Masuk『現在、警察と海上保安庁による捜索が続けられています』
テレビの中で、見覚えのある海が映し出されていた。
昨夜、千紘が沈んだ海だ。
捜索する船。
岸壁を調べる警察官。
そして、ホテルの前で報道陣に囲まれる彰人。
『奥様が散歩に出られたとき、榊原さんはどちらに?』
『部屋にいました。千紘が一人で海を見てくると言って……止めればよかった。夜だから危ないって、どうしてもっと強く……』
彰人はそこで言葉を詰まらせた。
「嘘つき……」
千紘の唇から声が漏れる。
一人で出かけた?
違う。
彰人が誘ったのだ。
少し歩こう、と。
人のいない岸壁まで連れていったのも彰人だった。
『奥様との間に、何かトラブルはありませんでしたか?』
『ありません。結婚記念日を二人で祝うくらいですから』
彰人は力なく笑う。
『夫婦仲は良かったと思っています』
「よく言えるわね」
怒りで吐き気がした。
テレビを消そうとしたとき、画面の端に一人の女性が映り込んだ。
芹奈だった。
彰人から少し離れたところに立ち、心配そうに彼を見守っている。
『あちらの女性は?』
記者が気づいたらしい。
『私の秘書です。妻の捜索のために、仕事関係の連絡などを代わってもらっています』
秘書。
それだけ。
昨夜、一緒に千紘を殺した女が。
「……ふざけないで」
千紘はリモコンを握り締めた。
けれど、そこでふと気づいた。
彰人は、自分が殺人犯だと疑われることを恐れている。
だから、あれほど必死に悲劇の夫を演じている。
ならば――。
「壊せる」
今の自分は雨宮凛だ。
彰人も芹奈も、千紘が生きているとは思っていない。
二人にとって、榊原千紘はもう死んだ女。
自分たちの秘密を暴くことなどできない存在だ。
だったら。
「死んだ女に、復讐されればいい」
自分の声なのに、自分のものではないように聞こえた。
そのときだった。
「随分とやる気になったな」
「……!」
千紘は振り返った。
窓際に男が立っている。
黒い服。
あの死神だった。
「いつからそこにいたの!?」
「今」
「勝手に入ってこないで」
「死神に病室の面会規則を守れと?」
「そういう問題じゃないでしょう」
死神は気にする様子もなく、ベッドの脇まで歩いてきた。
「身体の具合は?」
「痛い」
「生きている証拠だ」
「誰のせいよ」
「俺のおかげだろう?」
言い返せないのが腹立たしい。
「そういえば、あなたの名前は?」
「ない」
「ない?」
「お前たちが呼ぶような名前は持っていない」
「じゃあ、呼びにくいんだけど」
「好きに呼べ」
千紘は死神を見上げた。
全身黒ずくめ。
「……クロ」
「安直だな」
「嫌なら自分で考えて」
「別に構わない」
どうでもよさそうにクロは答えた。
千紘は小さく息を吐く。
「ねえ、クロ」
「何だ」
「私の身体は?」
「まだ見つかっていない」
胸が締めつけられた。
海の底に、自分の身体がある。
頭では分かっていても、不思議な感覚だった。
「見つかるの?」
「さあな」
「死神なのに分からないの?」
「死神は未来予知をする生き物じゃない」
「……役に立たない」
「生き返らせてもらった人間の言葉とは思えないな」
クロは呆れたように言った。
そして、ふと表情を消す。
「一つ忠告しておく」
「何?」
「今のお前は榊原千紘じゃない」
千紘は黙った。
「顔も、声も、指紋も、何もかも雨宮凛だ。榊原千紘として持っていたものを、そのまま使えると思うな」
「……分かってる」
「本当に?」
クロが千紘を覗き込む。
「復讐に夢中になって、雨宮凛では知り得ないことを口にすればどうなる?」
千紘は息を呑んだ。
「怪しまれる……」
「そういうことだ」
確かにそうだ。
自分が彰人の妻だったことを知っているのは、自分だけ。
今の千紘は、彰人にとって見知らぬ女なのだ。
「それから、もう一つ」
クロが言った。
「残り八十九日だ」
「……え?」
「昨日を一日目と数える」
千紘の心臓が大きく鳴った。
三か月。
言葉で聞いたときよりも、八十九日と言われた方がずっと短く感じる。
「忘れるな」
クロの姿が、ゆっくりと薄れていく。
「お前に与えた時間は有限だ」
「ちょっと待って!」
けれど、次の瞬間には誰もいなくなっていた。
「……勝手なんだから」
千紘は呟いた。
八十九日。
その間に彰人と芹奈へ復讐する。
そのためにはまず、雨宮凛として生きられる状態を作らなければならない。
そして――。
千紘はもう一度テレビをつけた。
ちょうどニュースが切り替わるところだった。
『続いて、榊原千紘さん行方不明事件について新しい情報です』
