Masuk安藤博史(あんどう ひろし)は、代々続く名家の生まれだった。その上、品行方正、誰もが憧れる完璧なエリートで、雲の上の存在だった。 そんな博史は新井美由(あらい みゆ)と4年間も愛し合っていたし、博史の運命の人は美由だと誰もが思っていた。しかし……ある「浮気騒動」がきっかけで、二人は最悪の別れを迎えてしまったのだった。 それから5年後、二人は再会した。美由を壁に押しつける博史の瞳の奥には、すべてを焼き尽くしてしまいそうな憎しみが揺らめいていた。「俺の世界から消えたんだよな?だったら、二度と俺の前に現れるな」 「わかった」美由はあっさりとそう答えた。 博史は骨の髄まで美由を憎んでいた。なのに、彼女を前にすると、どうしようもなく心をかき乱されてしまう。 すべての真相が明らかになった時、博史は目を真っ赤にして美由をドアに追い詰めた。「美由、一生かけて俺に償わせてくれ。結婚しよう。お前が抱える借金は、全部俺が肩代わりするから」
Lihat lebih banyak美由は夕食を終えると、ダイニングを片付け、食器を洗った。キッチンから出ると、視線は無意識に博史へと向けられた。彼は気だるそうな様子で、片手で頭を支えながらソファに横たわり、相変わらずスマホの画面を見ていた。そんなに集中して、一体何を見ているのだろうと美由は不思議に思った。美由がソファのそばを通り過ぎても、博史はまつ毛一つ動かさなかった。思えば、博史はかなりよくしてくれている。台風の日に一晩泊めてくれた上に、夕食まで作ってくれたのだから。他の男なら、元カノに出くわしたら、たとえ井戸の縁にぶら下がっているのを見たとしても、石をいくつも投げ込んで、さっさと底まで沈めてしまうだろう。博史の静かな空間を邪魔しないよう、美由は自分の部屋へと向かった。ドアノブを握った瞬間、夜中に喉が渇くかもしれないと思った。美由は少し躊躇い、振り返って博史を見る。突然振り返ったことで、予想外にも博史の熱を帯びた視線と真っ直ぐぶつかった。しかし、それはほんの一瞬のことだった。博史はすぐに視線を逸らし、うつむいて再びスマホを見始める。その狼狽は、一瞬にして消え去った。美由は一瞬固まったが、何かの見間違いだろうと思い気には留めず、尋ねた。「あのさ、ペットボトルの水とかある?」「ああ」博史は顔を上げず、淡々と答えた。「冷蔵庫にある」美由は再びキッチンへと向かった。再び博史の前を通り過ぎる。すると、博史は少し火照ったように、熱い息を吐き出した。世の中には、自分がどれほど男を掻き立てているか全く自覚のない女がいる。まさに美由がそうだった。垢抜けた顔立ちに、艶やかな黒のストレートヘア。さらには、メリハリのあるその体に纏った透けるようなシルクのネグリジェ。丈も短く、その上に自分のゆったりとした白シャツを羽織っているだけで、下着は着けていない。そして、今はスラリと伸びた白い生足が、自分の目の前をちらついている。こいつは本当に分かっていない。男が色気を感じるのは決して裸体などではなく、このような「清純さと無自覚な色香が混在する姿」であり、それがたまらなく男の想像力を掻き立てるのだということを……美由はキッチンに入り、冷蔵庫を開けた。中には食材がぎっしり詰まっており、水もたくさんあった。昔から、博史は日々の生活を大
窓の外は真っ暗で、風がごうごうと唸っている。美由は窓のそばへ行き、カーテンを引いた。クローゼットの前に戻ると、扉を開けて中をのぞいてみた。確かに服は入っていたけど、とても少なかった。高そうなドレスが二着と、クリーム色のキャミソールスリップが一枚だけ。ほかに服はなく、もちろん新しい下着なんてなかった。美由はとりあえずキャミソールスリップを手に取って、バスルームへ向かう。洗面台の棚には、使い捨てのアメニティグッズとタオルが置いてあった。シャワーを浴びて髪を乾かし、部屋を出ると、もう夜の8時半だった。ふだんから食事の時間はばらばらで、すっかり胃を悪くしていた。だからか、空腹になると、決まって胃が痛くなるのだ。今日はまだ夕飯を食べていない。胃酸がじりじりと胃を焼くような、鈍い痛みが始まっていた。その時、ドアをノックする音がした。美由はどきりとした。今、下着はつけていないうえに、体を覆うものは、薄くてセクシーなキャミソールスリップが一枚だけ。「何か用?」ドアを開ける勇気はなく、ドア越しに返事をする。「夕飯、作りすぎたんだ。俺だけじゃ食べきれないから、少しどうか?」博史のクールな声が聞こえてきた。美由は訳がわからなかった。遥の家で、博史はたしかこう言っていた。「夕飯はもう食べた」と。そして、遥が用意したビーフシチューにも、手をつけようとしなかったのに。夕飯を食べたっていうのは、遥を断るための口実だったのだろうか?「上着か何か、上に羽織るものを貸してもらえないかな?」数秒の沈黙のあと、外から「ん」とだけ、そっけない返事が聞こえた。しばらくして、またドアをノックする音がした。美由がドアを細く開けると、博史の手が差しだされた。その手には、白い長袖のシャツが握られている。「ありがとう」美由はそれを受け取ると、ドアを閉めた。博史のシャツを持つ指先が震える。何かに引き寄せられるように、美由は思わずうつむくと、シャツを鼻先に寄せてそっと匂いをかいだ。博史だけの特別な匂いに、洗剤の清潔な香りが混じっている。鼻の奥がツンとして、目が熱くなった。心のいちばん深いところが、きゅっと締めつけられるように痛んだ。この何年もの間、夢でさえ博史の匂いを思い出せなくなるくらいに、彼の姿が日に日にぼやけて
