LOGIN彰人と芹奈が家へ入ってから、千紘はしばらくその場を動けなかった。
あそこは、自分の家だった。
彰人と結婚してから何年も暮らした場所。
玄関に飾った花も。
リビングのカーテンも。
食器棚に並べたカップも。
一つ一つ、自分で選んだ。
なのに今は、もう帰ることすらできない。
「……馬鹿みたい」
死んだのだから当然だ。
榊原千紘は、もうこの世にはいないことになっている。
分かっている。
それでも、知らない女の身体で自分の家を眺めていると、不思議な感覚になった。
しばらくすると、二階の窓に明かりがついた。
寝室。
千紘と彰人が使っていた部屋だ。
「まさか……」
そこまで考えて、やめた。
何をしているのかなんて知りたくない。
千紘は家に背を
休憩が終わり、撮影が再開された。 千紘はできるだけ仕事に集中しようとした。 チェストのことは、いったん忘れる。 さっきは危なかった。 あれ以上、不自然な行動を取るわけにはいかない。「雨宮さん、これ確認してもらえる?」「はい」 佐伯からタブレットを受け取り、撮影された写真を確認する。 自分が作ったわけではないデザイン。 自分が暮らしていた家。 その二つが一つの画面に収まっている。 何とも不思議な気分だった。「どう?」「……いいと思います」「じゃあ、このパターンも押さえてもらいましょう」 撮影は順調に進んだ。 あと一時間ほどで終わる。 今日はもう、チェストには近づかない。 また仕事でこの家に来る機会があるかもしれない。 焦る必要はない。 そう自分に言い聞かせた。 そのとき。「すみません」 スタッフの一人が彰人に声をかけた。「もう少し小物を足したいんですが、何かお借りできるものはありますか?」「小物ですか?」「本とか、写真立てとか。生活感が出るものがあると助かります」「分かりました。探してみます」 彰人がリビングを出ていく。 千紘はその背中を見送った。 しばらくして、彰人がいくつかの本と小さな置物を抱えて戻ってくる。「こんなものでどうでしょう?」「ありがとうございます」 スタッフが一つずつ確認していく。 その中に、小さな陶器の鳥があった。「あ……」 声が漏れた。 彰人がこちらを見る。「どうしました?」「いえ……かわいいなと思って」 嘘だった。
撮影当日。 千紘は榊原家の門の前に立っていた。「……」 何度も出入りした場所。 買い物から帰ってきた日も。 彰人と二人で出かけた日も。 喧嘩をして、一人で飛び出した日もあった。 ここは確かに、自分の家だった。 けれど今日は、客として入る。「雨宮さん?」 佐伯に呼ばれ、千紘は我に返った。「すみません」「緊張してる?」「少し」「個人宅での撮影なんて珍しいものね」「はい」 インターホンを押す。 しばらくして、玄関の扉が開いた。「お待ちしていました」 彰人だった。「今日はよろしくお願いします」 佐伯たちが頭を下げる。 千紘も続いた。「よろしくお願いいたします」「どうぞ」 彰人に促され、玄関へ入る。 足を踏み入れた瞬間、胸が締めつけられた。 匂い。 空気。 何もかも知っている。 玄関脇の傘立て。 壁に掛けられた鏡。 靴箱の上に置かれた小さな置物。 千紘が旅行先で買ったものまで、そのままだった。「こちらへ」 彰人についてリビングへ向かう。 廊下を歩きながら、千紘は例のチェストを見た。 ある。 以前と同じ場所に。 もちろん、今すぐ開けることなどできない。 彰人もいる。 撮影スタッフもいる。 千紘は何も知らない顔で通り過ぎた。「こちらを使ってください」 リビングでは、すでに撮影用のスペースが空けられていた。「素敵なお宅ですね」 スタッフの一人が言う。「ありがとうございます」 彰人が笑う。
彰人と芹奈が家へ入ってから、千紘はしばらくその場を動けなかった。 あそこは、自分の家だった。 彰人と結婚してから何年も暮らした場所。 玄関に飾った花も。 リビングのカーテンも。 食器棚に並べたカップも。 一つ一つ、自分で選んだ。 なのに今は、もう帰ることすらできない。「……馬鹿みたい」 死んだのだから当然だ。 榊原千紘は、もうこの世にはいないことになっている。 分かっている。 それでも、知らない女の身体で自分の家を眺めていると、不思議な感覚になった。 しばらくすると、二階の窓に明かりがついた。 寝室。 千紘と彰人が使っていた部屋だ。「まさか……」 そこまで考えて、やめた。 何をしているのかなんて知りたくない。 千紘は家に背を向けた。 今夜ここに来た目的は、二人を監視することではない。 死ぬ四日前の記憶を辿ることだ。「帰ろう」 駅へ向かって歩き始める。 けれど、数分もしないうちに足が止まった。 ホテルの明細。 あれを、どこへやった? バッグに入れたところまでは思い出した。 そのあと彰人が帰宅して、明細の存在に気づかれた。 ノートは律へ送った。 なら、明細も一緒に送ればよかったはずだ。 けれど箱の中にはなかった。「別の場所に隠した……?」 そんな気がする。 彰人に見つかってはいけない。 そう思って、どこかへ移した。 家の中ではない。 家の中なら彰人に見つかると思ったから――。「あ……」 千紘の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。
