INICIAR SESIÓN慶が、こんなにもプライドを捨てて私に頼み込んできたのは初めてだった。まるで、あちこちから追い払われた野良犬が、優しい人からの施しを待っているみたいに。私が黙っていると、慶はさらに続けた。「すぐに菜々子をクビにして、会社から追い出すから。だから、何もなかったことにしてくれないか?愛奈だって父親がいないなんて可哀想だろ?」「あなたが池田さんとアプリのログイン連続記録チャレンジを続けてた時、私のこととか、もうすぐ生まれてくる愛奈のこととか、考えてた?」私はふと、慶にそう尋ねてみた。すると、慶の顔からは表情が消え、それきり黙りこんでしまった。沈黙が答えだろう。私はすっかり冷めきっていた。「慶、あなたの懺悔を聞いてる暇なんてないの。愛奈だって、自分の父親がただの浮気する最低な人だって知ったら、あなたとの復縁に賛成するはずないでしょ?話はもう終った?もう部屋に戻るから」私はその場を離れようとしたのだが、慶はまだ何か言いたそうにしていたので、私は警備員を呼んで、慶をマンションの敷地の外に出してもらった。外は凍えるように寒く、粉雪もはらはらと舞っている。しかし、窓を開けてみると、慶はまだマンションの下にまっすぐと立っていた。17歳の時のことを思い出す。あの時も慶は「会いたい」と言って、一晩中マンションの下に立っていたっけ。肩に雪が積もっても、気にも留めずに。しかし、今では全てが変わってしまった。あの時と同じ光景を見ても、私の心の中にあった美しい思い出が、慶に汚されたように感じるだけ……私は容赦なくカーテンを閉めた。以前の同僚が教えてくれたのだが、慶はずいぶんと変わってしまったらしい。きっちりしていた慶だったが、私が辞めてからは身だしなみも気にしなくなり、仕事も何もかもやる気をなくしたようだ。「凛さん。社長が池田さんを追い出したの。なんでも辞める日、池田さんはひどく泣きわめいてさ!おまけにビルから飛び降りるって大騒ぎしたみたいだよ。でも、社長はちらっと見ただけで、『好きにしろ』って。そしたら池田さん、そのまま泣き崩れて気絶したとか……」私はそのゴシップを聞きながらも、まるで自分とは全く関係のない他人の話みたいだと思った。浮気する人は、スリルを楽しんでるだけなのだろう。だから、いざ本当に一緒
慶と菜々子は取引の話し合いに来たようなのだが、菜々子のミスで、門前払いをくらったらしい。すごく不機嫌な顔の慶を、菜々子が小走りで追いかけている。あれからかなり経つのに、まだ付き合ってなかったのか。ふと思ったのだが、人によっては、曖昧な関係のままでいる方が楽しいのかもしれない。関係をはっきりさせてしまったら、逆にもう一緒にはなれないのかも。私は笑顔で挨拶した。すると、慶が静かな声で言った。「最近は元気にしてるか?」私は肩をすくめる。「うん、おかげさまで。私と愛奈はふたりとも元気だから、心配しないでね」すると、一台の車が私の横に停まった。「一緒に晩ごはん食べるんだろ?」浩平だった。どうやって早くこの場を離れようか、考えていたところだったから、ちょうどよかった。慶の怒ったような視線を感じながらも、私は車のドアを開けて乗り込んだ。すると、浩平がにやにやしながら聞いてきた。「俺、今、助けてあげた感じ?」私は呆れながら答える。「ちょうどよかったよ。お礼に晩ごはん奢るから」しかし、浩平はひらひらと手を振った。「いつもご飯を奢るんじゃ、誠意が感じられないからなあ」私は長いこと考えたが、誠意のある方法なんて思いつかなかった。すると、浩平が言った。「手料理が食べたい」私は少し考えて、頷いた。それから私たちは車でスーパーに行って、必要なものを買うことにした。浩平はあまりスーパーに来たことがないらしく、あちこちキョロキョロしては、すごく珍しそうに見ていた。私がひと通り買い物を終えると、遠くで浩平が、何人かの女性に出口で囲まれているのが見えた。浩平は困ったような、でも外向きの笑顔を浮かべている。すると、私の視線に気づいたらしく、彼はまるで救世主でも見つけたような顔をした。「彼女が来たので、もういいですか?もし連絡先でも交換したら、家に帰ってから彼女にすごく怒られちゃいますから」女性たちは私をちらっと見ると、残念そうに帰っていった。さっと私の肩を抱いていた浩平だったが、名残惜しそうに振り返る女性たちが見えなくなると、そっと手を離した。私はからかって言った。「可愛い子達だったよ?連絡先、交換すればよかったのに」浩平は、コホンと咳払いする。「好きな人がいるんだ」そう言うと
