Masuk四月二十七日。 六月十一日。 どちらも彰人が家に帰らなかった日。 そして、紙に残されていた『A.S』の文字。 相沢芹奈。 偶然とは思えなかった。 千紘は帰宅すると、もう一度小さな紙をテーブルへ広げた。 最後に書かれている電話番号。「これも芹奈に関係あるのかな……」 会社で使っている番号ではない。 少なくとも、千紘が知っている芹奈の連絡先とは違う。 かといって、いきなり電話をかけるわけにもいかない。 千紘は番号をスマートフォンで検索してみた。 やはり何も出てこない。「昔の番号とか?」 それなら、今はもう使われていない可能性もある。 考えていると、スマートフォンが鳴った。 律からだった。「はい」『今、大丈夫ですか?』「大丈夫です」『この前のノートなんですが、少し気になるところがあって』「どこですか?」『四月二十七日です』 千紘は息を呑んだ。「……どうして?」『その日に千紘から連絡が来てたんです』「え?」『ノートを見ていて思い出しました』 千紘はスマートフォンを強く握った。「どんな連絡ですか?」『大した内容じゃありません』 律が少し間を置く。『久しぶり。元気? って、それだけです』「……」 覚えていない。『俺も、元気だよって返しました。それで終わりです』「それだけ?」『はい』「そのあと、何か話したりは?」『してません』 千紘は紙に書かれた『0427』を見る。 その日。 彰人は急な出張だと言って帰らなかった。
帰宅した千紘は、バッグを置くとすぐに陶器の鳥を取り出した。 テーブルの上に置き、裏返す。 底に貼られたフェルト。 端の一部分だけが、わずかに浮いている。「何か入ってる……?」 千紘は爪をかけた。 古い接着剤が剥がれ、フェルトがゆっくりと持ち上がる。 その下に、小さな穴があった。「こんなの……あったっけ」 陶器の置物には、製造時にできた穴が開いていることがある。 けれどこれは、その穴を利用して何かを隠していたように見えた。 千紘は鳥を傾ける。 何も出てこない。 軽く振ってみる。 カサッ。「……!」 音がした。 中に何かある。 千紘は細いピンセットを探し、穴へ差し込んだ。 何度か失敗して、ようやく何かをつまむ。 ゆっくり引き出すと、小さく折り畳まれた紙が出てきた。「これ……」 開く。 ホテルの利用明細ではなかった。 そこに書かれていたのは、数字とアルファベットの羅列。『S-0427』『0611』『A.S』 そして、その下に電話番号らしき数字が書かれていた。「何これ……?」 自分の字だ。 つまり、千紘自身がここへ隠した。 でも、何のために?「A.S……」 彰人なら、A。 芹奈なら、S。 偶然? 千紘はスマートフォンを取り出し、芹奈の名前を検索した。 相沢芹奈。 ローマ字にすれば、Aizawa Serina。「A.S」 一致する。 けれど、そ
休憩が終わり、撮影が再開された。 千紘はできるだけ仕事に集中しようとした。 チェストのことは、いったん忘れる。 さっきは危なかった。 あれ以上、不自然な行動を取るわけにはいかない。「雨宮さん、これ確認してもらえる?」「はい」 佐伯からタブレットを受け取り、撮影された写真を確認する。 自分が作ったわけではないデザイン。 自分が暮らしていた家。 その二つが一つの画面に収まっている。 何とも不思議な気分だった。「どう?」「……いいと思います」「じゃあ、このパターンも押さえてもらいましょう」 撮影は順調に進んだ。 あと一時間ほどで終わる。 今日はもう、チェストには近づかない。 また仕事でこの家に来る機会があるかもしれない。 焦る必要はない。 そう自分に言い聞かせた。 そのとき。「すみません」 スタッフの一人が彰人に声をかけた。「もう少し小物を足したいんですが、何かお借りできるものはありますか?」「小物ですか?」「本とか、写真立てとか。生活感が出るものがあると助かります」「分かりました。探してみます」 彰人がリビングを出ていく。 千紘はその背中を見送った。 しばらくして、彰人がいくつかの本と小さな置物を抱えて戻ってくる。「こんなものでどうでしょう?」「ありがとうございます」 スタッフが一つずつ確認していく。 その中に、小さな陶器の鳥があった。「あ……」 声が漏れた。 彰人がこちらを見る。「どうしました?」「いえ……かわいいなと思って」 嘘だった。
