Mag-log in四月二十七日。
六月十一日。
どちらも彰人が家に帰らなかった日。
そして、紙に残されていた『A.S』の文字。
相沢芹奈。
偶然とは思えなかった。
千紘は帰宅すると、もう一度小さな紙をテーブルへ広げた。
最後に書かれている電話番号。
「これも芹奈に関係あるのかな……」
会社で使っている番号ではない。
少なくとも、千紘が知っている芹奈の連絡先とは違う。
かといって、いきなり電話をかけるわけにもいかない。
千紘は番号をスマートフォンで検索してみた。
やはり何も出てこない。
「昔の番号とか?」
それなら、今はもう使われていない可能性もある。
考えていると、スマートフォンが鳴った。
律からだった。
「はい」
『今、大丈夫ですか?』
「大丈夫です」
『……榊原さん?』 受話器を握る手が震えた。『榊原千紘さんですか?』 どうして。 千紘は何も話していない。 それなのに、電話の向こうの男は自分の名前を口にした。『もしもし?』「……違います」 ようやく、それだけ答えた。 声は雨宮凛のものだ。 相手が千紘の声だと気づくことはない。『あ……すみません』 男は明らかに落胆したようだった。「どうして、榊原さんだと思ったんですか?」『え?』「私、何も言ってませんよね」『それは……』 男が黙る。 千紘は迷った。 このまま切った方がいい? 相手が誰なのか分からない。 彰人の関係者かもしれない。 けれど、死ぬ前の自分はこの番号を残している。「榊原千紘さんを知ってるんですか?」『……あなたは?』「少しだけ」 嘘ではない。 自分自身なのだから。『榊原さんから、この番号を聞いたんですか?』「そうです」 千紘は咄嗟に答えた。 電話の向こうが静かになった。『じゃあ、亡くなる前に?』「……はい」 心臓が速くなる。 この男は、自分が死んだことを知っている。「あなたは、榊原さんとどういう関係なんですか?」『俺は――』 一瞬、ためらう。『探偵です』「探偵?」『榊原さんから依頼を受けていました』 千紘は息を呑んだ。「何の依頼ですか?」『それを、あなたに話していいのか分かりません』
四月二十七日。 六月十一日。 どちらも彰人が家に帰らなかった日。 そして、紙に残されていた『A.S』の文字。 相沢芹奈。 偶然とは思えなかった。 千紘は帰宅すると、もう一度小さな紙をテーブルへ広げた。 最後に書かれている電話番号。「これも芹奈に関係あるのかな……」 会社で使っている番号ではない。 少なくとも、千紘が知っている芹奈の連絡先とは違う。 かといって、いきなり電話をかけるわけにもいかない。 千紘は番号をスマートフォンで検索してみた。 やはり何も出てこない。「昔の番号とか?」 それなら、今はもう使われていない可能性もある。 考えていると、スマートフォンが鳴った。 律からだった。「はい」『今、大丈夫ですか?』「大丈夫です」『この前のノートなんですが、少し気になるところがあって』「どこですか?」『四月二十七日です』 千紘は息を呑んだ。「……どうして?」『その日に千紘から連絡が来てたんです』「え?」『ノートを見ていて思い出しました』 千紘はスマートフォンを強く握った。「どんな連絡ですか?」『大した内容じゃありません』 律が少し間を置く。『久しぶり。元気? って、それだけです』「……」 覚えていない。『俺も、元気だよって返しました。それで終わりです』「それだけ?」『はい』「そのあと、何か話したりは?」『してません』 千紘は紙に書かれた『0427』を見る。 その日。 彰人は急な出張だと言って帰らなかった。
帰宅した千紘は、バッグを置くとすぐに陶器の鳥を取り出した。 テーブルの上に置き、裏返す。 底に貼られたフェルト。 端の一部分だけが、わずかに浮いている。「何か入ってる……?」 千紘は爪をかけた。 古い接着剤が剥がれ、フェルトがゆっくりと持ち上がる。 その下に、小さな穴があった。「こんなの……あったっけ」 陶器の置物には、製造時にできた穴が開いていることがある。 けれどこれは、その穴を利用して何かを隠していたように見えた。 千紘は鳥を傾ける。 何も出てこない。 軽く振ってみる。 カサッ。「……!」 音がした。 中に何かある。 千紘は細いピンセットを探し、穴へ差し込んだ。 何度か失敗して、ようやく何かをつまむ。 ゆっくり引き出すと、小さく折り畳まれた紙が出てきた。「これ……」 開く。 ホテルの利用明細ではなかった。 そこに書かれていたのは、数字とアルファベットの羅列。『S-0427』『0611』『A.S』 そして、その下に電話番号らしき数字が書かれていた。「何これ……?」 自分の字だ。 つまり、千紘自身がここへ隠した。 でも、何のために?「A.S……」 彰人なら、A。 芹奈なら、S。 偶然? 千紘はスマートフォンを取り出し、芹奈の名前を検索した。 相沢芹奈。 ローマ字にすれば、Aizawa Serina。「A.S」 一致する。 けれど、そ
