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妻のいない家

Author: 影畑凛星
last update publish date: 2026-08-20 06:56:08

 彰人と芹奈が家へ入ってから、千紘はしばらくその場を動けなかった。

 あそこは、自分の家だった。

 彰人と結婚してから何年も暮らした場所。

 玄関に飾った花も。

 リビングのカーテンも。

 食器棚に並べたカップも。

 一つ一つ、自分で選んだ。

 なのに今は、もう帰ることすらできない。

「……馬鹿みたい」

 死んだのだから当然だ。

 榊原千紘は、もうこの世にはいないことになっている。

 分かっている。

 それでも、知らない女の身体で自分の家を眺めていると、不思議な感覚になった。

 しばらくすると、二階の窓に明かりがついた。

 寝室。

 千紘と彰人が使っていた部屋だ。

「まさか……」

 そこまで考えて、やめた。

 何をしているのかなんて知りたくない。

 千紘は家に背を

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  • 夫と愛人に保険金目当てで殺された私は、別人としてよみがえり復讐する   残された私のもの

     休憩が終わり、撮影が再開された。 千紘はできるだけ仕事に集中しようとした。 チェストのことは、いったん忘れる。 さっきは危なかった。 あれ以上、不自然な行動を取るわけにはいかない。「雨宮さん、これ確認してもらえる?」「はい」 佐伯からタブレットを受け取り、撮影された写真を確認する。 自分が作ったわけではないデザイン。 自分が暮らしていた家。 その二つが一つの画面に収まっている。 何とも不思議な気分だった。「どう?」「……いいと思います」「じゃあ、このパターンも押さえてもらいましょう」 撮影は順調に進んだ。 あと一時間ほどで終わる。 今日はもう、チェストには近づかない。 また仕事でこの家に来る機会があるかもしれない。 焦る必要はない。 そう自分に言い聞かせた。 そのとき。「すみません」 スタッフの一人が彰人に声をかけた。「もう少し小物を足したいんですが、何かお借りできるものはありますか?」「小物ですか?」「本とか、写真立てとか。生活感が出るものがあると助かります」「分かりました。探してみます」 彰人がリビングを出ていく。 千紘はその背中を見送った。 しばらくして、彰人がいくつかの本と小さな置物を抱えて戻ってくる。「こんなものでどうでしょう?」「ありがとうございます」 スタッフが一つずつ確認していく。 その中に、小さな陶器の鳥があった。「あ……」 声が漏れた。 彰人がこちらを見る。「どうしました?」「いえ……かわいいなと思って」 嘘だった。

  • 夫と愛人に保険金目当てで殺された私は、別人としてよみがえり復讐する   私の家へ

     撮影当日。 千紘は榊原家の門の前に立っていた。「……」 何度も出入りした場所。 買い物から帰ってきた日も。 彰人と二人で出かけた日も。 喧嘩をして、一人で飛び出した日もあった。 ここは確かに、自分の家だった。 けれど今日は、客として入る。「雨宮さん?」 佐伯に呼ばれ、千紘は我に返った。「すみません」「緊張してる?」「少し」「個人宅での撮影なんて珍しいものね」「はい」 インターホンを押す。 しばらくして、玄関の扉が開いた。「お待ちしていました」 彰人だった。「今日はよろしくお願いします」 佐伯たちが頭を下げる。 千紘も続いた。「よろしくお願いいたします」「どうぞ」 彰人に促され、玄関へ入る。 足を踏み入れた瞬間、胸が締めつけられた。 匂い。 空気。 何もかも知っている。 玄関脇の傘立て。 壁に掛けられた鏡。 靴箱の上に置かれた小さな置物。 千紘が旅行先で買ったものまで、そのままだった。「こちらへ」 彰人についてリビングへ向かう。 廊下を歩きながら、千紘は例のチェストを見た。 ある。 以前と同じ場所に。 もちろん、今すぐ開けることなどできない。 彰人もいる。 撮影スタッフもいる。 千紘は何も知らない顔で通り過ぎた。「こちらを使ってください」 リビングでは、すでに撮影用のスペースが空けられていた。「素敵なお宅ですね」 スタッフの一人が言う。「ありがとうございます」 彰人が笑う。

  • 夫と愛人に保険金目当てで殺された私は、別人としてよみがえり復讐する   妻のいない家

     彰人と芹奈が家へ入ってから、千紘はしばらくその場を動けなかった。 あそこは、自分の家だった。 彰人と結婚してから何年も暮らした場所。 玄関に飾った花も。 リビングのカーテンも。 食器棚に並べたカップも。 一つ一つ、自分で選んだ。 なのに今は、もう帰ることすらできない。「……馬鹿みたい」 死んだのだから当然だ。 榊原千紘は、もうこの世にはいないことになっている。 分かっている。 それでも、知らない女の身体で自分の家を眺めていると、不思議な感覚になった。 しばらくすると、二階の窓に明かりがついた。 寝室。 千紘と彰人が使っていた部屋だ。「まさか……」 そこまで考えて、やめた。 何をしているのかなんて知りたくない。 千紘は家に背を向けた。 今夜ここに来た目的は、二人を監視することではない。 死ぬ四日前の記憶を辿ることだ。「帰ろう」 駅へ向かって歩き始める。 けれど、数分もしないうちに足が止まった。 ホテルの明細。 あれを、どこへやった? バッグに入れたところまでは思い出した。 そのあと彰人が帰宅して、明細の存在に気づかれた。 ノートは律へ送った。 なら、明細も一緒に送ればよかったはずだ。 けれど箱の中にはなかった。「別の場所に隠した……?」 そんな気がする。 彰人に見つかってはいけない。 そう思って、どこかへ移した。 家の中ではない。 家の中なら彰人に見つかると思ったから――。「あ……」 千紘の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。 

