Share

第27話

Author: 迷い魚
怜央からの電話だった。

紗和は電話に出た。

「ネットの件、見たか?」

怜央が尋ねた。

その声は冷たく、押し殺した苛立ちが滲んでいた。

紗和には、彼が何を言いたいのか分からなかった。まだ口を開く前に、怜央が続ける。

「書かれているようなことじゃない。説明できる」

紗和の胸が沈んだ。

今さら説明しようとするなんて、あまりにも遅すぎる。

紗和は苦く笑った。

「何を説明するの?」

「俺と莉乃は、お前が思っているような関係じゃない」

怜央は不意にそう言った。

「そう」

紗和は少しも迷わず、穏やかにそう答えた。

「信じるわ」

怜央は、紗和が従順な女だということをずっと知っていた。

それなのに今回は、なぜか胸の奥にぽっかり穴が開いたような感覚があった。

彼は想像していた。

紗和が初めて晴翔の身元を知った時のように、取り乱して泣き叫ぶ姿を。

あるいは、彼が彼女の唯一の肉親の最期に立ち会わなかった時のように、責める言葉をぶつけてくる姿を。

けれど今回、紗和は何の反応も示さなかった。

どれほど気のいい女でも、夫が別の女とバーで熱烈に口づけているのを、平然と許せる
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった   第30話

    大学時代、伊織は紗和に、自分の母校であるミュンヘン工科大学へ留学するよう強く推薦してくれた。それは同じ大学の多くの学生が喉から手が出るほど欲しがっても、手に入れられない好機だった。紗和は懸命にドイツ語を学び、留学のオファーを手にした。だがその後、伊織と不適切な関係にあると匿名で告発された。当時、伊織は気にせずそのまま留学へ行け、残りのことは自分が処理すると言ってくれた。けれど紗和は、彼の昇進審査に影響が出ることを恐れ、自ら留学を諦めた。その一件を経て、伊織はかえって彼女をいっそう高く評価するようになった。当時は国としても、産学連携や研究成果の事業化を後押ししていた。伊織は大学の承認を得て、数人の学生とともに会社を立ち上げた。ただ紗和は怜央のためにそこから抜けた。それでも伊織は、彼女の持ち分をそのまま残しておいた。いつか戻りたくなったら、いつでも歓迎すると言って。この数年、紗和には毎年、そのテック企業から配当が届いていた。紗和の心がわずかに動いた。戻るべきかどうか迷っていると、新しいメッセージが届いた。【業界で聞いたよ。御堂くんの会社で、紗和がハッカーと私的につながってプロジェクトを壊したと、濡れ衣を着せられているらしいね。僕は、紗和がそんなことをする人ではないと分かっている】紗和は、その件の影響がここまで大きいとは思っていなかった。業界内にまで広まっているのか。だから面接の機会すら得られなかったのだ。彼女は返信した。【はい。やめるつもりです】【それなら、次はどうするつもり?僕の会社に来ないか?】【え?】【何か心配なことがある?】伊織が尋ねた。紗和は口ごもるように返信した。【私……私の学歴は、あまり胸を張れるものではなくて】紗和は、改めて大学院入試を受けるべきかと考えたことさえあった。まだ間に合う。やりたくないわけではなかった。ただ、自分が会社の発展の足を引っ張るのではないかと怖かったのだ。伊織は答えた。【今どこにいる?迎えに行く。直接話そう】紗和はしばらく迷ったが、結局、場所を伝えた。伊織はそれを見ると、すぐに返信した。【そう遠くない。今から向かう】伊織と紗和は、この数年ほとんど会っていなかった。それでも、ほんの数回会っただけで、伊織には分

