LOGIN「まだ、言い足りないかしら」 小夜は淡々と続けた。「あの計画書は、ただの絵に描いた餅よ。今のあなたの技術水準で、あんな最終収益目標を達成するなんて夢物語もいいところ。相沢さん、誰もがあなたと同じ思考回路だと思わないで。仕事は仕事よ。計画書に本当に問題がないのなら、役員会で圧倒的多数で否決になんてならないわ。……それから、ヴァルテックの株式の買い戻しについて、私が提示した条件は今でも有効よ。金額も――」 「あり得ないわ!」 若葉が、氷のように冷たい声で遮った。 「高宮。ヴァルテックは、圭介が私にくれたものよ。契約は正式に成立している。あれは私の会社なの。絶対に手放さないわ」 …… 一方的に電話が切れた。 どう考えても理解できない。小夜はスマホを無造作に隣のシートへ放り出し、心の中で深くため息をついた。背もたれに体を預け、そっと目を閉じる。 「着きました」 車が、繁華街の一角にひっそりと佇む茶室の前で停まった。彰が先に降りて後部のドアを開ける。「お供しましょうか」 「いいわ」 小夜は小さく首を振り、ひとりで茶室へと向かった。引き戸を開けると、風鈴がちりんと涼やかな音を立てる。 その音が消えるか消えないかのうちに、車のそばに残った彰がふと視線を上げた。二階の掃き出し窓の前に、青竹のようにすらりとした男が立っている。視線が絡んだ。いつも淀んだ水底のように凪いでいる彰の瞳に、かすかな波が立つ。 ――青山だ。 階上と階下、窓越しに二人の男が静かに向かい合う。どちらも表情ひとつ動かさず、どちらも決して目を逸らさなかった。 茶室の扉が、ふたたび鳴るまで。 青山はゆっくりと窓際から振り返った。さきほどまでの無表情が嘘のように消え去り、穏やかな笑みを浮かべて入り口へ歩み寄る。 「ささよ、来てくれたね」 「ええ」 柔らかなベージュのニットワンピースが、女性らしいしなやかな輪郭を描いている。仕事の場で常に張り詰めていた小夜の目元が、この男の前ではほんの少しだけほどけ、穏やかな笑みに変わった。 落ち着いた茶室で、二人はテーブルを挟んで腰を下ろした。青山は手慣れた優雅な所作で茶器を扱い、澄んだ黄金色のお茶を一杯淹れて差し出す。そして、ふっと笑った。 「ささよに会うのも、すっかり難しくなったな
鉛色の空から、糸のような細い雨がしとしとと降り続いている。 陰鬱な風景の下、鮮やかなオレンジ色のベントレー・コンチネンタルが、大通りを滑るように走っていく。後部座席では、柔らかなベージュのニットワンピースに身を包んだ小夜が、目を閉じて深く背もたれに体を預けていた。 ふいに、スマホが震えた。 数日続く激務で、小夜の疲労は限界に近かった。画面を確認する気力すらなく、反射的に応答する。聞こえてきた声に、小夜の眉間がすっと寄った。ゆっくりと身を起こす。 「相沢さん?」 この女が、わざわざ電話をかけてくるとは。 今度は何のつもりだ。 少し考えて、小夜は通話を切らないことにした。素っ気なく応じる。「……何の用かしら」 「私の計画書を否決したのね?」電話越しの声は、小夜以上に冷え切っていた。 小夜は不思議でならなかった。かすかに眉を上げ、率直に問い返す。「それが、そんなに意外なこと?」 相手はしばし黙り込み、やがて冷ややかに言った。「あの計画書に、問題はなかったはずよ」 「ええ」 小夜はあっさりと認めた。「着想は悪くないわ。でも、今のあなたの技術チームでは、あのプロジェクトは支えきれない。それに、計画書の穴は自分でもわかっているでしょう。それとも、もっとはっきり言ってあげた方がいいかしら」 「……っ」 若葉は歯を食いしばるようにして言った。 「高宮。私の計画書は完璧よ。あなたはただ、私を狙い撃ちにしているだけじゃない! 忘れないで。ヴァルテックは、圭介が周囲の反対を押し切ってまで立ち上げた会社よ。あの人の情熱であり、心血そのものなの。今回の計画書だって、彼の遺志に沿って作ったわ。あなたはあの人を死なせておきながら、今度はその残した心血まで潰すつもり!? プロジェクトの申請を意地悪く止めさえしなければ、十分な資金で優秀なチームを引き抜ける。プロジェクトは絶対に成功するわ!」 小夜は黙った。 正直なところ、若葉という人間がさっぱりわからない。この一年、小夜も雅臣も圭介の死が残した山のような後始末に追われ、ヴァルテックにまで気を回す余裕などなかった。 ところが、設立間もない子会社が、最大の後ろ盾を失ったにもかかわらず、若葉があちこち手を回してどうにか立て直してしまったのだ。彼女に確か
