ログイン音が聞こえる。
一定の間隔で繰り返される、電子音。
ピッ、ピッ、と耳障りなほど規則正しく響いている。
「……ん……」
千紘はゆっくりと目を開けた。
白い天井が見えた。
鼻をつく消毒液の匂い。
身体を動かそうとすると、全身に鈍い痛みが走る。
「……痛っ」
「あ……!」
誰かが息を呑んだ。
「先生! 先生、来てください! 目を覚ましました!」
慌ただしい足音が遠ざかっていく。
千紘はぼんやりと瞬きをした。
ここは、病院?
どうして――。
そこまで考えたところで、記憶が一気に蘇った。
彰人。
芹奈。
冷たい海。
死神。
そして――雨宮凛。
「……私」
千紘は震える手を持ち上げた。
自分の手ではない。
千紘のものより指が細く、爪の形も違っている。
「本当に……」
戻ってきた。
別人の身体で。
ほどなくして、医師と看護師が病室へ入ってきた。
「雨宮さん、分かりますか?」
医師が顔を覗き込んでくる。
「ここがどこか分かりますか?」
「……病院」
「そうです。気分は?」
「身体が……痛いです」
「無理に動かないでください」
医師がいくつか質問をする。
千紘は答えられるものだけに答えた。
「ご自分のお名前は分かりますか?」
言葉に詰まった。
榊原千紘。
そう答えそうになって、飲み込む。
「……雨宮、凛」
「生年月日は?」
「……分かりません」
医師と看護師が顔を見合わせた。
「事故の影響で、一時的に記憶が混乱している可能性があります。焦らなくて大丈夫ですよ」
「事故……?」
「雨宮さんは昨夜、階段から転落した状態で発見されました」
千紘は目を見開いた。
「階段……」
「頭を強く打っていました。一時は心肺停止になったんです」
死神の言葉を思い出す。
雨宮凛は、自分とほぼ同じ時刻に死んだ。
けれど今、この身体は生きている。
「奇跡ですよ」
医師は安堵したように微笑んだ。
「本当に、助かってよかった」
「……はい」
千紘は小さく答えた。
奇跡なんかじゃない。
本当の雨宮凛は、もういない。
ここにいるのは――私だ。
診察を終えると、千紘は一人になった。
枕元に置かれていたスマートフォンに目を向ける。
雨宮凛のものなのだろう。
けれどロック番号が分からない。
「困ったな……」
雨宮凛として生きろと言われても、彼女のことを何も知らない。
家がどこにあるのか。
仕事は何をしていたのか。
家族はいるのか。
何一つ分からない。
そのとき、病室の扉が開いた。
「お姉ちゃん!」
若い女性が飛び込んできた。
千紘が驚く間もなく、彼女はベッドのそばまで駆け寄ってくる。
「よかった……!」
泣いていた。
「本当に……よかった……!」
「……あの」
千紘が戸惑っていると、女性は顔を上げた。
「お姉ちゃん?」
その呼び方で気づく。
雨宮凛の妹。
死神は何も教えてくれなかった。
「ごめんなさい」
千紘は慎重に言葉を選んだ。
「私……記憶が、よく分からなくて」
「え……?」
「先生には事故の影響かもしれないって言われた」
女性の顔が強張った。
「私のことも……?」
千紘は答えられなかった。
それだけで十分だったのだろう。
彼女の目から、また涙が零れた。
「……葵だよ」
「葵……?」
「雨宮葵。お姉ちゃんの妹」
胸が痛んだ。
この子の姉は、もういない。
なのに、自分はその身体を使っている。
「ごめん……」
思わず口にすると、葵は首を振った。
「謝らないでよ。生きててくれただけでいいから……」
その言葉が、重かった。
千紘は何も言えず、俯いた。
その日の夜。
葵が帰り、病室が静かになった頃だった。
テレビから流れるニュースを何気なく眺めていた千紘の耳に、聞き覚えのある名前が飛び込んできた。
『昨夜から行方が分からなくなっている榊原千紘さん、二十九歳について――』
「……!」
千紘は勢いよく顔を上げた。
画面に映っているのは、自分の顔だった。
もう二度と戻れない、榊原千紘の顔。
『夫の榊原彰人さんによりますと、結婚記念日の旅行中、夜の散歩に出た妻が戻らなかったということです』
そして画面が切り替わった。
ホテルの前。
大勢の報道陣に囲まれた彰人が、憔悴した顔で立っている。
『妻が無事に戻ってきてくれることだけを願っています』
千紘の手が震えた。
あの男は。
私を海へ落としたあの男は。
カメラの前で涙まで浮かべていた。
「……よくも」
千紘はシーツを強く握り締める。