  • 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった   第29話

    紗和はすぐに返信した。【うん、行こう】彩葉は彼女の幼なじみで、紗和の祖母のことも、ずっと自分の祖母のように思っていた。葬儀の時に地方出張で戻れなかったことを、彼女はずっと気に病んでいた。あちらの裁判が急を要していたため、どうしても戻れなかったのだ。紗和が応じると、二人は時間を決めて出発した。紗和の祖母は、南ヶ丘霊園に眠っていた。二人は午後、霊園の入口に到着した。彩葉の手には、淡いピンク色の小さな花束があった。祖母が生前いちばん好きだったコスモスだった。彼女はそれを、そっと祖母の墓前に供えた。その時、二人はふと何かに気づいた。どうやら、ついさっき誰かが墓参りに来ていたらしい。時間にして、せいぜい30分も違わない。供えられた線香の灰が、まだほのかに温かかったのだ。完全には冷めきっていない。紗和ははっとして、すぐに踵を返し、外へ追いかけた。彼女は彩葉に、祖母が亡くなる直前に言い残そうとした言葉を話していなかった。祖母は、彼女の出生にはただならぬ事情があると言っていた。そして今、祖母が亡くなったあとにここへ来るような人物が、莉乃と甘く寄り添っている怜央であるはずがない。祖母には、紗和という孫娘以外、身寄りはいなかった。ならば可能性は一つだけ。彼女の実の両親側の人間だ。紗和が霊園の入口まで追いかけると、気品ある後ろ姿が見えた。その男はすらりと背が高く、黒いロングコートをまとっていた。強い風の中、裾が絶えずはためいている。紗和が声をかけようとしたその瞬間、男は黒いスポーツカーへ乗り込み、そのまま走り去ってしまった。紗和はどうしようもない無力感に襲われた。その時になって、彩葉がようやく彼女のそばへ追いついた。そしてその車を一目で見抜き、驚いたような顔をした。「あなたが追っていたあの男……」紗和は言った。「怜央じゃない」彩葉は言った。「あれ、そこらのスーパーカーとは格が違うわ。怜央でも、たぶんあそこまでの車は持っていないはず。あなたは、あの人がおばあ様に線香を供えてくれたと思ってるの?」紗和は言葉が出なかった。数日前、彼女が家を出たあと、夜中に変質者が部屋へ押し入り、襲われかけたことを思い出す。その時、彼女を守る者たちが現れ、あの男を容赦なく叩きのめした。彼らは、

  • 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった   第28話

    紗和には、少しも簡単なことだとは思えなかった。かすれた声で言う。「つまり、私におじいさまを騙して、写真の女は私だと言えってこと?」怜央の声は、ひどく冷静だった。「それよりいい方法が思いつかない。おじいさまにそう言うだけじゃない。メディアにもそう説明してほしい。そうすれば世論はすぐに収まる。御堂ホールディングスにとっても、みんなにとっても、そのほうがいい」みんな?紗和の指先が、無意識にぎゅっと握り締められた。一番守りたいのは、莉乃でしょう。怜央はやはり、自分で言ったとおり、この先一生、どんな時も莉乃を守り抜くのだ。このまま騒ぎが長引けば、御堂会長はすぐに調べ上げるはずだった。御堂ホールディングスの社長に女性関係の騒動を起こさせた相手が、莉乃だということを。御堂会長は当時、怜央が莉乃と一緒になることに断固として反対していた。それを知れば、今度こそ必ず莉乃を追い払う。だから怜央は、ここまで焦っているのだ。「いいわ」紗和は笑った。涙が止めどなく落ちていく。「あなたたちを助けてあげる」電話の向こうで、怜央はまず安堵した。けれどその後、ほんの少しだけ後ろめたさを覚えたようだった。声はいつもの冷たさを失い、いくらか柔らかくなる。「紗和、この件ではお前に嫌な思いをさせた。金を振り込んでおいた。迷惑料だ。欲しいものがあれば、何でも買えばいい」電話を切ると、紗和のスマホに銀行からの入金通知が届いた。一、十、百、千、万。紗和は桁を数えた。ゼロは八つ。怜央は彼女に1億円を振り込んでいた。たった一言の釈明で、1億円。紗和にとっては、悪くない取引だった。そして怜央にとっても、オークションで莉乃のために気まぐれで使う程度の金で騒ぎを収められるのだから、安いものだったのだろう。だから御堂会長の執事から電話がかかってきた時、紗和はそつなく答えた。その後、自分のSNSアカウントを開いた。フォロワーは数百人。そのうち半分は御堂家の親戚で、親族用のグループに入ったあと相互フォローした人たちだった。そして、短い文章を打ち込んだ。【カメラマンさん、こんなに綺麗に撮ってくださってありがとうございます。バーで飲むのは、怜央と私の夫婦のちょっとした楽しみです】紗和が投稿すると、怜央はすぐに

