LOGIN仕事を終えた千紘が会社を出ると、スマートフォンに律からメッセージが届いていた。
『今日、もう仕事は終わりましたか?』
『今終わったところです』
返信すると、すぐに既読がついた。
『もし時間があれば、食事でもどうですか? ちょうど近くまで来てるんです』
千紘は少し迷った。
断る理由はない。それなのに、すぐ返事をするのが妙に気恥ずかしくて、数秒置いてから『いいですよ』と送った。
◇
待ち合わせたのは、駅から少し離れた小さな洋食店だった。
「ここ、昔よく来てたんですよ」
店に入った律が懐かしそうに言う。
「そうなんですか?」
「千紘とも何度か来たことがあります」
その名前に、千紘は一瞬だけ足を止めた。
「そうなんですね」
「千紘、ここのハンバーグが好きだったんですよ」
「……そうでしたね」
「え?」<
予約していたレストランは、水族館から少し離れた場所にあった。 窓の向こうには海が見える。 席へ案内された瞬間、律が千紘を振り返った。「席、変えてもらいましょうか?」 千紘は一瞬、何のことか分からなかった。 すぐに窓の外を見て気づく。「大丈夫です」「本当に?」「はい。ここなら平気です」 ガラス越しの明るい海は、先ほどよりずっと遠く感じられた。「それならいいんですけど」 律は向かいに座った。 それ以上、海については何も言わなかった。 ◇ 料理が運ばれてくる頃には、千紘もすっかり落ち着いていた。「これ、おいしい」「よかったです」「律さんが作ったわけじゃないでしょう」「店を選んだのは俺なので」「じゃあ律さんの手柄ですね」「そういうことにしておきます」 二人で笑う。 さっきまで海を怖がっていたことが嘘のようだった。 食事をしながら、次に見たい映画の話をした。水族館で見たペンギンの話もした。 気づけば外は薄暗くなっている。「そろそろ出ましょうか」 律に言われて時計を見る。「もうこんな時間?」「結構いましたね」「全然気づかなかった」 そう言ってから、千紘は少し寂しくなった。 今日はもう終わる。 ◇ 帰りの電車では、行きよりも二人とも静かだった。 疲れたせいもある。 それでも居心地は悪くない。 隣に律がいる。 それだけで、不思議と落ち着いた。 やがて乗り換えの駅へ着いた。「雨宮さん、ここですよ」「あ……はい」 二人で電車を降りる。 ホームを歩きながら、千紘は何度も時計を見
休日の朝、千紘は待ち合わせより十五分早く駅へ着いた。 少し遠出するだけなのに、服を選ぶのにいつもより時間がかかった。 デートではない。 そう思いながら鏡の前で何度も服を替えたことは、考えないことにした。「雨宮さん」 呼ばれて振り返ると、律が歩いてくる。「すみません。待ちました?」「私も今来たところです」「それならよかったです」 並んで改札へ向かう。 電車に乗ってからも、千紘はいつも通り律と話していた。 最近見た映画のこと。仕事のこと。途中の駅で見つけた変わった広告のこと。 けれど目的地が近づき、車窓の向こうに海が見えた瞬間、言葉が途切れた。「雨宮さん?」「……海だなと思って」 青い水面が遠くまで続いている。 昼間の明るい海。 あの日とは何もかも違う。 それでも胸の奥が冷たくなった。「大丈夫ですか?」「はい」 千紘は海から視線を外した。「ちょっとぼんやりしてただけです」 律はそれ以上聞かなかった。 ◇ 水族館へ入ってしまえば、不思議と平気だった。 大きな水槽の中を魚が泳ぎ、頭上をエイがゆっくり通り過ぎていく。「大きいですね」「近くで見ると結構怖くないですか?」「律さん、エイ苦手なんですか?」「苦手というか、裏側がちょっと……」「顔みたいで可愛いじゃないですか」「雨宮さん、あれを可愛いって言えるんですね」 思わず笑った。 そのまま館内を回り、ペンギンの前では律が予想以上に長く立ち止まった。「好きなんですか?」「見てると飽きないです」「さっきからずっと同じ子見てません?」「こいつだけ妙に落ち着きがなくて」