私は自分のSNSに、菜々子をメンションした離婚届の写真を投稿した。【これで、堂々とアプローチできるでしょ?】するとすぐに、私が投稿した離婚届の写真の相手が慶だと気づく人が現れた。そして、私と慶の関係も明らかとなる。あっという間に、私の投稿には何百件ものコメントがついた。【やば!社長って奥さんいたんだ!ってことは、池田さんって不倫?】【嘘でしょ。社長も最低。こんなにきれいな奥さんがいるのに秘書と浮気なんて!男の浮気ってほんと、死ななきゃ治らないんだね!】【社長と奥さんが離婚したのって、もしかして池田さんのせい?】【うわっ!しかも、社長の奥さん出産したばかりらしいよ。旦那さんに裏切られたって知った時、どれだけ辛かったんだろうな】【死んで欲しいんだけど。毎日この人たちのこと応援してたのに。ほんと胸くそ悪い!】私の投稿へのコメント欄は案の定、慶と菜々子を罵るものばかりになった。私はその画面を閉じ、もう見ることをやめた。その直後、慶から電話がかかってきた。電話に出ると、慶の怒鳴り声が聞こえた。「わざとなのか?あんなものを投稿して、みんなに菜々子を叩かせようとするなんて」私は冷静に答える。「なにか問題でもあるの?自分の離婚届の写真をSNSにあげたら、法律にでも触れる?」慶は怒りを抑えながら言った。「すぐに削除しろ。お前が作った加工画像だから、勘違いしないでくれって説明するんだ。菜々子は今、怖くて外にも出られないし、会社に行っても罵声を浴びせられるんだぞ?そんな彼女にどうしろって言うんだ!?」しかし、私は何も答えず、電話を切った。なぜなら、菜々子が今どれだけ悲惨かなんて、聞きたいわけではなかったから。それから、自分の資産を確認すると、残っているお金で私と娘の愛奈(まな)がしばらくの間は余裕で暮らしていけることが分かった。でも、社会から取り残されるのも嫌だったので、私は、いくつかの会社に履歴書を送った。愛奈の世話も考え、まずは在宅でできる仕事を探すことにした。幸い、以前デザインの仕事をしていた経験があったため、何社か面接にも通ったし、なかには、かなり良い給料を提示してくれる会社もあった。時間があるときは、愛奈を連れて散歩に出かけた。ある日、外で買い物をしていたときのこと。信号無視の車が、
慶は目をそらし、何も言えないようだった。それはそうだろう。なぜなら、何も知らないのだから。私が出産してからの数日間、慶は出張や商談でずっと忙しかった。私のお見舞いに来ることも、家に帰ってくることもなかった。だから「知らない」と言うのも、無理はない。しかし、慶は菜々子の誕生日は覚えていて、プレゼントだって作っていた。すると、機嫌を取るつもりなのか、慶は私の目の前に来て、ぎゅっと抱きしめてきた。「凛、怒らないでくれよ。ログインの連続チャレンジは菜々子に頼まれたんだ。面白いから一緒にやろうって言われてさ。深い意味なんてまったくなかったんだ。それに、ここ最近のことは本当に悪かったって思ってる。仕事が忙しくて、お前と子供のことをほったらかしにしてた……もう少し落ち着いたら、ちゃんとお前と子供の傍に戻るからさ。それでいいかな?」慶は鼻先が私の額に触れ、やさしくキスを落とす。しかし、私はふっと鼻で笑った。「じゃあ、池田さんをクビにしてくれる?」慶の動きがぴたっと止まり、彼の顔からはさっと血の気が引く。「俺たちの問題なのに、どうして彼女を巻き込むんだ?彼女をクビにしないと、解決しないのか!?菜々子の両親は二人とも重い病気なんだぞ。この給料がなくなったら、生きていけないんだ!」慶は私から体を離すと、まるで知らない人を見るような目で私を見つめた。「そうだね、家が大変らしいね。なのに、私と同じブランドのハイヒールを履いてるの。お給料だって、ほかの社員の2倍も3倍ももらってる。だから、池田さん。べつに可哀想でもなんでもないと思うけどな」私がなぜそんなことまで知っているのか、不思議だったみたいで、慶は驚いた顔をしていた。すると、ドアの方から「ぱたん」と何かが落ちる音がした。そして、菜々子が涙をぽろぽろと流しながら私の前に跪いてきた。「全部私がいけないんです!だから凛さん、社長を責めないでください!すぐに会社を辞めます。社長が私にくださったもの物は全部、社長が私を不憫に思ってのことで……全部お返ししますから!」「いい加減にしろ!」慶が怒鳴って、菜々子を助け起こす。そして、怒りを露わにし私を問い詰めてきた。「菜々子を責めるのか!?彼女は大学を出たばっかりで、返せるお金だってない