撮影当日。 千紘は榊原家の門の前に立っていた。「……」 何度も出入りした場所。 買い物から帰ってきた日も。 彰人と二人で出かけた日も。 喧嘩をして、一人で飛び出した日もあった。 ここは確かに、自分の家だった。 けれど今日は、客として入る。「雨宮さん?」 佐伯に呼ばれ、千紘は我に返った。「すみません」「緊張してる?」「少し」「個人宅での撮影なんて珍しいものね」「はい」 インターホンを押す。 しばらくして、玄関の扉が開いた。「お待ちしていました」 彰人だった。「今日はよろしくお願いします」 佐伯たちが頭を下げる。 千紘も続いた。「よろしくお願いいたします」「どうぞ」 彰人に促され、玄関へ入る。 足を踏み入れた瞬間、胸が締めつけられた。 匂い。 空気。 何もかも知っている。 玄関脇の傘立て。 壁に掛けられた鏡。 靴箱の上に置かれた小さな置物。 千紘が旅行先で買ったものまで、そのままだった。「こちらへ」 彰人についてリビングへ向かう。 廊下を歩きながら、千紘は例のチェストを見た。 ある。 以前と同じ場所に。 もちろん、今すぐ開けることなどできない。 彰人もいる。 撮影スタッフもいる。 千紘は何も知らない顔で通り過ぎた。「こちらを使ってください」 リビングでは、すでに撮影用のスペースが空けられていた。「素敵なお宅ですね」 スタッフの一人が言う。「ありがとうございます」 彰人が笑う。
彰人と芹奈が家へ入ってから、千紘はしばらくその場を動けなかった。 あそこは、自分の家だった。 彰人と結婚してから何年も暮らした場所。 玄関に飾った花も。 リビングのカーテンも。 食器棚に並べたカップも。 一つ一つ、自分で選んだ。 なのに今は、もう帰ることすらできない。「……馬鹿みたい」 死んだのだから当然だ。 榊原千紘は、もうこの世にはいないことになっている。 分かっている。 それでも、知らない女の身体で自分の家を眺めていると、不思議な感覚になった。 しばらくすると、二階の窓に明かりがついた。 寝室。 千紘と彰人が使っていた部屋だ。「まさか……」 そこまで考えて、やめた。 何をしているのかなんて知りたくない。 千紘は家に背を向けた。 今夜ここに来た目的は、二人を監視することではない。 死ぬ四日前の記憶を辿ることだ。「帰ろう」 駅へ向かって歩き始める。 けれど、数分もしないうちに足が止まった。 ホテルの明細。 あれを、どこへやった? バッグに入れたところまでは思い出した。 そのあと彰人が帰宅して、明細の存在に気づかれた。 ノートは律へ送った。 なら、明細も一緒に送ればよかったはずだ。 けれど箱の中にはなかった。「別の場所に隠した……?」 そんな気がする。 彰人に見つかってはいけない。 そう思って、どこかへ移した。 家の中ではない。 家の中なら彰人に見つかると思ったから――。「あ……」 千紘の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。
二名。 その数字を見た瞬間の感覚まで、少しずつ蘇ってきた。 死ぬ四日前。 千紘はクリーニング店を出たあと、ホテルの利用明細を何度も見返していた。 彰人はその日、出張だったと言っていた。 帰宅したのは翌日の昼過ぎ。『急に取引先との会食が入ってさ』 そう説明されて、何の疑いも持たなかった。 けれど、明細には二名と記されていた。「……浮気してたんだ」 あのときも、同じ言葉を呟いた。 誰と? いつから? 頭の中が混乱していた。 彰人に直接聞こうかとも思った。 けれど、証拠はこの紙一枚だけ。 言い逃れされたら終わりだと思った。 だから千紘は、明細をバッグへしまった。 その足で自宅近くのコンビニへ向かった。「違う……」 千紘は道端で足を止めた。 コンビニへ行く前に、一度家へ戻っている。 そこからノートを持ち出した。 彰人の帰宅時間や、不審に思ったことを書き留めていたノート。 あれを家に置いておくのが、急に怖くなったのだ。 でも、なぜ? ホテルの明細を見つけただけなら、そこまで怯える必要はない。「そのあと、何かあった……」 千紘は目を閉じた。 家。 リビング。 ノート。 封筒。 そして――玄関の音。「……彰人」 予定より早く帰ってきた。 記憶が一気に蘇る。『千紘?』『おかえり。早かったのね』『予定がなくなったから』 彰人はいつも通りだった。 けれど千紘は、うまく笑えていなかった。『どうした?』