千紘は画面を見つめる。
『警察は本日朝、海岸付近で榊原さんのものとみられる靴を発見したと発表しました』
映し出された靴を見て、千紘の息が止まった。
間違いない。
自分が履いていた靴だ。
『警察は、榊原さんが誤って海へ転落した可能性が高いとみて――』
「違う」
千紘は小さく呟いた。
「私は、落ちたんじゃない」
画面の中では、彰人が俯いている。
千紘はその顔を睨みつけた。
「あなたに殺されたのよ」
『……榊原さん?』 受話器を握る手が震えた。『榊原千紘さんですか?』 どうして。 千紘は何も話していない。 それなのに、電話の向こうの男は自分の名前を口にした。『もしもし?』「……違います」 ようやく、それだけ答えた。 声は雨宮凛のものだ。 相手が千紘の声だと気づくことはない。『あ……すみません』 男は明らかに落胆したようだった。「どうして、榊原さんだと思ったんですか?」『え?』「私、何も言ってませんよね」『それは……』 男が黙る。 千紘は迷った。 このまま切った方がいい? 相手が誰なのか分からない。 彰人の関係者かもしれない。 けれど、死ぬ前の自分はこの番号を残している。「榊原千紘さんを知ってるんですか?」『……あなたは?』「少しだけ」 嘘ではない。 自分自身なのだから。『榊原さんから、この番号を聞いたんですか?』「そうです」 千紘は咄嗟に答えた。 電話の向こうが静かになった。『じゃあ、亡くなる前に?』「……はい」 心臓が速くなる。 この男は、自分が死んだことを知っている。「あなたは、榊原さんとどういう関係なんですか?」『俺は――』 一瞬、ためらう。『探偵です』「探偵?」『榊原さんから依頼を受けていました』 千紘は息を呑んだ。「何の依頼ですか?」『それを、あなたに話していいのか分かりません』
四月二十七日。 六月十一日。 どちらも彰人が家に帰らなかった日。 そして、紙に残されていた『A.S』の文字。 相沢芹奈。 偶然とは思えなかった。 千紘は帰宅すると、もう一度小さな紙をテーブルへ広げた。 最後に書かれている電話番号。「これも芹奈に関係あるのかな……」 会社で使っている番号ではない。 少なくとも、千紘が知っている芹奈の連絡先とは違う。 かといって、いきなり電話をかけるわけにもいかない。 千紘は番号をスマートフォンで検索してみた。 やはり何も出てこない。「昔の番号とか?」 それなら、今はもう使われていない可能性もある。 考えていると、スマートフォンが鳴った。 律からだった。「はい」『今、大丈夫ですか?』「大丈夫です」『この前のノートなんですが、少し気になるところがあって』「どこですか?」『四月二十七日です』 千紘は息を呑んだ。「……どうして?」『その日に千紘から連絡が来てたんです』「え?」『ノートを見ていて思い出しました』 千紘はスマートフォンを強く握った。「どんな連絡ですか?」『大した内容じゃありません』 律が少し間を置く。『久しぶり。元気? って、それだけです』「……」 覚えていない。『俺も、元気だよって返しました。それで終わりです』「それだけ?」『はい』「そのあと、何か話したりは?」『してません』 千紘は紙に書かれた『0427』を見る。 その日。 彰人は急な出張だと言って帰らなかった。
帰宅した千紘は、バッグを置くとすぐに陶器の鳥を取り出した。 テーブルの上に置き、裏返す。 底に貼られたフェルト。 端の一部分だけが、わずかに浮いている。「何か入ってる……?」 千紘は爪をかけた。 古い接着剤が剥がれ、フェルトがゆっくりと持ち上がる。 その下に、小さな穴があった。「こんなの……あったっけ」 陶器の置物には、製造時にできた穴が開いていることがある。 けれどこれは、その穴を利用して何かを隠していたように見えた。 千紘は鳥を傾ける。 何も出てこない。 軽く振ってみる。 カサッ。「……!」 音がした。 中に何かある。 千紘は細いピンセットを探し、穴へ差し込んだ。 何度か失敗して、ようやく何かをつまむ。 ゆっくり引き出すと、小さく折り畳まれた紙が出てきた。「これ……」 開く。 ホテルの利用明細ではなかった。 そこに書かれていたのは、数字とアルファベットの羅列。『S-0427』『0611』『A.S』 そして、その下に電話番号らしき数字が書かれていた。「何これ……?」 自分の字だ。 つまり、千紘自身がここへ隠した。 でも、何のために?「A.S……」 彰人なら、A。 芹奈なら、S。 偶然? 千紘はスマートフォンを取り出し、芹奈の名前を検索した。 相沢芹奈。 ローマ字にすれば、Aizawa Serina。「A.S」 一致する。 けれど、そ