  • 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった   第27話

    怜央からの電話だった。紗和は電話に出た。「ネットの件、見たか?」怜央が尋ねた。その声は冷たく、押し殺した苛立ちが滲んでいた。紗和には、彼が何を言いたいのか分からなかった。まだ口を開く前に、怜央が続ける。「書かれているようなことじゃない。説明できる」紗和の胸が沈んだ。今さら説明しようとするなんて、あまりにも遅すぎる。紗和は苦く笑った。「何を説明するの?」「俺と莉乃は、お前が思っているような関係じゃない」怜央は不意にそう言った。「そう」紗和は少しも迷わず、穏やかにそう答えた。「信じるわ」怜央は、紗和が従順な女だということをずっと知っていた。それなのに今回は、なぜか胸の奥にぽっかり穴が開いたような感覚があった。彼は想像していた。紗和が初めて晴翔の身元を知った時のように、取り乱して泣き叫ぶ姿を。あるいは、彼が彼女の唯一の肉親の最期に立ち会わなかった時のように、責める言葉をぶつけてくる姿を。けれど今回、紗和は何の反応も示さなかった。どれほど気のいい女でも、夫が別の女とバーで熱烈に口づけているのを、平然と許せるはずがない。それなのに紗和は、泣きもしなければ騒ぎもしない。怜央の胸に、得体の知れない違和感が広がっていく。彼女のあまりにも軽い「信じる」という言葉は、彼を安心させるどころか、何かがおかしいと思わせた。彼は眉をひそめた。頭の中に、あり得ないはずの言葉が浮かぶ。関心がない。紗和は、怜央と莉乃が口づけたかどうかに、もう関心がない。だが紗和は、あれほど彼を愛していたのだ。そんなことがあるはずがない。怜央はふいに、何かが自分の手の中から遠ざかっていくように感じた。ほとんど無意識に、それを引き止めようとするように、彼は説明を始めた。「紗和、俺と莉乃の関係は、恋愛なんて言葉では片づけられない。莉乃は、俺の命の恩人なんだ」怜央が妻にこの話をするのは、初めてだった。「命の恩があるんだ、紗和。分かるか。俺は一生、莉乃に感謝し続ける。だから莉乃が何を間違えても、俺は許す」紗和はわずかに息をのんだ。そしてふと、自分の中に最後まで残っていた執着が、煙のように消えていくのを感じた。怜央はこの先一生、莉乃のためにひれ伏すのだろう。かつて紗和が雲の