コメント欄は大盛り上がり。【まじか。同じ部屋なのにツインベッド?使う場所をきっちり分けるつもり?】【菜々子のことはずっと見てきたから、本当に大変だったこと知ってる。早く社長と結ばれてほしい!】【上手くいったら、私たちにも幸せのお裾分けして!】私は冷たく笑った。この人たちは自分たちの言ってる社長に、妻と生まれたばかりの子供がいるって知ってるのだろうか?そんなコメントに、菜々子は恥ずかしそうなスタンプを一つ返信しただけで、はっきりとは答えていなかった。私は携帯の電源を切った。そして、弁護士の友人が離婚に関する書類と共に送ってくれた離婚届を手に取り少し見つめる。数日後、退職の手続きを済ませてから、慶に離婚の話を切り出すつもりだった私は、子供を家に預けてから、会社に向かった。会社に着くと、休憩室には体を温めるという生薬ドリンクとチョコレートケーキが社員分置かれていた。すると、同僚たちの歓声が聞こえてきた。「社長が差し入れしてくれたんだって!太っ腹だよね!」「社長って本当気がきくよね!凛さんの産休明けに合わせて、体が温まる生薬ドリンクを頼んでくれるなんてさ」すると、隣にいた人が肘でその同僚をつついて、小声で言った。「分かってないなあ。あれは凛さんじゃんなくて、池田さんのために社長が特別に頼んだんだよ。池田さん、最近生理で、お腹がすごく痛いらしくて……」しかし私に気づいたらしく、その同僚が申し訳なさそうに口を開いた。「すみません、凛さん……いたなんて知らなくて」私は首を横に振った。なぜなら、これが私のではないことに、とっくに気づいていたから。だって、私はチョコレートアレルギーなのだ。慶が私にアプローチしてくれていた時も、こんな感じだった。病気なのに仕事をしていると、こっそり薬をケーキに隠して無理やり食べさせては、私が苦くて顔をしかめるのを見て楽しんでいた。そんな私たちを見て、退屈でしかなかった仕事場も和やかな雰囲気になっていたのに。しかし今では、その時のときめきも、優しさも全て別の人に向けられている。私は自分のデスクに戻り、荷物を片付けようとした。すると、デスクの上には女性ものの生活用品がたくさん置かれていた。菜々子が小走りでやってきて、私に謝った。「社長が、ここに置いていいと……」でも、その目
赤ちゃんが大声で泣き出す。私もとっさに大きく動いたせいで、出産のときの傷口が開いてしまい、激痛が走った。引き裂かれるような痛みをぐっとこらえて、赤ちゃんを抱き上げる。赤ちゃんの頭にはかすり傷ができていて、声が枯れてしまうほど泣いていた。そんな赤ちゃんを見て、菜々子もかなり怯えているようだ。「わざとじゃないんです」慶がすぐに菜々子を慰める。「そんなに心配しなくたって大丈夫だ。君は母親になったことがないんだから、赤ちゃんの扱いがわからなくて当たり前だ。それに君自身もまだ熱があるんじゃないか?」もう我慢の限界だった私は、菜々子の顔を思いっきり叩いた。「出ていって!あなたが何を考えてるか、私が気づいてないとでも思ったの?」しかし次の瞬間には、慶がすごい勢いで私の頬を叩いたのだった。私を叩いた後、慶は自分の手を見て呆然として、少し後悔しているようだったが、顔にはまだ怒りが浮かんでいる。「菜々子は子供を産んだことがないんだから、うまく抱っこできないのは仕方ないだろ?そんなにきつく当たる必要はないんじゃないか?」そう言い終えると、慶は泣きながら部屋を飛び出していった菜々子を追いかけていった。その様子を見ていた同僚たちもそそくさと帰っていく。私は慶の遠ざかっていく背中を見つめていた。以前の私たちは、なんでも話せる親友であり、かけがえのない恋人同士だったのに。私に会いたい一心で、慶は朝一緒に学校に行くためだけでも、マンションの下で一晩中待っていてくれたこともあった。18歳のころは、お金も全然無かったのに、なけなしのお小遣いを使って、一輪の花を買ってくれた。私が「大きい家に住みたい」と言うと、必死に会社を立ち上げ、接待で飲み過ぎて入院するまで頑張ってくれたこともある。私たちはいつから、こんなふうに変わってしまったのだろう?それはたぶん……慶が何百通もの履歴書の中から、菜々子を見つけ出したあのときから。慶は言っていた。「華やかな経歴の持ち主より、素朴で誠実そうな子のほうがいい。それにうちの会社には若い力が必要だから」と。だから、慶は周りの反対を押し切って、菜々子を採用した。私も履歴書を見たが、大学もあまり有名ではなく、職務経験もまったくなかった。しかし、慶の心を本当に惹きつけたのが