  • 夫と愛人に保険金目当てで殺された私は、別人としてよみがえり復讐する   あの日、夫に見られたもの

     二名。 その数字を見た瞬間の感覚まで、少しずつ蘇ってきた。 死ぬ四日前。 千紘はクリーニング店を出たあと、ホテルの利用明細を何度も見返していた。 彰人はその日、出張だったと言っていた。 帰宅したのは翌日の昼過ぎ。『急に取引先との会食が入ってさ』 そう説明されて、何の疑いも持たなかった。 けれど、明細には二名と記されていた。「……浮気してたんだ」 あのときも、同じ言葉を呟いた。 誰と? いつから? 頭の中が混乱していた。 彰人に直接聞こうかとも思った。 けれど、証拠はこの紙一枚だけ。 言い逃れされたら終わりだと思った。 だから千紘は、明細をバッグへしまった。 その足で自宅近くのコンビニへ向かった。「違う……」 千紘は道端で足を止めた。 コンビニへ行く前に、一度家へ戻っている。 そこからノートを持ち出した。 彰人の帰宅時間や、不審に思ったことを書き留めていたノート。 あれを家に置いておくのが、急に怖くなったのだ。 でも、なぜ? ホテルの明細を見つけただけなら、そこまで怯える必要はない。「そのあと、何かあった……」 千紘は目を閉じた。 家。 リビング。 ノート。 封筒。 そして――玄関の音。「……彰人」 予定より早く帰ってきた。 記憶が一気に蘇る。『千紘?』『おかえり。早かったのね』『予定がなくなったから』 彰人はいつも通りだった。 けれど千紘は、うまく笑えていなかった。『どうした?』

  • 夫と愛人に保険金目当てで殺された私は、別人としてよみがえり復讐する   死ぬ四日前の足取り

     律と別れたあと、千紘はまっすぐ凛の部屋へ戻った。 バッグを置くより先に、スマートフォンを取り出す。 撮影した宅配便の伝票。 発送日時は、死ぬ四日前の午後六時十二分。 場所は、自宅から歩いて十分ほどのコンビニ。「この日は……」 目を閉じる。 彰人を朝、仕事へ送り出した。 そこまでは覚えている。 けれど、そのあとの記憶が曖昧だ。 昼食に何を食べたのか。 どこかへ出かけたのか。 誰かと会ったのか。 思い出そうとすると、頭の中に靄がかかったようになる。「どうして、この日だけ……」 千紘は額を押さえた。 殺された夜のことは、嫌になるほど鮮明に覚えている。 彰人の顔も。 芹奈の声も。 海の冷たさも。 なのに、その四日前だけが抜け落ちている。「クロ」 呼んでみる。 返事はない。「こういうときこそ出てきなさいよ」「随分な言い草だな」「きゃっ!」 振り返ると、すぐ後ろにクロが立っていた。「呼んだくせに驚くな」「もっと普通に出てきてよ!」「普通の死神とは何だ?」「知らないわよ」 千紘はため息をついた。「聞きたいことがあるの」「何だ」「私の記憶」 クロの表情が僅かに変わった。「死ぬ四日前のことだけ、よく思い出せないの」「それが?」「あなたが何かした?」「していない」 即答だった。「じゃあ、どうして?」「知らん」「死神なのに?」「死神は人間の記憶をすべて把握しているわけじゃない」 千紘は眉を寄せる。

  • 夫と愛人に保険金目当てで殺された私は、別人としてよみがえり復讐する   思い出せない四日前

    『もし私に何かあったら、事故だと思わないで』 その一文から、目を離せなかった。 自分の字だ。 間違いなく、榊原千紘が書いたもの。 それなのに、書いた記憶がない。「雨宮さん?」 律の声で、千紘は我に返った。「……すみません」「顔色が悪い」「大丈夫です」 そう答えながら、もう一度手紙を見る。 続きがあった。『まだ何も分かってない』『私が考えすぎてるだけかもしれない』『だから警察に相談するようなことでもないと思う』『でも、何となく怖いの』 千紘は唇を噛んだ。 そうだ。 何かを怖がっていた。 彰人の浮気だけではない。 もっと別の何か。 そこまでは分かるのに、肝心の理由が思い出せない。『こんなことを頼める相手が、律しか思いつかなかった』 胸が痛んだ。 長い間、ほとんど連絡も取っていなかったのに。 それでも最後に頼ろうとしたのは、律だった。『迷惑だったらごめんね』『何もなかったら、そのうち笑い話にさせて』 手紙はそこで終わっていた。「……どうして」 律が呟いた。 顔を上げると、律は俯いていた。「どうして俺、もっと早く開けなかったんだろう」「鳴海さん」「これを読んでいれば……」「違います」 千紘は反射的に言った。「あなたのせいじゃありません」「でも」「送っただけで、何の説明もしてないじゃないですか」 自分で書いた手紙なのに、まるで他人を庇うような言い方になった。「荷物が届いただけで、こんなことが書いてあるなんて分かるはずありません」

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