「そんな顔ができるわね」
画面の中で、彰人は悲劇の夫を演じ続けている。
その姿を見つめながら、千紘は静かに誓った。
待っていて、彰人。
あなたはまだ知らない。
あなたが殺した妻は――もう、この世に戻ってきている。
翌日。 千紘が出勤すると、佐伯から声をかけられた。「雨宮さん、榊原コーポレーションの件、評判よかったみたいよ」「昨日、榊原さんからも連絡がありました」「あら、直接?」「はい。撮影が好評だったって」「そうなのね」 佐伯は嬉しそうに頷いた。「それで、追加の仕事が来そうなの」「追加?」「まだ正式決定じゃないけど、今度は広告だけじゃなくて、販促物もまとめてお願いしたいって」 また彰人と関わる。 以前なら警戒しただろう。 けれど今は、むしろ好都合だった。「分かりました」「雨宮さん、引き続き担当お願いできる?」「はい」 迷わず答えた。 仕事を利用するつもりはない。 けれど、彰人の方から近づいてくるのなら拒む理由もなかった。 昼過ぎ。 早速、榊原コーポレーションとのオンラインミーティングが入った。 画面の向こうには彰人と担当者がいる。 千紘はできるだけ平静を装った。「先日はありがとうございました」「こちらこそ」 彰人が微笑む。「雨宮さんの提案、社内でも評判がよかったですよ」「ありがとうございます」 会議そのものは普通に進んだ。 商品。 ターゲット。 予算。 納期。 仕事の話だけ。 やがて一時間ほどで会議は終わった。「では、よろしくお願いします」「よろしくお願いいたします」 接続を切ろうとした、そのとき。『雨宮さん』 彰人に呼び止められた。「はい?」『少しだけいいですか?』 佐伯が千紘を見る。「私は先
探偵の三枝と別れたあとも、千紘はすぐには帰れなかった。 駅へ向かいながら、何度も考える。 殺される二日前。 自分のメールアドレスから、探偵へ調査を打ち切る連絡が送られた。 その頃、自分は彰人に対して不安を感じていた。 それなのに。「どうして旅行に行ったの……?」 結婚記念日の旅行。 彰人と二人きりで海沿いのホテルへ行った。 そして殺された。 今まで、そのことを深く考えていなかった。 旅行は以前から決まっていた。 だから行った。 そう思っていた。 けれど、本当にそれだけ? 千紘は足を止めた。「……違う」 何かを忘れている。 殺される少し前。 彰人と話をした。 リビング。 夜。 彰人が自分の前に座っている。『千紘』 記憶の中の声。『話がある』 千紘は目を閉じた。 少しずつ、その夜のことが蘇ってくる。『何?』『芹奈のこと』 その名前を聞いた瞬間、身体が強張った。『……何の話?』『分かってるんだろ』 彰人は苦しそうな顔をしていた。『俺と芹奈のこと』 初めて。 彰人が自分から浮気を認めた。『いつから?』『……半年くらい前』『半年?』 もっと前から疑っていた。 でも、本人の口から聞くと苦しかった。『ごめん』 彰人が頭を下げた。『本当に悪かった』 千紘は何も言えなかった。『言い訳するつもりはない』『じゃあ、どうするの?』
翌日の午後七時。 千紘は指定された喫茶店へ向かった。 店内を見回すと、奥の席に一人の男が座っている。 三十代後半くらいだろうか。 黒いジャケットを着た、ごく普通の男だった。 目が合う。「雨宮さん?」「はい」「どうぞ」 千紘は向かいの席に座った。「初めまして。雨宮凛です」「三枝です」 三枝。 名前を聞いた瞬間、僅かに記憶が動いた。 そうだ。 生前の自分は、この男と会っている。「……どうしました?」「いえ」 千紘は首を振った。「榊原さんから、お名前を聞いたことがあった気がして」「そうですか」 三枝はそれ以上追及しなかった。「それで」 まっすぐ千紘を見る。「あなたは榊原千紘さんと、どういう関係なんですか?」 やはり、そこからだった。「詳しくは言えません」「なら、俺も詳しいことは話せません」「分かってます」 千紘はスマートフォンを取り出した。「でも、これならどうですか?」 表示したのは、陶器の鳥から出てきた紙の写真。 三枝の表情が変わった。「それ……」「榊原さんが残していたものです」 三枝が画面を見る。『S-0427』『0611』『A.S』 そして電話番号。「この番号は、三枝さんのものですよね?」「そうです」「四月二十七日と六月十一日は、調査日だと聞きました」「……はい」「A.Sは相沢芹奈?」 三枝はすぐには答えなかった。「その紙を、どこで?」「