昼休み、千紘がスマートフォンを見ると、律からメッセージが届いていた。『今度の休み、空いてますか?』 以前なら、予定を確認してから返事をしていただろう。 けれど今回は、ほとんど迷わなかった。『空いてます』『よかった。少し遠出しませんか?』 遠出。 その言葉に、千紘の指が止まる。『どこへですか?』 しばらくして、海沿いにある水族館の名前が送られてきた。 千紘は画面を見たまま動けなくなった。 海。 暗い水。 沈んでいく自分。 ほんの一瞬で、あの日の記憶が蘇る。 指先から力が抜けた。 ◇『雨宮さん?』 返事をしないままでいたせいか、律からもう一通届いた。 千紘は我に返った。 律は何も知らない。 ただ水族館へ行こうと誘っただけだ。『すみません。ちょっと仕事してました』 嘘を返す。『水族館、苦手でした?』『いえ、大丈夫です』 送信してから、千紘は目を閉じた。 本当に大丈夫なのだろうか。 以前、律とは別の水族館へ行ったことがある。あのときは楽しめた。 怖いのは水族館ではない。 海そのものだ。 それでも、彰人に殺された夜のために、これからずっと海を避け続けるのは嫌だった。『行きたいです』 そう送った。『じゃあ決まりですね。詳しい時間はまた連絡します』 千紘は小さく息を吐いた。 楽しみだと思う気持ちは、ちゃんと残っていた。 ◇ その日の夜、千紘が帰宅すると、クロが窓際にいた。「今度、水族館に行くことになった」「また律か」「そう」「最近よく会うな」「……そうかな」「そうだろ」 クロはそれだけ言うと、千紘を見た。「海の近くだぞ」「分かってる」「平気なのか?」「たぶん」「たぶんか」 千紘は鞄を置いた。「嫌なら途中で帰る」「そうすればいい」 クロはあっさり言った。 千紘は少しだけ肩の力を抜く。「止めないんだ」「俺が止める理由がない」「まあ、そうだけど」「行きたいんだろ?」 千紘は少し考えてから頷いた。「……うん」「なら行けばいい」 クロはそれ以上何も言わなかった。 ◇ 寝る前、律からいくつかメッセージが届いた。 水族館までの行き方と、周辺にある店の情報だった。『せっかくだから、帰りにこの辺で食事でもどうですか?』 千紘は店のページ
芹奈からの連絡が途絶えたあとも、千紘はしばらくスマートフォンを見つめていた。 自分しか持っていないもの。 誰かに消してほしいと言われたもの。 相手が彰人だとすれば、それは彼にとって都合の悪い何かなのだろう。 証拠になるものかもしれない。 けれど、千紘から尋ねるつもりはなかった。 今の芹奈は警戒している。ここで凛まで詳しく聞き出そうとすれば、かえって口を閉ざすかもしれない。 それに、芹奈自身が「消さない」と決めたのなら、それで十分だった。 ◇ 翌日、彰人は朝から落ち着かなかった。 昨夜から芹奈に送ったメッセージは、すべて既読になっている。 それなのに返事はない。 昼休みになり、彰人は芹奈が席を立ったのを見て、そのあとを追った。「芹奈」 廊下で呼び止める。「何?」「昨日のこと」「まだ言うの?」「一回確認するだけでいいんだよ。何が残ってるのか」「それを知ってどうするの?」「必要ないものなら消した方がいいって話」「必要かどうかは私が決める」 芹奈は歩き出そうとした。「待てよ」 彰人が腕を伸ばしかける。 芹奈がすぐに一歩下がった。「触らないで」 その声に、彰人の手が止まる。 近くを社員が通り過ぎていった。 彰人は声を落とした。「そんな警戒するなよ」「警戒させてるのは彰人さんでしょ」「俺が何したんだよ」「自分のは消して、私のも消せって言って、今度は何が残ってるか見せろって言ってる」「だから、それは――」「見せない」 芹奈ははっきりと言った。「もうその話しないで」 彰人を残し、今度こそ立ち去った。 ◇ 自分の席へ戻った彰人は、仕