少しは懲りてほしい。 あれほどの惨劇を経験したというのに、まだ教訓が足りないというのか。 「どうして急に、留学なんて?」小夜は怪訝そうに尋ねた。「どこへ」 「イギリスだ」雅臣は淡々と答えた。 小夜は絶句した。 「お前がしばらく国内に留まるわけにはいかないのか」雅臣もお手上げといった様子でぼやいた。「お前さえここにいれば、佳乃が海外へ行きたいなどと言い出すこともないだろうに」 佑介の留学については、これ以上一言も触れようとしなかった。 長谷川家のこのいびつな親子関係にはとうに慣れていたから、小夜も今さら驚きはしない。 だが、やはり静かに首を振って応えた。「大叔母様のそばにもいなければなりませんし。それに……大叔母様は私が国内に長く留まることを、あまり良く思っていませんから」 ――正確には、小夜が「長谷川家」と関わり続けることを良く思っていないのだろう。 雅臣にはわかっていた。だが、どうしようもない。珠季と長谷川家の折り合いが悪いのは昨日今日に始まった話ではなく、もう七、八年にもなるのだから。 ――あの馬鹿息子め。いなくなった後まで、こんな厄介ごとを残していきおって。 …… 書斎を出た後、雅臣の言葉が引っかかっていた小夜は、やはり気になって佑介に電話をかけた。すぐに繋がった。 「お姉さん?」 小夜は回りくどいことはしなかった。「留学したいって、本当?」 「……今、本家にいるんですか?」 「ええ」 「……はい、行きたいです」 佑介は声を落として続けた。「お姉さん、前に約束したじゃないですか。お姉さんがイギリスに行ったら、僕も追いかけるって。それなら、留学がいちばん自然でしょう?」 そこで、声のトーンがさらに沈んだ。 「それに、お姉さん。僕はずっと先生と籠もって数学の研究をしていて、お姉さんがあんな目に遭っていたなんて全然知らなかったんです。 ……もう少しで、もう二度と会えなくなるところだったんですよ。お姉さんが一人で海外にいるなんて、心配で仕方ないんです……僕にはもう、お姉さんしか家族がいないんですから」 ――違う。あなたには、佳乃と雅臣がいる。 小夜はそう否定しかけて、さきほどの雅臣の突き放すような態度を、そして佳乃の消えゆく記憶を思い出し、口
夕食を終え、小夜はしばらく佳乃に付き合って他愛のない話をした。やがて佳乃がうとうとと微睡み始めたのを見届けてから、そのまま雅臣のいる書斎へと向かった。 …… 「お母さんに、何があったんですか」 小夜は眉間に深い皺を寄せていた。「様子が変です。どう見てもおかしいですよ」 「記憶だ。記憶に障害が出始めている」雅臣の顔には、隠しきれない深い疲労が滲んでいた。眉間を指で揉みほぐしながら、重いため息をついた。 「私も、先週になってようやく気づいたんだ。毎朝目を覚ますたびに、少しずつ何かを忘れている。記憶も心も、ゆっくりと退行しているんだ」 「そんな……」小夜は絶句した。「今は、どの頃の記憶まで戻ってるんですか」 雅臣は力なく答えた。「十八歳になる前の状態だろう。正確な年齢まではわからないが」 「待ってください」小夜は納得がいかないように首を傾げた。「おかしくないですか?さっき、私のことはちゃんとわかってましたよ」 「それが私にもわからないんだ」雅臣自身も、同じ疑問を抱えていた。「この一週間、医師と一緒に佳乃の記憶を慎重に探った。多くのことを忘れている。私との結婚も、圭介を産んだことも……だが、なぜかお前のことだけは鮮明に覚えているんだ」 雅臣と佳乃は幼なじみであり、早くから付き合い始め、成人してすぐに婚約した。今の佳乃の記憶はまだその頃に戻っているため、彼を「恋人」だと思っており、拒絶されることだけはなかった。 