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死神との契約

Penulis: 影畑凛星
last update Tanggal publikasi: 2026-08-13 05:10:58

「……死んだ?」

 千紘は男の言葉を繰り返した。

 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。

 身体を起こして周囲を見回す。

 何もない。

 床も壁も天井もない。ただ薄暗い空間が、どこまでも続いている。

「ここ……どこ?」

「死者が立ち寄る場所、とでも思えばいい」

「死者って……」

 その言葉を聞いた瞬間、記憶が蘇った。

 夜の海。

 彰人に押された背中。

 岸壁にしがみついた指を、一本ずつ剥がしていく夫。

 そして、その隣に立っていた芹奈。

「……っ!」

 千紘は自分の手を見た。

 傷ひとつない。

 冷たくも、痛くもなかった。

「私、本当に……死んだの?」

「ああ」

 男はあっさり答えた。

「榊原千紘、二十九歳。死亡時刻、午後十一時四十二分。死因は溺死」

「そんな……」

 千紘はその場に崩れ落ちた。

 死んだ。

 私は、本当に死んだ。

 もう家にも帰れない。

 明日の朝を迎えることもない。

 それなのに――。

「あの二人は……?」

「生きている」

 男の答えに、千紘は顔を上げた。

「お前が海に沈むのを確認して、ホテルへ戻った」

「……そんな」

「明日の朝になれば、夫は妻がいないと騒ぎ始めるだろうな。散歩の途中ではぐれた、とでも言うんじゃないか?」

 胸の奥に、黒いものが広がっていく。

 彰人と芹奈は生きている。

 自分たちが千紘を殺したことを隠して。

 やがて保険金まで受け取って。

 二人で生きていく。

「……許せない」

「そうか」

「許せない……!」

 千紘は拳を握り締めた。

「私を殺しておいて……あの二人だけ幸せになるなんて……!」

「なら、復讐するか?」

 千紘は息を呑んだ。

「……え?」

 男が初めて笑った。

「お前に三か月やる」

「三か月……?」

「ああ。その間だけ、もう一度この世に戻してやろう」

 千紘は男を見つめた。

「そんなこと……できるの?」

「俺を誰だと思っている?」

「知らないわよ」

 思わずそう答えると、男は少しだけ目を丸くした。

 そして、おかしそうに笑う。

「それもそうだな」

 男は千紘の前にしゃがんだ。

「俺は死神だ」

「死神……?」

「信じられないか?」

 信じられるはずがない。

 けれど、自分が死んだということすら、少し前まで信じられなかった。

「どうして私を?」

「気まぐれだ」

「気まぐれ……?」

「死に際のお前の恨みが、あまりにも強かった。それだけだ」

 死神は立ち上がる。

「復讐するなら、三か月。それで十分だろう?」

 千紘は黙り込んだ。

 三か月。

 たった三か月。

 けれど――。

「……やる」

 答えは決まっていた。

「私を戻して」

「即答か」

「だって、このまま死ねない」

 千紘は顔を上げた。

「あの二人に、自分たちが何をしたのか思い知らせたい」

 死神が満足そうに目を細める。

「いい顔になったな」

「でも、どうやって戻るの?」

 自分の身体は海の底だ。

 たとえ見つかったとしても、もう生き返れる状態ではないだろう。

「お前の身体には戻れない」

「じゃあ……」

「別の身体を使え」

 死神が指を鳴らした。

 突然、暗闇の中に一人の女性が現れた。

 千紘は目を見開く。

 若い女性だった。

 長い黒髪。

 整った顔立ち。

 けれど、その目は固く閉ざされている。

「この人……?」

「雨宮凛。二十六歳」

「まさか……この人も死んでるの?」

「ああ。今夜、お前とほぼ同じ時刻にな」

 千紘は言葉を失った。

「魂はすでに旅立った。だが、身体はまだ使える」

「使えるって……」

「お前が入ればいい」

 死神は、まるで服でも貸すような口調で言う。

「待って。この人の人生は?」

「もう終わった」

「家族は? この人を知ってる人だっているでしょう?」

「それは自分でどうにかしろ」

「そんな無責任な……!」

「嫌なら、このまま死者になるか?」

 千紘は口を閉ざした。

 目の前の女性を見る。

 知らない人。

 知らない顔。

 知らない人生。

 この身体を使えば、もう一度生きられる。

 そして――復讐できる。

「三か月……なのね」

「ああ」

「三か月後は?」

 そう尋ねると、死神は薄く笑った。

「そのときになれば分かる」

「何それ」

「知りたければ、三か月生き延びろ」

 死神が千紘に手を差し出した。

「どうする、榊原千紘?」

 千紘はしばらくその手を見つめた。

 そして、握る。

「戻る」

 もう迷わなかった。

「雨宮凛になってでも、私は戻る」

 彰人。

 芹奈。

 待っていて。

 私を殺したことを、必ず後悔させる。

 死神が笑った。

「契約成立だ」

 次の瞬間、千紘の視界が真っ白に染まった。

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