上の階に着き、玄関の前に来た。美由は驚いた。博史が遥の向かいの部屋のスマートロックを開けていたのだ。そうか。二人は同棲していなかったのか……ピピッという指紋キーの解錠音が鳴る。すると、遥の部屋の中から小走りの足音が聞こえてきて、勢いよくドアが開いた。「博史さん……」遥は嬉しそうに飛び出してきたが、美由の姿を見ると言葉を失い、一気に顔色を曇らせた。二人がずぶ濡れになっているのを見て、遥は事情を察し、引きつった笑みを浮かべる。「美由、まだ帰ってなかったの?」「外は台風で大雨だから」美由は淡々と答えた。先ほど遥の部屋にいた時は、窓もカーテンも閉め切られていたため、外の天気に気づかなかったのだ。博史は遥を無視してドアを開けた。遥は焦って言った。「博史さん、美由は私の部屋に泊めるから。女の私の方が何かと都合がいいし、着替えも貸せるから」美由も、遥の言うことに一理あると思った。「それじゃあ、お言葉に甘えて」美由は社交辞令を言い、遥の方へ足を踏み出そうとした。しかしその一歩踏み出した瞬間、博史に腕を掴まれた。「その必要はない」博史は冷淡な声で拒絶した。そのまま美由を自分の部屋に引きずり込み、後ろ手でドアを閉めた。不意を突かれた美由が部屋に引き込まれると、パッと明かりがついた。ドアの向こうから、怒り狂ったようにドアを叩く音が響く。「博史さん、何してるの!ドアを開けて!相手は美由なんだよ?彼女が昔あなたに何をしたか忘れたの?なんで部屋に入れるのよ?博史さん、馬鹿なことはしたくないって言ってたじゃない。美由を私の部屋に寄越して。開けてよ……」遥の言葉は棘のように、美由の心臓に深く突き刺さり、鈍い痛みを感じさせた。美由は玄関に立ち尽くしたまま、博史が大股でリビングへと歩いていくのを見つめる。この言葉を聞いた自分の胸は、こんなにも胸が痛むのだが、博史の心もまだ痛むのだろうか?しかし、博史の顔にはなんの感情も浮かんでいなかった。おそらく、もう痛むことはないのだろう。なにしろ、博史は自分を骨の髄まで憎んでいるのだから。博史は後ろから物音がしないので振り返り、眉をひそめて美由を見た。「なに突っ立ってるんだ?」美由は胸が重くつかえるのを感じながら、小さな声で言った。「遥の言う通りだと思う。あ
その瞬間、空気が固まり、周囲の音が消え、世界から色が消えていく。美由の視界に入るのは、博史だけだった。ライトブルーの半袖シャツに黒のパンツ姿。爽やかで凛々しく、輝くようなオーラを放っている。普通の仕事着であっても、その比類なき端正な顔立ちと、たくましく立派な体格のせいで、ひときわ高貴に見えた。しかし、その瞳は暗く深く、見つめられた美由は居心地が悪く、ひどく緊張した。遥がスリッパを持ってきて博史の前に置く。「博史さん、履き替えて」だが、博史は一切反応せず、瞬き一つせずに美由を見つめていた。遥が作り笑いを浮かべて言い訳を始めた。「私の商標権侵害の件で、友達が法律事務所を紹介してくれたんだけど、まさか美由が担当になるなんて思わなかったの」美由は眉をひそめ、怒りを込めて遥を見る。自分が担当になるなんて思わなかった?博史は冷たく低い声で遥に言った。「お前の会社の商標権?」遥が気まずそうに顔を引きつらせる。「ええと……」「お邪魔しました。私はこれで」息が詰まりそうだった美由は、一刻も早くここを立ち去りたかった。しかし、博史が下駄箱の横に立ち、ドアを塞ぐように立っているため、靴を履き替えることができない。「うん、もう帰っていいから」遥は傲慢な顔で不満げに言った。「どうせあなたの実力なんてたかが知れてるし、頼りないから、案件を任せるのは不安だったの」この女はなんて滑稽なのだろう。会社すら持っていないのに、どこにそんな商標があるというのか?しかし、美由だって聖母のような広い心はあいにく持ち合わせていない。「私、これでも事実と法律を尊重することに誇りを持って、この仕事をしているの。だから、会社すら設立していない『依頼者』の、自身の虚栄心を満たすためだけの侮辱を黙って聞くことは、私の仕事じゃないから。それと、今日の面談については、秒単位で相談料を請求させてもらうよ。請求書も送られてくるはずだから、支払いの方も忘れずにね」美由はそう言い放ち、博史と遥の間に割って入ると、博史に肘を強く当てて言った。「通してもらえる?」ぶつかられた博史は一歩後ろに下がり、軽く眉をひそめると、少し怪訝そうな顔で美由を見つめた。遥が怒って叫ぶ。「何、その態度は!」しかし、美由は遥を相手にはせず、自分の靴に履き替え、ドアの外へ出た。