だがそれでも、夫としてはやはり堪えるものがある。三十年以上連れ添った自分との記憶が消えつつあるのに、数年前に嫁いできた小夜のことだけは、彼女の中に強く根付いているのだから。 小夜は黙り込んだ。 圭介の死後、小夜が最も警戒してきたのは、決して表舞台に姿を現そうとしないコルシオだった。この一年、なぜ彼らが動かなかったのかはわからない。こちらの厳重な警備が功を奏したのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。 それでも、いつ暗闇から現れて佳乃を傷つけるか――その恐れはずっと小夜の胸の底に巣食っていた。 けれど今、コルシオが動くより先に、佳乃の精神はここまで崩れてしまっていた。以前はトラウマで感情の波が激しくなるだけだった。だが今は、記憶の土台そのものが崩れ始めているのだ。
小夜はグループの業務を片付けた後、本家の佳乃を見舞う前に、まず霊園へと足を運んだ。 空は、重く暗い雲に覆われていた。 誰の同行も許さず、彼女は車を降りてひとりで霊園の小道を進んでいく。手にした白い花を墓石の前に供え、しばし無言で立ち尽くした。それからゆっくりと腰をかがめ、墓石の埃を指先でそっと拭う。 切れ長の瞳に、鋭く妖しい光を湛えたあの男。あの顔が脳裏に浮かぶ小夜の表情は、凪いだ水面のように静かだった。 「一日、遅れたわ」 昨日が命日だった。あえて来なかった。わざと一日ずらしたのだ。 彼女は独り言のように、小さな声で続ける。 「あなたは私の人生の中で、何度も遅れてきたでしょう。いつも少しだけ遅くて……だから私も、少し遅れることにしたの。これからはもっと遅くなるわ。そしてそのうち……来なくなるかもしれない。不満でしょうけど、我慢してちょうだい」 もっとも、怒ったところで、もうこちらには届かないのだけれど。 小夜はゆっくりと背筋を伸ばし、ふっと口元をほころばせた。 「帰るわね。来年、また来る。来ないかもしれないけど。ここまでの道は歩きにくいし、この季節は湿気がひどいし…… それに、死んだ人より生きてる人のほうが大事だから。あなたなら、わかってくれるわよね」 言い終えると、小夜の唇の笑みがふっと薄れた。 まるで強がる子供のような自分の幼稚さに呆れたのか、小夜は小さくかぶりを振って踵を返した。そのまま振り返ることなく、霊園の出口に向かって歩いていく。 その華奢な姿が遠く小さくなった頃―― 墓の裏手の木立から、ひとつの影が音もなく姿を現した。長身の男だった。しなやかで力強い手が、墓石の上にそっと置かれる。 黒いロングコートの裾が、冷たい風にゆるく翻っていた。 …… 長谷川本家。 ガラス張りの温室のドアを開けると、中で小さなスコップを片手に草花をいじっている佳乃の姿があった。 役員会議の席で冷たく張り詰めていた小夜の目元が、ふわりとほどける。小夜はわざと少し足音を立てて近づき、振り返った佳乃にやわらかく声をかけた。 「お母さん」 「小夜ちゃん!帰ってきたのね!」 佳乃は子供のような無邪気な笑顔を弾けさせ、スコップを放り出すと、泥だらけの手も気にせず飛びついてきた。 一年前、あの島で
それが今日、隆栄の口から突然持ち出された。 しかも、一千億円もの予算をつけてプロジェクトを立ち上げるという。役員たちは押し黙り、上座で表情ひとつ変えない小夜をちらちらと窺うばかりだった。 隆栄はプロジェクト計画書をスクリーンに映し出し、自動化の研究がいかに長谷川グループの未来にとって不可欠かを淡々と説明し始めた。そして、これは前代表である長谷川圭介がかねてより構想していたものであり、いわば「遺志」でもあると付け加えた。 彼はまっすぐに小夜へ目を向けた。 「このプロジェクトの重要性は、社長にもご理解いただけるはずです。大型の工業設備にスマート管理システムを導入し、機器の故障予測から保守、部品の消耗削減、リスクの予見、そして安全性の向上に至るまで――グループにとって、計り知れない利益をもたらします。 外部との技術提携という選択肢もありますが、やはり自社の開発部門に勝る機密性と信頼性はありません。