休憩が終わり、撮影が再開された。 千紘はできるだけ仕事に集中しようとした。 チェストのことは、いったん忘れる。 さっきは危なかった。 あれ以上、不自然な行動を取るわけにはいかない。「雨宮さん、これ確認してもらえる?」「はい」 佐伯からタブレットを受け取り、撮影された写真を確認する。 自分が作ったわけではないデザイン。 自分が暮らしていた家。 その二つが一つの画面に収まっている。 何とも不思議な気分だった。「どう?」「……いいと思います」「じゃあ、このパターンも押さえてもらいましょう」 撮影は順調に進んだ。 あと一時間ほどで終わる。 今日はもう、チェストには近づかない。 また仕事でこの家に来る機会があるかもしれない。 焦る必要はない。 そう自分に言い聞かせた。 そのとき。「すみません」 スタッフの一人が彰人に声をかけた。「もう少し小物を足したいんですが、何かお借りできるものはありますか?」「小物ですか?」「本とか、写真立てとか。生活感が出るものがあると助かります」「分かりました。探してみます」 彰人がリビングを出ていく。 千紘はその背中を見送った。 しばらくして、彰人がいくつかの本と小さな置物を抱えて戻ってくる。「こんなものでどうでしょう?」「ありがとうございます」 スタッフが一つずつ確認していく。 その中に、小さな陶器の鳥があった。「あ……」 声が漏れた。 彰人がこちらを見る。「どうしました?」「いえ……かわいいなと思って」 嘘だった。
撮影当日。 千紘は榊原家の門の前に立っていた。「……」 何度も出入りした場所。 買い物から帰ってきた日も。 彰人と二人で出かけた日も。 喧嘩をして、一人で飛び出した日もあった。 ここは確かに、自分の家だった。 けれど今日は、客として入る。「雨宮さん?」 佐伯に呼ばれ、千紘は我に返った。「すみません」「緊張してる?」「少し」「個人宅での撮影なんて珍しいものね」「はい」 インターホンを押す。 しばらくして、玄関の扉が開いた。「お待ちしていました」 彰人だった。「今日はよろしくお願いします」 佐伯たちが頭を下げる。 千紘も続いた。「よろしくお願いいたします」「どうぞ」 彰人に促され、玄関へ入る。 足を踏み入れた瞬間、胸が締めつけられた。 匂い。 空気。 何もかも知っている。 玄関脇の傘立て。 壁に掛けられた鏡。 靴箱の上に置かれた小さな置物。 千紘が旅行先で買ったものまで、そのままだった。「こちらへ」 彰人についてリビングへ向かう。 廊下を歩きながら、千紘は例のチェストを見た。 ある。 以前と同じ場所に。 もちろん、今すぐ開けることなどできない。 彰人もいる。 撮影スタッフもいる。 千紘は何も知らない顔で通り過ぎた。「こちらを使ってください」 リビングでは、すでに撮影用のスペースが空けられていた。「素敵なお宅ですね」 スタッフの一人が言う。「ありがとうございます」 彰人が笑う。
彰人と芹奈が家へ入ってから、千紘はしばらくその場を動けなかった。 あそこは、自分の家だった。 彰人と結婚してから何年も暮らした場所。 玄関に飾った花も。 リビングのカーテンも。 食器棚に並べたカップも。 一つ一つ、自分で選んだ。 なのに今は、もう帰ることすらできない。「……馬鹿みたい」 死んだのだから当然だ。 榊原千紘は、もうこの世にはいないことになっている。 分かっている。 それでも、知らない女の身体で自分の家を眺めていると、不思議な感覚になった。 しばらくすると、二階の窓に明かりがついた。 寝室。 千紘と彰人が使っていた部屋だ。「まさか……」 そこまで考えて、やめた。 何をしているのかなんて知りたくない。 千紘は家に背を向けた。 今夜ここに来た目的は、二人を監視することではない。 死ぬ四日前の記憶を辿ることだ。「帰ろう」 駅へ向かって歩き始める。 けれど、数分もしないうちに足が止まった。 ホテルの明細。 あれを、どこへやった? バッグに入れたところまでは思い出した。 そのあと彰人が帰宅して、明細の存在に気づかれた。 ノートは律へ送った。 なら、明細も一緒に送ればよかったはずだ。 けれど箱の中にはなかった。「別の場所に隠した……?」 そんな気がする。 彰人に見つかってはいけない。 そう思って、どこかへ移した。 家の中ではない。 家の中なら彰人に見つかると思ったから――。「あ……」 千紘の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。