翌朝、芹奈はほとんど眠れないまま目を覚ました。 彰人からは、夜中に何度かメッセージが届いていた。『昨日は言い方が悪かった』『別に芹奈を疑ってるわけじゃない』『一度ちゃんと話そう』 最後の一通だけが、朝方に送られている。『スマホのことは二人のために言ってる』 芹奈は返事をしなかった。 二人のため。 本当にそうなら、彰人は自分の端末に残っていたメッセージを先に消したりしただろうか。 自分の分だけ消してから、芹奈にも消すよう求めた。 その順番が、どうしても引っかかった。 ◇ 出社してからも、彰人とはほとんど話さなかった。 仕事上必要な会話だけをして、あとは目も合わせない。 昼休みになり、芹奈は一人で会社を出た。 鞄には今日も旧端末が入っている。 持ち歩くようになってから、何度も中身を確認していた。 けれど、昨夜の彰人の言葉を聞いたあとでは、同じメッセージも以前とは違って見えた。『千紘には俺から話す』『芹奈は出てこなくていい』 翌日には、『やっぱり来て』 そして当日の朝。『着いたら連絡して』 自分が勝手について行ったわけではない。 彰人に呼ばれた。 少なくとも、それだけは残っている。 芹奈は画面を見ながら、以前弁護士に尋ねたことを思い出した。 誰かが人を殺そうとしているのを知っていて、止めなかったら。 早くしろと言ったら。 事故に見せかけることに関わったら。 あのときは、怖くて最後まで自分の話だとは言えなかった。 けれど今は、別の怖さが増えている。 彰人が、自分だけ助かろうとするかもしれない。 芹奈は旧端末を鞄へ戻した。 ◇ 午後になり、彰人から社内チャットが届いた。
数日後の夜、芹奈が帰宅すると、彰人からメッセージが届いた。『今日、少し会えない?』 芹奈は画面を見つめた。 あれだけ避けていた質問に、ようやく答える気になったのだろうか。『何の話?』『会って話したい』 しばらく迷った末、芹奈は駅前のファミリーレストランを指定した。 ◇ 彰人はすでに席についていた。「急にごめん」「それはいいけど」 芹奈は向かいに座った。「この前の質問、答えてくれるの?」 彰人は一瞬黙った。「その話もある」「その話も?」「芹奈、前に使ってたスマホ、まだ持ってる?」 芹奈の表情が固まった。「……どうして?」「機種変する前のやつ」「分かってる。なんで急にそんなこと聞くの?」「別に急じゃないよ。前から気になってた」「何が?」「昔のやり取り、残ってるだろ」 芹奈は答えなかった。 彰人が何を言いたいのかは、もう分かっていた。「消した方がいいと思う」「どうして?」「どうしてって……残しておく意味ないだろ」「あるよ」 彰人が眉を寄せた。「何のために?」「私のため」「芹奈」「だって、彰人さんは答えてくれないじゃない」「何を?」「私だけのせいにしないかって話」 彰人は小さく息を吐いた。「まだ言ってるのか」「まだじゃない。答えてくれないから何度も聞いてるの」「俺が芹奈だけに押しつけるわけないだろ」 初めて、彰人がはっきりそう言った。 けれど芹奈は安心できなかった。「じゃあ、消さなくていいよね」「それとこれは別だろ」「どう別なの?」「万が一、誰かに見られたら困る」「誰に?」「警察とか」 彰人は声を落とした。 芹奈はその顔をじっと見た。「何も起きないんじゃなかったの?」「だから、万が一って言ってるだろ」「私が持ってると困る?」「そういう意味じゃない」「じゃあ、彰人さんのスマホも見せて」「は?」「私とのやり取り、全部消した?」 彰人の顔から表情が消えた。 それだけで答えは分かった。「消したんだ」「必要ないものだから」「自分のは消したのに、私のも消せって言うんだ」「当たり前だろ。残しておいて何になるんだよ」「だから、私を守るため」「そんなもの持ってたら、逆に芹奈が困ることになるぞ」 その言葉に、芹奈は黙った。「……脅してる?」「違う。