休憩が終わり、撮影が再開された。 千紘はできるだけ仕事に集中しようとした。 チェストのことは、いったん忘れる。 さっきは危なかった。 あれ以上、不自然な行動を取るわけにはいかない。「雨宮さん、これ確認してもらえる?」「はい」 佐伯からタブレットを受け取り、撮影された写真を確認する。 自分が作ったわけではないデザイン。 自分が暮らしていた家。 その二つが一つの画面に収まっている。 何とも不思議な気分だった。「どう?」「……いいと思います」「じゃあ、このパターンも押さえてもらいましょう」 撮影は順調に進んだ。 あと一時間ほどで終わる。 今日はもう、チェストには近づかない。 また仕事でこの家に来る機会があるかもしれない。 焦る必要はない。 そう自分に言い聞かせた。 そのとき。「すみません」 スタッフの一人が彰人に声をかけた。「もう少し小物を足したいんですが、何かお借りできるものはありますか?」「小物ですか?」「本とか、写真立てとか。生活感が出るものがあると助かります」「分かりました。探してみます」 彰人がリビングを出ていく。 千紘はその背中を見送った。 しばらくして、彰人がいくつかの本と小さな置物を抱えて戻ってくる。「こんなものでどうでしょう?」「ありがとうございます」 スタッフが一つずつ確認していく。 その中に、小さな陶器の鳥があった。「あ……」 声が漏れた。 彰人がこちらを見る。「どうしました?」「いえ……かわいいなと思って」 嘘だった。
撮影当日。 千紘は榊原家の門の前に立っていた。「……」 何度も出入りした場所。 買い物から帰ってきた日も。 彰人と二人で出かけた日も。 喧嘩をして、一人で飛び出した日もあった。 ここは確かに、自分の家だった。 けれど今日は、客として入る。「雨宮さん?」 佐伯に呼ばれ、千紘は我に返った。「すみません」「緊張してる?」「少し」「個人宅での撮影なんて珍しいものね」「はい」 インターホンを押す。 しばらくして、玄関の扉が開いた。「お待ちしていました」 彰人だった。「今日はよろしくお願いします」 佐伯たちが頭を下げる。 千紘も続いた。「よろしくお願いいたします」「どうぞ」 彰人に促され、玄関へ入る。 足を踏み入れた瞬間、胸が締めつけられた。 匂い。 空気。 何もかも知っている。 玄関脇の傘立て。 壁に掛けられた鏡。 靴箱の上に置かれた小さな置物。 千紘が旅行先で買ったものまで、そのままだった。「こちらへ」 彰人についてリビングへ向かう。 廊下を歩きながら、千紘は例のチェストを見た。 ある。 以前と同じ場所に。 もちろん、今すぐ開けることなどできない。 彰人もいる。 撮影スタッフもいる。 千紘は何も知らない顔で通り過ぎた。「こちらを使ってください」 リビングでは、すでに撮影用のスペースが空けられていた。「素敵なお宅ですね」 スタッフの一人が言う。「ありがとうございます」 彰人が笑う。
彰人と芹奈が家へ入ってから、千紘はしばらくその場を動けなかった。 あそこは、自分の家だった。 彰人と結婚してから何年も暮らした場所。 玄関に飾った花も。 リビングのカーテンも。 食器棚に並べたカップも。 一つ一つ、自分で選んだ。 なのに今は、もう帰ることすらできない。「……馬鹿みたい」 死んだのだから当然だ。 榊原千紘は、もうこの世にはいないことになっている。 分かっている。 それでも、知らない女の身体で自分の家を眺めていると、不思議な感覚になった。 しばらくすると、二階の窓に明かりがついた。 寝室。 千紘と彰人が使っていた部屋だ。「まさか……」 そこまで考えて、やめた。 何をしているのかなんて知りたくない。 千紘は家に背を向けた。 今夜ここに来た目的は、二人を監視することではない。 死ぬ四日前の記憶を辿ることだ。「帰ろう」 駅へ向かって歩き始める。 けれど、数分もしないうちに足が止まった。 ホテルの明細。 あれを、どこへやった? バッグに入れたところまでは思い出した。 そのあと彰人が帰宅して、明細の存在に気づかれた。 ノートは律へ送った。 なら、明細も一緒に送ればよかったはずだ。 けれど箱の中にはなかった。「別の場所に隠した……?」 そんな気がする。 彰人に見つかってはいけない。 そう思って、どこかへ移した。 家の中ではない。 家の中なら彰人に見つかると思ったから――。「あ……」 千紘の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。







