ。 ――青山だ。 階上と階下、窓越しに二人の男が静かに向かい合う。どちらも表情ひとつ動かさず、どちらも決して目を逸らさなかった。 茶室の扉が、ふたたび鳴るまで。 青山はゆっくりと窓際から振り返った。さきほどまでの無表情が嘘のように消え去り、穏やかな笑みを浮かべて入り口へ歩み寄る。 「ささよ、来てくれたね」 「ええ」 柔らかなベージュのニットワンピースが、女性らしいしなやかな輪郭を描いている。仕事の場で常に張り詰めていた小夜の目元が、この男の前ではほんの少しだけほどけ、穏やかな笑みに変わった。 落ち着いた茶室で、二人はテーブルを挟んで腰を下ろした。青山は手慣れた優雅な所作で茶器を扱い、澄んだ黄金色のお茶を一杯淹れて差し出す。そして、ふっと笑った。 「ささよに会うのも、すっかり難しくなったな
鉛色の空から、糸のような細い雨がしとしとと降り続いている。 陰鬱な風景の下、鮮やかなオレンジ色のベントレー・コンチネンタルが、大通りを滑るように走っていく。後部座席では、柔らかなベージュのニットワンピースに身を包んだ小夜が、目を閉じて深く背もたれに体を預けていた。 ふいに、スマホが震えた。 数日続く激務で、小夜の疲労は限界に近かった。画面を確認する気力すらなく、反射的に応答する。聞こえてきた声に、小夜の眉間がすっと寄った。ゆっくりと身を起こす。 「相沢さん?」 この女が、わざわざ電話をかけてくるとは。 今度は何のつもりだ。 少し考えて、小夜は通話を切らないことにした。素っ気なく応じる。「……何の用かしら」 「私の計画書を否決したのね?」電話越しの声は、小夜以上に冷え切っていた。 小夜は不思議でならなかった。かすかに眉を上げ、率直に問い返す。「それが、そんなに意外なこと?」 相手はしばし黙り込み、やがて冷ややかに言った。「あの計画書に、問題はなかったはずよ」 「ええ」 小夜はあっさりと認めた。「着想は悪くないわ。でも、今のあなたの技術チームでは、あのプロジェクトは支えきれない。それに、計画書の穴は自分でもわかっているでしょう。それとも、もっとはっきり言ってあげた方がいいかしら」 「……っ」 若葉は歯を食いしばるようにして言った。 「高宮。私の計画書は完璧よ。あなたはただ、私を狙い撃ちにしているだけじゃない! 忘れないで。ヴァルテックは、圭介が周囲の反対を押し切ってまで立ち上げた会社よ。あの人の情熱であり、心血そのものなの。今回の計画書だって、彼の遺志に沿って作ったわ。あなたはあの人を死なせておきながら、今度はその残した心血まで潰すつもり!? プロジェクトの申請を意地悪く止めさえしなければ、十分な資金で優秀なチームを引き抜ける。プロジェクトは絶対に成功するわ!」 小夜は黙った。 正直なところ、若葉という人間がさっぱりわからない。この一年、小夜も雅臣も圭介の死が残した山のような後始末に追われ、ヴァルテックにまで気を回す余裕などなかった。 ところが、設立間もない子会社が、最大の後ろ盾を失ったにもかかわらず、若葉があちこち手を回してどうにか立て直してしまったのだ。彼女に確か
青山は苦笑した。「会う勇気がなかったんだ」小夜はひどく意外に思い、胸が締め付けられるようだった。「……私の方が、あなたに謝らなきゃいけないのに」会う勇気がないのは、小夜の方のはずだ。青山は静かに首を振った。「ささよ、もう過去のことだ」小夜がまだ躊躇っているのを見て、青山は不意に提案した。「君は今、大変な状況だろう。落ち着いたら、僕が手配して海外へ行かせてあげる。それでいいかい?」……海外へ。小夜の心は、その言葉に揺れた。小夜の状況は確かに良くない。圭介が目を覚ますかどうか、目を覚ましたらどうなるか分からない。身分証も、すべて取り上げられてしまった
「任せて!」二人は他愛もない話をしてから電話を切った。……アトリエまでは、さほど時間はかからなかった。小夜は竹林を抜け、アトリエのある別荘の前に車を停めたが、向かいの別荘の前に数台のトラックが停まり、多くの人々が家具を運び入れているのが目に入った。引っ越しだろうか。その時、荷物の搬入を指示していた若い女性が彼女に気づき、遠くから声をかけ、ゆっくりと歩み寄ってきた。「徒花先生、こちらにいらっしゃるのはお久しぶりですね。お元気でしたか?」小夜もここではデザイナーとしての雅号で通しており、顔見知りの隣人たちも皆、そう呼ぶ。礼儀正しく挨拶を返し、彼女はついでに尋ねた
小夜は眉をひそめ、躊躇いを見せた。「確信が持てないの。迷ってる。なぜか分からないけど、長谷川がサインに応じた時から、ずっと胸騒ぎがして……何かがおかしい気がするの」芽衣が尋ねた。「あいつが約束を破るかもしれないってこと?」小夜は頷いた。その通りだ。雪山でのあの一夜が、不安をさらに増幅させていた。どうしても安心できない……何より、長谷川は自分のことになると、常軌を逸した行動に出る。理屈など通用しない相手だ。また何か予期せぬ事態が起きるのではないかと、怖かった。だが一方で、あとしばらく待つだけで離婚できるという誘惑は、あまりに大きかった。この日を、どれほど待ち望んだ
「小夜」「小夜、こっちよ。こっち」「小夜」深紅の民族衣装を身に纏った女が、夜の闇の中を歩いていた。鼻先には独特な香の匂いが漂い、遠くから聞こえる呼び声が耳元でこだまし、前へと誘っていた。夜の闇は深い。一歩一歩、前へ、遠くへと進んでいく。声が、だんだん近づいてくる。近くなった。その時、不意に腕が重くなった。ジャラジャラと鎖の音が響く。見下ろすと、いつの間にか手首に太く重い鎖が巻きつき、自分を束縛し、圧迫していた。どこから現れた鎖なのか?周囲を見渡すと、いつの間にか景色は濃密な闇に塗りつぶされ、何も見えなくなっていた……山並みも、砂利道も消え失せ、ただ闇だけ