翌朝。 千紘が出勤すると、佐伯が声をかけてきた。「雨宮さん、昨日、榊原コーポレーションから電話あった?」「ありました」「鍵のこと?」「はい」「ごめんね。撮影に参加した人全員に確認してるみたい」「そうだったんですね」 少しだけ安心した。 自分だけを疑って連絡してきたわけではなかったらしい。「雨宮さんの荷物には入ってなかった?」「はい。帰ってから確認しましたけど、ありませんでした」「なら大丈夫。小さいものらしいから、機材なんかに紛れ込んだのかもね」「そうですね」 話はそれで終わった。 けれど、千紘の頭には昨夜思い出したことが残っていた。 あの鍵。 見覚えがある。 銀行の貸金庫。 結婚する前から、千紘が個人的に契約していたものだ。 祖母から譲られた宝石や、大切な書類を保管するために使っていた。 彰人には、貸金庫を借りていることを話した記憶がない。「……たぶん、知らない」 だからこそ。 もし生前の自分が、彰人に見つかってはいけないものを隠そうとしたなら。 貸金庫は最適な場所だった。 ホテルの明細。 探偵から受け取った資料。 それ以外にも、何か入れているかもしれない。 問題は。「開けられないんだけどね……」 今の自分は雨宮凛だ。 榊原千紘名義の貸金庫へ行って、『私のものなので開けてください』 などと言えるはずがない。 それに、鍵は彰人の家にある。 もう一度あの家へ入れたとしても、勝手に持ち出すわけにはいかない。「場所が分かっただけでもいいか」 千紘は小さく息を吐いた。 今すぐすべてを解決する必要はない
電話を切ったあとも、千紘はしばらく公衆電話の前から動けなかった。 探偵。 生前の自分は、彰人の浮気を疑って探偵に調査を依頼していた。 四月二十七日。 六月十一日。 その二日間の調査記録が、今も残っている。「見たい……」 彰人と芹奈が、いつから関係を持っていたのか。 どこで会っていたのか。 何をしていたのか。 写真まであるという。 けれど、探偵はそれを見せてくれない。 当然だった。 今の千紘は、依頼人とは何の関係もない雨宮凛なのだから。「どうしたらいいの……」 もう一度電話して、会ってほしいと頼む? でも、会って何を話す?『私が榊原千紘です』 そんなことを言えば、頭がおかしいと思われるだけだ。 千紘は駅へ向かって歩き始めた。 帰宅してから、律に送ったノートの写真をもう一度確認する。 四月二十七日。 六月十一日。 探偵に依頼したという記述はない。「隠してたんだ……」 彰人に見つかることを恐れて、ノートにさえ書かなかったのだろうか。 だから電話番号だけを別の紙に書き、陶器の鳥の中へ隠した。 少しずつ、生前の自分が何を考えていたのかが見えてきた。 けれど。「調査をやめるメール……」 それだけが分からない。 自分で送ったのか。 誰かが勝手に送ったのか。 もし彰人が探偵の存在に気づいていたなら――。「それが、殺された理由?」 口にした瞬間、背筋が寒くなった。 保険金だけではなかった? 浮気を調べていることを知られた。 何か、もっとまずいものまで見つけてしまった。
『……榊原さん?』 受話器を握る手が震えた。『榊原千紘さんですか?』 どうして。 千紘は何も話していない。 それなのに、電話の向こうの男は自分の名前を口にした。『もしもし?』「……違います」 ようやく、それだけ答えた。 声は雨宮凛のものだ。 相手が千紘の声だと気づくことはない。『あ……すみません』 男は明らかに落胆したようだった。「どうして、榊原さんだと思ったんですか?」『え?』「私、何も言ってませんよね」『それは……』 男が黙る。 千紘は迷った。 このまま切った方がいい? 相手が誰なのか分からない。 彰人の関係者かもしれない。 けれど、死ぬ前の自分はこの番号を残している。「榊原千紘さんを知ってるんですか?」『……あなたは?』「少しだけ」 嘘ではない。 自分自身なのだから。『榊原さんから、この番号を聞いたんですか?』「そうです」 千紘は咄嗟に答えた。 電話の向こうが静かになった。『じゃあ、亡くなる前に?』「……はい」 心臓が速くなる。 この男は、自分が死んだことを知っている。「あなたは、榊原さんとどういう関係なんですか?」『俺は――』 一瞬、ためらう。『探偵です』「探偵?」『榊原さんから依頼を受けていました』 千紘は息を呑んだ。「何の依頼ですか?」『それを、あなたに話していいのか分かりません』