二名。 その数字を見た瞬間の感覚まで、少しずつ蘇ってきた。 死ぬ四日前。 千紘はクリーニング店を出たあと、ホテルの利用明細を何度も見返していた。 彰人はその日、出張だったと言っていた。 帰宅したのは翌日の昼過ぎ。『急に取引先との会食が入ってさ』 そう説明されて、何の疑いも持たなかった。 けれど、明細には二名と記されていた。「……浮気してたんだ」 あのときも、同じ言葉を呟いた。 誰と? いつから? 頭の中が混乱していた。 彰人に直接聞こうかとも思った。 けれど、証拠はこの紙一枚だけ。 言い逃れされたら終わりだと思った。 だから千紘は、明細をバッグへしまった。 その足で自宅近くのコンビニへ向かった。「違う……」 千紘は道端で足を止めた。 コンビニへ行く前に、一度家へ戻っている。 そこからノートを持ち出した。 彰人の帰宅時間や、不審に思ったことを書き留めていたノート。 あれを家に置いておくのが、急に怖くなったのだ。 でも、なぜ? ホテルの明細を見つけただけなら、そこまで怯える必要はない。「そのあと、何かあった……」 千紘は目を閉じた。 家。 リビング。 ノート。 封筒。 そして――玄関の音。「……彰人」 予定より早く帰ってきた。 記憶が一気に蘇る。『千紘?』『おかえり。早かったのね』『予定がなくなったから』 彰人はいつも通りだった。 けれど千紘は、うまく笑えていなかった。『どうした?』
律と別れたあと、千紘はまっすぐ凛の部屋へ戻った。 バッグを置くより先に、スマートフォンを取り出す。 撮影した宅配便の伝票。 発送日時は、死ぬ四日前の午後六時十二分。 場所は、自宅から歩いて十分ほどのコンビニ。「この日は……」 目を閉じる。 彰人を朝、仕事へ送り出した。 そこまでは覚えている。 けれど、そのあとの記憶が曖昧だ。 昼食に何を食べたのか。 どこかへ出かけたのか。 誰かと会ったのか。 思い出そうとすると、頭の中に靄がかかったようになる。「どうして、この日だけ……」 千紘は額を押さえた。 殺された夜のことは、嫌になるほど鮮明に覚えている。 彰人の顔も。 芹奈の声も。 海の冷たさも。 なのに、その四日前だけが抜け落ちている。「クロ」 呼んでみる。 返事はない。「こういうときこそ出てきなさいよ」「随分な言い草だな」「きゃっ!」 振り返ると、すぐ後ろにクロが立っていた。「呼んだくせに驚くな」「もっと普通に出てきてよ!」「普通の死神とは何だ?」「知らないわよ」 千紘はため息をついた。「聞きたいことがあるの」「何だ」「私の記憶」 クロの表情が僅かに変わった。「死ぬ四日前のことだけ、よく思い出せないの」「それが?」「あなたが何かした?」「していない」 即答だった。「じゃあ、どうして?」「知らん」「死神なのに?」「死神は人間の記憶をすべて把握しているわけじゃない」 千紘は眉を寄せる。
『もし私に何かあったら、事故だと思わないで』 その一文から、目を離せなかった。 自分の字だ。 間違いなく、榊原千紘が書いたもの。 それなのに、書いた記憶がない。「雨宮さん?」 律の声で、千紘は我に返った。「……すみません」「顔色が悪い」「大丈夫です」 そう答えながら、もう一度手紙を見る。 続きがあった。『まだ何も分かってない』『私が考えすぎてるだけかもしれない』『だから警察に相談するようなことでもないと思う』『でも、何となく怖いの』 千紘は唇を噛んだ。 そうだ。 何かを怖がっていた。 彰人の浮気だけではない。 もっと別の何か。 そこまでは分かるのに、肝心の理由が思い出せない。『こんなことを頼める相手が、律しか思いつかなかった』 胸が痛んだ。 長い間、ほとんど連絡も取っていなかったのに。 それでも最後に頼ろうとしたのは、律だった。『迷惑だったらごめんね』『何もなかったら、そのうち笑い話にさせて』 手紙はそこで終わっていた。「……どうして」 律が呟いた。 顔を上げると、律は俯いていた。「どうして俺、もっと早く開けなかったんだろう」「鳴海さん」「これを読んでいれば……」「違います」 千紘は反射的に言った。「あなたのせいじゃありません」「でも」「送っただけで、何の説明もしてないじゃないですか」 自分で書いた手紙なのに、まるで他人を庇うような言い方になった。「荷物が届いただけで、こんなことが書いてあるなんて分かるはずありません」