どうか、個人的な感情は脇に置いて、合理的なご判断をいただきたいです」 明らかな当てこすりだった。 だが小夜は、涼しい顔でかすかに笑っただけだった。 「個人的な感情?岸本取締役は、ずいぶんと私の内情にお詳しいのですね。私自身、この件にどのような私情が絡んでいるのか、まったく心当たりがないのですが。よろしければ、皆さんの前で具体的にご説明いただけますか」 隆栄はぐっと眉根を寄せた。 愛人のゴシップなどという下世話な話を、この厳粛な場で口にできるわけがない。確証もないのだ。だが、彼には到底理解できなかった。この一年、ヴァルテックが上げてくる案件を、なぜ彼女はことごとく潰してきたのか。審査を通ったものはほとんどない。 たしかに問題のある計画もあった。だが、まったく欠陥のないものまで無慈悲に否決されている。そこに彼女の「個人的な感情」が混じっていない証拠など、どこにもないではないか。 「岸本取締役」 小夜が、静かに口を開いた。 「私も以前は、技術畑で生きてきた人間です。おっしゃる自動化技術、その構想自体は決して悪くありません。ですが、ヴァルテックの現行の技術チームを精査した上で申し上げます。構想は良くとも、彼らの開発力がまったく追いついていない。長谷川グループ全体のスマート化を担えるだけの水準には達していないと判断しました。
あの晩、圭介は電話を受けると、何も言わず、部屋に戻ることもなく、そのまま去っていった。小夜を大学まで送ったのは、彰だった。その後何日も、圭介は姿を見せず、大学で会うこともなかった。彰さえも大学から姿を消し、二人の消息はぷっつりと途絶えた。当時の小夜は、心配するよりもむしろ安堵していた。圭介が忙しいなら、それに越したことはない。あの男と渡り合うには、かなりのエネルギーと精神力を消耗するからだ。来ないなら、その方がいい。契約恋愛の期限も、刻一刻と終わりに近づいていた。彼女はプロジェクトの学習に没頭した。そして、契約期間終了の一週間前。青山率いるチームのプロジェクトに
夕暮れ時、寮の建物の曲がり角。小夜は顔を上げ、目の前に立つ背の高い圭介を見つめた。驚きはあったが、それ以上に困惑が勝った。一年ぶりの再会だ。近くで見ると、圭介の顔には憔悴の色が濃く、その端整な顔立ちには、どこか壊れそうな脆さが漂っていた。何かあったのだろうか?だが、彼女には関係のないことだ。二人は赤の他人以下の関係なのだから。圭介が待ち伏せしていたこと自体、彼女にとっては予想外だった。小夜は数歩後ずさりし、距離を取った。表情を冷たく引き締め、一言も発さずに立ち去ろうとした。彼と話すことなど、何もない。しかし、腕を掴まれた。強い力で引かれ、背中が壁にぶつかる。圭介
小夜は、頭が割れるように痛かった。耳に入ってくる言葉は遠く、視界も霞んでいる。全身が火のように熱く、指一本動かせないほど力が入らない。彼女が意識も朦朧と、顔を真っ赤にして黙り込んでいるのを見て、航は額に手を当てた。彼は「熱っ!」と叫ぶと、慌てて外へ飛び出し、この家の女主人を呼びに行った。小夜は高熱を出していた。ひとしきり大騒ぎして薬を飲ませると、彼女はようやく泥のように眠りについた。その眠りは苦しいものだった。混濁した意識の中で、小夜は夢を見た。ずっと昔に戻る夢だ。それは、彼女が圭介と初めて出会った時のこと。七年前よりも、もっと前のことだ。まだ大学に通ってい
小夜は、まだ状況がよく飲み込めていなかった。雨の中に飛び出したことまでは覚えているが、その後の記憶が曖昧だ。見知らぬ部屋の造り、着替えさせられた服を見て、当然ながら戸惑っていた。不思議に思っていると、突然ドアが開き、六、七歳くらいの少女が走り込んできた。二人は無言で見つめ合った。少女は声を張り上げた。「ママ、ママ!綺麗なお姉ちゃんが目を覚ましたよ!」少女は叫んだ後も出て行かず、駆け寄ってきて、物珍しそうに小夜を見上げた。黒目がちの瞳がくるくると動き、とても愛らしい。子供を見て、小夜は思わず笑みをこぼした。「お嬢ちゃん、ここはどこ?」「私の家だよ」少女は小首をかし