  • 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった   第26話

    美咲の口から「御堂社長」という言葉が出たからだった。ボックス席の中央にいたのは、怜央だった。揺れる赤や緑の照明の中でも、その彫りの深い端正な顔はすぐに分かった。彼の存在感は、周囲から一つ抜けていた。優雅で紳士的で、近寄りがたいはずなのに、どこか柔らかな温度さえ感じさせる佇まいだった。その腕の中には、一人の女がいた。赤いドレスをまとった、美しく人目を引く女。いつも冷静でストイックなはずの男の目には、普段は見せない甘さと優しさが浮かんでいた。彩葉も紗和の視線を追ってそちらを見た。口元をひくつかせ、呆れたように目を見開く。「あの女が、怜央の幼なじみ?」「うん」紗和はグラスの酒を一気に喉へ流し込んだ。ひどく苦かった。彩葉は、信じられないものを見たような顔をした。「たとえ離婚するつもりだとしても、まだ届も出していないんでしょう?それで堂々と抱き合ってるわけ?」紗和は何も言わなかった。莉乃がふいに身を起こし、怜央の顔へ近づいて口づけた。怜央は自然に顔を下げてそれに応え、同時に彼女の腰を抱き寄せた。なんてお似合いの幼なじみ同士なのだろう。「わあ!」「御堂社長でも、惚れた女の前ではあんな顔するんだな」「うちの会社で一番近寄りがたいって言われてる人なのに。今日は完全に別人じゃない」……そこには、紗和が知っている年上の同僚たちも何人かいた。普段は陰で彼女を、結婚もできない女だと嘲っていた人たちだ。彼らはひどく興奮して、はやし立てていた。彩葉が勢いよく立ち上がった。紗和は慌てて彼女を引き止める。「行かないで」「私が馬鹿だと思ってるの?」彩葉も、怜央が簡単に手を出せる相手ではないことくらい分かっていた。今ここで乗り込んだところで、すぐにボディガードに取り押さえられ、警察沙汰にされるだけだ。彩葉はただ立ち上がり、スマホで何枚も写真を撮った。それから紗和の手を引く。「ここ、空気が悪いわ。別の店で飲み直そう」紗和はうなずいた。二軒目でも飲んだ。翌日の午後になって、紗和はようやく目を覚ました。頭が鈍く痛んでいる。両目も少し腫れていた。スマホを開くと、彩葉からリンクが送られてきていた。【愛人とクズ男、晒されてるわよ。私が流したんじゃないからね。私が撮った

  • 夫と息子に捨てられた私、大物の子を授かった   第25話

    彼女はふと、この数年、怜央がよく仕事を理由に海外出張へ行っていたことを思い出した。彼女はただのエンジニアだったが、それでも知っていた。彼が行っていた国には、仕事上の取引などなかった。ただ、そこには女子校がいくつかあった。そして莉乃は、この数年、海外で学んでいたと言っていた。彼が何をしに行っていたのか、紗和はようやく分かった。怜央は眉をひそめた。紗和の答えは彼の予想外だった。思わず尋ねる。「なら、お前は何が欲しいんだ?自分をそこまで特別だと思うな。俺が好意で旅行に連れて行くと言っているんだ。以前は行きたいと何度も言っていただろう。30ページ以上の計画書まで作っていたじゃないか。それを今さらいらないと言うのか?俺だって連れて行くのは面倒なんだ。後悔するなよ」紗和の表情は落ち着いていた。「後悔しないわ。私が欲しいものは、家の書斎机の上に置いてある。怜央、あなたは一度でいいから見てくれる?」彼女のことになると、怜央はいつも見て見ぬふりをし、聞こえないふりをする。紗和に言われて、怜央はようやく思い出した。苦労して記憶を辿ると、それは確か一通の書類だった。おそらく彼女が欲しがっているジュエリーやバッグ、あるいは高級車の類だろう。怜央にはその手口に覚えがあった。なにしろ、莉乃はいつもそうしていたからだ。彼は言った。「分かった。あとで見ておく。今は少し用がある。お前は先に席へ戻れ。異動の件は考えておけ。また次に話そう」怜央には確かに用ができていた。重要な顧客がすでにドアの外に来ていたのだ。紗和はそれを聞くと、オフィスを出ていった。彼女には分かっていた。怜央が莉乃と一緒にいる以上、離婚協議書を見れば、きっとすぐに署名して同意する。なぜなら今の紗和は、怜央にとって実際にはもう何の役にも立たないからだ。彼は彼女の特許を手に入れ、彼女が設計したゲームで会社を上場させ、さらに彼女との結婚を利用して後継者の座を手に入れた。紗和がずっと従順だったのは、この薄い均衡を破れば、怜央が莉乃のために彼女を潰しにかかるかもしれないと分かっていたからだった。離婚さえできれば、彼女はやり直せる。互いに別々の道を歩み、余計なしがらみを増やす必要もない。紗和がオフィスへ戻ると、美咲が彼女の許可も得ず、彼女の

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status